2010.01.28

桐野作人さんの新たな研究成果をうけての「小松帯刀寓居参考地」標石の今後の対応について

2010年1月28日

桐野作人さんの新たな研究成果をうけての

「小松帯刀寓居参考地」標石の今後の対応について

中村武生

一昨年7月、僕が理事長をつとめる任意団体「京都歴史地理同考会」(当時。現在は非営利活動法人。以下同考会)は、京都市上京区堀川通一条東入ル南側松之下町の民有地に「此向かい小松帯刀寓居参考地」などと刻んだ標石を建てた。

理由は、

①当時放映中であったNHK大河ドラマ「篤姫」において、小松帯刀が準主役として登場していたこと(瑛太さんが扮した)

②親しくさせていただいていた鹿児島県出身の歴史作家、桐野作人さんの研究により、当該地を有力地と知ったこと。

③当地に標石を建てることが、京都観光の活性につながると信じたため

である。

ただし当該地と推定する根拠は必ずしも十分ではなく、今後新たに確認される史料により、より有力な土地を見出す可能性があった。

そのため断定的な表現を避け、銘に「参考地」の語句を加えることとした。

去る本年1月24日刊行の『歴史読本』(2010年3月号、新人物往来社)に、桐野作人さん著「薩長同盟はどこで結ばれたのか―小松帯刀の京都邸「御花畑」を探す」(以下、当論文) が掲載された。

当論文において桐野さんは、薩長同盟締結地と推定される、小松帯刀の京都での居住地について、従来の堀川通一条東入ル説を破棄され、室町通上立売上ルの室町頭町付近と結論づけられた。

当論文の内容を検討したところ、いまだ確定的ではないとはいえ、堀川通一条東入ルに比して、室町頭町付近説がより有力であると判断した。

当該成果を受けて、堀川通一条東入ルの標石を今後いかに扱うか、去る同年1月26日開催の同考会の理事会で検討した。

その結果、

   当該標石の建設後、多くの書籍・観光案内パンフレットなどにその写真が掲載され、京都における小松帯刀およびその京都屋敷への認識が高まり、その研究促進に益があったと判断できること。すなわち建設よりわずか1年半とはいえ、すでに研究史上に一定の位置を与えられる。

②当該標石に刻んだ語句は、小松帯刀にとどまらない。「藤原道綱母子・源頼光一条邸

  跡」「此向かい近衛堀川屋敷跡」、「此付近応仁の乱洛中最初合戦地」を表示してお

  り、それらは現段階では依然事実と認められる。

それゆえ当該標石は破棄せず、現状のまま維持することとする。

ただしこの文章を当該標石そばに置くなど、見学者に誤解を与えないよう最善を尽くしたい。

 ご理解いただければ幸いです。

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2009.01.03

鹿児島の高城書房に感激したはなし

 鹿児島市滞在中のことだが、城下町絵図をもってあるいてみたくなった。

 適切なものが県史料センター黎明館で販売されているのではないか、期待して訪ねてみたが、なかった。

 県立図書館を訪ねたら、塩満郁夫・友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』(高城書房、2004年)という、良書をみつけた。

 今和泉島津家本邸(篤姫の生家)部分のみ、カラーコピーして退出したが、やっぱり全部ほしくなった。

 市内屈指の繁華街、天文館のジュンク堂書店で探したがなかった。

 東京の桐野作人さんに電話し、古書店を紹介してほしいといった。多忙にもかかわらず、親切にしていただいた。

 曰く、「版元の高城(たき)書房に直接電話して尋ねたらどうか。」

 なるほど。それに従い電話したら、在庫はあった。

 が、所在地は天文館から車で片道30分もかかる上、本日は御正月休み中。

 あきらめようと思ったら、なんと御店の方、ホテルはどこだ、届けてやる、と申し出てくださった。なんという親切、心意気。

 夜、宿についたら、本当に届けられていた。支払いは振込用紙で後日入金でいいそうだ。感激した。

 この書籍がその後、鹿児島滞在中の僕の座右の書になったことはいうまでもない。幕末薩摩志士の居所がまるわかりだった。

 今和泉本邸跡が、一般にいわれているより、はるかに大きいこともこの絵図によりわかった。なにが現大龍小学校が大龍寺跡にあたり、今和泉本邸はその西側の敷地、だ(たとえば『鹿児島県の歴史散歩』山川出版社、2刷、2008年、20ページ。引用「今和泉島津家本邸跡がある。(略)その東隣が大龍小学校である」)。

 現大龍小学校の一部も今和泉本邸跡に含まれるじゃないか。自分の目で確認しないとだめだ。

 ありがたいことだった。高城書房は、鹿児島にあって良質な歴史ものを刊行しつづけている出版社で、本書以外でも実はすでに多数御世話になっている。

 たとえば、芳即正氏『坂本龍馬と薩長同盟』(1998年)は、松浦玲氏の龍馬論に匹敵する近年のすぐれた龍馬論のひとつ。

 寺尾美保氏『天璋院篤姫』(2007年)は、一昨年・昨年と、あほほど出た篤姫便乗本のなかで数少ない役に立つ篤姫伝のひとつである。

 お礼とともに宣伝いたします。

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2008.12.30

まだ鹿児島に滞在

Dcf_1526  鹿児島には三日間滞在の予定。

 写真は、月照の宿泊した俵屋跡。近衛文麿が揮毫していて感激。

 島津家と近衛家の犠牲になった人だからねえ。

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2008.12.29

篤姫出発地に立った

Dcf_1517b 12/28(日)はれ

 「篤姫のみた洛中洛外」の総決算のため、鹿児島市にきた。

写真は鶴丸城(鹿児島城)御楼門跡。

嘉永6年(1853)8月21日、篤姫は江戸にむかう。その出発地だ。

 先月は江戸・芝薩摩屋敷跡にもたった。この旅の終着点である。

 3日前には、京郊伏見の滞在の地、薩摩屋敷跡にも、これまでなかった標石を建てれた。

 今年は「篤姫」一色みたいな年だった(いいすぎ)。

 たくさんの方々にお世話になりました。あらためて御礼申し上げます。

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2008.12.27

篤姫は「おかつ」ではなかった

12/26(金)はれ

 昨日の除幕式、京都新聞、朝日新聞、南日本新聞に掲載されていた。

 篤姫ゆかりの地として報じられていた。

 で、同じ日、大河ドラマ「篤姫」の総集編第1話が放映された。

 篤姫は当初「おかつ」と呼ばれていた。それで、忘れていた。思い出した。大事な発見があったのだった。

 「おかつ」は「お一」と書く。

 どうして「一」と書いて、「かつ」と読むのだろう。何らかの根拠があるのだろうか。

 ためしに昨年から本年にかけて刊行された、信用に足る種々の篤姫伝をめくってみた。

 たとえば寺尾美保氏『天璋院篤姫』(高城書房、97ページ)だが、「一子」に「かつ」のルビを打っている。が、根拠は示さ;れていない。

 鹿児島県在の歴史研究者による著作だから、何らかの根拠がおありだと思うが、実は疑う余地があることにきづいた。

 過日、「篤姫の道中日記」として話題になった、仙波市左衛門日記である。

 去る11月15日、神田神保町で実物を閲覧する機会を得た。そこに意外な記載があった。

 嘉永6年(1853)3月29日条に、江戸表から同月12日付の至急の飛脚が鹿児島に届き、「篤姫様」を「御前様」の養女とするという記事がある。

 その末尾に、

「右ハ今和泉御嫡女様ニ而、おいち様と申」

とあったのである。

 「おかつ」ではなく、はっきりひらがなで「おいち」とある。

 単なる誤りかとも思ったが、仙波市左衛門の日記の別の部分に、「篤姫」に「アツ」のルビがあった。

 仙波は漢字の読みに無関心ではない人のように感じた。

 いうまでもなく、仙波は島津家の広敷(大奥)役人である。もっとも正確な情報を得られる立場にある。

 正しくは「おいち」ではないか。そういう可能性はないだろうか。

 そのことを、いつもの桐野作人さんにお尋ねをしてみたところ、一笑にふされるかと思っていたら、

「いち」だと思います、というお返事をいただいた。

 というのは、桐野さんも気になったことがあった由。以下の史料の存在を教えていただいた。

 それは斉彬の側用人だった竪山利武の公用控(日記)の一部「島津安芸家大凡」の記載である(『鹿児島県史料 斉彬公史料』4、562ページ)。

 そこに篤姫の実家、今和泉島津家の歴代当主が列挙されている。

 その10代当主忠剛(すなわち篤姫の父)の部分に、子として「嫡女 お市」とあるのである。

 これが篤姫であることはいうまでもない。

 「市」を「かつ」と読むとは考えられない。

 「一」と「市」の共通の読みは、当然「いち」だろう。

 これにより、篤姫の初名「一」の読みは、従来信じられていた「かつ」ではなく、「いち」である可能性がきわめて高くなった。

 歴史上の人物名の読みがいかに根拠希薄かは、最近とみに指摘されている。

 織田信長が「おた・のぶなが」と読まれた可能性があること、豊臣秀吉が「とよとみのひでよし」と読むべきことはけっこう知られてきた。

 坂本龍馬も「りゅうま」ではなく、「りょうま」と読まれていたであろうことは、木戸孝允などが「良馬」と書いてくれているためわかることだ。

 近藤勇を「いさむ」ではなく、「いさみ」と読む根拠はけっこう希薄らしい。

 歴史研究は日々進んでいる。就学児童だったころ学校で習われたことも、誤りとして改めたものも多数ある。

 いつも常識をうたがい暮らしてください。

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2008.12.26

伏見薩摩屋敷跡に建碑なる

Dcf_1512 12/25(木)午前10時から、建碑除幕式。

 はやくも9時すぎに着いたので、僕が1番のりかと思ったら、とんでもない。3理事がすでにおそろい。

 くもっているが雨はふっていない。調子良く、開始。

 伏見区長が突然おこしくださる。挨拶もしてくださる。感激。

 50人ぐらいかなあ、参列者。

 京都新聞社、朝日新聞社、区民新聞などの記者が取材にこられていた。

 桐野作人さんは、伏見薩摩屋敷についてのミニ講演会をしてくださる。

 とても意義ぶかかった。伏見薩摩屋敷について、こんなに詳しい人が話してくださるなんて(もちろん無償)。

 ついに悲願はなった。思いがふかい。

 終了のころ、小雨がふりだす。

 すこし離れた場所で、小宴をもよおす。桐野さん、名古屋へむかわれ、残念ながら不参加(栄中日文化センターに出講)。

 僕も12時30分に退出し、京都新聞文化センターへむかう。「篤姫」講座の最終回に出講。感慨ぶかかった。1年間、篤姫講座をしたのは、ここだけであった。

 夜、嵯峨野学藝倶楽部を主催する「伝統プロデュース連」の幹部忘年会。場所はいつもの木屋町三条下ル龍馬。

 特別ゲストを招いた。上七軒・大文字の勝江さんである。

 伝統プロデュース連は、花街文化研究会も運営し、上七軒を研究対象にしてきた。だからほとんどが勝江さんと面識がある。

 おそくまで盛り上がる。今年、何回目の忘年会だろう。

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2008.12.25

建碑除幕式、前夜なり

12/24(水)はれ

 くずし字入門に出講。本日、本年最後。そんなときに、初参加の方こられる。ありがたし。あいかわらず、伏見土佐屋敷の解体の史料を読んでいる。

 伏見区長や、伏見板橋小学校長、伏見中学校長に明日の案内状を届けにいく。伏見区東堺町に史蹟をひとつつくるから。そばの学校に知ってほしかった。区長さんとは面識がある。それゆえ、とくに。

 帰宅。また寄贈あり。

 高木博志さん「『史蹟名勝天然紀念物』昭和編・解題」(『史蹟名勝天然紀念物』昭和編・解題・総目次・索引、不二出版、2008年11月)

  拙著の紹介があった(24ページ)。ありがとうございます。心より喜んでおります。

 藤田英昭さんから。『京都所司代/松平定敬』特別展図録、桑名市博物館、2008年10月

 新出の「文久日記」の解題や、「桑名藩/森弥一左衞門見聞雑記」などの釈文全文が載っている。ありがたし。恵贈をお約束くださっていた。楽しみにしていた。感謝申し上げます。

 拙著のお礼に多くの方が貴重なものを送ってくださった。が、あまり掲示できていない。失礼をしております。

 歴史作家、桐野作人さん、上洛。明日の除幕式に列席くださるため。ありがたし。夜、いつもの木屋町三条下ルの龍馬でお目にかかる。

 まったく存じ上げなかった、過去の偉業を拝聴する。

 

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2008.11.19

篤姫の道中日記ではなかった

 「篤姫の道中日記」を見ての感想。

  ようやく述べる気になった。

 

 実は「篤姫のみた洛中洛外」の記事はなかった。

 いやそれどころか、そもそも「篤姫の道中日記」ではなかった。

 「嘉永六癸丑年正月 浦乃藻屑」という簿冊が該当史料だが、たとえば篤姫が近衛家に参殿した同年(1853)10月2日条、東福寺に参詣したとされる10月4日条、宇治萬福寺に参詣した10月5日条、いずれもそれぞれの場所の記載がなかった。

  で、8月21日条をみた。この日、篤姫は鹿児島を出発する。

 すると、この日の記事、なんと記主仙波市左衛門は鹿児島で篤姫を見送っていた。

 そう、つまり仙波は篤姫に同行していない。

「篤姫の道中日記」ではなかった、というわけである。

 これを報じたある新聞夕刊を読み直す(本年9月27日付)。

 「篤姫が徳川十三代将軍家定の正室となるために薩摩から江戸に向かった道中や、薩摩藩の姫たちの動静を詳細に記述した藩士の日記」。

 「薩摩と江戸との間の道中日記には、篤姫が、生家の今和泉家から薩摩鶴丸城に入り、江戸に出立した時期や様子、神社など立ち寄り先、日々の天気まで詳細に記されていた」。

 たしかに書いてある。報道が誤っていたのである。ショックであった。

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2008.11.16

「篤姫の道中日記」をみてきた

11/15(土)はれ

 神田神保町に行ってきた。「篤姫の道中日記」をみてきた。篤姫がみた洛中洛外とはどこだったのか、それを知りたくて、そのためだけに東京へ行ってきた。

 その感想、結果は。

 いまはいえません。

 知りたい方は中村武生の、いろんなイベントに来てください。そこで申し上げます。言わなければ聞いてください。答えます。

 京都に帰ってきて、京都龍馬会のイベントに参加した。そこでさっそく申し上げた。つよい反応があった。そうでしょ。僕も驚いたもの。

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2008.11.03

刺客はなぜ龍馬の居所を知れたか

11/2(日)つづき

 夜、「篤姫」をみる。失笑するシーン多数。詳しくは桐野作人さんのブログをご覧ください。中村武生はまったく同じ立場です。

 龍馬殺害の場面。刺客にピストルをはじかれるシーンは、三谷幸喜氏脚本の大河「新選組!」の模倣ではないか。

 「寺田屋事件」でも過去の大河「翔ぶが如く」と近似のシーンがあった。創作品として、なさけなく感じた。

 刺客は単身まっしぐらに龍馬のいる部屋に踏み込んでいった。どうしてその場所に龍馬らがいることがわかったのだ。ありえないだろう。

 玄関で龍馬の家臣藤吉に名刺(「名札」)を渡し、それを龍馬のもとへ持ってゆく藤吉の後を追ったのだ。だから龍馬の居所がわかったのだ。

 事件直後に報を受けた土佐山内家重臣寺村左膳の日記に、

(刺客は)「才谷(龍馬)ニ対面致度(いたしたし)とて名札差出候ニ付、下男之者(藤吉)受取、二階へ上り候処、右之三人あとより付したひ、二階へ上り、矢庭に抜刀ニ而才谷、石川(中岡慎太郎)両人へ切かけ候」

とある(横田達雄編『寺村左膳道成日記』3、50ページ。高知県立青山文庫後援会、1980年)。

 この史料は立場上、当該事件の過程についてもっとも信用できるもののひとつである。

 興味深いことに、翌日、山内家重臣福岡藤次から事件を聞いた越前松平家の重臣中根雪江の日記にも同様の記載がある。

 「夜中一人あって手紙を持来り、僕(藤吉)を呼出し、届呉候様申に付、僕二階へ上候後より、両人之刺客附上り、直様龍馬眉間へ切込候由」

(「丁卯日記」国書刊行会編『史籍雑纂』第4、227ページ、続群書類従完成会、1974年)。

 今回のドラマはナンセンスだが、龍馬殺害事件は、これら事件直後の身近な人間の記録によって論じなければならない。

 そばで見聞きしたとはいえ、田中光顕や谷干城の後世の回想録や、歴史家岩崎鏡川「坂本と中岡の死」などの研究成果は参考程度にとどめないとだめだ。うそが入る。

 藤吉の斬られる音を聞いて龍馬は「ほたえなっ!」と叫んだ、その声により刺客は龍馬の所在地を知ったという話も有名だが、おそらくフィクションだろう。

 刺客は藤吉の後を追い、彼が入った部屋を龍馬の居所と理解して侵入し、斬りつけたというのが素直な解釈といえる。

 ドラマでは刺客はまっしぐらに部屋に侵入した。部屋にも藤吉らしき人物はまったくいなかった。残念だった。

 いま近江龍馬会では、藤吉誕生伝承地の標石を滋賀県大津市に建設しようと努力しておられる。これが実現すると、龍馬遭難事件を描くおりにも、藤吉を無視しなくなるかもしれない。実現を期待している。

 なお細かな龍馬殺害事件については、龍馬研究会の機関誌『龍馬研究』所収「龍馬十景」に連載中です。

 また来年秋に出す予定の新潮新書の拙著『龍馬』に詳しく論じたいとも思っています。

 予定にすぎないが。

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