2009.07.03

龍馬殺害地標石での除幕式をみた

6/30(火)はれのち雨

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 基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 きたる7/6(月)午前中に、月例の巡検がある。「石田三成の死刑引き廻し推定ルートをあるく」という、超マニア行為。

 その準備会みたいなことをした。石田三成らの死刑執行は、慶長5年10月1日(1600年11月6日)である。その日の公家日記や、有名な「柿のはなし」の原典にあたった。「付録」もあったので、やっている本人が楽しかった。

 夕方から河原町通蛸薬師に出る。「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」標石前に、京都市による駒札と献花台ができた。その除幕式があったので、見に行った。

 京都市長もこられて、すごい狭い空間なのに、大にぎわい。知っている人が多数来られて、同窓会気分だった。

 (駒札の文章に少々問題があるのではないかと、読売新聞のT岡記者に聞かれたので、そうだなあとつぶやいたら、翌日の朝刊に活かされていて、驚いた)。

 夕方のNHK京都ニュースに報じられていたと聞いたが、僕はみれなかった。

 午後5時から、三条ラジオカフェにいつものラジオ収録に行く。池田屋跡の再開店のこと、八幡・松花堂弁当の器展のこと、最近いただいた本のことなどをしゃべった気がする。

 そのまま急いで帰って、原稿を打ち込むつもりが、いつもの「龍馬」で、京都国立博物館と京都文化博物館の「龍馬先生」がおこしで、楽しんでしまった。

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2009.06.24

三宅碑とストイックな龍馬伝を楽しむ

6/21(日)午前中雨

 午前11時、嵯峨野学藝倶楽部の京都歴史講座に出講。

 三宅碑からみた洛中洛外の旧蹟を論じている。今回は城陽市・宇治田原町・井手町の約30碑を対象とした。

 さぼりまくっている三宅碑をひと月に2度思いだす日のひとつ。もうひとつは三宅日記を読む会の日。

 はやくまとめないといけないとまた思った。わかっているのだが、すべきことが百万ほどあって、どうもならない。

 次回は7月19日(日)です。時間は同じ。場所もおなじ。嵐山電鉄「帷子の辻」駅から徒歩5分の三壺庵(さんこあん)です。

 夕方3時50分から、京都駅前のキャンパスプラザ京都(5階第3・4演習室)で、「基礎からまなぶ坂本龍馬」に出講。

 誕生から文久3年(1863)正月までの龍馬を、かなりストイックに、使える史料を厳選し、ぜい肉のほとんどない龍馬伝を論じてみた。

 たとえば文久2年(1862)3月、土佐亡命ののち、大坂に出現するまでの滞在地の既往の説は完全否定せざるをえないとのべた。とても使えない史料で立論されていたから。

 前回より人数ふえていた。でも、まだ会場満杯にはまだまだゆとりがある。みなさん、きてください。つぎは7月19日(日)午後3時50分から。会場は同じです。

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2009.05.31

清河八郎を再評価し京都龍馬会の総会に出席した

5/30(土)はれ

 栄中日文化センターの日なので、名古屋へ行く。

 土曜日は幕末講座です。いまは「幕末志士の手紙を読む」を開講しています。今回は、清河八郎の、文久2年(1862)9月21日、父宛書翰を中心に読みました。

 獄死した妻蓮の供養について記したものです。清河八郎の人間性を知れる有名な書翰といってよい(『清河八郎遺著』435-436ページ)。

 その他、母同伴の旅行日記『西遊草』の尾張・伊勢の部分を読んだり、浪士組結成にいたる浪士取り立て問題を論じたりした。

 新選組ファンを中心に清河八郎を好まない方が多いですが、大きな誤解ですといいたく取り上げた。けっこう熱が入った。30分もオーバーした。

 受講者と若干の茶話会をして、京都へ戻る。

 本日は京都龍馬会の総会。いつのまにか、同会の監事をさせられている。そのため出席せねばならぬ。30分も遅れて行ったが、議論白熱し、その後2時間ちかくもつづいた。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」をまえにして、京都龍馬会はさらなる飛躍があることと思えた。

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2009.05.23

龍馬の埋葬地は霊明社です

5/22(金)雨のちくもり

 今朝の「中村武生さんとあるく洛中洛外」は、東山区編の最終回だった(『京都新聞』市民版金曜日連載中)。

 で、坂本龍馬の旧蹟地をとりあげた。

 龍馬の埋葬地は、現在京都霊山護国神社になっているが、その地は霊明社の旧境内だった。維新後に政府から上知(土地の没収)されたためである。

 霊明社が廃絶したのならやむをえないが、縮小しながら霊明神社として旧地に存在するのだから、それを無視することは事実認識としてはおかしい、という持論を展開したつもり。

 挿図写真も霊明神社に通ずる参道だった。ちなみに今年は霊明社創立200年目にあたる(文化6年=1809年)。

 みなさん、霊山護国神社の龍馬の墓参のあとは、南隣地の霊明神社へお参りください。

 午後から「くずし字入門」に出講。中井家などの大工棟梁の一覧を読んだ。大和法隆寺の西里出身の人が多いことがおもしろかった。

 今夜は京都女子大学の講師懇親会の予定だったが、急に中止になった。新型インフルエンザの影響である。

 学校も一週間休校になった。聞いたところでは、寮生もなるべく自宅へ帰るよう要請された由。えらい騒動だ。

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2009.05.18

乙訓の三宅碑から陵墓をへて龍馬論へ

5/17(日)あめ

 嵯峨野学藝倶楽部に出講。ひきつづき史蹟論である。乙訓郡の「三宅安兵衛の碑」のはなし。大山崎町に2つ。長岡京市に3つ見つかっている。ちょっとまじめに考察した。

 次回は久世郡の「三宅安兵衛の碑」になると思います。

 終了後、受講者と喫茶し、キャンパスプラザ京都に。

 陵墓シンポジウムが行われている。聞きたかった。とくに明治天皇陵こと伏見城跡のはなし。途中から入った。山田邦和博士の報告の直後。もう後藤真さんのおはなしになっていた。

 それでもすぐ出ないといけなかった。真ん前の部屋で龍馬講座の講師を任されていたから。

 それなのに、御客さん、少なすぎる。主催者が気の毒だった。受講者は楽しんでくださったようで。笑いがいっぱいだった。

 単に「基礎からの龍馬」にとどまらず、「歴史史料の見方」講座みたいになっている。

 どの坂本龍馬本がいい本かと尋ねられたのに、そのものを答えず、まったくわからない人がどうやってよい本をみぬいてゆくかを論じた。

 もちろんいじわるをしているわけではないから、最先端本も答えましたよ。

 けっう珍しいと思うな、こういう講座。ぜひ来てください。

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2009.05.06

ラジオ収録だった

5/5(火)はれ夕方から小雨

 夕方からラジオ「龍馬の時間」と「中村武生の京都歴史探偵」の収録にいく。三条ラジオカフェである。仮装して行きたかったが、雨なのであきらめた。内容は以下↓

http://radiocafe.sakura.ne.jp/b_syoukai/ryoma08.php?id=ryoma08

http://radiocafe.sakura.ne.jp/b_syoukai/tantei.php?id=tantei

 連休のため、寺町すごい人。つかれた。

 「中村武生の京都歴史探偵」(毎週木曜日。午前10時30分から3分間)は、京都駅ビルでの講演(5/7)、大久保利通暗殺(5/14)、猿ヶ辻(5/21)、石田三成の潜伏洞窟の訪問(5/28)について話した。

 たった3分だし、ぶっつけ本番なのでまとまりも悪いが、「生」の臨場感は出ていると思う。

 「龍馬の時間」は、今回もゲストあり。歌手の関島秀樹さんと、Mさん(女)とMちゃん(男)。

 関島秀樹さんはさすがプロで、ひと味もふた味もちがった。無料で出ていただいていいのか。関島秀樹さんの詳細はこちら→http://www.natural.fm/

 終了後、先斗町のお好み焼き店「やすべえ」で夕食。夜は久しぶりに木屋町六角「龍馬」を訪れた。龍馬はこちら→http://r.gnavi.co.jp/c954300/

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2009.04.12

NHK「歴史秘話ヒストリア」の撮影があった

4/10(金)はれ

 本日も京都新聞朝刊(市民版)に「中村武生さんとあるく洛中洛外」が載っていた。今回のお題は平安宮内裏跡。

 内裏跡に建っている小学校は、もと「出水小学校」だった。それが最近改名されて「二条城北小学校」となった。なんたることか。「山田君のとなりの君」っていわれているような名前だ。古代天皇の「家」跡を指し示す名前が、近世二条城の北側って。

 「内裏小学校」にでもすべきなのに。ネーミングした人の歴史知識が問われる、と取材中に語ったのだが採用されなかった。当然か。

次回は4/17(金)。「室町殿跡」の予定です。

 新聞はJR車内で読んだ。朝9時にまちあわせのため、京都駅にむかう。

 NHK「歴史秘話ヒストリア」の撮影のため。木屋町三条下ルの高瀬川沿いで池田屋事件の話をした。

 ようやく調子にのってきたころ、撮影は終わった。ぼーっとした顔でうつっているかもしれん。朝早かったからなあ。前日2時間しか寝ていなかったし。

 5月13日(水)放映です。ネタは「新撰組」です。

 午後から「くずし字入門」に出講。元禄期の儒学者・医者の居所を記した部分を読んだ。「荒子(あらしこ)」ってなんだかとか、「山脇道立」って山脇東洋の先祖かとか質問があった。(養父です)

 午後3時からFM録音。いつもの三条ラジオカフェ。「龍馬の時間」では津軽三味線弾きの寂空(じゃっく)のコンビ「世空(よぞら)」がゲスト。ずっとロック調の三味線を弾いてくれた。いま上り調子のバンドマンです。

詳しくはこちら→http://ym08.web.fc2.com/about.html

 「中村武生の京都歴史探偵」(毎週木曜日、午前10時30分から3分間)はあいわらずの話。京都女子大学の学生さんはすばらしい、とか話した。

 赤尾博章さんとおりょうさんに連れられて、河原町のコーヒー店「インパルス」へ。少し滞在して、「潜伏地」で1時間休憩して、龍馬に寄って、ウーロン茶を飲んで、すぐ帰る。

 帰ったら、「聚楽城 武家地 直江兼続屋敷跡推定地」碑のゲラが来ていた。はやいなあ。

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2009.04.01

大坂天満八軒家旧蹟であそぶ

3/31(火)はれ

 年度末である。かわらず「基礎からまなぶ日本歴史」に出講。

 とうとう豊臣秀吉が亡くなった。次回からは関ヶ原合戦前夜である。せっかくだから近々に東山大仏跡と豊国社跡の巡検をすることにした。

 「基礎からまなぶ日本歴史」受講の方にはお知らせした。次回はまだまにあいますので、次回またお知らせいたます。

 終了後、突然N古屋のF橋A子さん(龍馬・お龍夫妻研究者)がこられて驚いた。これから大阪市内に向かうとうかがったので便乗させてもらうことにした。

 寺田屋伊助が提携していた商店に、大坂天満八軒家の堺屋重兵衞がある(『登船独案内』増補、藤屋九兵衞、天保8年(1837)。吉田酔痴編『伏見史話』121ページ、1979年)。

 寺田屋伊助の船が伏見南浜を出たあと、大坂天満八軒家に到着し、堺屋重兵衞の店が世話をするということだ。

 天保8年(1837)は慶応年間から約30年も前なのでストレートど真ん中ではないが、もし契約がつづいていたなら、坂本龍馬もこのなかにいたことになる。

 はずかしながらこんな大事なことを最近まで知らなかった。先週末、京都でたまたまお目にかかった旧知の皆川真理子さん(東京龍馬会)からまなんだのだ。

 大坂天満は幼少のころより縁のふかいところだが、そういう視点で歩いたことがなかったので、あるいてみたくなった。そんなときのF橋さんの来訪である。まさに「渡りに船」であった。

 さきに生国魂神社(大阪市天王寺区生玉町)に参拝。境内に堺屋重兵衞や新撰組ゆかりの京屋忠兵衞の銘のある燈篭が現存すると聞いたから。

 拝殿の北側に2基あった。「寛保三癸亥六月吉日」の銘のある「願主八軒家旅籠中」の「御神燈」である。

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 寛保3年(1743)は慶応年間より約120年も前である。この「堺屋重兵衞」が寺田屋伊助と提携していた堺屋重兵衞の先祖であるかどうか注意すべきであるが、願主が八軒家旅籠中とある以上、可能性は高いと思われる。けっこう感激した。

 そのあと天満にうつり、八軒家船着き跡の標石や当時の段差を楽しむ(京阪電車「天満橋」駅南側一帯)。

 たまたま大川(淀川)に近寄ると、「桜ノ宮(大川)お花見遊覧船」が実施されているのを知った。乗ったことがなかったので、乗せてもらった。ほかにお客はなく、完全に貸し切り状態だった。

 龍馬や新撰組、中山忠光の往来を想像して楽しかった(寒かったことと、船頭さんたちの過剰サービスに要注意)。

 旧大阪砲兵工廠の舟入をみることができたのは、望外の幸せだった。

 降船ののちは京阪電車で京都へもどり、いつもの木屋町六角下ル「龍馬」で夕食をとる。「龍馬」はこちら→http://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php 

 K都K立博物館のM川T一先生とT田敏Kさんがおられた。

 滞在中、突然三条ラジオカフェから来月分の収録がなされていないとご連絡があり、急きょ店主A尾H章さんとかけつけ、収録する。

 濃密で、いろいろい思うことが多い日だった。

 明日から、新年度。またどうぞよろしくお願いいたします。

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2009.03.30

お龍(鞆)の新碑銘を掲示します

 3/29(日)記事のつづきです。新碑銘の全文を掲示しておきます。副碑原文には総ルビをふりましたが、こちらでは省いています。お許しください。

(表面)此付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡

(側面)此付近 京都府知事 中井弘 幕末期寓居跡

(裏面)二〇〇九年三月 特定非営利活動法人京都龍馬会建之

(副碑文)  

坂本龍馬の妻となるお龍()は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の長女でした。京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2年(1862)620日、不幸がおきます。父の死去です。このため母・妹・弟をふくむ6人の遺族は困窮し、「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住します。

こののち一家は離散し、お龍()は単身七条新地の扇岩なる店に入ります。母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働きました。その縁で龍馬とお龍()は出会うことになります。木屋町の住居は、その直前まで住んでいた地として無視できません。

というのも、龍馬の書翰に記載されたお龍()の個性を知るエピソードに、妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が単身乗り込み、ついに連れ戻すというものがあります。それが木屋町時代のことです。正確な位置は不明ですが、龍馬が「まことにおもしろき女」と愛したお龍()のゆかりの地として、ここ木屋町通に建碑するものです。

なお龍馬やその終焉地の主人近江屋新助とも交流のあった、滋賀県知事や京都府知事を歴任する中井弘も、中井弘蔵や田中幸助と名乗った幕末当時、木屋町の近江屋喜一郎の2階に寄宿していました。あわせて顕彰します。

                                   歴史地理研究者 中村武生

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京都のお龍(鞆)史蹟碑の除幕式があった

3/29(日)はれ

 午後1時、「此付近 坂本龍馬妻お龍 独身時代 寓居跡」標石の除幕式がおこなわれ、お披露目された。ここに京都の坂本龍馬関係史蹟がまたひとつ生まれた。

 午後3時からは、周辺のお龍(鞆)旧蹟めぐりをいたす。20人ぐらい参加。かなり異質な見学会になったと思う。かならず典拠を示すという姿勢をつらぬいた。

※追記。除幕式のことは、京都新聞3/30(月)付夕刊9面の「洛中洛外」コーナーに報じられました。

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2009.03.26

龍馬の妻お龍旧蹟にまた建碑した

3/25(水)はれ一時雨

  坂本龍馬の妻お龍(鞆)ゆかりの地に建碑がなされた。建立者は「特定非営利活動法人京都龍馬会」(赤尾博章理事長)。

主銘は「此付近 坂本龍馬の妻お龍独身時代寓居跡」である。中村武生が監修(碑銘ならびに解説文執筆)をしました。

 正確な位置は不明だが、「木屋町通」に住んでいたというお龍の回想に従った。建碑場所は京都市中京区木屋町六角下ル東側の都会館の入り口。

 除幕式は3/29(日)午後1時からです。

 終了後は、観桜をかねて龍馬とお龍ゆかりの地の見学会をいたします(案内:中村武生)。夜は酒場「龍馬」の2周年紀念パーティもあります。http://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php

 どうぞおこしください。

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2009.03.21

五稜郭の戦いと江戸時代の観光論を語る

3/19(木)はれ

 昨日、時代劇専門チャンネルを受信・録画できるようになった。

 こんなにたくさん魅力な番組がみれるのか、驚いた。いかん、勉強せんようになるぞ。

 名古屋市の栄中日文化センターに出講。今期の最終回。

 「日本の城と合戦」講座は今回、五稜郭の戦い。ひさしぶりの幕末史。戊辰戦争論にながく時間をかける。ねむたくなかったですか。

 二時間目は「京都学」。江戸時代の京都観光を紹介。全然時間が足りなかった。

 疲れ果てて、夜、いつもの木屋町六角の「龍馬」に寄る。M尾さんご夫婦と歓談。

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2009.03.16

拙稿をもって伏見見学をしている人にあった

3/15(日)はれ

 ふつかあいてしまった。

 最近、また「晴れ男」名誉挽回である。

 3/12(木)午後、3/14(土)午後、本日午後と巡検をしたが、雨がふったのは3/13(金)終日と3/14(土)午前中だけだ。みごとにかわした。すごい。

 おこしやす大学は、直江兼続ゆかりの伏見城下町をあるくの最終回だった。41人のご参加。申し込みは50人以上。10人以上もキャンセル待ちの由。

 島津屋敷跡付近の、伊達街道下板橋通東入ル付近で、本日受講者に配布した、JR西日本刊行『京都散策』冬号の京都史蹟案内・拙稿「武家の首都伏見」のページを開いてこっちへむかってくるカップルをみる。

 最初は「この会の参加者だ。なんで進行方向を反対にこちらへむかってくるのか」と不思議だった。そんなわけあるか。まったく我々の団体とは無関係の人たちだった。単純にJR西日本のどこかの駅で冊子を手に入れ、その案内にしたがって、単独で史蹟めぐりをしていたのだ。

 まったく驚いた。考えてみれば当然あるべきことなのだが、拙稿をもって歩いている人を初めてみたものだから、にわかには信じられなかった。

 ところがそのあと、さらに同じくそのページを開いたふた組とすれちがった。なんて奇特なひとびと。

 感激の余韻にひたる間もなく、御香宮での解散のあと、京阪電車に飛び乗る。5時から木屋町六角「龍馬」で寺子屋・龍馬の講座があるのだ。「龍馬」はこちら→http://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php

 本日は「武市半平太論」。武市半平太の魅力を語ったつもり。30分オーバーの1時間30分でおわる。寝る人もなく、ありがたいことだった。

 4月からは場所を変えて「基礎からまなぶ坂本龍馬」に衣替え。またどうかよろしくお願いいたします。

 

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2009.03.12

龍馬遭難を同じ日の同じ時間に体感した

 なんだかあいてしまった。しまった。

 去る10日未明のナイトツアーはけっさくだった。

 参加者わずか6名だったが、だからこそおもしろい。小回りがきくし、とにかく「ここだけの話」をしやすい。龍馬と慎蔵が逃げ込んだ材木納屋はどこにあったのか、その考察をした。

 材木納屋跡伝承地付近で、空がしらみだした。史料どおりだ。すごい。もう少し滞在したら、史料通り、各商店が開店準備をはじめるころ薩摩屋敷跡に到着できた(実際は早めに着いた)。

 6名の集合場所への到達手段がまったくそれぞれで面白かった。なんせ午前3時である。

 自宅から歩いて来た(30分)、タクシーで来た、職場からバイクで来た、自家用車で来て駐車場にとめた(ネクタイ姿だった。そのまま出勤される由)。

 いちばんおもしろかったのは、終電でもよりの駅にきて、午前3時までちかくの飲み屋にいたというもの。ちょうと店の看板(終了)も午前3時だった由。

 こんなおもしろいことに多くの方が参加されない、関心がないのか、残念と思っていたら、そのあとメールやら直接やらで、「行きたかったのだ」という連絡をうけた。

 そうだろう、こんなイベントほかに絶対ないもの。詳しい様子はこちら→ http://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php

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2009.03.08

行列にならんで名古屋で話し京都でまた話す

3/7(土)はれ

 忙しい日だった。

 ある用事で、朝6時45分から行列に入った(アイドル歌手のサイン会ではない)。3番目だった。8時半に「開店」。早々に受け付けられた。ありがたかった。

 そのあと名古屋へ向かう。栄中日文化センターの日。新撰組の手紙を読む講座の最終回。これまで気づかなかった、あるネタにつきお話しする。近藤勇はおもしろいとあらためて思った。

 受講者と茶話会をしたのち、京都へ戻る。龍馬講座に出講。龍馬の寺田屋遭難事件を信用できる史料で検証し、薩摩屋敷への逃亡ルートを復元してみた。詳しい様子は、以下の「龍馬」ブログをご覧ください→http://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php

 その実地見学会を、3/10(火)午前3時(午後3時ではない)から行います。ぜひ来てください。詳しくは本ブログの前日分をご覧ください。

 これまでの「寺子屋龍馬」は3月で終わり、4月からは「基礎から学ぶ坂本龍馬」に移行します。第3日曜日です。詳しくはまたお伝えいたします。

 忙しい日だった。

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2009.03.07

【見学会】龍馬の寺田屋事件を同じ日の同じ時間にあるく

 マニアな坂本龍馬イベントのご紹介です。考えられない集いです。

 「龍馬の寺田屋事件を同じ日の同じ時間にあるく」

 講師:中村武生(歴史地理研究者/京都女子大学非常勤講師)

 集合時間:2009年3月9日(月)27時(3月10日(火)午前3時。お間違えなく。深夜未明です)

 集合場所:寺田屋前(京都市伏見区南浜町)

 コース:慶応2年1月23日(1866年3月9日)夜の坂本龍馬の寺田屋脱出ルート

 解散場所:伏見薩摩屋敷跡(伏見区東堺町濠川筋下板橋通)

 解散時間:3月10日(火)夜明けごろ

 参加費:1,000円

 主催:龍馬カンパニーhttp://kyoto-ryoma.jp/blog/index.php?d=04&m=03&y=09&category=3(中京区木屋町六角下ル都会館1階「龍馬」)

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2009.03.03

【講座】坂本龍馬の寺田屋事件を検証する

 なんか、毎日講演案内ばっかりで恐縮ですが、せっかくの企画ですので、みなさまにおこしいただきたく記します。すんません。きいてください。

中村武生の龍馬カンパニー特別講座

「坂本龍馬の寺田屋事件を検証する―実際の前々日に」 ※龍馬遭難の寺田屋事件は、西暦1866年3月9日(慶応2年1月23日)深夜です。

講師:中村武生(歴史地理研究者、京都女子大学など非常勤講師)

日時:2009年(平成21)3月7日(土)18:30~19:40

参加費:1000円  定員60名

場所:キャンパスプラザ京都 5F 第3,4演習室。地図は以下↓
      (JR京都駅ビックカメラ前) http://www.consortium.or.jp/contents_detail.php?co=cat&frmId=585&frmCd=14-3-0-0-0

お問合せ: 龍馬カンパニー
      京都市中京区木屋町六角下ル材木町184 
      TEL/FAX 075-211-3666

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2009.03.01

近江で龍馬の通った道のはなしをした

2/28(土)はれ

 滋賀県大津市浜大津で講演した。近江で講演は珍しいことだ。

 1998年11月の長浜以来か。

 近江龍馬会(柴田與一郎会長)の発足紀念だ。名誉なことだ。

 「坂本龍馬と近江」というタイトルだった。いつものような使いまわしのはなしではなく、まったくのオリジナルな内容だった。龍馬の通った道のはなしをした。ちょっと頑張った。

 はなしが受けたかどうかはわからないが、拙著『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』は15冊も売れた(文理閣、2008年10月)。

 評価いただいたことにしよう。記事は以下↓

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009030100043&genre=K1&area=S10

http://mytown.asahi.com/shiga/news.php?k_id=26000000903020002

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2009.02.27

二条城と京都の城のはなしをした

2/26(木)はれ

 京都新聞文化センターに出講。いつも笑顔をみせる吉田係長が不在だった。珍しい。聞いたらやっぱり病欠だった。元気出してください。

 二条城と京都の城のはなしをする。京都ではないのだけれど、やっぱり伏見城のはなしもした。

 最近、帰宅がおそくて疲れていたので、さっさと帰る。

 たまっている原稿が多くある。ながく続いていた室町通の連載、ついに終える。最後の原稿を提出した。ようこんなにつづけたなあ。とにかく感心。

 明日には近江龍馬会の講演レジュメを出さないといかんし、また講談社メルマガの締め切りもくる。

 二月ももう終わりやなあ。信じられん。こないだ、やっと春休みに入ったと思ったのに。もう半分終わろうとしている。

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2009.02.25

【講演】坂本龍馬と近江

 きたる2月28日(土)午後2時から、表題の講演をいたします。

 「坂本龍馬と近江」、一見関係がないようにみえる。それをどう話題にするのか。中村武生の力量が問われる。困った。さてどうなるか。

「近江龍馬会」、発足記念講演会・交流会のご案内

<記念講演>
「坂本龍馬と近江」
講師:中村武生
 歴史地理研究者 同志社大学嘱託講師

日時:2009年(平成21)2月28日(土) 午後2時から 3時30分ぐらい

場所:明日都浜大津 4F 大ホール
滋賀県大津市浜大津4-1-1
http://e-asuto.co.jp/index.html
京阪電車「浜大津」駅下車すぐ

参加費:¥1,000
定員150名 当日受付
 ※記念講演のみご参加の方は直接会場へお越し下さい。

<交流会>
場所:ホテルピアザびわ湖 6F クリスタルルーム
http://www.piazza-omi.jp/mappage.html
大津市におの浜1-1-20]

参加費:\10,000(記念講演参加費含む)
至急、郵便振替にて参加費のご送金賜りますようお願い申し上げます。

なお当日は振替用紙の入金控えをお持ち下さい。
00980-4-170563 近江龍馬会

記念講演終了後、交流会場までマイクロバスによる送迎があります。

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伏見城公開を論じてラジオ収録をして友人の仕事を羨望する

2/24(火)あめのちくもり

 基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 冒頭まず、先週の伏見城跡(明治天皇陵)公開について、濃厚なコメントをする。

 本講座にかぎらないが、僕は必ず出講すると最近の歴史情報を話題にし、それへコメントをしている。歴史は昔ばなしかもしれないが、新聞などに載るネタは「現在」なのだ。それを論じないと、いまやるかいがない。

 本題もようやく、伏見城。

 天正19年(1591)は京都の歴史にとって重大な変化の年だったが、豊臣政権、いや個人秀吉にとっても、忘れがたい年だったはずだ。

 実弟秀長、千利休が死んだ。そしてなによりも鶴松の夭折。

 秀次への家督相続がこの年末。鶴松の死が影響しているに相違ない。これにより秀吉は関白と聚楽城を秀次に譲渡し、みずからは伏見へうつる、というはなし。

 聚楽城と伏見城のその後は、まだまだこれから。

 終了後、特定非営利活動法人(NPO法人)京都歴史地理同考会の幹部会議。

 つぎの建碑をいつにするか。お金は足りるか、などを議論。建立地は決まったのだ。NHK大河ドラマ「天地人」ゆかりの地、京都(洛中)の上杉景勝邸跡、および直江兼続邸跡推定地だ。が、お金が足りなかった。

 どうか寄付をお願いします。大口でなくていいです。まずは千円、いや500円からどうですか。「私がお金を出したから建てられた」といえますよ。

 その後、寺町三条へ出て、三条ラジオカフェ(FM79.7)に入る。ラジオ収録である。「龍馬の時間」と「中村武生の京都歴史探偵」である。3月分をまとめて録った。 

 「龍馬の時間」(毎週水曜日午後1時30分~3分間)は今回は俳優のしげるさんがゲストで、楽をさせてもらった。あんまりしゃべらなくても済んだ。

 「中村武生の京都歴史探偵」は、ひとり語りなので、そうはいかん。

 伏見城跡公開のこと、NPO山科醍醐こどものひろばのシンポジウムのこと(3月8日です)、久住真也さんから恵贈された高著『幕末の将軍』(講談社選書メチエ)のことなど語る。

「中村武生の京都歴史探偵」は、三条ラジオカフェ(FM79.7)毎週木曜日午前10時30分から3分の番組です。

 いまだ「聴いている」という人に会ったことがないので、よろしくお願いいたします。聴いてください。

 その後、河原町三条に出て、来年のための、ある「龍馬プロジェクト」を議論。

 つづいて河原町パルの「ジュンク堂書店」7階の人文コーナーへ行き、ダメージをうける。いつもここにくると、多数の新刊・既刊に圧倒される。「友人が論文集出していた、やられたー」とか、「こんな本出てたのか、知らんかったー、また金がいるー」とか。

 自分の不勉強を指摘される場所なのだ。つらい。

 木屋町六角の「龍馬」に立ち寄って、うっぷんを晴らして、帰宅。おいしいご飯をいただく。まもなく疲れ果てる。倒れるように寝る。

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2009.02.23

坂本龍馬づくしだった

2/22(日)あめ

 坂本龍馬の「ある」表をつくっている。おもしろい。やっと文久3年(1863)まできた。そのうち公表します。出版物で。

 午後5時、京都龍馬会の理事会に出席。なぜか僕は「監事」なのだ。

 もうひとりの監事、わざわざ堺市からこられたH沢さんから、よいはなしをたくさん賜った。元気をいただいた。うかがったかいがあった。

 夜は自宅で夕食。ハンバーグをつくってもらった。はじめてだ。たいへんおいしかった。ひとり2個だった。もっと食べたかった。

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2009.02.05

素敵な信長と秀吉をはなして上七軒でおばけを体感

2/4(水)はれ

 基礎から学ぶ!日本歴史に出講。

 昨日は雨なのに、本日は晴れ。昨年なら逆だった。巡検の日が晴れることが圧倒的に多かった。今年は神通力がきかない。

 本日は「僕の大好きな信長と秀吉」、ということで、秀吉の妻宛信長書翰と、毛利輝元上洛時の家臣日記(「天正記」)の天正16年(1588)8月19日条を読む。

 本題はついに「秀吉の京都改造」。専門中専門である。大急ぎでまとめたが、来週もつづけるつもり。

 終了後、既知のイベント屋さんH野さんと打ち合わせ。京都・大阪・兵庫をまたいだイベント企画に乗る。さて実現するか。

 夜、上七軒のお茶屋さん「大文字」に出講。おばけのイベントの日。それにあわせて、また歴史こばなし。今回は何をしよう。悩んだ結果、「江戸時代の京都観光」というのをした。

 全然受けないだろうと思っていたら、めっちゃ受けた。2004年からこの仕事をさしていただいていると思うが、いままでで一番うけた。うれしいけど、読みが浅い。反省だ。

 今年のおばけは「オバマ」だった。おもしろかった。おかあさん、すごい。

 帰りに、また木屋町六角の龍馬に寄り、ある仕事のはなしをして終電で帰った。書き仕事が進まない。申し訳ありません。

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2009.02.02

鷹峯「有明」の最後に立ち会えた

1/31(土)夕方から京都雨にきづく

 名古屋の栄中日文化センターに出講。「新選組、土方歳三と沖田総司の手紙をよむ」の4回目。

 慶応元年(1865)のものばかり読む。

 長州征討のはなしばっかり。土方歳三の手紙に色濃く出る、現実政治のなかの新選組の位置。政治には関心がなく、ただ組織「新選組」をつくることにしか関心がないような『燃えよ剣』『新選組血風録』イメージは事実ではない、という。

 ついでに読んだ井上源三郎の書翰もしかり。みな現実政治のなかで生きている。きづいてみればあたりまえのことだった。

 また受講者と懇親会をして、京都へもどる。雨がふっていた。驚いた。朝は降っていなかった。名古屋もさっき降っていなかった。

 木屋町六角下ルの龍馬に立ち寄り、ある「龍馬表(ひょう)」をつくってみせた。まだ途中だけれど。いつかお披露目できるだろう。

 夜、北区鷹峯旧土居町の「有明」(「オアシス」)に行く。本日が最後の日だから。ミヤコの惣構(そうがまえ)の北西角をのこすお店。

 このたび京都市に譲渡されることになった。それゆえの閉店。

 堀から土塁をながめる。ビールを飲みながら。これがもう最後。たくさん、たくさんの人だった。

 20年を回顧する。年をとった。いろいろありがとうございました。

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2009.01.30

御土居堀をあるいて龍馬にたどりつく

1/29(木)はれ

 ひさしぶりの御土居堀を考える講座に出講。巡検である。

 午後3時に北大路駅集合。市バス37番に乗って加茂川中学前で降りる。御土居堀の北東角である。

 ここから西北角にむかってあるく。1929年(昭和4)の3,000分の1と、最近の2,500分の1都市計画図をもってあるく。

 土塁や堀が残っているところ4か所は当然なのだが、それ以外に残っているところを案内する。地割である。

 土塁や堀を失っても、道路や住宅の方向が、京都ならではの正南北ではなく、斜めをむいている。これだ。豊臣期以来の400年の痕跡だ。これを指定文化財にするべき価値がある、とさけぶ。

 大宮交通公園の閉園にぎりぎりまにあい、大宮土居町の最高部分をのぞいて、約束通り夕方5時半に北西隅の「有明」に到着。

 さっそく夕食会。焼き肉。「有明」、ずっとお世話になりました。1990年に御土居堀問題にかかわってすぐに見学によせてもらいました。ちょうど20年です。

 食事もしないのにどろどろの靴をはいて室内に入れてもらい、店をよごしました。すいません。なんにもおこられませんでした。なごりを惜しむ。

 1月31日(土)の深夜25時(2月1日午前1時)までやっておられます。

 終了後、みなさんがバスをまつなか、次の予定があったのでタクシーに乗る。木屋町六角下ルの龍馬へ。お目にかかりたかった一団がおこしと聞いていたから。

 来年のこと、思いのたけをぶつける。少しでもよい「龍馬」をと願いをこめて。

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2009.01.23

京都女子大学本年度最後の日

1/21(水)

 京都女子大学の試験の日。今年もいろいろあったなあ。感慨ぶかい。楽しませていただきました。ありがとう、学生のみなさん。

 午後からくずし字入門。まだまだ伏見土佐屋敷の解体史料。今回はくせのきついやつ。たけた人たちも悩む、悩む。でもけっこうおもしろい内容だった。

 夜、急なことで木屋町六角「龍馬」にゆく。2010年の「龍馬」に悩む。楽しむ。いいことばかりだ。

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2009.01.22

木屋町三条でガスもれ

Dcf_1494 1/20(火)はれ

 基礎からまなぶ日本歴史に出講。ようやく聚楽城に入る。

 それでも、忘れてはいけない、秀吉の最初の洛中城郭、妙顕寺跡に築いたものに力をいれる。

 いわゆる「妙顕寺城」。そんな名前は同時代にはないのだけれど。

 終了後、有志とお茶を飲んで、用事で木屋町三条に出る。すると、周囲にロープがはられ、立ち入り禁止になっていた。ガス漏れらしい。

 近くには坂本龍馬の宿舎として知られる酢屋中川嘉兵衞家があるぞ。あぶない。

 おおごとだった。

 結局、何もなかった。よかった。

 写真は木屋町三条下ルから北を撮影したもの。

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2009.01.12

八幡の郷土史家による史蹟創出を論じた

1/11(日)はれ

 嵯峨野学藝倶楽部に出講。

 嵐山電鉄、満員。紅葉の時期でもないのに。途中、太秦広隆寺駅で大量に降りられる。何が、あったのか。

 講座内容「三宅清治郎建立碑からみた京都の史蹟」も折り返し地点にきた。

 八幡の郷土史家、西村芳次郎を取り上げた。事業の後半、西村によって多数の石碑が建立される。そこに西村の個性が入った。「場所の由緒」、とでもいうべきものがたりが創作された、と論ずる。

 熱が入りすぎて、30分もオーバーした。参加者、約15名。退出されることもなく。二次会のスマートでの軽食会も多くのご参加。今回は圧倒的に女性が多かった。

 夜、京都龍馬会の新年会に参加する。柳馬場三条下ルの晃庵で。昨年10月に「お龍の実家、楢崎家跡」標石を建てた場所だ。

 一昨日の京都新聞夕刊の一面にも取り上げられたばかり。儲かってもらわなければ。

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2009.01.04

なぜ霧島神宮ではなく華林寺なのか

Cimg1969  しつこく鹿児島でのはなし。

 わからないことがあった。

 霧島神宮前に「龍馬、ハネムーンロード」という解説板が建てられている。そこに「龍馬とお龍 霧島新婚旅行」年表が掲載されてある。

 龍馬夫妻は、慶応2年3月29日、高千穂登山をしている。その日の宿泊地のことだ。

 「華林寺泊」とあった。

 龍馬の手記(坂本龍馬手帳摘要『坂本龍馬全集』4訂387ページ)や書翰(同年12月4日付乙女宛、同145ページ)によると、当日の宿泊地は霧島神宮(「霧島ノ宮ニ宿ス」「きり島の社・・・其所ニて一宿」)である。

 もちろん華林寺は霧島神宮の神宮寺であるから、同一といえばそうなのかも知れないが、でもやはりそれなら「霧島神宮泊」であるべきである。

 それにもかかわらず「華林寺泊」とするのはなぜだろう。何か、別の史料があるのだろうか。年譜の資料提供者が、薩摩龍馬会になっていた。知りたいものである。

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2008.12.30

まだ鹿児島に滞在

Dcf_1526  鹿児島には三日間滞在の予定。

 写真は、月照の宿泊した俵屋跡。近衛文麿が揮毫していて感激。

 島津家と近衛家の犠牲になった人だからねえ。

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2008.12.26

伏見薩摩屋敷跡に建碑なる

Dcf_1512 12/25(木)午前10時から、建碑除幕式。

 はやくも9時すぎに着いたので、僕が1番のりかと思ったら、とんでもない。3理事がすでにおそろい。

 くもっているが雨はふっていない。調子良く、開始。

 伏見区長が突然おこしくださる。挨拶もしてくださる。感激。

 50人ぐらいかなあ、参列者。

 京都新聞社、朝日新聞社、区民新聞などの記者が取材にこられていた。

 桐野作人さんは、伏見薩摩屋敷についてのミニ講演会をしてくださる。

 とても意義ぶかかった。伏見薩摩屋敷について、こんなに詳しい人が話してくださるなんて(もちろん無償)。

 ついに悲願はなった。思いがふかい。

 終了のころ、小雨がふりだす。

 すこし離れた場所で、小宴をもよおす。桐野さん、名古屋へむかわれ、残念ながら不参加(栄中日文化センターに出講)。

 僕も12時30分に退出し、京都新聞文化センターへむかう。「篤姫」講座の最終回に出講。感慨ぶかかった。1年間、篤姫講座をしたのは、ここだけであった。

 夜、嵯峨野学藝倶楽部を主催する「伝統プロデュース連」の幹部忘年会。場所はいつもの木屋町三条下ル龍馬。

 特別ゲストを招いた。上七軒・大文字の勝江さんである。

 伝統プロデュース連は、花街文化研究会も運営し、上七軒を研究対象にしてきた。だからほとんどが勝江さんと面識がある。

 おそくまで盛り上がる。今年、何回目の忘年会だろう。

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2008.12.25

建碑除幕式、前夜なり

12/24(水)はれ

 くずし字入門に出講。本日、本年最後。そんなときに、初参加の方こられる。ありがたし。あいかわらず、伏見土佐屋敷の解体の史料を読んでいる。

 伏見区長や、伏見板橋小学校長、伏見中学校長に明日の案内状を届けにいく。伏見区東堺町に史蹟をひとつつくるから。そばの学校に知ってほしかった。区長さんとは面識がある。それゆえ、とくに。

 帰宅。また寄贈あり。

 高木博志さん「『史蹟名勝天然紀念物』昭和編・解題」(『史蹟名勝天然紀念物』昭和編・解題・総目次・索引、不二出版、2008年11月)

  拙著の紹介があった(24ページ)。ありがとうございます。心より喜んでおります。

 藤田英昭さんから。『京都所司代/松平定敬』特別展図録、桑名市博物館、2008年10月

 新出の「文久日記」の解題や、「桑名藩/森弥一左衞門見聞雑記」などの釈文全文が載っている。ありがたし。恵贈をお約束くださっていた。楽しみにしていた。感謝申し上げます。

 拙著のお礼に多くの方が貴重なものを送ってくださった。が、あまり掲示できていない。失礼をしております。

 歴史作家、桐野作人さん、上洛。明日の除幕式に列席くださるため。ありがたし。夜、いつもの木屋町三条下ルの龍馬でお目にかかる。

 まったく存じ上げなかった、過去の偉業を拝聴する。

 

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2008.12.14

近江龍馬会の忘年会があった

12/12(金)はれ

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 近江龍馬会の忘年会によばれた。

 ある方がはじけてくださった。

 楽しかった。

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2008.11.28

龍馬の寺田屋脱出のあとを追跡した

Dcf_1469 11/27(木)はれ夜雨

 めっちゃめずらしく、出かける仕事がない日。

 なのに、一昨日だったか、空いていることがばれて伏見案内を頼まれた。

 午前中、洗濯して干す。最近、人任せになっていたから、反省して、した。

 そのあと理髪に。9月6日以来のこと。二か月以上ぶり。三宅清治郎には全然勝てない。

 午後から京都龍馬会のA尾さんとOりょうさんの依頼で伏見の幕末案内をいたす。

 御香宮神社に移築された、伏見街道に建っていた弘化4年(1847)丁未の道標を見にいったら、車石が個人から寄贈を受けて、新設されていた(写真)。おどろいた。

 みたら先月のことだった。車石の啓発団体のお仕事。すばらしい。どんどん啓発してください。お願いします。

 寺田屋跡で、三吉慎蔵の手記の寺田屋遭難部分を朗読する。龍馬の当該内容の手紙もいっしょに読んで、寺田屋脱出コースを検討する。

 3人寄れば文殊の知恵で、けっこう多く歩んだコースなのに、これまで気づけなかったことに気づけた。

 材木納屋伝承地で濠川におりて、血のついた着物がないので汚れた靴を洗ったり、草履をさがしたりした。

 まじめに三吉の逃亡ルートを検討して、伏見薩摩屋敷跡に到達。ここにたつと感慨ぶかいなあ。最近、来すぎている。こないだは篤姫のルートをと東福寺即宗院から歩いた。

 A尾さんとOりょうさんと丹波橋で別れ、帰る。

 夜、なべもの。しぬほど食べた。りんごも出てまた食べた。皮まで食べた。

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2008.11.22

松浦玲氏『坂本龍馬』に接して

 松浦玲さん『坂本龍馬』(岩波新書)が刊行された。

 松浦玲さんのお仕事は定評がある。もう今年77歳になられるが、なんという仕事ぶり。2003年の『新選組』(岩波新書)には舌を巻いた。新選組が学問の対象となることを明示した、劇的な書籍だった。

 龍馬論もすばらしい仕事がある。『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)だ。どれだけ学んだかしれない。

 今回は他人事ではない。僕も来年龍馬論を世に送らねばならない。松浦さん初の龍馬伝にさらにまなび、すこしはましなものを作りたい。

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2008.11.13

ふたつの大仏跡をあるいて龍馬本を話し合う

11/12(水)はれ

 京都女子大学に出講。ひそしぶりに巡検。ふたつの大仏殿跡にたつ。大きなミスがあったのだが、許してください。

 午後からキャンパスプラザ京都で、くずし字入門に出講。伊勢亀山屋敷の解体史料、もうすぐ終わる。あいかわらず受講者の独学がすごい。跡地の変遷について、いろんなところから刊本やら原史料やらさがしてこられる。しらんこと、たくさん教えていただいている。

 ついで2時すぎ、京都おこしやす大学の打ち合わせ。また冬や春、たくさん行事がある。篤姫やら新選組やら、直江兼続やら。お楽しみに。

 京都駅で考えごとをしていたら、テレビ東京系「日本ミステリー」から出演依頼の電話あり。信長に関してだったが、お断りした。

 午後4時すぎ、S社のU田さん上洛。来年秋刊行予定の「龍馬」本の打ち合わせにこられる。細かな計画がたてられた。懸案の「池田屋」につづいてだから、来年は大変だわ。

 夕食のあと、いつもの木屋町三条下ルの「龍馬」へお連れする。すでに京都龍馬会の幹部のみなさんがおられる。きたる11月16日(日)の15周年紀念講演の打ち合わせ中。お世話をおかけします。

 「龍馬殺害論」をおはなしします。どなたもおこしください。会場は河原町御池の京都ホテルオークラです。

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2008.11.07

拙著を井上章一さんが評論くださり感激

 一昨日の11月5日(水)、『日本経済新聞』夕刊の「エンジョイ読書」欄、「目利きが選ぶ今週の3冊」に、拙著『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』(文理閣、2008年10月刊行)が選ばれた。

 今朝、同志社大学で郡邦辰さんから教えていただいた。

 しかも評者が井上章一さん(風俗史家)と聞き、感激した。すぐさま、図書館で読んだ。なんと星四つ(「読みごたえたっぷり、お薦め」)を頂戴していた。

 以前、数度、近代京都研究会でご一緒したことがある。いつも予期せぬ視点でさまざまモノにアプローチされる方で、実に学ぶことが多い。大ファンである。ありがとうございました。

 本日は、『読売新聞』京都版朝刊(29面)に、大きく紹介記事が出た(おなじみ田岡記者担当)。「「寺田屋」真相に迫る・京の幕末、綿密調査」。しかも写真入り。今度はマシな写真。

 別のページに、昨日発表された、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」の主役が福山雅治さんに決まったという記事が載っている。タイムリーだ。

 本日は私的な10周年紀念日でもある。よい日にいろいろいただいた。みなさまに感謝いたします。

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2008.11.06

誤りだらけの龍馬番組、日本史サスペンス劇場

11月5日(水)はれ

 日本テレビ系「日本史サスペンス劇場」をみた。坂本龍馬と「三人の妻・恋人」を取り上げたものだった。

 とにかくひどい番組だった。社会への影響を考えたとき、学術・教育上、犯罪ではないかとさえ思った。

 井桜直美さん所蔵のお龍写真の取扱には立腹した。お龍が晩年まで写真を撮らなかったと本人がいっている、とタレントがいっていた。

 では見せてもらおう。なんという記録にそれが載っているか。そんな事実はない。

 それにもかかわらず、科学警察研究所の成果は紹介した。前半と後半が矛盾するではないか。矛盾しないというなら、科学警察研究所の成果は文献を無視した誤りだといっていることになる。

 これについて歴史家はどう評価するのだともっていき、番組にご出演の研究者にコメントをもとめたが、その方は高名な方なれど古代史の研究者である。お尋ねする相手がちがうだろう。

 拙著『京都の江戸時代をあるく』(文理閣、2008年10月)に詳細に同写真の真偽をめぐる研究史をまとめておいた。真偽についてもはっきり肯定しておいた。どうかご覧ください。

 検証した結果、「こうだ」みたいな番組づくりは、無批判に事実を羅列する番組より悪質である。最近の成果紹介のふりをして、実はけっこう古いネタを視聴者に提供している。

 「食品偽装」が問題となり、ついで最近は寺田屋問題に端を発し、「観光偽装」まで取りざたされる。が、結局は、消費者・観光客がだまされないようにかしこくならないと被害はいくらでもおこる。

 テレビ番組もそうだ。視聴者がかしこくならないといけない。どうか内容を問う姿勢をもち、内容に問題があるものをつくり公開する番組は見ないようにしてもらいたい。

 視聴率がかせげないなら、本気で番組づくりもするだろう。予算や時間もたっぷりつかわないと歴史番組はつくれないという風潮にかわるかも知れない。

 約10年前、同時にNHKと民放の歴史番組制作にかかわったことがある。民放が1番組をつくるのに約10日ほどかけるのに対し、NHKは数か月もかけていた。予算はなんと10倍もちがった。これは話にならないと思ったものだった。

 とにかくひどかった。大河ドラマが事実に即して描かれないとか、「そのとき歴史がうごいた」のつくり方があらいとか、そんなレベルではない。

 寺田屋の龍馬遭難を、お龍は伏見薩摩屋敷へ通報した。そこまではいい。問題はお龍到着の直後に三吉慎蔵が到着したことだ(三吉は「長州藩士」ではない。長府毛利家の家臣である。いわば「長府藩士」だ)。

 龍馬はお龍をなぜ命の恩人だとしたか。 

(「今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」・・慶応2年(1866)12月4日付乙女宛龍馬書翰)

 裸(もしくは下着)のままの注進をしてくれたからではなかろう。

 お龍の通報以前に、龍馬は外の異変に気づいていた。

「最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉(原文割注:此時二階居申候)人の足音のしのびしのびに二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音からからと聞ゆ、おり柄兼而お聞に入し婦人(原文注:名ハ龍今妻也)、勝手より馳セ来リ云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。鎗持たる人数ハ梯の段を登りしなりと」(慶応2年(1866)12月4日付御一同様(兄など)宛龍馬書翰)

 彼女の通報により薩摩側が龍馬救出の準備ができたからと思われる

(「此夜、彼龍女も同時に戦場を引取り、直様(すぐさま)(薩摩)屋敷に此よしを告げしめ」(同上)。

 お龍の通報により薩摩屋敷は事件を知る。が、龍馬の所在地がわからない。だから準備をして、逃げてきたらすぐ対処できるようにしていたと思われる。

 そこへ三吉があらわれて、薩摩屋敷の人間を龍馬の所在地に案内した。だからすぐに動けたし、正しくその位置にたどりつけたと思われる。

(「つひに三吉ハ先ヅ(薩摩)屋敷に行べしとて立出しが、屋敷の人と共にむかひに参り、私も帰りたり」(同上))。

 お龍と三吉の到着が同時ならそれができないだろう。薩摩屋敷に事件を理解させ、救出の準備をさせるのに5分や10分でできるとはとても思えない。夜中だし、大名屋敷はひとつの役所である。

 その間に、龍馬は隠れていた「材木納屋」で、寒さの中、凍死していたかも知れない。

 ちなみに晩年のお龍がその経緯を回想している。事実に近いと思われる。

「漸(や)ッとの事で薩摩屋敷へ着き、大山(彦八)さんに逢って、龍馬等は来ませんかと云ふと、イヤまだ来ないが、其の風体は全体どうしたものだと云ふ。私は気が気でなく、龍馬が来ねば大変ですと引き返さうとすると、まァ事情を云って見よと抱き留めるので、斯様々々と話しますと吃驚し、探しに行かうと云ってる処へ、三好(三吉)さんがブルブル震へ(も)どって来て、板屋の中で一夜明したが、敵が路を塞で居って二人一処には落られぬから、私一人来ましたと云ふ。それを聞ひて安心と、早速、大山、吉井の二人が小舟に薩摩の旗を樹てゝ迎へに行って呉れました」(「千里駒後日譚」第2回、1899年(明治32)11月5日)。

 ところで番組内で、ずっと「おりょう」と呼ばれていた。が、それもちがう。

 寺田屋遭難の慶応二年のある時期以後、龍馬は彼女を「鞆(とも)」と改名させている。

(「父母の付たる名龍、私が又鞆トあらたむ」・・慶応2年(1866)12月4日付乙女宛龍馬書翰)

 慶応3年(1867)5月28日付、「鞆殿」宛の龍馬書翰も現存する(井口家文書)。

 龍馬の死後は、西村松兵衛と再婚し、さらに「ツル」と名乗った。戸籍も「西村ツル」である。

 再婚相手、西村松兵衛にさえ「おりょう」と呼ばせていたのには閉口した。

 とにかく放映中、ずっと「それはちがう」ばかりだった。つっこみし放題の番組だった。いっしょにみていた人はさぞうるさかったことだろう。

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2008.11.03

刺客はなぜ龍馬の居所を知れたか

11/2(日)つづき

 夜、「篤姫」をみる。失笑するシーン多数。詳しくは桐野作人さんのブログをご覧ください。中村武生はまったく同じ立場です。

 龍馬殺害の場面。刺客にピストルをはじかれるシーンは、三谷幸喜氏脚本の大河「新選組!」の模倣ではないか。

 「寺田屋事件」でも過去の大河「翔ぶが如く」と近似のシーンがあった。創作品として、なさけなく感じた。

 刺客は単身まっしぐらに龍馬のいる部屋に踏み込んでいった。どうしてその場所に龍馬らがいることがわかったのだ。ありえないだろう。

 玄関で龍馬の家臣藤吉に名刺(「名札」)を渡し、それを龍馬のもとへ持ってゆく藤吉の後を追ったのだ。だから龍馬の居所がわかったのだ。

 事件直後に報を受けた土佐山内家重臣寺村左膳の日記に、

(刺客は)「才谷(龍馬)ニ対面致度(いたしたし)とて名札差出候ニ付、下男之者(藤吉)受取、二階へ上り候処、右之三人あとより付したひ、二階へ上り、矢庭に抜刀ニ而才谷、石川(中岡慎太郎)両人へ切かけ候」

とある(横田達雄編『寺村左膳道成日記』3、50ページ。高知県立青山文庫後援会、1980年)。

 この史料は立場上、当該事件の過程についてもっとも信用できるもののひとつである。

 興味深いことに、翌日、山内家重臣福岡藤次から事件を聞いた越前松平家の重臣中根雪江の日記にも同様の記載がある。

 「夜中一人あって手紙を持来り、僕(藤吉)を呼出し、届呉候様申に付、僕二階へ上候後より、両人之刺客附上り、直様龍馬眉間へ切込候由」

(「丁卯日記」国書刊行会編『史籍雑纂』第4、227ページ、続群書類従完成会、1974年)。

 今回のドラマはナンセンスだが、龍馬殺害事件は、これら事件直後の身近な人間の記録によって論じなければならない。

 そばで見聞きしたとはいえ、田中光顕や谷干城の後世の回想録や、歴史家岩崎鏡川「坂本と中岡の死」などの研究成果は参考程度にとどめないとだめだ。うそが入る。

 藤吉の斬られる音を聞いて龍馬は「ほたえなっ!」と叫んだ、その声により刺客は龍馬の所在地を知ったという話も有名だが、おそらくフィクションだろう。

 刺客は藤吉の後を追い、彼が入った部屋を龍馬の居所と理解して侵入し、斬りつけたというのが素直な解釈といえる。

 ドラマでは刺客はまっしぐらに部屋に侵入した。部屋にも藤吉らしき人物はまったくいなかった。残念だった。

 いま近江龍馬会では、藤吉誕生伝承地の標石を滋賀県大津市に建設しようと努力しておられる。これが実現すると、龍馬遭難事件を描くおりにも、藤吉を無視しなくなるかもしれない。実現を期待している。

 なお細かな龍馬殺害事件については、龍馬研究会の機関誌『龍馬研究』所収「龍馬十景」に連載中です。

 また来年秋に出す予定の新潮新書の拙著『龍馬』に詳しく論じたいとも思っています。

 予定にすぎないが。

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2008.10.31

ばかなはなし、丁卯日記

 ばかなはなし。

 龍馬殺害事件を検討したいので、中根雪江の「丁卯日記」を必要に思っていた。

 「丁卯日記」といえば日本史籍協会叢書に入っている。これを手に入れたい。が、品切れで古書店にもほとんど出ない。

 かりに出ても、すでに所有している同じ中根雪江の日記(続再夢紀事)とセットで高額である。困ったもんだと思った。

 たまたま「日本の古本屋」サイトを見ていたら、別のところで「丁卯日記」が入っている史料集に気づいた。・・・『史籍雑纂』第四。

 え、『史籍雑纂』って。

 全巻もっているで。

 まさかと思ってみたら、ええ、持っていた。第四も。

 いうまでもない。入っていた。

 絶句。

 ええー、あんだけ探してたのに、持っていたなんて。

 無意識でいいものをちゃんと買っている。それはいい。

 が、使わないと意味ないじゃん。

 こないだもそんなこと書いた。今回ははらがたった。

 ばかなはなし。

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2008.10.27

「篤姫」の龍馬とお龍に思うこと

 先週と今週の「篤姫」をみて思ったことはいっぱいあるのだが、それを書き込むととてもエネルギーがいるというのと、そんなヒマがあるかと思われたくない。

 だから龍馬とお龍のことのみを書く。

 お龍とお近(小松帯刀の鹿児島妻)の二人だけのシーンで、お龍はお近に「あの井伊大老の大獄で、私の父は重いお咎(とが)めを受けました」といった。その背景映像は、捕り手に縄で縛られて連行される男性だった(開始から24分ごろ)。

 が、これは事実ではないだろう。

 お龍の父は楢崎将作といい、青蓮院宮に仕える内・外科医であった。

 楢崎将作が安政の大獄に連座したといわれてきた間接的な史料根拠は、ふたつある(と思う)。

 ひとつめ。

 「先年、雷(頼)三木(樹)三郎、梅田源二(次)郎、梁川星巌、春日(潜庵)などの、名のきこ(聞)へし諸生太夫が朝廷の御為に世のなん(難)お(を)かふむ(被)りしものありけり。その頃其同志にてありし楢崎某と申医師、夫(それ)も近頃病死なりけるに・・・」(慶応元年(1865)9月9日付、乙女・おやべ宛、龍馬書簡)

 ここで龍馬は姉などにお龍の父として楢崎の紹介をする。そして安政の大獄に連座した者を列挙し、その者と同志だとはいっている。これが根拠だと思う。

 が、ちゃんと読めば、一緒に連座したとはしるさない。

 それどころか近頃病死したという。刑死でも獄死でもない。

 菩提寺西林寺の過去帳から亡くなったのが文久2年(1862)6月20日とわかるから、大獄から3年もたっている。

 もうひとつ。 

 慶応2年(1866)12月4日付、乙女宛龍馬書簡。また姉にお龍の紹介をした部分で、

 「京師柳馬場三条下ル所、楢崎将作、死後五年トナル、此所にすミしが、国家のなん(難)とともニほろび、あと(跡)な(無)くなりしなり」とある部分である。

 が、「国家の難とともに滅び、家は無くなった」とあるが、安政の大獄への楢崎の連座だとは記していない。

 なんといっても、お龍には明治になってからの回想録がある。質問者にこたえて、龍馬のこと、父母のこと、さまざまを物語っている。

 が、そこにも父が安政の大獄に連座したとは述べていない。

 「私の父は楢崎将作(注記略す)と云ふのです。青蓮院宮様の侍医でしたが、(略)あの梁川星巌や其妻の紅蘭も同門でした。又、頼三樹(三郎)さんとや池内大角(学)(注記略す)などゝも親密で、私が幼少(ちいさ)い時分には能(よ)う往来(いき)きして居ました(「千里駒後日譚」4回)。

 ここでもやはり安政の大獄メンバーと交流があったことをふれるのみで、父も犠牲者だったとはいわない。

 ほかでも父を失ったあとの生活難をふれた部分があるが、国事殉難者のようにはふれない。

 そんなわけで、たぶん事実ではない。

 ながくなりすぎた。ほかにも書きたいことがあったのに、あきらめだ。

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2008.10.07

昨日のこと新聞に載った

10/6(月)午前中雨、午後はれ

 昨日の建碑の除幕式、各紙朝刊に載る。

 読売と朝日、京都新聞は載らなかったと思ったら、夕刊に載った。朝日以外は僕も写真に入っていたが、いずれにも名前は載らなかった。ま、いいか。縁の下のなんとかだ。

 昨日の篤姫、ひどかった。とくに小松帯刀の京都妻。目をそむける描きかただった。

 せっかく「のだめカンタービレ」のパロディみたいな、龍馬と小松のツーショットだったのに、小松の京都妻のどたばたで台無しに感じた。

 ものすごいスピードで進んでいる。時間がたりないからだろうが、「想像妊娠」だけであれだけ時間をさいて。あれはいらんやろ。

 来週のドラマエンディングの「篤姫紀行」で、7月建立した小松帯刀寓居参考地の標石が紹介される。楽しみだ。

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2008.10.05

龍馬の妻お龍の実家跡に建碑がなされた

Dcf_1402b 本日、京都市内に初の「龍馬の妻お龍」の石碑が建った。

お龍の実家、楢崎家跡を示すものである。

場所は中京区柳馬場三条下ル東側「晃庵」という店の前。

午前11時から除幕式。

約60人の参加者があった。

 感激である。

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2008.10.03

『京都の江戸時代をあるく』がやってきた

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 拙著『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城と龍馬の寺田屋伝説』(文理閣、1890円)が拙宅に届いた。

 「第3子」である。感慨ぶかい。「平成の『寺田屋騒動』」の根拠になった内容がふくまれる。

 10月10日(金)、書店に並ぶ予定だそうです。

  みなさんにかわいがってもらえるだろうか。よろしくお願いいたします。

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2008.09.22

広隆寺と南禅寺金地院になぜ三宅碑が建つか

9/21(日)はれ時々あめ

 嵯峨野学藝倶楽部に出講。「平成の寺田屋騒動」について濃厚なコメントをしたのち、三宅碑のはなし。

 今回は広隆寺と南禅寺金地院について。南禅寺金地院は現存碑が後世のもので、当時のものは失われたこと、金地院に碑が建つのは父安兵衛の墓があること、それは次男安次郎が洋画家浅井忠と交流があったことによるのではないかと推定しておいた。

 浅井忠の墓所が金地院ですから。

 今回、ひさしぶりに出席者が少なかった。予約を入れていてこられなかった方が多かった。午前中、大雨が降ったからか。

 夕方は5時から、木屋町三条下ルの「寺子屋龍馬」に出講(於「龍馬」)。中津川市岡家文書がいかに薩長同盟論、龍馬論に影響を与えたか、かなりあつく語った。

 終了後は恒例のたこ焼きパーティに参加。いま執着しているタレントさんのあるモノを拝受。ありがたし。

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2008.09.17

京都の龍馬旧蹟に建碑予定

9/16(火)はれ

 来月五日午前中に京都の龍馬の旧蹟に建碑が行われる予定。他団体の事業だが、銘文は僕が書くことになっている。午前中、それをしあげる。たいへん。  

 基礎からまなぶ日本歴史に出講。まだ信長。どうかと思う。

 『信長公記』の旧二条城建設と浅井長政の離反の部分を読んだ。

 浅井の離反を妹市が信長にひそかに伝えた「小豆袋」のエピソードはありえないだろうと、のべる。

  終了後、建碑の主体団体の親分に原稿を渡す。これから交渉という。よろしくという。

  しばらくして、電話あり。建碑、意外な展開となる。でもわりと理想的な場所に変更となり、まあよかった。

  夜は家でよい食事をいただく。ありがたいことだ。

  そのあと、食べすぎて、つかれも出て、倒れるように寝る。

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2008.09.11

最終校を送り出した

9/10(水)はれ

 くずし字入門。

 部屋がとれず、いつもの半分のスペース。それでも誰も文句をいわない。ありがたいこと。

 あいかわらず、金沢前田家の岡崎村屋敷の上知の史料を読んでいる。さあ華頂宮は借金をかえせるか、見ものである。

 文理閣から最終校が出たぞ、と連絡あり。もう見に来なくていいといわれたが、たまたまちかくにいたので確認にいく。きてよかった。やっぱり少し直した。

 これで印刷にまわる。ながいことおかけしました。今月末、おそくとも来月初旬には書店にならびます。どうぞかわいがってやってください。

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2008.09.06

寺田屋の続報

 週刊ポストのUさんから電話がきた。

 「ブログをみました。ご迷惑をおかけしていますか」

といわれた。

 「迷惑かかってます。週刊ポストに僕がネタをふったようにいわれてます。」といいました。

 つぎの月曜日刊行のポストに、寺田屋続報がのるそうです。

 でも僕のコメントはのりません。

 僕が黒幕みたいにいわれるのは心外です。

   

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2008.09.05

寺田屋伝説を検討した本を出します

 平成の「寺田屋騒動」、たいへんである。
 渦中にいる。
 取材依頼もあるし、その他いろいろ。

 寺田屋伝説を取り扱った、京都民報の連載は、今月末出版される見込みです。

 『京都の江戸時代をあるく―秀吉の幻の城から龍馬の寺田屋伝説まで』
 2008年9月末、文理閣から刊行予定。約200ページ、予定価格1800円。
 
 今日もネットカフェからの更新。
 来週、新居の電話が開通し、ネットもできるようになる(はず)。

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2008.09.02

週刊ポストの記事について

 昨日発行の週刊ポストのグラビアに、「平成の「寺田屋騒動」」という記事が載った。
 龍馬の寺田屋建物は戊辰の役で焼け、現在の寺田屋建物は明治のものではないか、という大きな記事である。

 掲載直前に当方に取材依頼があり、応じた。
 が、そのときにはすでに記事はできていた。

 ゆえに記事中の、匿名を希望した「郷土史家」は僕ではないので、ひとこと申しておく。
 このネタは継続されると聞いている。

 僕は事実は事実と認めたうえで、寺田屋の永続を願っているものである。
 かんちがいされては困る。

 この件はまた改めます。 

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2008.08.05

FMラジオでうなって、JR東海でぼやいて、龍馬でおわる

8/4(月)はれ
 講談社メルマガ連載中の「本気で考える池田屋事件」、今回の原稿をあげた。
 時間がかかりすぎている。この夏に完成できないものかと考え出した。

 夕方、京都三条ラジオカフェ(FM79.7)へ。
 「龍馬の時間」と、「中村武生の京都歴史探偵」の収録をする。
 3ヶ月目に突入。
 すこしなれてきたと、「おりょう」さん。
 そうかもしれない。僕もそんな気がしてきた。
 だから問題点にも気づきだせる。

 やはり3分はしんどい。
 もうすこし長めの方がよいのではないか。
 上記番組をご視聴の方、ご意見をお聞かせください。

 河原町六角の「インパルス」でコーヒーとサンドイッチ。
 龍馬・おりょうさんにごちそうになる。
 あるものの「運送」を密談。

 夜は京都駅前のJR東海事務所で「きなこの会」。
 出席者5人。
 ミヤコの土居堀と是より洛中標石、およびこのたびの小松帯刀寓居参考地標石の解説。

 夜、木屋町三条下ル「龍馬」で夕食。
 龍馬のブログ「龍馬と木屋町の日々」が人気ブログランキングで上昇いちじるしい。
 おどろきをもって、みる。

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2008.08.02

京都の龍馬ゆかりの地に建碑許可がおりた

8/1(金)はれ

Photo

 京都の坂本龍馬ゆかりの地に、また建碑許可がおりた、と京都龍馬会から連絡がはいった!

 すばらしい。
 しかも西村ツル(お龍)の回想「反魂香」によると、今日は龍馬とお龍の内祝言の日ではないか。

 写真はその地。

 あとはお金だ。
 みなさん、京都龍馬会に寄付をください。
 お気持ちだけでも、100円でもいいですから。
 木屋町三条下ルの「龍馬」にご連絡ください(ブログは←)。
 
 どうかよろしく御願いします。

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2008.07.15

篤姫紀行!だわ

7/14(月)はれ一時大雨
 この数日、いろいろあった。
 仕事もしっかり頑張った。そのぶんブログが滞った。失礼しました。

 12日(土)は、大谷大学の生涯学習講座で烏丸北大路付近を巡検。
 あつい中、60人ぐらいご参加。
 「がまん大会だ」といった人があったが、よくもどなたも倒れることなく。

 鞍馬口に「是より洛中」標石がほしいですね、賛同されませんか、といったら、終了後、4人の方から寄付の申し出があった。けっこう感激。
 ありがとうございます。

 すぐには無理ですが、かならず実現にむけて進みます。

 建設準備中の某碑もまもなく除幕式です。
 たいへんなことになろうとしていますが、それままた後日。

 13日(日)は、木屋町二条の広誠院で長州屋敷と幕末史のおはなしをする(京都民報主催)。
 こちらは23人のご参加。

 名古屋方面や山口県周南市からおこしの方がおられ、恐縮。
 しかも周南市の方は、ぼくの知らない史料多数ご存じで、いっぱいいろいろ教えていただく。ありがたかったです。
 来月、現物拝見に山口市へいこうとその場で決めた。

 京都民報主催の講座は、来週7月18日(土)もあります。こんどは巡検です。
 くわしくは過去のブログをごらんください。

 本日は大谷大学(こちらは通学、学部生)でまた巡検。
 堀川や小川の旧河道をあるく。

 地形に痕跡が露骨に残っている。
 そこに建つ家は将来洪水がきたら、やられる可能性が高い。
 明日生きるために地理の教養はとても大事なことを伝える。

 午後から銀行いったり、寺町姉小路の高級感あふれるところにいったり、錦小路の薩摩屋敷跡で興味深い電話がかかってきたり、京都有数の企業の食堂に入って「家族に代わって」お礼行ったり、あさって閉店するなじみの店へ最後の来客になりにいったり、某ルームでやはりあさって最終締め切りの原稿を打ったりする。

 最後につかれはてて、いつもの木屋町三条「龍馬」に行き、「本日のええはなし」を伝える。
 終電で帰宅。

 家かえって、また仕事。
 多数のメールがきているのだ。そのお返事も。

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2008.07.09

池田屋事件の日でした

7/8(火)はれ
 本日は池田屋事件の日でした。
 元治元年6月5日は、1864年7月8日です。
 
 もう144年かあ(在世してたみたいに)。
 たまたまいつもの木屋町三条「龍馬」に行った。

 偶然、「ある」決着がついていた。それを知った。
 それが池田屋事件の当夜だった。
 縁である。

 今年は例年とはちがい、野老山吾吉郎(ところやま・ごきちろう)の冥福を祈ってみた。

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2008.07.05

『吉田松陰を描いた男―松浦亀太郎の生涯と作品』でどうだ

7/4(金)はれ
 朝、ようやく講談社メールマガジンに「池田屋事件」(第16回)の原稿をおくる。
 今回ほどみなさんにありがたと思ったことはない。
 感謝しております。

 同志社大学に出講。
 やっと8月18日政変まできた。

 長州「尊攘派」の「王政復古」論は、けっして倒幕をともなうのではない、というややこしい話をする。
 もっと整理して語るべきだった。
 ようわからんかったというご意見、続出。反省。

 いつもの受講者との喫茶あり。
 「若さ」をいただいている。ありがたい。

 松浦亀太郎(松洞)の研究を卒論にしようという、Nさんのお仕事に舌をまく。
 細かい。

 これは活字にしたほうがよいな。
 出版も可能ではないか。

 『吉田松陰を描いた男―松浦亀太郎の生涯と作品』という書名でどうだ。
 どちらか立候補されませんか。

 午後からキャンパスプラザで「くずし字入門」。
 まだ板倉周防21か条を読んでいる。
 うまい文章じゃないなあ。とても理解しにくい。

 Y石材店にむかう。
 碑銘のゲラを提出するため。

 建碑までもうまもなくだ。

 旧U郡I村に建設中の家屋をみにいき写真を撮る。
 だいたい週1回ぐらいのペースで定点観測をしている。

 洛中にまいもどって、近衛小路の某ショップに衣装をみにいく。
 
 そのあと友人H氏をともなって、いつもの木屋町三条「龍馬」へ。
 K都国立博物館のM川T一さん、H野市立S選組のふるさと歴史館のF井K夫さんと密談をする。
 といっても、からあげとチーズケーキのはなしが多かったが。

 すこしのどの調子がよくない。
 今夜はウーロン茶に徹する。

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2008.07.04

近江屋新助と菊屋峯吉を墓参する

7/3(木)はれ

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 蒸し暑い日。

 昼から珍しく、御土居堀を考える講座を実施。
 多数のご来場者あり。

 午後3時、京都龍馬会メンバーとの墓参を約束していた。
 金戒光明寺の近江屋(井口)新助(写真)、知恩寺の菊屋峯吉(鹿野(かの)安兵衛)。

 実はいずれもはじめて。
 多忙きわまりない状態だが、いい機会なのでうかがう。
 知らなかったことをいくつか知れた。

 夜、いつもの木屋町三条「龍馬」でしめきりすぎてしゃれにならない原稿を打つ。
 ありがたい。深夜、ほぼ完成する。

 自宅にもどり最後の推敲をしながら、力つきる。

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2008.06.25

是より洛中標石再現の意味を述べた

6/24(火)はれ
 基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 今朝の朝刊の記事をうけて、「是より洛中」標石がなぜ大事なのか論じる。
 もう1点は、その2日前に特集された「応仁の乱ではさほどの被害はなかった」みたいな新聞記事。
 これをとりあげて、解説する。

 よい連載ですね。
 前回は本能寺でした。
 毎回楽しみにしております。

 本日は京都女子大学の現役生、3人も受講。
 室内、活気付く。
 どうぞまたきてください。

 いつものNさんからお祝いの和菓子(水無月)をいただく。
 お気遣いありがたく思いました。
 
Photo

 夜、いつもの木屋町三条「龍馬」にたちよる。
 予想通り、「えらいこっちゃ」が動いていた。

 思いがふかい。

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2008.06.20

同志社大学の学生さんを大事にしたかったのだ

6/19(木)雨
 某所の古本市、また行き忘れた!
誘ってくれたK野君(D志社大学)、申し訳ない。

 名古屋に出講。
 栄中日文化センターの「日本の城と合戦」、「京都学ことはじめ」両講座。

 いつもながら前者は40名ちかくの受講者である。すごい。
 専門ではない講座の方が受講者が多いというこの現象、考えなければならない。

 オリジナリティ豊かな内容の方がうける、という意識は、一般の求めているものと異なるということだ。
  
 ちなみに今回とりあげた城は、摂津有岡城(せっつ・ありおかじょう)なので、専門領域である。
 摂津有岡城は惣構(そうがまえ)をもっていることで知られる。

 惣構(そうがまえ)論は、中村武生の大事な専門領域である。
 忘れられがちだが。

 あ、そういえば、京都学講座もミヤコの惣構(そうがまえ)のはなしだった。
 偶然だ。ねらってないと思う(企画書を書いたときの記憶がない)。

 担当Oさんから10月講座の打診をいただいた。
 ありがたいことである。
 
 Oさんからはじめてメールをいただいたのが、2003年6月12日だった。
 たまたまこの日は一生忘れられないできごとがあった日だった。
 地獄に仏とはこのことか、と思った。

 それ以来、ずっと講座をいただいている。
 もう六年目だ。

 明日、江ノ島(神奈川県藤沢市)で講座がある。
 日帰りで行こうと思っていたのだが、勧める人があったし、名古屋と江ノ島は同じ方向だし、前日宿泊することにした。
 数日前、横浜に宿をとった。

 が、今日、名古屋に来てきづいた。
 「明日、朝1番に同志社の講義があるやん」。
 絶句した。
 なぜそんなことに気づかなかったのか。

 臨時休講にする手もあったが、「せっかく大学に来たのに休講かい、先週いうとけや」と思われるのが予想できた。
 それは無責任というものだ。
 自分が学生だったときの記憶がある。
 なるべくしてはいけない行為だ。

 で、名古屋から宿にキャンセルの電話をした。
 キャンセル料は宿代全額で、来週現金書留で送らないといけない。
 が、これでよかったのだ。

 へろへろになりながら帰洛。
 またまた木屋町三条「龍馬」へ。
 
 女将お龍さんからメールがあり、常連客の「変態ブタゴリラ」さん(コードネーム)から僕宛にステキな贈り物があると聞いたから。
 拝受しました。いつもありがとうございます。心より喜んでおります。

 ここで大事な仕事をする。
 ある文章を書く。
 店主赤尾さんに渡す。

 いつになく赤尾さん、緊張の顔。
 ことの重要性を再認識なされたか。
 
 しばらくして退出。
 
 帰っても仕事。
 あるモノをスキャニングして、赤尾さんに添付ファイルで送る。

 明日も仕事、早いなあ。
 疲れきっているが、なんて楽しい日々なのだろう。

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2008.06.17

京都大名屋敷の解体過程の研究を助ける

6/16(月)はれ
 大谷大学に出講。

 まえおきは「若き日のお龍」写真の検討。
 先月中旬、各新聞をにぎわせた記事について、自説を展開。

 本題は、大学周辺の天皇火葬塚の意味について。
 紫式部墓も検討対象にした。

 いつもの中村の「史蹟はつくられる」論。
 
 おもしろがっているのか、つまらないのか、よくわからなかった。
 残念だ。
 もっと反応してほしい。

 府立総合資料館へ移動。
 ながく休館されていた。
 ひさしぶりだ。

 K都女子大学のS口M宏さんから依頼を受け、そのゼミ生Mさんの卒論を少し助けることにした。

 明治維新期、京都の大名屋敷の解体過程の研究である。
 僕がながくしたかった研究の一つである。

 いいきっかけなので、夢を託すとともに、僕も勉強しようと思った。

 で、当館蔵の京都府庁文書の大名屋敷処理の史料をまとめてみる。
 いつもながら、松田万智子さん、福島幸宏さんの手をわずらわせる。
 おかげで、たいへんスムースにすすむ。
 ありがたいです。

 歴史資料課の閲覧室には、友人U田C尋さん(近世史)がおられ、再会をよろこぶ。
 
 おびただしいコピーを依頼し、退出。

 Mさんとわかれ、旧宇治郡へむかう。
 転居予定地の内部をみせてもらう。

 まもなく書庫に着手。その底部にレールをひく。
 その前に、どのていど基礎を堅固にしてくださったか見たかった。
 
 洛中へUターン。
 いつもの木屋町三条「龍馬」へ。
 また「龍馬プロジェクト」を検討する。

 夜、大事なお客さん来店。
 「夢」の話をする。

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2008.06.14

「龍馬」にわいた

6/13(金)
 目がまわるほどとびあるいた。

 京都国立博物館でM川T一先生とおめにかかり、あるものを拝見したのはそのほんの一部。

 夜、いつもの木屋町三条下ルの「龍馬」で、おそるべき集会あり。
 2010年をめざして「信じられないこと」を論ずる。

 「可恐(おそるべし)、可恐」。

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2008.06.07

大河「龍馬」にむけていろいろあり

 6月4日午後2時、恒例の池田屋事件戦死者の法要が、左京区岩倉花園町の三縁寺で行われた。
 当然、出席した。
 
 今年は京都龍馬会メンバー5人がおこしだったので、にぎやかになった。
 それで計8人。いかにいつもさみしい会かお分かりいただけよう。

 子孫はもうひとりも来れていない。
 大高忠兵衛の子孫の方はながくおこしだったが、ご家庭のご都合で2年連続断念されている。

 ←京都龍馬会のブログに参加者6人の紀念写真が載っている(撮影は京都龍馬会のT吉氏)。

  僕が映っていないのは、先に帰ったから。
  午後4時10分から、B教大学(京都市北区)の講義があったので。

  その日以来、「えらいこっちゃ」ということが相次いでいる。
 「まさか」と思っていたことが実現にむけて動いている。

 昨日、京都龍馬会本部に行き、そのことを聞かされた。
 原則酒を断っている僕が驚きのあまり深酒をしてしまった。
 それほどだ。

 大きなきっかけは、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」決定だ。

 そのうちいろいろ明らかにされていくだろうが、とにかく楽しくってしようがなくなった。
 生きてきてよかった、みたいな感じだ。

 いますべきことをしっかりしよう、そう思えた日でもあった。

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2008.06.05

再来年の大河は「龍馬」に決定

速報です。
 2010年のNHK大河ドラマは、福田靖氏脚本「龍馬伝」に決定したと報じられました。

 1968年(昭和43)以来、40年ぶりの龍馬主役の大河となります。
 
 中村の龍馬論は、2009年秋には刊行せよと、S社のUさんから指令がきそうである。

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2008.05.25

京都龍馬会の総会に出席

5/24(土)あめ
 午後1時、恒例の一件のため、旧U郡O村に行く。
 また少し進んだ。

 夕方、京都龍馬会の総会にお招きいただき、参加。
 なぜかその場で本年度の監事に勧められてしまう。
 引き受けてしまったが、そんな時間や力があるのだろうか。

 総会後の懇親会中、大久保利通の忌年祭である「甲東祭」に参加中の、T京R馬会のM川M理子氏から電話ある。すごい偶然。
 同じくご参加の歴史作家のK野S人氏ともお話する。
 建碑の除幕式へのご出席を御願いする。
 今回の建碑はK野さんのご成果なくしては実現しなかったので。
 ご快諾くださる。

 夜、大雨。いっこもやまない。

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2008.05.18

また「秘密結社」に行った

5/15(木)はれ
 午前中、また「秘密結社」みたいなところへ行った。

 今日は日中なのでけっこう人がいた。
 「秘密結社」っぽくなかった。
 なれたということもあるかもしれない。

 今回はさほど名前も書かず、はんこもおさず、1時間ほどで終わった。
 これにより大層なモノが僕のものになった。

 昼、友人H氏に大事なモノを返却。

 夕方、木屋町三条下ルの酒場「龍馬」で、寺子屋龍馬に出講。
 今回で、はやいもので10回目。
 「幕末志士居所論」。
 
 受講者のYさんから不思議なモノをいただく。
 おどろいた。

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2008.03.05

友、遠方よりきたる

3/3(月)はれ
 東京T社のC氏、お仕事で上阪。
 帰途、龍馬の墓参のため上洛される。
 
 午後7時すぎ、近江屋新助方跡で待ち合わせ。
 「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」標石の建つことで知られていた京阪交通社河原町営業所が、今月末で閉鎖することを知る。
 京阪交通社前でこの碑をみるのはこれが最後かとつぶやかれたC氏の思い、よくわかる。
 
 それを見下ろす店に移り、会食。
 酒をやめたので、ふたりともウーロン茶を飲む。

 さる「逸品」を持参される。
 一見して、言葉を失う。
 
 僕の知っている龍馬コレクターとしてはすでに屈指の人だったが、刊本の希こう本が中心でいらした。
 今回は墨書だ。
 オンリーワンのものだ。
 品物にも魅せられたが、ながく頑張ってこられた成果が出ましたねと、喜ぶ。

 2次会は河原町町三条下ルの六曜社。
 コーヒーで歓談。

 終電に間に合うよう、お帰りになる。

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2008.02.23

町田明広氏と龍馬で維新を語る

2/22(金)はれ
 あたたかい日。そろそろ春か。

 まだ確定申告、奮闘中。
 が、だいぶわかってきた。
 楽しくさえなってきた。

 「知れる」ってうれしいものだ。

 山陽新聞福山支社の西崎哲也氏から、先日の鞆での講演の掲載紙が届く(2月10日付朝刊)。
 大き目の記事で、僕が写真に写っていた。
 送ってくださりありがとうございました。

 夜、東京からご出張中の維新史研究者、町田明広氏とお目にかかる。
 僕のなじみのお寿司屋さんと、木屋町三条のいつもの「龍馬」で、かなり濃い維新史談義。

 「寺田屋の一室で維新は生まれた」とは誰かがいったことばだが、「龍馬のカウンターで維新史研究は進んだ」とは僕のひとこと。
 
 ここでも建碑計画が進められている。
 京都に複数のお龍の標石を建てるつもり。
 千円寄付をした。

 今年は京都建碑イヤーだ。

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2008.02.16

古高俊太郎と龍馬と鞆ノ浦

2/15(金)
 午前中、第11回「洛洛歩考会」見学ガイドの原稿、やっとしあげる。
 担当Yさんにおくる。
 
 午後から「くずし字入門」に出講。
 また古高俊太郎(升屋喜右衛門)関係文書をよむ。
 先代(先々代?)がらみの訴訟。
 
 終了後、さきほど原稿をおくったYさんがキャンパスプラザへおこし。
 先日2時間半こもってゲラに加筆したが、それを修正して持参される。

 今回は720人も応募があった由。
 定員は200名。
 500名も落選するのか。

 午後5時、木屋町三条下ル「龍馬」につく。
 6時から龍馬講座。
 今日からプロジェクターが使えるようになった由。
 その接続のため、早めにいく。

 お見事。
 ちゃんと映った。
 すばらしい。
 これでこれからスライド上映しながら、はなしができる。

 ネタは鞆ノ浦の現状紹介。
 バイパスによって景観が破壊されようとしている。

 しまった、署名してもらうの忘れてた。

 終了後残って、たこ焼きパーティに参加。
 理事長赤尾さんから、龍馬にかんするある稀覯本を見せられる。

 はじめ気づかなかったけれど、これは昨年「京都の江戸時代をあるく」寺田屋稿に没頭していたとき、探したけどついに手に入らなかったものではないか。
 びっくり。

 あっさり貸してくださる。
 さすがは理事長赤尾さん。

 『京都の江戸時代をあるく』刊行前の原稿整理中。
 まだまにあう。
 役にたつか。

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2008.01.16

お龍の103回忌をしのんで講演

1/15(火)はれ
 基礎からまなぶ日本歴史に出講。
 今日はNさん・Mさんにお車でお連れいただく。
 ビップのようである。

 最近、御土居堀講座ができていない。
 それを再開するいいきっかけもいただいた。
 あわせて感謝申し上げます。

 まだ南北朝期、観応の擾乱。おそいわ。
 
 終了後、有志の喫茶の会に参加。
 本年実行予定のある建碑のはなしをつめる。

 帰りもまたNさん・Mさんにお車で送っていただく。

 しばらく準備をし、再び外出。
 木屋町三条へ。
 寺子屋龍馬6回目の講演。
 ひさしぶりの木屋町。
 今年はじめて。

 今日は龍馬の妻お龍の祥月命日(103回忌)。
 だからお龍のはなしをした。

 おわったのちも久しぶりにとどまって「たこ焼きパーティ」に参加。
 一杯だけビールをいただく。
 今年はじめてのビール。
 「こんな味やったんや」と思う。
 ビールの味もひさしぶりと思えた。

 夜、「第4回京都検定問題と解説」原稿最後の1問をつくって送る。
 少し遅れましたが、去年ほどではなかった。ほっといたしました。

 深夜、「ラヴァーズ・キス」(2003年)をやっていたが、保存して最後までみずに寝る。
 宮崎あおいさんの出演作品です。

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2008.01.02

寒い元旦

 寒い元旦でした。
 が、未だこの冬、雪をみていません。
 湖北などの豪雪が信じられない。

 今日の『京都新聞』朝刊に、いつも話題にしている鞆ノ浦の「龍馬の宿」の記事があって驚いた。
 鞆ノ浦の問題は中国地方のローカルニュースではいかん、全国版でないと、といっていたが、ついに京都に来た。
 いい傾向だ。
 ぜひみなさん行って下さい。

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2007.12.12

龍馬遭難の日の超豪華ツアー

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 本日もブログランキング1位です。
 誠にありがとうございます。

 久しぶりに、1日更新ができなかった。
 すこし気をぬくと更新できない。
 あっという間に時間がすぎる。
 おそろしい。

 12/10(月)はれ
 多忙をきわめた日。
 9時から大谷大学へ出講。
 史蹟論をはく。

 つづいて京都駅へ。
 友人F氏と合流。某所への建碑の話し合いに行く。
 困難はあるが、1歩すすんだ(と思う)。

 昼、東京からM川M理子氏ほかご友人お2人上洛。
 某所でランチをいたす。

 ほんの1部の知る人ぞ知る、幕末の由緒ぶかい建物がお食事処になっている。そこで。
 龍馬がふれたかも知れぬ建物である。
 そのうち有名になるであろう。
 いまはいえぬ。
(といっても、ここだけの話といって、けっこう僕の講演ではしゃべってるけど)

 僕だけ早く出て、佛教大学へ出講。
 惣構論。
 先週にひきつづき、仁木宏さんの御説のご紹介。

 一旦帰宅し、次の準備。

 夕方6時、木屋町三条へ。
 京都龍馬会本部「龍馬」で、講演。
 今日は「龍馬の墓」論。

 龍馬埋葬地である、霊明神社の盛衰のはなし。
 いかに志士の聖地になり、また隣地の霊山護国神社に吸収されていくかを論ずる。

 午後7時半終了。
 その後、M川さんなど3人と近江屋跡へ。
 やはり東京から駆けつけたC野氏と同地で合流。
 
 午後8時から8時半ごろ、龍馬遭難の時間。
 同じ日、同じ時間にその地に立っている。
 メンバー5人、個々に一斉に写真撮影。
 つづいて同地で龍馬を斬った渡辺篤の回想録の朗読を開始(担当はC野氏と中村)。

 通り過ぎる人たち、一様にこの異様な集団に驚いた模様。

 これで終わらない。
 刺客は四条通へ出て千本通から下立売まで北上。
 千本下立売を東へ進み、智恵光院を左折(北上)。
 西側の寺に入ったという(渡辺篤の回想録。『坂本龍馬全集』909~910ページ)。

 このコースを追っかけてみた。
 東京の人々、時間がない。
 9時半の新幹線終電で帰らねばならぬ。

 ゆえに断腸の思いでタクシーに乗る。2台に分乗。

 千本四条から北上することはできない。
 同地から三条通までは南むきの一方通行である。

 ゆえに四条河原町から千本三条をへて千本下立売で下車。

 たまたまタクシー運転手、高知県北川村の出身という。
 龍馬と斬られた中岡慎太郎の出身地だ。
 こんな偶然あるものか。喜ぶ。

 千本下立売から「寺」まで徒歩。
 午後8時半すぎのこの界隈、とても静寂。
 当時をしのぶものあり。

 刺客は近江屋での物音が隣地の土佐屋敷に聞えることをおそれた(上記、渡辺の回想録)。
 いまの河原町蛸薬師ではぴんとこないが、千本下立売東入るあたりでは理解できる。
 ほんとうに静かだ。
 龍馬や刺客の叫び声は、河原町蛸薬師にもれ聞えたことだろう。

 「寺」、真っ暗。その分、リアル。

 このあたり、平安宮内裏跡にして聚楽城跡である。
 僕が年中歩きたおしていてるところ。

 が、龍馬の刺客の帰路だと思って歩いたことがなかった。
 しかも同じ日、ほぼ同じ時間に。
 さすがに、感激した。

 寒いし時間がないのでながく滞在できず。
 すぐにタクシーに乗り、地下鉄丸太町駅へ。
 新幹線組は京都駅へ。
 烏丸御池駅でわかれる。
 どうぞお気をつけて。

 C野氏とF氏と河原町へもどる。
 土佐屋敷跡へ。
 
 あの日、いまごろ、大騒ぎであったろう。
 それを感じにいった。

 これで終わり。
 3人で打ち上げ。
 場所は土佐屋敷に隣接するビルの5回の居酒屋。
 近江屋跡はまん前。
 上から近江屋跡を眺望しながら夕食である(写真。ただし別の日の撮影)。

 ひさしぶりにビール(グラス)一杯を飲む。
 10日ぶりのビール。とてもおいしかった。
 居酒屋に行くのもいったいどれくらいか。
 思いだせない。
 注文がなんだか楽しかった。

 惜しいかな、すぐにみなの終電がちかづいた。
 Fさん、Cさん、それぞれ電車やバスの都合で個々に分かれる。
 
 なんと豪華で贅沢な1日であったろう。
 本日関われたみなさんに、心よりの感謝を申し上げます。

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2007.12.10

龍馬遭難の日時に

龍馬遭難の日時に
 龍馬遭難の地に来ています。
 慶応3年11月15日は、西暦1867年12月10日です。すなわち140年前の今日です。
 時間もあと少しです。
 誰も気にせず通りすぎます。

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2007.12.08

鞆ノ浦、消えゆく木造家屋

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 鞆ノ浦から早くも帰ってきました。

 ほんとうは山口県萩市へ移り、博物館参観と乃美織江の墓参をするつもりだったが、巡検がながびいて、新山口駅から乗る予定だった東萩行きの最終バスへ連絡できなくなった。

 そのまま鞆に泊まればとNPOの方からおススメをいただいたが、京都ですることがゴマンとあるので、一端もどることにしたというわけ。

 また聞き上手のみなさんのおかげで、たのしい1日でした。
 ありがとうございました。

 また鞆の深みにふれた。

 でも残念なこともたくさん感じた。

 「龍馬の宿」こと「御舟宿いろは」の斜め前で、建物の解体をみてしまった(写真)。
 また鞆から木造建造物がひとつ消えた。
 
 こうして、「重要伝統的建造物群保存地区」になっても何ら不思議のない鞆が、理解されないまま取り返しのつかないことになっていくのだと思ってしまった。

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靹ノ浦におります

靹ノ浦におります
 靹ノ浦におります。
 昨夜着きました。
 午後2時から講演と巡検です。
 天気はよいです(やっぱり)。

 写真は龍馬がいろは丸事件の談判に使用した旧魚屋万蔵邸。
 今回の会場、「御舟宿いろは」です。
 

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2007.12.06

【講演】鞆ノ浦で龍馬たちを論ずる

 今朝もブログランキング首位です。ありがとうございます。

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 さてときどき話題にしている、鞆ノ浦のイベントのお知らせです。
 
 私の立場で鞆ノ浦の魅力を語ります。

 はじめはお部屋でおはなしし、後半は巡検(現地見学)もいたします。
 ぜひご参加下さい。
 よろしくお願い申し上げます。

日  時  2007年12月8日(土)午後2時から日暮れまで
場  所  御船宿いろは(話題の「龍馬の宿」です。広島県福山市鞆町鞆670)

内  容  講演 中村武生(佛教大学文学部非常勤講師)
タイトル  「ホンモノの義昭・秀吉・龍馬のまちへのあこがれ―歴史地理研究の立場から―」

定  員  30名(申込み順)
参 加 費  1500円

主催・申込み先 鞆まちづくり工房
           代表 松居秀子
          ℡ 084-982-0535

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2007.11.29

京都女子大学の受講者と巡検する

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 いま気づいたら、ブログランキング5位になっていました。
 いつもいつもありがとうございます。
 感謝いたします。

11/28(水)はれ
 京都女子大学へ出講。
 前回にひきつづき、巡検にゆく。

 馬町十三重石塔を考える会。

 今回は教室に集まって講義開始20分経過してから出発。
 それでも20人も集まらず。
 巡検人数としては都合はよい。

 前回解散した後白河天皇陵にふたたび行き、そこからはじめる。
 
 馬町十三重石塔が現存する京都国立博物館の敷地に入る。
 建物には入らない。
 庭の石塔だけみる。
 銘文を読んでみる。

 京都女子大学生は学生証をみせれば無料で入館できるのだ。
 この制度を利用した。

 入館料を払ったのは僕だけ。
 
 正面通りから伏見街道へ出る。
 伏見街道は古代・中世の法性寺大路に擬される。
 
 法性寺大路と汁谷越え(渋谷街道)の交点に、六波羅南門があったと山田邦和博士が推定されている。
(野口実さん「法住寺殿造営の前提としての六波羅」231ページ、高橋昌明編『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣、2006年)。

 だからその南門跡、すなわち伏見街道と渋谷街道を交差点を右折(東行)して、馬町十三重石塔の旧所在地へむかう。

 街道に道標があり、その奥(北側)に旧地を示すさまざまなものがある。
 馬町十三重石塔はもちろんだが、今回はその「さまざまなもの」が重要でやってきた。

 馬町十三重石塔は佐藤嗣信・忠信の墓と伝承されてきた(都名所図会など)。
 それを現在までひきついできたのが、前記の道標など、近代の「佐藤」さんの顕彰事業だ。

 その佐藤は、ただしくは佐藤政養という。
 幕末には佐藤与之助といい、坂本龍馬とともに勝海舟の神戸海軍操練所を支えたひとりだ。
 
 龍馬は禁門の変のあと勝のもとをはなれたが、佐藤はずっと勝海舟のそばにいた。
 そのあたりのことは、松浦玲さんの『検証・龍馬伝説』(219~276ページ、論創社、2001)に詳しい。

 佐藤与之助政養は維新後、初代鉄道助となり、初期鉄道事業の功労者となる。

 与之助政養は実は東北の出身。
 佐藤嗣信・忠信の子孫と家伝されてきた。

 だから先祖の墓とされる馬町十三重石塔を京都でみつけ、整備した。
 こまかいことに、先祖の墓の修復ではなく、実父の碑を建てたのだ。

 与之助政養の子清治郎は、さらに与之助政養の碑も建てた。
 こうして馬町十三重石塔は、佐藤政養一族の由緒づくり(史蹟創出)の施設として機能をはじめたのだった。
 
 ただ残念なことに清治郎の子(与之助政養の孫)がそれを破棄した。
 すなわち馬町十三重石塔を他人に売却してしまったのだ。

 このあたりの経緯は『初代鉄道助佐藤政養』(81~91ページ、私家版、1965年)に詳しい。
 
 こんなはなしを現地でした。

 いま渋谷街道沿いにあたらしい家が建とうとしている。
 しばらくすると、渋谷街道からは佐藤与之助と父の碑が見えなくなってしまう。
 いまのうちに写真をお撮りすることをおススメします。

 うれしいことがあった。
 街道沿いには、前記与之助の子清治郎が建てた道標があった。
 建物建設の真横にある。
 じゃまだろう。

 こういうとき、多くの場合、抜き取られる。
 運がよければまたもとに戻してもらえる。

 が、そうでなければ、破棄される。

 こうして道標や石碑は消滅してゆくのだが、今回はちがった。
 そのまま建っている。
 それだけではない。

 ビニールカバーがなされ、工事で発生する汚れが石につかないよう措置がされていたのだ。

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 感動した。
 ステキな工務店にちがいない。
 
 このことを明日が楽しみな京都女子大学の受講生さんに伝えて解散とした。

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2007.11.19

末法思想と広隆寺と龍馬殺害

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 桐野さんのブログはまだ再開できないらしい。
 残念なことである。

11/18(土)はれのち小雨
 午前中、嵯峨野学芸倶楽部に出講。
 受講者、10人。

 また伏見の佐竹屋敷跡のはなし。
 鞆ノ浦(広島県福山市)の危機のはなしもする。

 今日もご参加の常連さんのおひとりが、福山市出身と知る。
 世の中、せまい。

 本題は末法思想のこと。
 こちらは基礎的な教養講座程度にすませる。
 ほんとうは反対なのだが。

 終了後、ばったり会った受講者のN川さん、M本さん、K藤さんと喫茶をし、ちかくの広隆寺へ参拝する。
(写真は京都市内にたったみっつだけ現存する、平安時代の建物のひとつ、同寺講堂。)

 いま桂宮院が特別拝観中。
 おまいりする。
 境内には三宅碑が3基あります。
 それをなでる。

 そのうち刊行される『京都史蹟の誕生』(仮タイトル、有志舎)で、三宅碑は思う存分論述します。
 先日も京都民報の読者から封書が届き、三宅碑について尋ねられた。

 京都の史蹟に関心のある方は、多く三宅碑が気になるようだ。
 早く刊行できたらいいのに(ひとごと)。

 なによりまずは『池田屋事件』(講談社現代新書)だ。
 いつでるのだろう(またひとごと)。

 御三人さん、それぞれ僕の知らないことをご存知で、またふかく広隆寺を知ることになった。
 ありがとうございました。

 某所から「篤姫」について、講演依頼あり。
 来年の大河ドラマのネタだ。
 すでに名古屋市の中日文化センターでも関連のはなしをしている。
 そういえば、京都おこしやす大学でもするんだった。

 なんだか知らんまに、「篤姫」ずいてきたなあ。
 そのうち、主演される女優さんと対談とかの仕事がきたらいいなあ(くるか)。
 
 夜は木屋町三条の「龍馬」で、龍馬殺害事件について講演。
 せまいお部屋満杯。
 立ち見が数名おられた。
 次回(12/10)も満席にちかい。

 ご希望の方は予約をいそいでください。

 終了後、上洛された東京のC野氏と歓談。
 新幹線で東下されるまでのわずか1時間強のこと。

 あっという間に時間すぎる。
 タクシーで京都駅までもどられる。

 僕も急いで帰宅し、明日からの京都検定ドリルに立ち向かう。

 そんななか、桐野さんのブログの異変にきづいたというわけ。

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2007.11.13

お龍と龍馬の近代史、連載開始

11/12(月)午前中はれのちくもり、午後あめ

 大谷大学、学園祭のため休講。

 ゆえに事務所で今週の京都検定日めくりドリルの問題をねる。
 今週のテーマも先週にひきつづき「世界遺産」だ。
 醍醐寺、仁和寺、平等院、宇治上神社をとりあげる。
 先週ついに400問を突破した。
 みなさまのご愛顧のおかげです。ありがたいと存じております。

 午後からは佛教大学へ出講。
 また惣構(そうがまえ)論。

 帰宅してまたドリルに立ち向かい、終了後は事務処理をおこなう。

 夕方、京都龍馬会のA尾さんからメールがきた。
 京都龍馬会の機関紙今号がすりあがった由。

 今回から僕が連載をはじめた。
「お龍と龍馬の近代史」というタイトル。
 ぜひこちらもご愛顧いただきたい。
 
 夜、木屋町のRに引き取りにいく。

 去る8/31に実施した、「くずし字入門」の池田屋事件舞台地巡検のビデオをみせてもらう。

 自分のしゃべりを審査する。
 「あー、うー、えー」は意識して使わないようにしている。
 それはまあ、できているのだが、それでもまだまだ不充分だ。 

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2007.11.06

鞆ノ浦で義昭・秀吉・龍馬に出会う

11/1~2(木・金)はれ
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 午後5時35分、鞆ノ浦バス停に下車。鞆に入る。
 
 非常に暗い。明かりが少ないのだ。
 時間はまだ夕方なのだが、深夜な感じ。

 ホテルに荷物をおいて、観光地図をもち、夜の鞆の市街地をあるきだす。
 暗いのに見えるんか、と思われると思うが、暗くてもわかることがある。

 昼間ならわからない、夜の鞆の味もわかる。

 頼山陽宿舎跡、坂本龍馬宿舎跡(旧桝屋清右衛門宅)などをすぐに見つける。
 古城山(鞆城跡、歴史民俗資料館)、今回問題の「龍馬の宿」(旧魚屋万蔵方、写真)にもであった。

 街区の道が非常にせまい。
 木造家屋が多い。
 地域の頑張り次第でいくらでも「よい町並み」になりそうだ、そんな感じがびんびん届く。

 が、そのせまい道に多数の車が通ってゆく。
 信号がないからであろう、抜け道になっていると思われる。

 本屋を一軒みつけた。
 地域を知る書物をと期待したが、郷土出版社の豪華な写真集をのぞいて何もなかった。

 そういえばJR福山駅前に大き目の書店があったので、『広島県の歴史散歩/新版』(山川出版社)を求めようとしたがなかった。広島県の地域本は皆無だった。
 かわりに京都観光本の特設コーナーがあった。

 京都方面の観光客が福山にくることを想定せず、地元の人間の京都志向にだけ答えようとしている。
 なんという意識の低さ。
 こんな本屋が駅前にあったらダメだ。
 
 7時すぎまで歩いた。
 さすがに食事をすることにした。
 ホテルなどの店をさけ、市街地で店をさがす。
 が、2軒しかみつからなかった。

 どちらにも入ってみた。

 いずれも魚料理を試食した。
 まあおいしかった。味に不満はない。
 海辺でも「カツ丼」を頼むような男だが、今回はそれをせず。
 
 しかし、いずれも営業熱心とはいえない。
 観光客めあてではなく、近所のおじさん・おばさんを相手にしている。

 ちなみに2軒目のテレビで中日の優勝をみた。
 お客は僕ひとり。

 この町、すごい潜在能力をもっている。
 翌日のお散歩でつくづく思った。

 午後2時半、今回招聘くださったNPO関係のみなさんと合流、修復中の「龍馬の宿」の中を拝見した。
 そのあとの会議で上記の思いのたけをお話した。

 これを具体的に語るゆとりがいまないが、来たる12月8日(土)午後2時ぐらいから、鞆で一般向けの講演をすることになった。
 そこでお話しますから、ぜひきてください。
 いま話題にしていない「義昭(足利)・秀吉(豊臣)」ってなにかもそのときに。

 場所は未定です。決まりましたら掲示します。

 地域全体が観光で生きていこうとほとんど思っていない。
 この「宝」が明日に持ち越されるかいなかは地元の意識にかかっているのだが、それを誰かが喚起しないといけないのだろう。
 地元の有志が頑張っておられる。
 それが届いていない。
 残念でならない。

 すでにいまいくつもの市民活動に参加している。
 もうあらたに手を出すわけにはいかない。
 自重している。
 かえって迷惑をかけるから。

 でも鞆は、ひかれてしまった。
 どこまでかかわれるか分からないが、とにかく12/8は講演します。

 題して「どうして僕は鞆にひかれるか―歴史地理研究の立場から」(仮タイトル)。

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2007.11.03

龍馬ゆかりの地へ招聘される

11/1(木)はれ
 京都平安ライオンズクラブの例会にお招きいただく。
 ご推薦くださったのは、上七軒大文字「つれづれ会」のメンバーY田さん。

 「知っているようで知らない平安京・京都」というタイトルで、40分ほどお話する。
 気持ちよくすごさせていただく。
 ありがとうございます。

 終了後、Y田さんにお車で京都駅ちかくまで送っていただく。
 実は広島県福山市鞆に行くため。
 現地のNPO「鞆まちづくり工房」からお招きいただきました。

 きたる11/15、同地の坂本龍馬ゆかりの建物が復興されます。
 そのための会議が明日おこなわれる。
 そこで何かはなせと、まちづくりの専門家永橋為介さんが紹介くださった。

 東本願寺前の小林地図店に寄り、25000:1地形図「鞆」などを購入し、新幹線に乗る。

 5時すこし前に福山駅につく。
 バスで35分。
 途中、中世都市「草戸千軒」をとおった。
 鞆ははじめて。
 でも草戸千軒は以前にきたことがある。
 あのとき、なんで鞆に立ち寄らんかったんやろう。
 回顧する。

 鞆を知らないものが、会議でなんの話ができるというのだろう。
 あつかましいが、引き受けてしまった。

 すこしでもましな顔をするために、前日に鞆に入った。
 さてどうなることか。

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2007.10.16

大政奉還論の先駆を論ずる

10/15(月)はれ
 午前9時、大谷大学に出講。
 なぜ地理学からではなく、歴史学からの歴史地理学研究が必要か、洛東大仏南門の坂本龍馬の居所をつかって論じる。
 わかってもらえただろうか。

 午後2時30分、佛教大学に出講。
 こちらは反対。
 地理学からの歴史地理学はどうあるものか、というはなしを「御土居堀」をつかって論じる。
 新旧の都市計画図に色鉛筆でぬりえをしてもらう。

 かなり「姿勢」についてうるさく言ったので、教室にいた子らはほぼ全員立ち向かってくれたようだ。

 午後6時、木屋町蛸薬師の「龍馬」(京都龍馬会本部)へ出講。
 寺子屋龍馬の3回目。

 大政奉還論は龍馬の独創ではない、大久保一翁にはじまるというのを原典にあたりながら論ずる。
 今回は松岡英夫さんの『大久保一翁』(中公新書)にたよるところ大。名著だと思う。
 
 終了後、たこやきパーティ。
 ここでもビールをいっぱいしか飲まず、ウーロン茶ばかり飲んでいた。
 あんなに好きなビールなのに、飲めなくなった。
 このまえは、金曜日にやはり一杯だけ飲んだだけ。

 不思議だが喜んでいる。

 京都龍馬会の機関紙『翔天隊通信』(季刊)に、「龍馬とお龍の幕末明治」(仮タイトル)を連載することになった。
 視点はお龍。お龍の伝記の形をとりつつ、龍馬の晩年とその死後を論じようと思う。

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2007.09.25

洛東霊明神社の秋祭に出席

9/23(月・祝)はれ夕方から雨
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 祇園界隈、お彼岸客や観光客がたいそう多い。

 午後2時、洛東霊明神社にうかがう。
 秋の祭典に出席のため。

 霊明神社は幕末志士の葬地として知られる。
 神主は村上氏。
 久坂義助が先祖の永代供養をねがい、中岡慎太郎が参拝したことが信用できる史料によるわかる場所。
 だから坂本龍馬や中岡はこの地に埋葬された。

 いま隣地の霊山護国神社がその管理者だが、1876年(明治9)に政府が霊明神社(霊明舎)から土地を
没収(上知=あげち)し霊山護国神社(東山招魂社)にわたしたため。

 いま龍馬らのお墓まいりをするには霊山護国神社から入るしかない。
 が、同時代の志士たちが訪問し祭祀を依頼した地は隣地の霊明社である。
 どうかこの事実を知っていただき、村上氏の霊明社にも参詣してほしい。

 今回、50人ほど参加されていた。
 今回8世を継がれた村上神主、建物のなかにある大きな社殿前で祭祀をなさる。

 建物や社殿はあたらしいものだが、その地が幕末から動いていないことは確実。
 僕は今回2度目の参詣だが、ここに知られた志士たちがみな来たのだとまた思い、ひとり感激していた。

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2007.09.20

JR西日本のビルから京都駅を鳥瞰

9/19(水)はれ
 10:50、基礎からまなぶ日本歴史に出講。
 洛中の篝屋(かがりや)や、それを描いた一遍上人絵伝のはなしをする。
 いつもやりたい放題の内容なのに、みなさんよくお付き合いくださる。

 12:00すぎ終了。
 JR西日本のMさんなどお3人さんと待ち合わせ。
 昼食会につれていってくださる。

 このたびJR西日本のサイトに、京都観光のマニアネタを連載することになった。
 その打ち合わせ。

 京都おこしやす大学の主催者でもおありで、これまでの僕の講座をよくみてくださっている。
 理解してくださる方とお仕事することは本当にありがたいこと。

 昼食会のあとは、JR西日本のビルにつれていってくださり、そこでさらにくわしい話をつめる。
 ビルの上の階の窓からみる京都駅周辺はみごとで、土居堀跡でもあるので写真を撮りまくる。
 最後はみなさん総出で送ってくださり、ビップになった気分。

 京都検定日めくりドリルの原稿が滞っているので、帰途につく。
 途中、ある古書店に立ち寄り、ぼーっと本をみていると、左側面から「先生」と呼ぶ声あり。

 最近、路傍で突然声をかけられることがふえた。
 こちらがきづかなくても、相手がきづくことが多い。

 先日も「女性づれで電車に乗っておられるところを見ましたよ。実は横に座ってたんです」といわれたことがある。
 そのときいってぇなぁ、と思いました。

 で、誰だろうとおそるおそる見ると、元古書肆でいまは「R」のオーナーAさんだった。
 「何してるんですか」
 「本屋のこと教えにきてるんですわ、バイトですわ」
みたいなことをいわれる。

 奇遇やなあ、よほどAさんとは縁があるらしい。

 昨夜、僕の龍馬の師でもある、関東のM川M理子さんからおそるべき文献のコピーが送られてきた。

 夜、京都検定日めくりドリルの原稿があがったあと、それをもって「R」へいく。

 僕は郵便物をあけるのが苦手なので、「R」で開封する。

 いわれていたある写真が、たしかに2枚載っていた。
 こんなものがこの世にあったのか。
 体がふるえた。
 
 すでに活字ではふれたものがあるので、まったくの新出ということはありませんが、「そのもの」が一般にお披露目されたことはないらしい。
 
 で、それはなにやねん。

 それは僕に直接会ったときにでも聞いてください。

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2007.09.16

古高俊太郎と坂本龍馬を語った日

9/15(土)はれ
 朝1番、9時10分、「くずし字入門」に出講。
 乃美織江の手記が終わって、前回から古高俊太郎の供述調書こと「新撰組より差出候書付写」を読んでいる。

 この講座ほど中村ワールド炸裂みたいなものはないなぁ。
 最近全然「入門」ではないような。
 でも池田屋事件研究の最前線を知られたい方にはご期待にそえる内容と思う。えらそうですが。
 おかげさまで「講談社メールマガジン」の連載「本気で考える池田屋事件」もつづいている。

 夕方5時からはスナック「龍馬」で「寺子屋龍馬」講座。
 今回は「薩長同盟研究のいまと坂本龍馬」みたいな内容。
 
 桐野作人さんの昨年の論文をつかわせていただいた。多謝。
 佐々木克先生ご発見の『吉川経幹周旋記』所収、例の「非義の勅命は勅命あらず」の大久保利通書簡を声を出して読む。
 力が入ってしまった。

 終了後はたこ焼きパーティに居残る。
 受講のみなさんと歓談。

 そのあとは親しいS水さんからのお誘いで木屋町の珍しい店にいく。

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2007.09.14

洛東霊明神社で感動する

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 驚くような偶然により、洛東霊明神社の神主村上繁樹さんと縁ができた。
 龍馬ら幕末志士の墓所が、もともといとなまれていた場所です。

 明治政府の方針により境内の大半を没収され、それが隣地の現霊山護国神社に引き渡されてしまった、数奇な神社です。

 去る9/12(水)、霊明神社を訪問。
 はじめて村上さんにお目にかかり、本殿のおまいりもさせていただく。

 さまざまなお話をする。
 未知の史料が多数あることを知った。
 
 神主村上さんとたいそう意気投合する。
 文書・記録だけでなく、墓地もご案内いただく。
 
 恥ずかしながら、境内の南に飛び地の墓地があることを知らなかった。
 西の墓地は知っていたが。

 そしてもっと恥ずかしいことに、そこに和田義亮こと大沢逸平の墓碑があることを知らなかった。
 池田屋事件に受難し、庭の大釜に隠れて命が助かったと「乃美織江の手記」に記される人物だ。

 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』に立項されていない。
 贈位をうけているので『増補贈位諸賢伝』には立項されているが(下巻、703ページ)、埋葬地や墓所の記載がなかった。

 何年この人物のことを意識していただろう。
 こんな身近に墓碑があったのか(写真)。
 恥ずかしい。
 
 それから、霊明神社と志士の縁をつくった曇華院の吉田玄蕃の墓所もここと知らなかった。
 吉田は『明治維新人名辞典』に立項されているが(初版、1067ページ)、墓所の記載がなかった。

 いろいろ思いがふかい。
 村上さんに、これから深く長いお付き合いをお願いしてお別れした。
 一生忘れられない日のひとつになった。

 帰途、有名料亭の前に移動させられた天誅組墓地の道標の銘文を書き写していたら、その料亭にS戸内J聴さんが入っていかれるのをみた。以前に京都駅でお見かけした。2回目だ。

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江戸時代の御土居堀管理論をお話しする

9/13(木)はれ夜あめ
 京都新聞文化センターに出講。

 また江戸時代の御土居堀管理のはなしをする。
 拙著『御土居堀ものがたり』にふれはしたが、論文としてほとんど発表できていない。
 ひさしぶりに何とかしなければと思った瞬間。
 まとまった時間をつくらないと。

 しないといけないことが多すぎる。

 が、怠惰である。
 なんとかしなくてはならぬ。

 思い出させていただいた受講者のみなさんに感謝しています。

 夜、同社の担当Yさんと「R」でのむ。
 この日、新出の例のものを初めて持参。
 主人Aさんも驚かれる。
 
 龍馬殺害事件をほうふつさせるもの。
 うーん。うなる。

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2007.09.09

【講座】薩長連合論のいま

 恒例の龍馬講座を開きます。
 よろしければおこしください。

 タイトル:薩長連合論のいま―龍馬はどこまで関わったか
 講師:中村武生(歴史地理研究者、佛教大学・同志社大学など非常勤講師)

 日時:本年9月15日(土)午後5時~6時
 参加費:千円(お茶とお菓子がでます)
 ※限定15名(予約制です)

 場所:龍馬(京都市中京区木屋町三条下ル材木町184、都会館1階)
 主催・申し込み:特定非営利活動法人/京都龍馬会 075-211-3666

 ※終了後、たこ焼パーティがあります。参加自由(飲み放題3.000円)

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2007.09.02

お龍が「龍馬の遺族」でなくなる過程

9/1(土)はれ
 栄中日文化センターへ。

 今回は新幹線落雷事故はなく、無事11時46分京都駅発のぞみに乗れる。
 ぐうぜん受講者にして友人C野さんと同乗、たのしい名古屋行き35分であった。

 本日「お龍からみた龍馬」最終回。
 そして数年にわたってつづいた中日文化センターの龍馬講座も一旦おわる。
 
 本日は「龍馬と別れて」と題して、龍馬没後のお龍40年を論ずる。

 近年、鈴木かほるさんの「お龍伝」が発表されている(『市史研究横須賀』4号、2005年3月)。
 その成果を頂戴し、そこでふれられていないことにも言及した。

 とりわけ注目したのは、お龍がいかに「龍馬の遺族」からはずされていくか、という過程である。

 お龍はある時期までまちがいなく「龍馬の遺族(いわゆる未亡人)」であった。
 すなわち龍馬の「遺産」相続者であったといえる。

 龍馬の死後、長府毛利家からお龍が扶持米をもらっているし、龍馬の「遺言」にしたがい海援隊士たちは土佐坂本家へ送りとどけている。

 が、いつかそれがなくなってしまう。

 これは洛東霊山の殉難志士墓地がいかに形成されていくのか、という別の関心でえた知識により、興味深い齟齬に気づいたからだった。
 これについてはいつかきちんと論じてみたい。

 先日、ありがたいことに、東京の有名なS社(ただし「新人物○×社ではない)から「龍馬」で1冊書きませんかと打診をいただいた。

 幕末史を専攻しているものとして、龍馬伝を世に送れることは幸せなことである。
 すべきことがゴマンとあり、刊行はまだまだ先のことになるが、お引受けした。
 そこで論じれたらと願っている。
 
 それはともかく、まもなく新人物往来社から、鈴木かほるさんによる「お龍伝」が刊行される(『資料から語る坂本龍馬の妻・楢崎龍』、11月末ごろ)。
 たいへんたのしみである。

 終了後、ながきにわたって受講くださった関東のM川さんとC野さんのお別れ会があった。
 来月からは龍馬講座はないのでもうお越しにはならない。
 お2人は最高クラスの龍馬通である。
 お2人がこられていたことは話す側として大いに刺激になった。
 ありがとうございました。

 来月からは「篤姫」(来年の大河ドラマ)にちかい幕末講座を行います。
 よろしければおこしください。

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2007.08.16

龍馬の哀しみを論ずる

8/15(水)はれ
 12時30分、基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 お盆のためか、受講者少なし。
 それでもおこし下さるみなさんに感謝。

 今日は「終戦紀念日」じゃありませんよ。
 昭和天皇の玉音放送の日でしかありませんよ、という。
 
 「終戦紀念日」というならば、前日の8/14(降伏を連合国に表明した日)か、9/2(降伏文書に調印した日)が適切です、とたまには時事ネタもはなす。

 また遍照心院のはなし。
 あきない。

 終了後、受講者で、有名京菓子店の会長でもあるYさんからお仕事依頼あり。
 すぐ出来ないけれど、1~2年の間ということだったので、お引受けする。

 午後2時、「京都おこしやす大学」担当のYさんと打ち合わせ。
 今週末に、また内裏と聚楽城跡の巡検をするため。
 今回はレクチャーの場所が異なるので、コースも少し変わる。
 あらたに何ができるか考える。

 午後5時、木屋町六角の「龍馬」で講演。
 受講者、予定以上おこし。
 狭い店内いっぱい。
 おひとりは立ち見となる。
 遠くは名古屋、静岡からいらっしゃる。
 感謝。

 タイトル「坂本龍馬―悲哀の人」。
 龍馬はヒーローだと思えません。
 とても、とても哀しい人だと思えます。
 それを薩長和解ののちに焦点をしぼって論じる。

 もし京都土佐屋敷に入邸できていたら、近江屋で殺害されることはなかった、そんなはなしを土佐屋敷跡の斜め前の店舗で話せるのは幸せなこと。

 終了後、同店でたこ焼きパーティ。
 いつもいろんな場におこしくださりながら、なかなか親しくお話できなかった方々と懇親できる。
 ありがたいこと。

 楽しくて少し飲みすぎた。
 店内はまだ盛り上がっていたが、早めに帰る。

 次回は9月15日(土)です。

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2007.08.06

お龍の父楢崎将作の新情報

 先日、いつもお世話になっている、京都府立総合資料館の松田万智子さんから表記のこと、ご連絡をいただいた。
 
 お龍の父、楢崎将作は青蓮院宮(のちの中川宮朝彦親王)に仕えた医者で、お龍を紹介した家族宛の龍馬の手紙にも登場する。

 安政大獄に連座した人物たちと親交があったこと、その最後の居所が柳馬場三条下ルだったこと、文久2年(1862)6月20日に亡くなったこと、埋葬地が寺町通六角の西林寺(現在は左京区八瀬へ移転)だったことなどがわかっている程度だ。

 正直、生前を知りえる、同時代の史料に乏しい人物といえる。

 そんなところに同じく青蓮院宮に仕えた坊官、進藤千尋の日記が紹介された。
 その安政5年(1858)6月13日条にわずかながら、楢崎将作の記事があったという。

 これを紹介されたのは武庫川女子大学の管宗次さんの論文「進藤千尋について―青蓮院宮坊官の文事」(『上方文藝研究』4号、2007年5月、上方文藝研究の会、大阪大学大学院文学研究科飯倉研究室内)である。

 それによると、
 進藤千尋は楢崎将作へどこかへ行くことを頼んだ。
 それを楢崎将作は「承諾」したようで、「三条柳馬場角書林堺屋」に案内をさせる予定らしいことがわかる(22ページ)。

 あまり意味のなさそうな記述だが、管宗次さんもご指摘のように、そもそも基礎データの少ない人物であるからまずは貴重である。

 とりわけ三条柳馬場といえば楢崎の居所であるから、興味深い。
 
 なお本史料は、写真版が刊行される予定という。
 今回の翻読部分2ヵ所が空白になっている。

 その部分「□□行頼候」とある。
 もしや地名か人名では。
 
 いったい何が書いてあるのか。
 刊行が大変楽しみだ。

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2007.08.05

龍馬とお龍、別居夫婦論

8/4(土)はれ
 名古屋・栄中日文化センターの龍馬講座の日。

 今回のテーマは「別居夫婦」。
 慶応2年6月、いわゆる新婚旅行のあと、妻お龍(りょう)は長崎・下関と居所を変える。
 その間、龍馬は妻と同居しない。
 政治活動に挺身する。

 いわば「別居夫婦」だったのだ。

 たまに妻の居所に立ち寄る。
 その間の動きを、現存唯一の龍馬のお龍宛書簡や、いつものお龍回想録(反魂香、千里駒後日譚)を読みながら論じる。

 あいかわらず準備不足。
 直前から本番にかけて、「あれも調べておけばよかった」だらけ。 
 ぶざまなこと。

 栄中日文化センターでの「龍馬講座」はもう限界を超えている。
 来月が最終回。
 よい引き際かと思う。

 来月は「龍馬を失って」。
 龍馬の死後、お龍は40年も生きる。
 その間の動きをお話しする。

 終了後、いつもの有志との懇親会。
 ここがもっとも勉強になる。
 M川M理子さん、C野F哉さんほか、みなさんから本日の内容のコメントをもらう。
 気づいていないことに多々気づかせていただける。

 この会も次回で終わり。
 Mさん、Cさん、「龍馬」精鋭のおふたりの前で講座を行うのは本当にきつかった。

 が、そのおかげで僕の「龍馬論」は大きく飛躍した。
 感謝してやみません。

 次回でおわる、そういう意味ではとても惜しまれます。

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2007.08.02

京都で龍馬の講演をします

8/1(水)はれ
 なじみの店「龍馬」(中京区木屋町三条下ル)に行った。
 しばらく毎月15日にミニ講演会をすることになった。

 しまった、また仕事を増やしたという悔悟と、これでよいのだという思いが交錯中。

 で、第1回は以下のとおりです。
 よろしければおこしください。

 タイトル:坂本龍馬―悲哀の人
 講師:中村武生(歴史地理研究者、佛教大学・同志社大学など非常勤講師)

 日時:本年8/15(水)午後5時~6時
 参加費:千円(お茶とお菓子がでます)
 ※限定15名

 場所:龍馬(京都市中京区木屋町三条下ル材木町184、都会館1階)
 お問い合わせ:075-211-3666(電話・ファックス兼)

 なお終了後、同店でたこ焼きパーティがあります(参加自由。飲み放題3000円)

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2007.07.27

龍馬研究などの精鋭さんと歓談する

7/26(木)はれ
 京都新聞文化センターに出講。
 「御土居堀」の豊臣期復元のはなしをする。

 が、最近珍しい絵図をみつけた。
 そのはなしを「本邦初公開」したので、大幅に時間をくってしまった。
 したかったこと、多く次回にまわってしまった。

 終了後、同センターの別のお仕事の打ち合わせ。
 担当Y田さんからおいしいコーヒーをいただく。
 同センターのコーヒー講座のコーヒーだそうで、豆までいただく。

 夕方、先斗町のお店へ。
 東京から歴史作家のK野作人先生、T京龍馬会のM川真理子さんのご一行が上洛。
 明日、京都国立博物館で寄託史料の特別閲覧をされる。
 僕もご一緒させていただく予定。

 その前夜懇親会が行われた。
 明日お世話になる、京都国立博物館のM川禎一先生もご参加。
 鴨川の床で中華料理をいただいた。

 濃厚なメンバーできわめて楽しくすごす。

 2次会は木屋町蛸薬師上ルの「龍馬」。
 京都龍馬会の本部でもある。
 
 店主の「龍馬さんとおりょうさん」もくわわり大騒ぎ。

 K野先生の豊臣期史料の博識ぶりに下をまく。
 豊臣期研究の一旦をになっているものとして、大層はずかしかった。
 
 明日の「本番」を前に早く帰らないといけないのに、遅くまでいる。

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2007.07.10

最終回も「寺田屋」になった

 京都民報社に原稿を送った。
 「京都の江戸時代をあるく」、最終回まであと2回。

 寺田屋を今回でおえて、最終回は別のはなしでしめようと思っていた。
 が、予期せず、終わらなかった。

 最終回も寺田屋だ。
 どうかと思う。

 その後も新発見はあいついでいる。
 最高協力者Mさんからは先日、飲みながらこんこんと書籍化(未定)するにあたっての注意をうけた。

「寺田屋」項は大きく修正・加筆せねばならぬ。

 いずれにせよ今回のまとめは、今後寺田屋を知ろうとする人には無視できないものになるだろう、と自負している。
 そんな仕事ができたことを心から喜んでいる。

 あいかわらずだが。
 できることなら、中学生の僕のところへもどって、今回の報告をしてやりたい。

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2007.07.08

龍馬とおりょうの「新婚旅行」を論ず

7/7(土)はれ
 七夕の日がはれるのは珍しいとおもう。
 
 栄中日文化センター(名古屋市)の日。
 「妻おりょうからみた坂本龍馬」講座。

 今回は慶応2年(1866)3月から6月にかけての、龍馬・おりょうの鹿児島旅行について。
  いわゆる 「日本初の新婚旅行」のこと。

 実はこの旅行、「日本初」は論外としても、「新婚旅行」かどうかもうたがわしい。
 
 なぜ「新婚旅行」というかといえば、慶応2年(1866)1月23日の寺田屋遭難をへて、龍馬とそれを助けたおりょうが同2月、京都二本松薩摩屋敷で西郷隆盛の媒酌で「結婚」したとされる。
 旅行はその翌月にはじまる。そのため。

 が、これは根拠のうすいはなしだ。
 
 鹿児島旅行を伝える同年12月4日付、姉乙女宛書簡には、小松帯刀と西郷隆盛におりょうを妻としたと伝えたとあるのみで、この薩摩屋敷滞在のとき「結婚」したとはいっていない。

 あえていえば、乙女に対して「兄さんにも伝えてくれ」といっているので、このとき初めて故郷の家族にも伝えたことになる。

 だから慶応2年(1866)2月以前であることはまちがいないが、直前だったかといえばわからない。

 なぜそこまでこだわるかといえば、おりょうの回想録が異説を伝えるからである。

 それに先立つ1年半前、元治元年(1864)8月に、青蓮院塔頭金蔵寺住職の媒酌により、同本堂で内祝言をあげたとある。

 他に裏付ける史料がないからか、これまでまともな研究者はほとんど相手にしてこなかったが、僕は注目している。

 すでに拙稿でかんたんにふれたが、おりょうの回想録は「嘘八百」でかためたものではとうていない。
(「京都の江戸時代をあるく28「龍馬とおりょう3―結婚式場は金蔵寺」」(『京都民報』2007年1月28日))

 これまで信じられていなかった話が、見落とされていた他の史料によって裏付けられた「事実」もある。

 そんなわけで信にたる史料がないにもかかわらず、おりょうの回想録を安易に無視し、2人の結婚を慶応2年2月とみとめ、その翌月からの旅行を「新婚旅行」というのは姿勢として正しくない。

 なんてことをはなした。
 
 次回は「別居夫婦」。
 龍馬とおりょうの同居期間はきわめて短い。
 龍馬が京都で死んだときも、おりょうは下関にいた。
 そのふたりのすれちがいと接触を龍馬の手紙とおりょうの回想録などを読んで紹介する。

 終了後はT京R馬会のM川さんを囲んで懇親会。
 こちらが抜群に勉強になる。
 うわさの秘蔵記録(伏見の寺院関係)を持参され、うなる。
 ビールやつまみそっちのけで、くずし字をよむ。
 
 寺田屋復興の功労者の名前がひんぱんに出てくる。
 これをネットオークションで微々たる安価で手に入れられた由。

 いつも参加の東京のCさんは2回続けて欠席。
 この史料のことはまったくご存じないことだろう。
 残念なことをされた。

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2007.06.13

また寺田屋調査で伏見へ

6/12(火)はれ
 すこしゆとりがあったので講談社現代新書の執筆をしようと思ったが、思い切って伏見へいった。

 「寺田屋ものがたりの虚実」という連載を、週刊『京都民報』で7回も行っている。
 まだつづく。
 おそらく10回をこえそうだ。

 おどろいたことに、インターネット上のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「寺田屋事件」項に、もう拙稿が引用されていた。反応のはやさにちょっと驚いた。

 7代目寺田伊助と妻ハナなどが主人公なのに、その正確な没年を把握できていない。
 これまで寺田屋に関心をもってきた人は、みな6代目とその妻登勢以前の履歴ばかり公開して来た。

 2人の「事実」がほしい。
 それゆえ「菩提寺」を訪れ、ご協力をお願いした。

 「菩提寺」は浄土宗寺院で、僕が佛教大学で教えていると申すと、突然のことなのに歓迎してくださった。
 とてもありがたい。
 
 ただ残念ながら、期待した成果は得られなかった。
 両人とも過去帳に記載がなかった。

 が、その事情は住職さんのご説明でなっとくができた。
 予想以上に「寺田屋」は話に混乱が多いとまたきづいた。
 これまで信じられてきたはなしは実に単純だ。
 なんでこんなに放置されてきたのか。

 しかし予期せぬ成果はあった。
 6代目や妻登勢以前の、これまで知らなかった情報が過去帳に多数記載されてあった。
 住職さんのご協力でそれを写し取ることができた。 
 この情報は間接的に本研究の進展にかならず役に立つ。
 
 民報の連載記事のコピーをお渡しし、今後もよろしくお願いしますと申し上げ、感謝いっぱいで辞去した。
 
 帰途、心ばかりのお礼をと思い、某店へ和菓子の配達をお願いしにいく。
 すると、店の外をよく知った人が通った。
 僕の講座によくきてくださる方で、でもこの数ヶ月お姿をみなくなっていたFさんだ。
 
 思わず声をかける。
 Fさんもびっくり。
 
 しばらく立ち話してさようなら、と思ったら、飲みにいこうと誘われる。
 こういう奇遇は大事にしたいと思い、お誘いにのせていただく。

 Fさんのなじみのお店へ連れていってくださり、歓談。
 いつもながら伏見への情熱をかたってくださる。

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2007.05.21

平安京以上に寺田屋を論ずる

5/20(日)くもり一時あめ
 嵯峨野学芸倶楽部に出講。

 「平安京遷都」を講ずることになっていたが、この講座はちょっと特殊。
 僕が好きにしていいので、最近執着している寺田屋問題のはなしをして、そのあと長岡京を発見した中山修一さんのはなしと、本題をする。

 終了後、北野地域の史料を読む会がある。そのためとどまる。
 メンバーの1歳未満のお子さんを思いっきりからかう。楽しいこと、このうえない。

 中世、酒麹の権利をめぐって北野地域(西京)は東京と争う。
 その史料をよむ。

 今回はいままでで参加者1番少なかった。
 そういえば、僕をこの会に誘ったU氏は来られたことないなぁ。
 忙しいらしい。
 さみしいなぁ(U氏攻撃)。

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2007.05.20

寺田屋でおもしろいものをみつけた

5/19(土)はれ一事あめ
 昨日18(金)、同志社大学とくずし字入門に出講。
 そのあと伏見区へ。
 寺田屋と法務省伏見出張所にいく。
 つかれる。

 本日はすこし遅く動き出したので、疲労感なし。
 
 また寺田屋に。
 毎日あきないことだ。

 いくたびに何か発見がある。
 さすがにもうない、と思ってた。

 が、あった。
 またあった。
 同行の友人がある説明文を読んでいて「意味、不明」を主張してきづいた。
 こんなものがあったのか。

 各部屋に散在する「額」もふくめ、現在の寺田屋にはいっぱいいっぱい「復興寺田屋」の痕跡がある。
 「龍馬の寺田屋」でおおっているようにみえて、誰もきづかない「ものがたり」がねむっている。
 これはやみつきになるなぁ。

 建物はもとより、位置さえ幕末期とちがういまの寺田屋。
 でも、ちがう楽しみ方があると今日きづいた。
 また、いこう。

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2007.05.08

寺田屋問題、まだまだ発見あり

5/7(月)はれ
 ゴールデンウイーク終了。
 今日から大学再開だ。

 世の中の人、みんなそうだと思ってたら、本日も明日も休みだという人がいた。
 なんという職場だ。
 おどろく。

 朝1番、大谷大学に出講。
 本日は巡検。
 大学ちかくの御土居堀跡をあるく。

 この周辺、碁盤目状の京都の特徴的な街区と方向を異にする道路がある。
 それが「御土居」の痕跡の道だ、なんて伝える。

 終了後、午後からの佛教大学からの講義の予習をしようと思っていたら、府立総合資料館の松田万智子さんからメールがきて、寺田屋にまつわる「こんな史料知っていますか?」

 知りません。
 さっそくかけつける。

 偶然K大学のT先生をおみかけする。
 たいそうご無沙汰しています。

 松田さんから紹介された史料、新出のものではないかった。
 が、副本がみつかったことが驚き。
 某所にあるアレはオリジナル一本だけだと思ってた。
 しかも書名がちがう。中身いっしょなのに。
 
 今度はこちらからおたずね。
 ある人物の履歴について。
 
 すぐ手にできるものではわかりませんでした。
 だからあきらめて帰ります。またよろしくお願いします。

 帰宅して佛教大学の講義の用意をしようとしたら、松田さんから連絡。
 ありました!と。

 おお、さすが。
 いやいや、さすが。

 これで一安心。

 佛教大学へ。
 近世京都道標論、その2です。

 夜、話題のCさん、上洛。
 貴重な書物を感謝をこめてお返しし、寺田屋問題研究、どこまで進んだかお披露目。
 ながい夜になる。

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2007.05.07

まだつづく寺田屋問題研究

5/6(日)はれ
 Mさん所蔵の稀こう本に、よく分からない人の「跋」が写真で載っていた。
 読みやすいくずし字だったので読んでみる。
 
 読み終わると内容から記主がわかった。
 これは感激。
 Mさんに連絡。知らなかった、とお返事。

 調子にのって総合資料館へいく。
 司書の松田万智子さん不在だが、今日は頼らず自分で仕事しよう。

 京都新聞の前身、日出新聞をマイクロでみる。

 先の「跋」に、寺田屋の当時の主人が「聖上」にあるものを献上したという。
 その裏づけ。

 あった。
 見つかるとは思っていたけど。
 
 予期せぬ成果あり。

 「聖上」とあるから大正天皇だと思ってた。
 びっくり、昭憲皇太后だった。

 過日、寺田屋は龍馬の「瑞夢」にからみ昭憲皇太后から下賜品をもらっている。
 いわばそのお礼をしたのだ。

 昭憲皇太后が龍馬の夢をみたというはなしがある。
 これを土佐グループの捏造だという人がある。
 ありえませんよ。
 
 捏造だというなら寺田屋の「瑞夢」にからむ献上品に皇太后は驚くはず。
 でも皇太后、ちゃんと受け取ってますからね。

 少なくとも昭憲皇太后は自分が龍馬の「瑞夢」をみたと世間が思っていることを知っていますよ。
 まぁ、昭憲皇太后もグルだというなら別ですけど。

 それはムチャでしょう。

 寺田屋問題研究、進みすぎた。
 ようまとめんわ。

 明日も何か見つかるのでは。

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2007.05.06

寺田屋問題、いかに落とすか

5/5(土・祝)はれ
 午前中、K県滞在中のC氏から封書が届く。
 ありがたい。例の文献だ。厳重な包装、貴重なものを預けていただいたことを実感。

 別のK県にお住まいのM氏からも、昨日の宿題の答えがさっそく連絡されてくるし。

 それらも含めて、この2日でえた情報を整理する。
 いやはや寺田屋問題は奥がふかい。はやまった、というのはたやすい。むしろ今回の連載のおかげで情報や認識が深まったと思うべき。

 よいことだ。

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2007.05.05

寺田屋問題、あふれる資料に溺死寸前

5/4(金)はれ
 K県から友人きたり。
 日本一の坂本龍馬情報収集者といっていい、Mさん。

 僕がいま1番執着している寺田屋問題。
 先日東京でお目にかかったおり、議論した。

 それに触発なさって、その検証のためこられた。
 こちらもまなびたいことがあるので同伴する。

 計画が決まってから、数日メールでやりとり。
 いろんな資料をおもちであったことが知れた。

 本日、それを持参くださる。あふれるほどの情報。
 いや、もうすごいこと。
 わずかな期間に、日本屈指の寺田屋通になったといってよいのでは。

 既報のように、いま『週刊京都民報』にこのネタを連載中です。
 もうまとめにはいるべきなのに、加筆はおろか訂正もしたいようなことがわかってきた。 

 あるきながらなやむ。
 
 検証のネタのひとつが東山霊山の龍馬墓にある。
 行ってみた。
 
 つくなりM氏、歓喜の顔。
 なにごと?

 ちかづくと、寺田屋問題の影の「立役者」では、と思っていた人物名が。
 こんなところに。
 なんども通った場所なのに、まったくきづかず。
 無名な人ですから。
 関心がないと目に入らないものですね。

 仮説はあたったとみてよいだろう。こんなところに名があるのだから。
 そうか、やっぱりあなただったのですね。

 みつけたのはM氏。
 いやいや、おそるべし。

 同様にすごいのは東京のC氏だ。
 
 いま注目しているある祭典がある。
 それにかかわる冊子が当時刊行された。

 が、わずか48部しか関係者にくばられなかった(『坂本龍馬全集』3訂版1102ページ)。
 稀こう本である。
 京都府立総合資料館・府立図書館はおろか、日本全国の大学図書館にも所蔵されていないらしい。

 が、C氏がもっていた。
 なんと2冊も。

 関係者48人のどなたかの子孫ではない。
 古書店で手に入れられたのだ。

 彼を日本一の坂本龍馬資料コレクターというのは過剰評価ではない。

 いまその冊子は宅配便でこちらにむかっている。
 僕の「ピンチ」を知ったC氏が「友情」により資料提供くださるというのだ。

 いま遠くはなれた出身地のK県におられる。
 そこから僕のために現物を送ってくださった。

 みなさんに研究を助けてもらっている。
 感謝してやみません。

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2007.05.03

ある幕末志士の寓居跡を新発見

5/1(火)あめのちはれ
 朝1番で京都府立総合資料館へ。
 
 いろいろな調査のため。
 また松田万智子さん、福島幸宏さんをわずらわせる。

 大発見があった。
 最近、幕末期主要人物の京都での居住地の調査をすすめている。
 信用できる史料での裏づけが可能かいなか検討をすすめている。

 そんななか、大正時代のある聞き取り調査に、ある幕末志士(維新後の方が有名だが)の居所はここだと記したものがあった。
 それが現在のどこにあたるか、調べにきた。

 松田万智子さん、司書の鏡のようにつぎつぎと「奥の手」みたいな史料を出してこられ、なんとついにその場所を特定してしまったのだ。
 驚いて、また館内お静かになのに騒いでしまった。

 夕方、その地にたつ。
 ここが・・・。

 もし京都の維新史研究者、寺井萬次郎がこのことを知っていたら、戦前、京都市教育会名で「○○○○寓居跡」と、標石が建ったのだろうなぁと感慨ぶかく思う。

 もしかしたら坂本龍馬も訪ねたことがあるかも、という地ですから。

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2007.05.01

寺田屋跡のとなりの建物がなぜ「寺田屋」になったのか

4/30(月)はれ
 「吾妻鏡」によると源義経が生害した日(文治5年=1189)。

 毎年思い出す。
 少年のころ覚えたもののはいつまでも忘れない。おそろしい。

 「京都の江戸時代をあるく」(週刊『京都民報』、京都民報社、京都市)、締め切り日。
 「寺田屋ものがたりの虚実」その3を打つ。

 これでまとめるつもりがまた延びてしまった。
 結局、4回か、1ヵ月だな。

 維新後、寺田屋跡の敷地でなにがあったか、どうして隣の敷地と建物が「そのもの」に取って代わったか、その過程を論じている。どうか御覧ください。

 5/6は、4/29との合併号ですので発行されません。
 次は5/13発行です。

 あ、そうそう。
 拙稿「龍馬十景」の載った、『龍馬研究』166号が先日発行されました(龍馬研究会、高知市)。
 今回はその1で、「悲哀の人」です。
 龍馬の最後はヒーローでもなんでもない、かわいそうな人だと書きました。たんに殺害されたというだけではなく。

 今年は没後140年です。
 「最後の龍馬」を随時のべていきます。こちらもご期待下さい。

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2007.04.19

寺田屋ものがたりの虚実

 新年度に入ると多忙になると見込んでいたが、そうか、こういうことかって実感中。
 もうゆとりがない。
 
 いかに時間を上手に使うかにかかっている。
 そのためには、まず早起きだ。

 ブログの更新が毎日できない。
 看板をかきかえないといけないほどになってきた。
 いかん。

 京都民報に連載中の「京都の江戸時代をあるく」、昨夜2日遅れて原稿を提出した。
 もう41話。
 1年、50話予定だっので、そろそろラストスパートを考えなければ、しかし書きたいことはまだ多く残されている。

 いま書いているものはそのなかでもとても大事なもの。
 題して「寺田屋ものがたりの虚実」
 ほとんど事実が見えない維新後の「寺田屋ものがたり」を一度清算し、使える史料で整理しなおそうというこころみ。

 40話(4/22)、41話(4/29)、42話(5/6)の3回連続予定です。
 ご期待を乞います。

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2007.01.27

「龍馬とおりょう」づいている

1/26(金)はれ
 やけに生暖かい日。

 午後から「基礎からまなぶ日本歴史」。
 まだ延喜・天暦の治。
 延喜の荘園整理令、三善清行の意見封事を読む。

 三善清行は「一乗戻橋」のエピソードで知られる人ですが、学校の教科書にはまったくちがう顔で出てくることをご指摘。
 この勢いで、次回は「一乗戻橋」のエピソードの原典を読むのだろうか。人ごとのようだが。

 夕方は京都新聞文化センターで維新史講座。
 参加者7人。アットホームな人数だが、まだまだアットホームにはほど遠い。

 龍馬遭難事件についてお話する。
 それから、先日東京で墓参した、(比較的)新発見の龍馬の妻おりょうの実弟、楢崎太一郎の墓碑の写真をお見せした。

 最近「龍馬とおりょう」づいている。
 京都民報の連載も4回も連続で「龍馬とおりょう」の旧蹟発見の紹介をしている。

 しばらくすると龍馬研究会(高知市)の機関誌『龍馬研究』に龍馬の連載を開始するが、龍馬遭難か、おりょう伝の再検討をまとめてみたいと思っている。乞うご期待。

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2007.01.13

龍馬とおりょうの「結婚式場」

1/12(金)はれ
 昨夜、京都民報に「京都の江戸時代をあるく」の今回の原稿を送った(30話)。

 坂本龍馬の妻おりょうの回想録により、龍馬とおりょうの「結婚式場」跡を特定するという内容。
 そろそろタイトルに問題ありで、たしかに「京都の江戸時代」ではあるのだが、2ヵ月近くも龍馬ばかりで、担当氏から怒られそうと不安に思っていた。

 が、なんと担当氏は自ら法務局にいき、その地の旧土地台帳を調べ出された。
 朝1番にそのメールがきて驚いた。
 外出直前だったのに、そのメールを受けて担当氏に電話。
 便宜をはかる。
 学者肌だなぁ。担当さん。
  
 この話は『京都民報』本年1月28日号に載ります。

 午後から「基礎から学ぶ!日本歴史」に出講。
 また受講者ふえる。
 これまでで最高の数。
 うれしい悲鳴。

 弘仁・貞観文化、延喜・天暦の治をお話しする。
 醍醐天皇と醍醐地域の関わりを「今昔物語集」などにもとづきご紹介。

 夕方からは京都新聞文化センターに出講。
 今回から第二期講座。

 こちらは受講者半減し、7人。
 閉鎖寸前やなぁ。

 でもその7人、全員前回受講者。
 これはうれしい。
 半減ていどは普通。
 前回講座内容を受け入れていただいたと認めてよいと思う。

 それより新規の方が全くなかった方が問題。
 年末年始と新聞紙面に多く広告うたれてたのに。
 これは受講料とか、広告の仕方とか、講座時間とか内容以外の別のわけがあると思われる。
 
 終了後、予期せぬ「来訪者」がお2人あり。おたがい頭をさげまくり。
 申し訳ありません。
 至急なんとかします。

 でも明日も名古屋なんだよなぁ。

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2007.01.12

くずし字に出講し、尊勝院をあるく

1/11(木)はれ
 くずし字入門に出講。

 今年はじめての回。
 あたらしい方3人こられる。
 これまでで1番多い受講者。
 ありがたいこと。

 七清華家のうち、大炊御門家、今出川(菊亭)家、三条(転法輪)家の部分を読む。
 
 帰宅して、原稿に立ち向かう。
 しないといけない仕事があるのに、連載原稿は待ってくれない。

 はっと思いついて、粟田口の尊勝院へ向かう。
 ここの庚申堂は、もと青蓮院塔頭金蔵寺にあったもの。
 そのことを書くため、やってきた。 

 現地にたつとエネルギーをもらえる。
 すごいなぁ。

 帰宅したら、大事なお客さんが留守中にお越しになったと知る。
 しまった。申し訳ないことをした。

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2006.12.11

京都検定おわり龍馬遭難地にたつ

12/10(日)
Ryo1210

 第3回京都検定の日。

 夕方、3級の問題を入手する。
 けっこう「日めくりドリル」出題のものと同じか類似のものが出ている。

 歩く会でご案内した場所もくわえると、かなり的中。
 優良やなぁ。

 本日は龍馬の亡くなった日。
 慶応3年11月15日は、1867年12月10日にあたる。

 その時間に遭難地にたってみる。
 当日の寒さがわかる。
 その日、龍馬は風邪をひいていた。

 歴史地理をススメるのは、その地にたてば文献でわからないことがわかるから。
 
 あわせて「同じ日」にその地にたってみよう。
 旧暦の日にその地にたっても何にもならないことをしろう。

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2006.11.27

龍馬記念館、青山文庫などを訪問

11/26(日)あめ
061125_1344

 高知2日目。
 
 午前中はホテルで原稿を打つ。
 新聞連載をもっていると、旅行中でも日常をしないといけない。
 つらいとかいうてられない。

 午後から外出。
 桂浜をめざす。
 県立坂本龍馬記念館へ行くため。

 実は初めて。
 過去にお世話になったことがあるので、お礼を申し上げるため。
 尋ねたいこともあったし。

 暗殺1ヵ月前の、望月清平宛龍馬書簡をはじめて現物をみる。
 木屋町の土佐屋敷に入れないことをなげくもの。
 「いやみ」の部分がうすくなり極端に読みにくくなっている。
 これに対して、末尾の筆をたたいた跡は3ヵ所とも黒々としていて、いま付けたよう。 
 
 夕方、佐川町の青山文庫へ。
 これまたはじめて。
 予想はしていたが、もう絶句するような維新史の史料群。

 館長松岡司氏ともお目にかかれ満足。

 周辺、紅葉すすみ、実にきれい。
 
 帰途、なんの気もなく高知新聞を買う。
 ぱらぱらめくっていて、あるところに来てぎょっとする。

 昨日のシンポジウム、載ってるやん。
 わ、僕の名前も載っている。
 あわてて売店で他紙も読むと、毎日新聞には写真が載り、僕も写ってる。

 なんだかなぁ。
 たしかに昨日新聞記者きてたけど、全然気にしてなかった。
 新聞に載ることになれすぎ。
 
 あぶないところだった。

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2006.11.15

上七軒Yさんの襟替えに立ち会う

11/14(火)はれ
Yachan

 朝、ある施設に行き、ある初経験をする。
 きついなぁ。

 お昼12時30分からは「基礎からまなぶ日本歴史」に出講。
 今日は天平文化。
 古事記序文や、風土記編さんを命じる記事、鑑真来日を伝える「唐大和上東征伝」などを読む。
 原典にあたることのおもしろさ、意味深さをお伝えする。

 一旦帰宅し、事務処理をこなす。
 夕方、D大学へ大事な書類を持参。

 午後6時からは上七軒「D」へ。
 いつもの「歴史こばなし」をしに。
 今日は「龍馬暗殺」。
 明日がその日なので。

 「そのころ」の龍馬がいかに追い詰められていたか、生きるために必死だったかを語る。
 僕は英雄ではない、「悲哀の人」だと思っておりますと述べる。
 刺客については幕府見廻組しか考えられないこと、薩摩や土佐の黒幕説のナンセンスぶりを主張。

 そのあと宴会に。
 
 今日は「D」所属の舞妓Yさんが芸妓デビューするお祝いの日。
 業界では「襟替(えりか)え」といいます。
 おめでとうございます。
 そんな大事な場に立ち合わせていただき誠に光栄です。

 最近は1日おきしかビールを飲んでいない。
 休肝日を設けたのである。
 健康のために大事なことだそうで。

 で、昨日は飲まなかった。
 だからこのお祝いの席では喜んで頂戴できました。
 帰りは同じ町内に住むYさんに便乗しタクシーで帰宅。
 今日も楽しく、忙しい日でございました。

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2006.10.04

龍馬の妻おりょう没後100年祭に参加

10/1(日)雨
 横須賀市大津へむかう。
 午前11時少し前、「京急大津」駅につく。
 Mさん、Fさんと合流。
 
 信楽(しんぎょう)寺のおりょう墓にはじめてお参り。
 たまたま本日はウォークの会があり、墓参者多数。

 大津行政センターに行き、おりょう展を拝見。
 館長さんなど何人かご挨拶をいただき、館長室でお茶もいただく。

 お昼前、Mさんのご案内で、「横須賀中央」駅近くのおりょう終焉地へむかう。
 終焉地の近接に葬儀会社ビルあり。
 号して「おりょう会館」。

 おりょう胸像もあり。
 うーん。

 午後1時、大津行政センターにもどり、郷土史家鈴木かほる氏のおりょうの講演を聴く。
 友人C氏も会場におられること気づき、少し会話。

 パネルディスカッションは失礼し、浦賀へむかう。
 浦賀港、奉行所跡などを見学し、バスで久里浜に移動。

 ペリー公園の伊藤博文揮毫の巨碑をみる。
 子ども向け書籍の挿図写真で見て以来、はじめて訪問。25年目のこと。感慨無量。
 
 品川駅で親友Y君と合流、再会を楽しむ。
 9時すぎの最終新幹線で京都へ戻る。

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2006.09.04

マニアな龍馬とおりょう旧蹟をみる会

9/3(日)はれ
 中日旅行会主催の「龍馬とおりょうの京都」をバスで訪ねるイベント。
 30人のご参加。
 なかには超龍馬通のMさん、Cさんもおられ、ちょっとやりにくい(心地よい緊張)。
 
 コースは、

寺田屋 ⇒ 龍馬避難の材木小屋伝説地 ⇒ 伏見薩摩屋敷跡 ⇒ 智積院(昼食、山内容堂宿舎跡) ⇒ 方広寺南大門(龍馬居住地跡) ⇒ 七条新地跡(おりょう居住地) ⇒ 鳥新旧地 ⇒ 枡屋喜右衛門邸跡・大高又次郎宅跡 ⇒ 菊屋峯吉宅跡 ⇒ 近江屋新助方(終焉地) ⇒ 西林寺旧地(おりょう実家菩提寺) ⇒ おりょう誕生推定地 ⇒ おりょう宅跡 ⇒ 酢屋嘉兵衛旧宅(終焉地のひとつ前の居宅) ⇒ 池田屋跡 ⇒ 丹虎跡(武市瑞山居宅跡) ⇒ 長州屋敷跡 ⇒ 岩倉具視幽棲旧宅(龍馬訪問の建物)

でした。
濃い、濃い。

よくぞ1日でこれだけ回れた。
事故もなく。
みなさんのおかげです。
ありがとうございました。

終了後、みなさん、名古屋へ。
京都宿泊の参加者Cさんと僕だけ京都に残る。

近江屋跡を見下ろす場所で打ち上げ。

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2006.08.18

坂本龍馬旧蹟に関する聞き取り調査を実施

8/17(木)はれ
 台風がきているようで、暑いけれどすずしい日。

 京都の坂本龍馬旧蹟調査で、東山区のN氏ご夫妻にお目にかかる。
 貴重なデータを頂戴する。

 何度も行ってきた聞き取り調査。
 思うことたくさんあり。
 (よい意味で)年をとったなぁと思う。

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2006.08.08

名古屋に出講して龍馬を語る

8/5(土)はれ
 名古屋の栄中日文化センターに出講。
 最近の龍馬情報、とりわけ桐野作人さんの活躍を紹介。
 
 佐々木克さんの「薩長連合」説にもふれる。
 大久保利通の西郷隆盛宛慶応元年(1865)9月書簡の件です。
 
 本題の松平春嶽と越前家の話は途中でおわる。
 ああ、残念。
 次回が最終回。
 今講座でもっとも力の入るであろう、おりょう論です。

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2006.07.28

府立資料館でカキ氷を食べた。暑いから

7/27(木)はれ
 朝1番に京都府立総合資料館に行く。
 龍馬の妻おりょうに関する文献コピーのためなのだが、暑くて頭がまわらない。

 イチゴのカキ氷を持ち込んで、事務所で食べる。周知の職員Mさんにも強要する。
 
 コピーしおえた文献をもったまま外に出ようとして、出入り口でブザーがなる。
 いかに頭が麻痺していたかよくわかる。堂々と持ち出そうとしたのだから、窃盗意図があったはずもなく、職員さんに苦笑されておわる。

 帰り際、1階の自習室で多くの職員さんが掃除をしておられる。
 自習している人がいるのに何でこんなときに掃除するのやろう、と不思議に思っていたら、あとからMさんからメールがきて水道管が破裂して大変だったと知る。
 Mさんも動員され、大変暑い思いをし、いまこそかき氷が食べたかったと感想を聞く。
 それはタイミングのわるいことと、申し訳なく思う。

 僕はそんなことも知らず、乙訓郡へ。
 また朝日カルチャーのイベントの下見。
 こんどは山崎の合戦の舞台地をあるく。
 
 大山崎町歴史資料館に立ち寄り、大変親しい学芸員の福島克彦氏からたくさんの関係資料と、一杯のカルピスをいただく。感謝。

 雨がふったりやんだりの不愉快の天候のなか、光秀本陣跡の「御坊塚」にのぼる。

 帰途は京都駅で原稿をつくる。
 追われてばかりだが、まあ確実に仕事は進んではいる。
 しかし懸案のものがいくつか手付かず。

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2006.07.27

龍馬妻おりょうのイベントに協力

7/26(水)はれ
 佛教大学通信教育部スクーリング最終日。
 年をとった。話すことに何の抵抗もなかったのに。今回はつかれた。

 午後2時半、横須賀市役所の人と会う。
 今年、坂本龍馬妻おりょうの没後100年。
 同市はおりょう終焉地。
 今秋、記念祭。
 それに協力することになったため。

 夕方、おりょう旧蹟をご案内するため東山区、中京区をあるく。

 そのあと友人と待ち合わせ、夕食をごいっしょする。

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2006.07.02

坂本龍馬情報、最前線交換会みたいな飲み会

7/1(土)
 今日は父方の祖父の33回忌。

 午前中、西陣地区の町家を一軒見学に行く。
 ある事情で。

 そのあと名古屋へ。
 栄中日文化センターに出講。
 龍馬講座。

 前半は余談で、「忘れられた志士」発見の話しをする。
 余計なことをせず、早く龍馬をしろと思われたかも知れない。

 後半、最近の「薩長連合」論。
 木戸孝允の自叙のうち、当該部分を最初から読んでゆく。
 龍馬に裏書を依頼し、龍馬がそれに応じたところでタイムオーバー。
 
 終了後は、懇親会。
 
 前々回から参加されているT・R会のMさん。
 その情報量のすごさ。惜しげもなく披瀝される。
 知っていたはいたが、現実に接して圧倒。
 その人が参加しているこの懇親会。すごい。
 ただの飲み会なのに、龍馬情報・最前線交換会みたいな会になっている。

 T・R会創設者のCさんも前の講座からご参加。
 すごい会になっている。
 龍馬ファンの方、来られませんか。
 
 昼間の講座はたいしたことない。
 が、懇親会がすごい。
 得がたい会です。

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2006.05.23

龍馬とおりょうのバスツアー

5/22(月)はれ
 天気がよく暑い。

 でも外出せず、「京都検定 日めくりドリル」5問をつくって送る。
 毎日掲載だと、自分の文章をチェックするひまもなければ、意識も下る。
 よくないことだ。

 本日、中日新聞に、僕の名前で「龍馬とおりょうのバスツアー」の案内が掲載されたはずです(主催、中日旅行会)。
 9月3日(日)です。
 かなりマニアな龍馬史蹟巡検です。
 どうぞおこしください。

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2006.05.22

後白河、秀吉、龍馬の東山七条をあるく

5/21(日)はれ
 京都史蹟隊の巡検で東山七条をあるく。
 本日は少人数でした。
 あるくにはちょうどいいかもしれない。
 
 コースは、
 三十三間堂⇒養源院⇒法住寺⇒後白河天皇陵⇒方広寺南大門⇒今熊野神社⇒一ノ橋跡⇒方広寺西大門跡⇒鼻塚(耳塚)⇒豊国神社⇒方広寺鐘楼⇒大仏殿緑地⇒妙法院⇒豊国社旧参道⇒智積院

 龍馬や天誅組など、幕末期のこの地域の重要性についても披露。

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2006.05.14

中津川、刈谷へ行く

5/12(金)はれ
 栄中日文化センターの受講者4人さんと、岐阜県中津川市の中山道歴史資料館へ行く。
 主任指導員の仁科吉介さんからご案内をいただく。

 長州毛利家の「中津川会談」や、「薩長連合」に関する文書・記録の展示を閲覧。
 名古屋に宿泊。

5/13(土)あめ
 午前から、愛知県刈谷市へ。
 天誅組に参加した、松本謙三郎、宍戸弥四郎の誕生地や墓所、家康母の由緒地「椎屋敷」、近世の刈谷城本丸跡を巡検。

 午後3時半から、朝日カルチャーセンターで、「京都学入門」講座に出講。
 終電で帰宅。
 少々、疲労。

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2006.04.27

『御土居堀ものがたり』の次の話

4/26(水)はれ
 大阪市立大学COEのシンポ「都市城壁(惣構)を町づくりにいかす」の抜き刷りが届く。

 所要ありて、京都新聞出版センターへ行く。
 刊行されたばかりの『第2回京都検定 問題と解説』を頂戴する。
 少しお手伝いをしましたので。

 拙著『御土居堀ものがたり』につづく、次回作の執筆が決定する。
 11月刊行を目指すそうです(できるか?)。
 
 佛教大学講義。
 坂本龍馬暗殺事件を題材に、使える史料とそうでないものはどう判断するか、「歴史物語」はいかに生れるかを論じました。
 感想文を読んでみるかぎり、好評のようでした。
 
 終了後、龍馬終焉地の向かいの居酒屋で一杯のむ。

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2006.04.17

チョー多忙

 2日もあいてしまいました。
 毎日更新をこころがけているのに。

 東京にいっておりました。
 会いたい人、会わなければいけない人、多数あり、てんてこまい。

 昨朝京都へ帰りました。
 つづいて今度は、東京からおこしの、著名な歴史作家桐野作人氏や、東京龍馬会の方々とお会いする。
 
 桐野氏とは1998年、パソコン通信以来のお付き合い。
 でも今回初めてお目にかかることができました。
 予想以上にさわやかで情熱的な方でした。

 東京龍馬会きっての情報通、皆川真理子さんともお目にかかれました。
 実は皆川さんも、同じくパソコン通信以来よく承知しておりましたが、今回初めてお顔を拝したのです。
 
 維新史のとらえかた、龍馬や妻おりょうのことなど、多数の情報交換ができ、実に有益な出会いでした。

 今年はおりょう没後100年で、終焉地で墓所のある横須賀市でイベントがある由。
 こちらのオリジナル情報を提示し、ぜひ使ってください、と申し出ました。
 
 夕方からお茶屋さんD文字さんのお招きで、上七軒で北野おどりを拝見。
 夜はD文字さんで多くの芸妓さん、舞妓さんにお酌をしていただく。
 
 東京に出かける直前に風邪をひき、ずっと不調です。
 帰宅後はさらに悪化。

 療養しようとしていますが、なんとういうことか、本日は名古屋市に行かなくてはなりません。

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2006.04.02

武市瑞山と土佐勤王党について語る

4/1(土)はれ
 名古屋の栄中日文化センターに行く。
 本日から「坂本龍馬からみた幕末維新」講座の開始です。

 武市瑞山と土佐勤王党について語る。
 瑞山の建白草稿を読み、その先駆性を述べる。

 茶話会では、岡田以蔵をなぜ一般は好意をもつかが話題となる。

 大急ぎで京都へ戻る。
 JR東海のイベント、祇園白川巽橋の桜をみる飲食会に参加。
 たくさん飲み、帰宅。

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2006.03.30

坂本龍馬の妻おりょうの旧蹟調査に行く

3/29(水)くもり・ゆき・はれ
 図書利用のため、佛教大学へ行く。

 まだ春休みなのですが、多数の学生あり。
 成績公開の日だったのです。
 知った学生も数人も見かける。

 そのあと、坂本龍馬の妻おりょうの旧蹟調査に行く。
 現地の方々のご好意に感激。
 興味深い成果がありました(まだ非公開ですが)。

 夕刻から右京区花園で三宅日記輪読会。
 ここでも本日の旧蹟調査の結果を熱弁する。
 
 楽しい日でした。

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2006.03.15

龍馬の刺客の名刺を考える

3/13(月)はれ
 夕方5時、京都ホテルオークラへ行く。
 来る3/21(火)午後、明治維新史蹟の「エコ・ウォーク」があります(主催:京エコロジーセンター、定員オーバー)。
 その会場の下見。
 国史蹟高瀬川一之船入を見下ろせる絶好の場所のようだ。

 つづいて大谷大学へ。
 7時から山科本願寺・寺内町を考える市民の会の事務局会議。
 終了後は、K野顕之先生のお誘いで、北大路駅前で一杯頂く。

 坂本龍馬の刺客が使用した「名刺」について話題になる。
 意外な展開になる。
 新事実にきづく。

 学識のある方には、専門関係なく、何でも議論を持ち込んでみるものだなぁ。
 感謝。

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2006.03.05

龍馬暗殺、を語る

3/4(土)はれ
 名古屋の栄中日文化センター、「龍馬講座」の日。
 本日、第1期最終回。
 「龍馬暗殺」を語る。

 詳しい内容はさけますが、歴史学の手法を使えば、刺客を見廻組と考えるのがまったく妥当で、薩摩や土佐などの刺客がいた、黒幕だ、なんていうのは到底ありえない、と述べました。

 さらにどの史料が信用度が高いか、低いかなども紹介。
 「暗殺ストーリー」には多数のエピソードがありますが、それについても、どれが「事実」といえるか、そうでなさそうかも論じました。
 
 斬られた家来藤吉が転倒した音を、悪ふざけをしていると勘違いした龍馬が「ホタエナ」と叫び、そのため刺客はその居所を知ったという話があります。
 僕は、フィクションの可能性が高いと思っています。

 冒頭、少々「演出」もいたしましたので、好評をいただいたようです。

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2006.03.04

龍馬暗殺、の準備をする

3/3(金)はれ一時くもり、小雨
 明日、栄中日文化センターの第一期「龍馬講座」最終回。
 「龍馬暗殺」。

 その準備をする。
 パワーポイントづくり。
 こんなに準備時間をかけた講演は久しぶり。
 スライド実に30枚。

 夜、八尾市歴史民俗資料館のIさんから電話あり。
 あさって3/5(日)の山科見学会、50名にもなったと連絡いただく。
 
 現地見学会なのに、そんなに参加者がいて大丈夫か。
 少々、不安。

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2006.02.22

岩倉・龍馬の道を話し合う

 本日はとてもあたたかく、春の到来か、と思えるような気候でした。
 
 そんななか、突然友が遠方よりやってこられました。
 洛中で楽しく歓談。
 
 坂本龍馬はどの道を通って岩倉具視宅へ行ったか、議論する。
 「おそらくここだ」といいまして、次回確かめに行きましょう、ということになりました。

 楽しみです。

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2006.02.19

慶応3年6月25日、岩倉具視宅へ

 昨日の話題のつづき。

 国史蹟岩倉具視幽棲旧宅のことでした(現京都市左京区岩倉上蔵町)。

 岩倉の日記によれば、慶応3年(1867)6月25日、坂本龍馬は中岡慎太郎とともに愛宕郡岩倉村(当時)の同所を訪問しています。
 ですから立ち入ったことが確実な建物です。

 建物は維新後に何度か修繕しており、幕末当時のままではありません。
 学術調査をしたわけでもないようです。

 が、当時を偲ぶには適しているとして国史蹟の指定されています(1932年3月25日=昭和7)。
 
 1932年は、岩倉具視没後50年紀念祭(岩倉公五十年祭)が行われた年です。
 この祝祭にあわせて指定されているのですね。

 文久2年(1862)、暴漢に襲われたときの避難先に建碑されたのもこの年でした。
(以上、『岩倉公五十年祭記要 附本会要誌第二篇』、財団法人岩倉公旧蹟保存会、1933年)

 僕は10余年前、「岩倉具視幽棲旧宅」の徒歩1分のところに住んでいましたが、異なることに一生懸命でしたので、深められておりませんでした。

 なお前日に寸心さんがコメントされておられますが、建造物に「門」を含むのなら、二本松薩摩屋敷の門もそうかもしれません(烏丸通今出川東入る北側に現存)。

 その他は「確実」ではないので、除外いたしました。

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2006.02.18

坂本龍馬が立ち入った京都の建造物

2/17(金)
 京都で、坂本龍馬が立ち入ったことがほぼ確実な現存建造物ってどこか、考えたこともありませんでした。

 もちろん寺田屋はちがいます。

 酢屋嘉兵衛方も外観はともかく、内部は大きく改変されているようです。

 本日、ある場所に行き、ここが唯一のそれではないかと気づき、とても感じ入りました。
 これまで何度も来た地なのです。
 ただそういう視点でみたことがなかった。

 どこだと思われますか。

 じらすほどのことではないのですが。

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2006.02.05

坂本龍馬伝にあらたな1ページを加えました

2/4(土)ゆき
 栄中日文化センターの「坂本龍馬講座」の日。
 雪です。
 
 傘もささず、自転車で、もより駅へ。
 地下鉄に乗ってJR京都駅へ。
 予想通り。
 京都駅に雪はなし。

 でも米原付近で大雪。
 20分も遅れて名古屋に到着。
 早くに出たため、遅刻はせず。
 
 坂本龍馬と天誅組の乱のつながり・続編です。
 これまで指摘されていなかったことを論じました。
 ささいなことながら、坂本龍馬伝にあらたな一ページを加えました。q 

 どこかで必ず活字にしましょう。

 ほか、「船中八策」についても管見を披瀝しました。
 
 次回は「龍馬暗殺」です。
 思いが深い。
 思いのたけを述べます。

 乞うご期待。

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2006.01.29

坂本龍馬講座、京都見学会を行う

1/28(土)
 月1度、栄中日文化センターで「坂本龍馬」講座をしております。

 が、教室での講義には限界があります。
 それゆえ、中日文化センターとは無関係に、京都で現地講義を行うことにしました。

 本日がその日です。
 名古屋から京都は決して近いとはいえません。

 参加者はおそらく数名、と思われました。
 ところが20余名もの参加がありました。
 
 午前中は伏見。
 寺田屋で遭難した龍馬は伏見薩摩屋敷へ逃れます。
 龍馬の手紙、同行した三吉慎造の日記、龍馬の妻おりょうの回想を筆記した記録を各所で朗読しながら歩きました。
 現地で史料を読む、これは僕が先生から習った学習法です。
 意外なほど臨場感がでます。
 1度おためしあれ。

 午後からは洛中へ。
 夕方4時半まで河原町三条近辺を歩きました。
 
 何度も歩いたコースですが、何度歩いても、その都度あらたな「発見」があります。
 よい日でした。

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2006.01.08

坂本龍馬講座の「宿題」回答

 栄中日文化センター講座のあとはいつも「茶話会」をやっております。
 教室では「一方通行」ですので、茶話会で受講生との会話を楽しんでおります。

 昨日の「坂本龍馬」のあとも行いました。
 10余人の参加。

 さてそのとき2つの質問がありました。
 即答できませんでした。
 帰宅し答えがわかりましたので、この場でお答えします。

 ①慶応2年(1866)12月4日付、坂本乙女など宛、坂本龍馬書簡の「当時天下之人物と云ハ」に、「越前にてハ三岡八郎、長谷部勘右衛門」とあります(宮地佐一郎『龍馬の手紙』、PHP文庫、1995年、212ページ)。

 この越前の長谷部勘右衛門とは誰か。
  うかつなことでした。
  寺社町奉行の長谷部甚平のことです。

  文久3年(1863)5月~7月、越前松平家の率兵上洛計画の関係者のひとりです。
  失敗し、三岡八郎(由利公正)らと蟄居を命じられるのです。

  詳しくは、高木不二氏『横井小楠と松平春嶽』(吉川弘文館、2600円+税 2005年)をご覧下さい。
  

②津の偕楽公園にある「孝女登勢」の碑
  伏見寺田屋のお登勢とはまったく別人です。

以上です。

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2006.01.07

龍馬と天誅組の乱を語る

 名古屋市の栄中日文化センターの日。
 家を出ると、京都市北区は大雪。積雪。
 新幹線は大丈夫か。

 京都駅(下京区)につくと雪はなし。
 この差に大変驚く。

 無事名古屋に着く。
 天誅組の乱と坂本龍馬の話をする。
 池内蔵太、上田宗児(宗虎、後藤深蔵)、伊吹周吉(石田英吉)らのこと、おそらく熱弁しました。

 坂本龍馬は天誅組の乱にかなりの思いいれがあったにちがいない。
 が、これを特記した人は皆無に近い。

 最近、上記3人とは別に天誅組の乱と坂本龍馬を結ぶ物語にきづきました。
 まだペーパーにしていないネタです。
 そのお話をしようとしたところタイムオーバー。 

 とても時間がたりませんでした。
 また次回。

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2005.12.07

維新期、東山霊山の景観変遷を調査中

 去る12/4(日)、雨天のなか、午後から京都府立総合資料館へ行く。

ryozen

 京都・東山霊山(りょうぜん)の「霊明社(霊明神社)」の継続調査です。
 同社は、坂本龍馬など幕末志士の遺体を埋葬し、祭祀を行ってきました。

 いまこの附近は、霊山護国神社や霊山歴史館が設置され、幕末から明治初年の様相と大きく変わっています。
 どのように景観が変遷していったのか、について検討しています。

 それを知る史料・絵図が総合資料館にあると、同館司書で友人の松田万智子さんから連絡がありました。
 ゆえに訪れ、拝見しました。

 さすが総合資料館。
 京都府庁文書やそれに関係する資料の宝庫。
 いろいろ分からなかったことが分かってきました。

 もちろんまだまだ分からないことだけらけですが、少しずつイメージが具体化してきます。
 詳細はまた後日(写真は霊山のいま)。

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2005.12.04

坂本龍馬研究の「いま」を伝える

12/3(土)はれ

2005102804

 腰、少し痛みやわらぐ。

 栄中日文化センターの日。
 のぞみで名古屋市へ。
 「坂本龍馬講座」の3回目です。

 大久保一翁の大政奉還論、および勝海舟と龍馬の関係について論じました。

 その前に、自分の維新史調査のニュース速報を行います。

坂本龍馬の墓は、いま京都霊山護国神社の社地になっていますが、維新前はちがいました。
 正法寺(時宗)の境内にあった「霊明社(霊明神社)」(千坪)でした。

 維新後、すぐそばに東山招魂社(いまの京都霊山護国神社)が創建され、政府によって霊明社(霊明神社)の土地の大半が没収(上知)されてしまうのです。

 なぜ坂本龍馬などはこの地に埋葬されるのか。
 その事情は、幕末期の霊明社(霊明神社)を検討しないと分かりません。

 京都市歴史資料館には、「霊明神社文書」の写真版が所蔵されています。
 最近、その記録を読んでいます。
 まだ分からないことばかりですが、少し分かったことがありましたので、それをお話しました。
 (写真は現在の霊明神社)

 感銘を受けました、と中日文化センターの聴講者にお伝えいたしました。

 「大日本維新史料稿本」は維新史料の宝庫です。
 京都におりながら、これが手の届くところにあることを、天に感謝します。

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2005.10.29

霊山歴史館を参観し龍馬の墓参をする

10/28(金)はれ

2005102801

 ある方と一緒に東山の霊山歴史館へ行きました。
 いま「龍馬とめぐる人びと展」をしています(~11/20)。
 例の刀の鍔が出品されているというので拝見に。
 
 残念なことに墨書のある箱書きが出品されていませんでした。
 こちらが見たかったのに。
 しょうがない。展示終了後、特別閲覧を申請しましょう。
 展示解説には寺田屋の焼失が示唆されていました。
 そうそう、こっそりでもいいですから、記してくださいね。

 リニューアルしてから初めてうかがいました。
 修学旅行生と思われる層の入館の多いこと。
 他の博物館では見ないような層がいっぱい。
 この館の特徴ですね。 

 龍馬関係よりも、禁門の変勃発直前の嵯峨天龍寺から発信した淵上郁太郎の書簡に興味をもちました(元治元年7月=1864、霊山歴史館蔵)。
 池田屋事件に関する記載もありましたが、自身が池田屋を脱出し河原町の長州屋敷へ逃げ込んだことに(「乃美織江手記」)全くふれていませんでした。

 そのあと霊山墓地(京都霊山護国神社)へ。
 龍馬の墓参。
 今回、名古屋で講座を担当しますので、おまいりです。

 西木屋町四条の喫茶店ソアレで歓談。
 ここは古高俊太郎(枡屋喜右衛門)邸跡です。

 本日の展示や霊山墓地(京都霊山護国神社)の解説について論じ、散会しました。

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2005.10.25

寺田屋の建物と旧蔵品問題

10/23(日)つづき

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 春田明氏の成果によれば、
①伏見の医師、藤田升斎(1814-1870)が、寺田屋で遭難し伏見薩摩屋敷へ逃れた龍馬を治療した。
②その際、その記念として、龍馬から藤田升斎に小柄と鍔が贈呈された。
③のち寺田屋の願いにより、それぞれを譲渡した。
ということです(44-46ページ)。

 ただその根拠は、藤田升斎の孫の藤田呉竹が、升斎の妻(呉竹の祖母)からの聞き取りです(「垂髫記」)。

 寺田屋事件後、龍馬を治療した医師の実名はもとより、その存在さえ、おそらくこれまで語られなかったと思います。
 事件よりかなり時間も経過しているので、史料価値は落ちます。
 が、当事者の妻の回想を聞き書きしたものですから、無視してよいものとは思えません。
 だからとりあえずは信用しておこうと思います。

 さてそのうち小柄は消失したようですが、鍔は京都府立総合資料館に現存します。
 それを収める箱には墨書があります。

 「此刀ノ鍔ハ坂本君カ当家ニテ幕吏ニ取囲マレタル際差料ニ用ヰラレタルモノニシテ戊辰ノ兵燹ニ罹リ一旦火中ニ埋リタル品ナリ/寺田屋所蔵/京都府立図書館蔵(異筆)」

 ここからは春田氏の解釈と「義憤」です。

 藤田家は「戊辰ノ兵燹」、すなわち鳥羽伏見戦争で焼失したが寺田屋は燃えなかった。
 だから箱書きにある「当家」とは本来藤田家のことで、藤田家が焼け跡から鍔を土中から拾い出し、その後寺田屋に譲渡したはず。
 それにもかかわらず墨書の文に「藤田家」のことを一切記さないのは、「道義的に」「寺田屋は怠慢のそしりを免れない」とされます。
 
 「藤田家」のことを一切記さないのが「道義的に」問題があるかはこの際論じません。
 それよりも著者春田氏が、現存の寺田屋を、維新以前の建物と無批判に信じている点は問わなければなりません。
 
  寺田屋お登勢の息子、寺田伊助の申立書によれば(1906年5月=明治39)、
 「戊辰の兵燹ニ罹リ、家屋諸共焼失」
とあり、ここからも幕末の寺田屋の建物が焼失したと考えるが自然です(『坂本龍馬全集』初版、760ページ)。

 前述の続きに「今ハ只左ノ二品ノミ所有致居申候。一、槍の穂(略) 一、故有馬新七殿ノモノセシ教訓書一軸」とあります。

 鍔の記載がありません。
 ですからこれはもともと藤田家のもので、鳥羽伏見戦争以後に寺田屋の所蔵に変った可能性は否定できません。 

 なおこの鍔はその後寺田屋の手を離れ、福井伊右ヱ門の所有となります。 
 ついで1915年(大正4)11月17日、400円(当時)で薩摩出身の樺山資紀と東郷吉太郎に売却される。
 さらに1917年(大正6)3月1日、両人および柴山矢八から京都府立京都図書館(当時)に寄附されるのです。
(春田氏前掲書、46-50ページ)

 本史料は原典を確認しましたので、同書にはありませんが京都府立総合資料館の出納番号を付記します(「京都府庁文書」大6-41 件名67「寄附物品受入ノ件 伏見寺田屋遺物」)

 現在は府立総合資料館へ移管され、京都文化博物館が管理しています。

 いずれにせよ、寺田屋の現存建物が「幕末当時のもの」と疑われることなく「事実」となっていることが問題です。
 それが定点となり、次の推定の基礎になっているからです。
 誤解の上になされる推定は、事実から遠く離れたものになるにちがいありません。
 
 「営業妨害」をおそれず、寺田屋焼失の事実はきちんと流布させるべきだと思います。
(写真は現存寺田屋「梅の間」の表札。「竜馬の部屋」とある)

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2005.10.24

寺田屋問題を再考するため京都府立総合資料館へ行く

10/23(日)あめのちくもり

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 午後から京都府立総合資料館へ行く。

 先日、「こんな文献がありますよ」と、いつもお世話になっている同館司書の松田万智子さんからメールをいただきました。
 
 本ブログの10/13条、「戊辰役で焼失した寺田屋」をご覧になられてのことです。
 ここで同館所蔵の龍馬の刀の鍔を紹介しました。
 その鍔が京都府立図書館に収蔵される経緯を記した文献がある、と紹介してくださったのです。

 その文献とは、春田明『藤田丹岳と山陽-附・俳人藤田呉竹』(東京図書出版会、2003年)です。
 
 知らないことがいっぱいありましたので、これを書評しつつ、「寺田屋問題」を再論してみたいと思います。
(写真は現在の寺田屋の梅の間-「龍馬の部屋」)

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2005.10.23

坂本龍馬を論じる・その1

10/22(土)はれ
031_062

 平安京・京都の誕生日。
 延暦13年(794)、桓武天皇による遷都令がでた日です。

 本日、それを記念して時代祭があります。
 年配の友人、Sさんから入場券をいただきましたが、残念ながら本年は無理。

 名古屋で仕事があります。
 本日より栄中日文化センターでの「坂本龍馬講座」開講です。
(写真は公文菊僊・画の龍馬像。中村武生所蔵品)

 お客さん30人。
 古地図講座に比して、10余人多い。

 まず冒頭、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」のイメージで来られた方はがっかりされると思います、と伝える。
 
 僕は龍馬を使える史料にもとづき、現在の明治維新史研究の成果のなかで存在を位置づけたい、という思いで語ります。
 それゆえまちがいなく「ヒーロー」ではなくなります。
 でもそこにこそ悲哀のある「人間」がいます。
 それを語りたいとお伝えしました。

 本日の主題は、京都の龍馬史蹟や伝説がどのように生まれてきたか、の解明です。
 よくもわるくも、京都市教育会の寺井萬次郎とその仲間の個性が構築してきたこと、を指摘しました。
 これはなるべく早く論文化したいと思っています。

 少しタイムオーバー、残ってしまいました。
 次回つづきをいたします。

 終了後、恒例の茶話会。
 今回は10余人も参加。喫茶店、大変なにぎわい。
 「新選組」以来の受講生の方、大半が戻ってこられました。
 さすが幕末ネタはちがう。
 もちろん新しい方も4名参加。
 
 余熱はつづき、2次会へ。
 実に楽しいひとときでした。

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