10/23(日)つづき

春田明氏の成果によれば、
①伏見の医師、藤田升斎(1814-1870)が、寺田屋で遭難し伏見薩摩屋敷へ逃れた龍馬を治療した。
②その際、その記念として、龍馬から藤田升斎に小柄と鍔が贈呈された。
③のち寺田屋の願いにより、それぞれを譲渡した。
ということです(44-46ページ)。
ただその根拠は、藤田升斎の孫の藤田呉竹が、升斎の妻(呉竹の祖母)からの聞き取りです(「垂髫記」)。
寺田屋事件後、龍馬を治療した医師の実名はもとより、その存在さえ、おそらくこれまで語られなかったと思います。
事件よりかなり時間も経過しているので、史料価値は落ちます。
が、当事者の妻の回想を聞き書きしたものですから、無視してよいものとは思えません。
だからとりあえずは信用しておこうと思います。
さてそのうち小柄は消失したようですが、鍔は京都府立総合資料館に現存します。
それを収める箱には墨書があります。
「此刀ノ鍔ハ坂本君カ当家ニテ幕吏ニ取囲マレタル際差料ニ用ヰラレタルモノニシテ戊辰ノ兵燹ニ罹リ一旦火中ニ埋リタル品ナリ/寺田屋所蔵/京都府立図書館蔵(異筆)」
ここからは春田氏の解釈と「義憤」です。
藤田家は「戊辰ノ兵燹」、すなわち鳥羽伏見戦争で焼失したが寺田屋は燃えなかった。
だから箱書きにある「当家」とは本来藤田家のことで、藤田家が焼け跡から鍔を土中から拾い出し、その後寺田屋に譲渡したはず。
それにもかかわらず墨書の文に「藤田家」のことを一切記さないのは、「道義的に」「寺田屋は怠慢のそしりを免れない」とされます。
「藤田家」のことを一切記さないのが「道義的に」問題があるかはこの際論じません。
それよりも著者春田氏が、現存の寺田屋を、維新以前の建物と無批判に信じている点は問わなければなりません。
寺田屋お登勢の息子、寺田伊助の申立書によれば(1906年5月=明治39)、
「戊辰の兵燹ニ罹リ、家屋諸共焼失」
とあり、ここからも幕末の寺田屋の建物が焼失したと考えるが自然です(『坂本龍馬全集』初版、760ページ)。
前述の続きに「今ハ只左ノ二品ノミ所有致居申候。一、槍の穂(略) 一、故有馬新七殿ノモノセシ教訓書一軸」とあります。
鍔の記載がありません。
ですからこれはもともと藤田家のもので、鳥羽伏見戦争以後に寺田屋の所蔵に変った可能性は否定できません。
なおこの鍔はその後寺田屋の手を離れ、福井伊右ヱ門の所有となります。
ついで1915年(大正4)11月17日、400円(当時)で薩摩出身の樺山資紀と東郷吉太郎に売却される。
さらに1917年(大正6)3月1日、両人および柴山矢八から京都府立京都図書館(当時)に寄附されるのです。
(春田氏前掲書、46-50ページ)
本史料は原典を確認しましたので、同書にはありませんが京都府立総合資料館の出納番号を付記します(「京都府庁文書」大6-41 件名67「寄附物品受入ノ件 伏見寺田屋遺物」)
現在は府立総合資料館へ移管され、京都文化博物館が管理しています。
いずれにせよ、寺田屋の現存建物が「幕末当時のもの」と疑われることなく「事実」となっていることが問題です。
それが定点となり、次の推定の基礎になっているからです。
誤解の上になされる推定は、事実から遠く離れたものになるにちがいありません。
「営業妨害」をおそれず、寺田屋焼失の事実はきちんと流布させるべきだと思います。
(写真は現存寺田屋「梅の間」の表札。「竜馬の部屋」とある)