2007.11.12

伏見・佐竹邸跡をみずに明治維新史学会へ

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 京都大雨です。
 困るなあ。
 
 かなり空いてしまった。
 毎日更新がほんとうに困難になってきた。

 去る11/10(土)は、名古屋の中部大学へ。
 明治維新史学会に出席。

 伏見旧城下町では佐竹屋敷跡が検出され、現地説明会がおこなわれた。
 行きたかった。でも行けなかった。

 なくなく明治維新史学会に出た。
 大会運営委員なのだ。さぼれない。

 が、これぐらいの強制力がないとまたいかん。
 皆勤のためにはいいことなのだ。
 なんだかんだといっても維新史研究が本業(のはず)なので、最新研究と学界の動向を理解するには参加不可避なのだ。

 会場でY志舎(東京)の社長Nさんと歓談。
 また出版のこと、はなしあり。
 
 世に送りたい研究の出版がつぎつぎに決まってゆく。
 こんなありがたいことはない。

 頑張って生きねば。

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2007.09.21

宮内庁、天皇陵公開の報をきく

 今朝、昨日の京都新聞夕刊を読んだ。

 「宮内庁が研究者に天皇陵公開」の記事に衝撃をうける。

 ついにこの日がきたか。
 頑張ってこられた方の顔がうかぶ。

 伏見城・城下町の研究をしてきたものとして、明治天皇陵にはぜひ立ち入りたかった。
 
 入れる日がきたのだ。
 
 具体的にどういう申請をすればよいのか、調べなきゃ。

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2007.07.10

最終回も「寺田屋」になった

 京都民報社に原稿を送った。
 「京都の江戸時代をあるく」、最終回まであと2回。

 寺田屋を今回でおえて、最終回は別のはなしでしめようと思っていた。
 が、予期せず、終わらなかった。

 最終回も寺田屋だ。
 どうかと思う。

 その後も新発見はあいついでいる。
 最高協力者Mさんからは先日、飲みながらこんこんと書籍化(未定)するにあたっての注意をうけた。

「寺田屋」項は大きく修正・加筆せねばならぬ。

 いずれにせよ今回のまとめは、今後寺田屋を知ろうとする人には無視できないものになるだろう、と自負している。
 そんな仕事ができたことを心から喜んでいる。

 あいかわらずだが。
 できることなら、中学生の僕のところへもどって、今回の報告をしてやりたい。

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2007.06.13

また寺田屋調査で伏見へ

6/12(火)はれ
 すこしゆとりがあったので講談社現代新書の執筆をしようと思ったが、思い切って伏見へいった。

 「寺田屋ものがたりの虚実」という連載を、週刊『京都民報』で7回も行っている。
 まだつづく。
 おそらく10回をこえそうだ。

 おどろいたことに、インターネット上のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「寺田屋事件」項に、もう拙稿が引用されていた。反応のはやさにちょっと驚いた。

 7代目寺田伊助と妻ハナなどが主人公なのに、その正確な没年を把握できていない。
 これまで寺田屋に関心をもってきた人は、みな6代目とその妻登勢以前の履歴ばかり公開して来た。

 2人の「事実」がほしい。
 それゆえ「菩提寺」を訪れ、ご協力をお願いした。

 「菩提寺」は浄土宗寺院で、僕が佛教大学で教えていると申すと、突然のことなのに歓迎してくださった。
 とてもありがたい。
 
 ただ残念ながら、期待した成果は得られなかった。
 両人とも過去帳に記載がなかった。

 が、その事情は住職さんのご説明でなっとくができた。
 予想以上に「寺田屋」は話に混乱が多いとまたきづいた。
 これまで信じられてきたはなしは実に単純だ。
 なんでこんなに放置されてきたのか。

 しかし予期せぬ成果はあった。
 6代目や妻登勢以前の、これまで知らなかった情報が過去帳に多数記載されてあった。
 住職さんのご協力でそれを写し取ることができた。 
 この情報は間接的に本研究の進展にかならず役に立つ。
 
 民報の連載記事のコピーをお渡しし、今後もよろしくお願いしますと申し上げ、感謝いっぱいで辞去した。
 
 帰途、心ばかりのお礼をと思い、某店へ和菓子の配達をお願いしにいく。
 すると、店の外をよく知った人が通った。
 僕の講座によくきてくださる方で、でもこの数ヶ月お姿をみなくなっていたFさんだ。
 
 思わず声をかける。
 Fさんもびっくり。
 
 しばらく立ち話してさようなら、と思ったら、飲みにいこうと誘われる。
 こういう奇遇は大事にしたいと思い、お誘いにのせていただく。

 Fさんのなじみのお店へ連れていってくださり、歓談。
 いつもながら伏見への情熱をかたってくださる。

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2007.05.21

平安京以上に寺田屋を論ずる

5/20(日)くもり一時あめ
 嵯峨野学芸倶楽部に出講。

 「平安京遷都」を講ずることになっていたが、この講座はちょっと特殊。
 僕が好きにしていいので、最近執着している寺田屋問題のはなしをして、そのあと長岡京を発見した中山修一さんのはなしと、本題をする。

 終了後、北野地域の史料を読む会がある。そのためとどまる。
 メンバーの1歳未満のお子さんを思いっきりからかう。楽しいこと、このうえない。

 中世、酒麹の権利をめぐって北野地域(西京)は東京と争う。
 その史料をよむ。

 今回はいままでで参加者1番少なかった。
 そういえば、僕をこの会に誘ったU氏は来られたことないなぁ。
 忙しいらしい。
 さみしいなぁ(U氏攻撃)。

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2007.05.20

寺田屋でおもしろいものをみつけた

5/19(土)はれ一事あめ
 昨日18(金)、同志社大学とくずし字入門に出講。
 そのあと伏見区へ。
 寺田屋と法務省伏見出張所にいく。
 つかれる。

 本日はすこし遅く動き出したので、疲労感なし。
 
 また寺田屋に。
 毎日あきないことだ。

 いくたびに何か発見がある。
 さすがにもうない、と思ってた。

 が、あった。
 またあった。
 同行の友人がある説明文を読んでいて「意味、不明」を主張してきづいた。
 こんなものがあったのか。

 各部屋に散在する「額」もふくめ、現在の寺田屋にはいっぱいいっぱい「復興寺田屋」の痕跡がある。
 「龍馬の寺田屋」でおおっているようにみえて、誰もきづかない「ものがたり」がねむっている。
 これはやみつきになるなぁ。

 建物はもとより、位置さえ幕末期とちがういまの寺田屋。
 でも、ちがう楽しみ方があると今日きづいた。
 また、いこう。

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2007.05.01

寺田屋跡のとなりの建物がなぜ「寺田屋」になったのか

4/30(月)はれ
 「吾妻鏡」によると源義経が生害した日(文治5年=1189)。

 毎年思い出す。
 少年のころ覚えたもののはいつまでも忘れない。おそろしい。

 「京都の江戸時代をあるく」(週刊『京都民報』、京都民報社、京都市)、締め切り日。
 「寺田屋ものがたりの虚実」その3を打つ。

 これでまとめるつもりがまた延びてしまった。
 結局、4回か、1ヵ月だな。

 維新後、寺田屋跡の敷地でなにがあったか、どうして隣の敷地と建物が「そのもの」に取って代わったか、その過程を論じている。どうか御覧ください。

 5/6は、4/29との合併号ですので発行されません。
 次は5/13発行です。

 あ、そうそう。
 拙稿「龍馬十景」の載った、『龍馬研究』166号が先日発行されました(龍馬研究会、高知市)。
 今回はその1で、「悲哀の人」です。
 龍馬の最後はヒーローでもなんでもない、かわいそうな人だと書きました。たんに殺害されたというだけではなく。

 今年は没後140年です。
 「最後の龍馬」を随時のべていきます。こちらもご期待下さい。

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2007.01.17

伏見で「俳優」になる

 多忙をきわめて更新できなかった。

1/16(火)
 早朝から伏見へ行く。

 ある企画で伏見に関するビデオが製作される。
 その監修と出演を依頼された。

 衣装まで用意されていた。
 いつもは絶対着ないみなりで1日伏見の各所をいったりきたり。
 知人に会わないことだけを祈りつつ。
 
 住民、多くがたちどまり見つめる。
 僕はどっかの俳優だと思われたことだろう。

 午後3時、終了。

 帰途、思いついて河原町バルの書店へ。
 ずっと入手したかったある絵画資料の刊本を購入。

 名前は出しません。
 「えっ、おまえ、持ってなかったの」といわれるぐらいメジャーなものです。
 中世京都を知るうえで不可欠のもの。
 わかる人にはわかりますやろ。

 ずっと所有しないのを困っていました。
 古書には出ないし。

 きっかけは、いまかかりっきりの仕事でやっぱり必要になった。
 うわ、ないわ。
 また困った。
 もういや。
 そう思ったから。

 やっと手に入った。
 うれしくてならない。
 もう困らない。

 それからある雑誌がステレオ(実体視)撮影がたやすくできるというカメラを付録にしていたのに気づく。
 ほんまかいな。
 ほんまならうれしいと購入。

 購入のほんまの理由は、宮崎あおいがそのカメラで撮影実験をしているのが載っていたからかもしれん。
 うん。
 いま多忙でなにもできないが、この仕事が終わったらためしてみよう。

 空中写真を実体視するのは大好きなので、自分でも撮影したいと思っていた。
 ほんまにできるならやっぱりうれしい。

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2006.12.28

伏見城惣構の土塁跡の顕彰を夢見る

12/27(水)はれ
 お昼から「くずし字入門」に出講。こちらも本年最後。
 
 キャンパスプラザの受付で、職員の方から何度も電話で問い合わせがありましたと聞かされる。
 どうやら僕は未確認だが、テレビで報じられた模様。

 その影響があるのか、初めての方が5名あり。
 部屋からあふれるほどの人は来られず、よかったこと。

 テキスト「都の記」下巻。
 五摂家のうち、九条家・二条家の部分を読む。
 近衛家が五摂家筆頭であるが、江戸中期、家領は九条家が1番多く、2000石を超えていることなどをお話する。

 午後2時半、伏見へ。
 某社の仕事に関わっている。
 社員の方々を伏見城惣構(そうがまえ)跡や近世尾張屋敷跡、薩摩屋敷跡などをご案内。

 伏見は惣構の堀が「濠川」として生きている。
 それが城下町の外郭だったとあるていど認識はされている。
 が、その内側に土塁が回っていたことはまったくといってよいほど知られていない。

 復元は不可能でも、土塁を模した緑地をどこかにつくれないか、無理でも跡地を示す碑を建てられないか、つよく訴える。
 夢が届くことを願ってやまない。

 鷹峯、山科、伏見は僕にとって大事なところ。
 何か少しでも思いを現実化したい。

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2005.11.10

伏見巡見、またの機会に

11/6(日)つづき

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 話しがながくなってきましたので、簡潔に片付けましょう。
 以下のコースを歩きました。

 伏見奉行所跡(写真)→四辻の四つあたり→道標→寺田屋→中書島遊郭跡→京阪「中書島」駅前の三宅碑

 ご苦労様でした。
 びっくりするぐらい、みなさんよいお顔でお帰りになりました。
 続編を期待したいところです。

 終了後、担当H氏、お客さん2人と飲みに行きました。
 楽しい一日でした。

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2005.11.09

伏見義民の碑のことなど

11/6つづき

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 つづいて御香宮神社へ。
 御香水を試飲します。

 社務所で金箔瓦を見せてもらいます。
 宮司さんから解説を賜る。

 宮司さんは伏見城址研究会の代表をしておられます。
 京都市の周知の遺跡になっていなかった時代に、個人で採集してきたものとうかがい感銘を受ける。

 こういう個人の努力が、つぎの時代の遺跡保存、調査研究につながります。

 「明治維新伏見の戦跡」碑(写真)のあと、表門そばの「伏見義民」碑に立ち寄る。
 
 天明年間、伏見奉行の悪政に立ち向かい非業の最期を遂げた町人7人のお話しです。
 この事件はその後も子孫に類が及び、ついに大半の血縁は絶えてしまったそうです。

 おそらく住民も連座をおそれ、保護できなかったのでしょう。
 維新後、事件の100年目にようやく顕彰碑がたつわけです。
 住人は事件を忘れられなかったのでしょうね。

 専門ではありませんが、思いを込めてお伝えしました。
(つづく)

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2005.11.07

伏見魚三楼の戊辰役の弾痕を見る

11/6(日)あめときどきくもり

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 伏見を歩くイベントの日(京エコロジーセンター主催)。
 当初、定員24名。
 定員オーバー後も申し込みがつづき、26名までは受け付けましたが、残りはお断りをしたそうです。
 担当者H氏によると、この手の企画では初めてのことだそうです。

 ところが当日、待ち合わせ場所に飛び入りが1人ありました。
 さらに歩きながら、2人また飛び入りされ、計29人となりました。

 これもすごい。

 京阪電車「伏見桃山」駅で集合。
 京町三丁目の魚三楼の鳥羽伏見戦争の弾痕を見に行きます(写真)。
 
 伏見の町は同戦争で焼けたはず。
 当ブログの読者は、これまで寺田屋の話しをさんざんしてきたので、ご存知のことと思います。
 ではどうして弾痕が残っている?
 
 ここで鳥羽伏見戦争当時の焼失範囲を示した瓦版(コピー)をみます(「本しらべ城州伏見大火の図」)。
 徳川方の本拠である伏見奉行所の西側は、一帯が焼失範囲です。
 ところが、わずかに戦火を免れた地域があります。
 そこに「京町三丁目」がありました。
 
 なるほど燃えなかったのか。
 それなら弾痕が残っていても不思議はありません。
 
 寺田屋などの事例を体験していると、こういう結果はとてもさわやかになります。
(つづく)

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2005.10.25

寺田屋の建物と旧蔵品問題

10/23(日)つづき

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 春田明氏の成果によれば、
①伏見の医師、藤田升斎(1814-1870)が、寺田屋で遭難し伏見薩摩屋敷へ逃れた龍馬を治療した。
②その際、その記念として、龍馬から藤田升斎に小柄と鍔が贈呈された。
③のち寺田屋の願いにより、それぞれを譲渡した。
ということです(44-46ページ)。

 ただその根拠は、藤田升斎の孫の藤田呉竹が、升斎の妻(呉竹の祖母)からの聞き取りです(「垂髫記」)。

 寺田屋事件後、龍馬を治療した医師の実名はもとより、その存在さえ、おそらくこれまで語られなかったと思います。
 事件よりかなり時間も経過しているので、史料価値は落ちます。
 が、当事者の妻の回想を聞き書きしたものですから、無視してよいものとは思えません。
 だからとりあえずは信用しておこうと思います。

 さてそのうち小柄は消失したようですが、鍔は京都府立総合資料館に現存します。
 それを収める箱には墨書があります。

 「此刀ノ鍔ハ坂本君カ当家ニテ幕吏ニ取囲マレタル際差料ニ用ヰラレタルモノニシテ戊辰ノ兵燹ニ罹リ一旦火中ニ埋リタル品ナリ/寺田屋所蔵/京都府立図書館蔵(異筆)」

 ここからは春田氏の解釈と「義憤」です。

 藤田家は「戊辰ノ兵燹」、すなわち鳥羽伏見戦争で焼失したが寺田屋は燃えなかった。
 だから箱書きにある「当家」とは本来藤田家のことで、藤田家が焼け跡から鍔を土中から拾い出し、その後寺田屋に譲渡したはず。
 それにもかかわらず墨書の文に「藤田家」のことを一切記さないのは、「道義的に」「寺田屋は怠慢のそしりを免れない」とされます。
 
 「藤田家」のことを一切記さないのが「道義的に」問題があるかはこの際論じません。
 それよりも著者春田氏が、現存の寺田屋を、維新以前の建物と無批判に信じている点は問わなければなりません。
 
  寺田屋お登勢の息子、寺田伊助の申立書によれば(1906年5月=明治39)、
 「戊辰の兵燹ニ罹リ、家屋諸共焼失」
とあり、ここからも幕末の寺田屋の建物が焼失したと考えるが自然です(『坂本龍馬全集』初版、760ページ)。

 前述の続きに「今ハ只左ノ二品ノミ所有致居申候。一、槍の穂(略) 一、故有馬新七殿ノモノセシ教訓書一軸」とあります。

 鍔の記載がありません。
 ですからこれはもともと藤田家のもので、鳥羽伏見戦争以後に寺田屋の所蔵に変った可能性は否定できません。 

 なおこの鍔はその後寺田屋の手を離れ、福井伊右ヱ門の所有となります。 
 ついで1915年(大正4)11月17日、400円(当時)で薩摩出身の樺山資紀と東郷吉太郎に売却される。
 さらに1917年(大正6)3月1日、両人および柴山矢八から京都府立京都図書館(当時)に寄附されるのです。
(春田氏前掲書、46-50ページ)

 本史料は原典を確認しましたので、同書にはありませんが京都府立総合資料館の出納番号を付記します(「京都府庁文書」大6-41 件名67「寄附物品受入ノ件 伏見寺田屋遺物」)

 現在は府立総合資料館へ移管され、京都文化博物館が管理しています。

 いずれにせよ、寺田屋の現存建物が「幕末当時のもの」と疑われることなく「事実」となっていることが問題です。
 それが定点となり、次の推定の基礎になっているからです。
 誤解の上になされる推定は、事実から遠く離れたものになるにちがいありません。
 
 「営業妨害」をおそれず、寺田屋焼失の事実はきちんと流布させるべきだと思います。
(写真は現存寺田屋「梅の間」の表札。「竜馬の部屋」とある)

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2005.10.24

寺田屋問題を再考するため京都府立総合資料館へ行く

10/23(日)あめのちくもり

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 午後から京都府立総合資料館へ行く。

 先日、「こんな文献がありますよ」と、いつもお世話になっている同館司書の松田万智子さんからメールをいただきました。
 
 本ブログの10/13条、「戊辰役で焼失した寺田屋」をご覧になられてのことです。
 ここで同館所蔵の龍馬の刀の鍔を紹介しました。
 その鍔が京都府立図書館に収蔵される経緯を記した文献がある、と紹介してくださったのです。

 その文献とは、春田明『藤田丹岳と山陽-附・俳人藤田呉竹』(東京図書出版会、2003年)です。
 
 知らないことがいっぱいありましたので、これを書評しつつ、「寺田屋問題」を再論してみたいと思います。
(写真は現在の寺田屋の梅の間-「龍馬の部屋」)

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2005.10.22

伏見のまちづくりに参加できた日

10/21(金)はれ
 
 京のアジェンダ21フォーラムなど主催の「伏見エコ宝さがし講座」に講師として参加。

 同団体のエコツーリングワーキンググループの十倉真未子さんの趣旨説明から始まる。
 エコツーリングと僕の活動が、どの程度からむか、理解していませんでした。

 趣旨説明をうかがい、涙腺がゆるんできました。
 これはもうまさに僕が願い、やろうとしてきたこと、そのものだと知りました。

 僕の番です。
 今日は伏見の旧市街の一部を歩き、その知られざる歴史環境をみなさんにお伝えする予定です。
 ですからそのコース説明をしようと思っていました。

 でも十倉さんのお話をうかがい、気が高ぶってまいりました。
 僕がこれまでしようとしてきたこと、それがエコツーリングそのものだったといわずにはいられませんでした。
 自己紹介でほとんど時間がつぶれました。

 残り時間で簡単に、今回のコースにかかわる伏見の歴史をお伝えしました。
 
 つづいてNPO法人コミュニティデザイン研究所の永橋為介さん(博士〈農学〉)の「まちづくり」のお話し。
 とてもお話しがおもしろい。
 すいこまれていきそうでした。
 自分が好きなまち、これを明日変えてみたい、そんな気になる講演でした。

fushimi5

 お昼ごはんのあと、現地へ。
 伏見板橋小学校や伏見中学校が江戸時代の尾張屋敷跡です。
 両校には同じく江戸時代の道標が計3本移築されています。
 道標論をいたしました。

 また同じ場所に明治天皇聖蹟碑があります。
 明治天皇聖蹟とその指定解除、問題点、今後の課題など、論じる。
 ここだけで大変な時間をくう。
 担当H氏、N氏あせりぎみ。

 つづいて薩摩屋敷跡へ。
 いま酒工場。
 建碑がなされていません。
 寺田屋で遭難した坂本龍馬が逃げ込んだ場所です。
 龍馬で町おこしをねらっている伏見のみなさん、この場所をなぜ見落としている。
 ここに碑を建てなさい、ここで「龍馬」の銘柄の酒を売りなさい。
 確実な由緒地ですよ。
 ニセモノの場所でとやかくせず、本当の地で啓発をいたしましょう。
 声をかけてください。
 ご協力します。
(中略)

fushimi18

 予定の時間を大幅にすぎて、もとの場所へもどってくる。
 さあこれから見たものを模造紙に書き込んでいきます。
 建碑すべき場所も多くきづきました。

 歴史や文化、伝統を生かした伏見のまちづくり、これは進むかも知れない。
 何よりもわずかな僕の知識や経験がここで生かされようとしている。
 本当に楽しくありました。勉強にもなりました。感動もしました。

 おなかいっぱいな日でした。
 参加者で打ち上げがしたい気分でしたが、僕も、みなさんも次の予定がちゃんと入っていました。
 残念。

 ぜひまた、と別れを惜しみつつ、さよならをいたしました。

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