2016.04.26

鎌田久美子さんが亡くなりました

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 友人鎌田久美子(山本久美子)さん(関西大学大学院生)が、本年去る4月23日(土)午後10時に亡くなりました。
 昨日セレマ浜大津シティホールで通夜が行われ、100名近くの参列者にくわえさせていただきました。

 告別式(お別れの会)は本日4月26日(火)午後2時からです。

場所︰セレマ 浜大津シティホール(滋賀県大津市)
<http://www.cerema.co.jp/funeral/area/shiga/hall09.html

喪主は山本眞司さんです。

 お忙しい中、万障繰り合わせのうえご参列下さい。

 鎌田さんのお仕事には、

山田邦和・鎌田久美子(編・執筆)『京都府与謝郡野田川町 幾地地蔵山遺跡現状調査報告書』(花園大学考古学研究報告第14輯、京都府野田川町、野田川町教育委員会・花園大学考古学研究室、2005年3月31日)

があります。

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2016.03.06

幕末豪農出身の息子が六位の地下官人になったらうれしくないものか

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2016年3月4日(金)はれ

 くずし字研究会に出講。幕末の湖北の豪農は、商家に養子に行った息子が六位(将来は五位(「大夫」)も見込まれていたらしい)の地下官人になることを嫌ったというのが意外だった。

 安政3年5月(1856)に醍醐家に仕えたという『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)の項に記載された典拠は何だろうと思い、見込まれる典拠を京都女子大学の図書館に行き、閲覧。ここで「洛東大仏日吉山ニ演武場ヲ設ケ」なんて字句を見ると感慨深い。

 期待の記載はなかった。ではいったい何だろう。でも未見の文書が複数入っていて、閲覧のかいはあった。

 あとから嘉永7年(安政元、1854)と推定される4月7日付の実弟の実家宛書翰に、当人がもう醍醐家に仕えているような記載のあったことを思い出した。はて。

 そのあと確定申告する。胸のつかえがとれた。

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2015.10.12

長浜で史料調査継続中

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 昨日、長浜市立長浜城歴史博物館で下坂家文書の調査。今年の5月から継続中。

 本日は書翰20通を撮影した。

 そのなかに嘉永7年4月6日(1854年)の洛中火災を報じたものがあった。

 下坂家出身の板倉筑前介(当時の苗字は武田か?のちの淡海槐堂)と江馬俊吉(その実弟、のちの江馬天江)兄弟の動向がわかる。当時2人は、ともに洛中洛外の薬屋と医師に養子に入っている。

 板倉が薬商をしつつ仕えた公家邸(おそらく醍醐家)は全焼して、「若殿」は天子統仁(孝明天皇)にお伴し聖護院へ、「大殿」は単身西賀茂の別邸へ避難したなどとあった。

 ほかにも年月日不明のものに、「会桑」の動向を記し「追々長州人入京」とあり、元治甲子戦争(所謂禁門の変)直前の様子を伝えたものなどもあった。

 この成果の一部を、『みーな』125号(〈特集近江の幕末維新〉本年8月号、長浜みーな編集室)の「忘れられた幕末『志士』板倉筑前介」に載せた。ご覧願います。

http://www.n-miina.net/

史料調査はまだ続きます。

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2015.08.08

板倉筑前介と西川耕蔵を寄稿しました。『長浜み~な』新刊

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 本日、『長浜み~な』第125号(近江の幕末維新)を拝受する。

「見落とされた幕末『志士』板倉筑前介(淡海槐堂)」、同「池田屋にいた確実な『志士』西川耕蔵」という小文を寄稿したのです。

 また、ちょっとあやしい取材班「幕末の京を歩く―京のまちなかに湖北出身兄弟志士の足跡」にも関わりました(監修)。

 長浜みーな編集室のサイトは以下。ご注文はこちらから。

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2015.05.02

京都における湖北の幕末史蹟をあるいた

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2015年4月30日(木)はれ  

 長浜城歴史博物館の太田浩司さんと、長浜み〜な編集室の小西光代さん、西島進一さんと一緒に京都における湖北の幕末史蹟を歩いた。主に板倉筑前介(淡海槐堂)、西川耕蔵ゆかりの地である。近年稀な楽しい時間だった。充電された気がした。お気遣いも多数いただいた。

 西川耕蔵は、滋賀県の旧東浅井郡びわ町南浜(現長浜市)出身である。近く『長浜み〜な』に湖北の幕末が特集される由。西川を取り上げることを強く求めて、承諾いただいた。西川の地元での名誉回復の始まりに関われた幸福に感謝している。巡検中龍馬が斬られた近江屋跡に行く途中、たまたま裏寺町六角下ルの西念寺跡(西川菩提寺、現在市内西京区大枝に移動)に出た時は震えんばかりだった。今日はきっと西川耕蔵も付いて来てはったと思った。

  西川耕蔵は池田屋にいたことが確実な人物の1人である(拙著『池田屋事件の研究』314〜315頁)。六角牢屋敷につながれ、元治2年2月11日(1865年3月8日)、病で獄死した。埋葬地は不明だが(遺族に遺体は渡されなかったらしい)、一族の近江新報社社長西川太治郎が母妻の菩提寺西念寺に気づいて建碑した。

『長浜み〜な』に志願して、板倉筑前介(淡海槐堂)と西川耕蔵を書かせていただくことになった。分量は少ないですが、新たな史料と視点で書ければと願っている。

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2014.04.12

白川橋あたりの明智光秀塚の異同を考えた

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 本日午前中、イレギュラーに「『都名所図会』をあるく」を実施した。来週月曜日、都合がつかんから。イレギュラーなのに多くお越しくださる。感謝。

 青蓮院旧境内の金蔵寺跡から光秀塚、尊勝院、粟田神社、仏光寺本廟を巡検した。「都名所図会」が図示する光秀塚の位置は、現在地とことなり、白川橋三条の北東。

 現在地の至近に弘化2年(1845)の「東梅宮社、光秀墳」の道標があるので、都名所図会刊行の安永9年(1780)以後65年の間に新設されたものか?

(注:その後、参加者で友人の竹田滋広さんから指摘があった。

「都名所図会」の続編「拾遺都名所図会」巻二(天明7年〈1787年〉刊行)の「明智光秀塚」の項に経緯が記してあった。もとは粟田口の「黒谷道の東三町計(ばかり)にあり。光秀が首を此所に梟し所なり。近年、明田氏といふ人、此地に住しが、今又白川橋三条の南へ古墳と共に遷す」とあった。

竹田滋広さん、ありがとうございました。)

 至近の和菓子店で光秀饅頭を売っておられる。おススメしておいた。けっこう買われたもよう。

 本編の「都名所図会」はなぜか青蓮院を解説しない。不思議だ。

 午後、大津市歴史博物館の「湖都大津のこもんじょ学」展を観覧した。大津事件にどうも関心があるらしい。不思議に思っている。しかもどうも津田三蔵への関心らしい。

 中村直勝博士の旧蔵書印を久しぶりにみた。うちにもそれが押された書籍が1~2冊ある。ある時期、けっこう京都の古書肆で見かけた。同博士蒐集の源義経自筆書状に感じ入っていた。

 常設展で幕末の大津町の住宅地図といえそうなものがあることを知る。またこよう。

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2012.09.23

本日の幕末巡検A班、中止

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本日雨天のため、幕末マニア巡検A班は中止します。

きっといつか改めて開催いたすと存じますが、日程等未定です。

次回は、
10月28日(日) 第2回 禁門の変・・その1<新選組、伏見街道で伏見勢と戦う>
です。予定コースは、<九条河原、竹田街道銭取橋から伏見街道へ出て稲荷社、藤森、
墨染をへ伏見長州屋敷跡まであるく>、集合場所・時間は、地下鉄烏丸線「九条」駅改
札、午後1時です。

ご希望の方は改めてご予約ください。
どうぞよろしくお願いいたします。

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2012.05.27

また古高俊太郎にこだわって歩いた

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 本日、また古高俊太郎三昧な巡検を行った。

 超マニアなのに、ちゃんとそれなりの参加者がいる。まったく恐れ入る。

 大津代官所跡、石原正美墓(本長寺)、山科毘沙門堂を訪ねた。

 集合場所は、JR大津駅(滋賀県大津市)。

 大津代官所は、古高俊太郎の父周蔵の勤め先。拙著『池田屋事件の研究』(講談社現代新書、2011年)で紹介しながら、原文引用できなかった史料を多数レジュメに掲載し、現地で読んだ。「県令集覧」とか。

 同代官所は、豊臣期まで存在した大津城の本丸跡。現地に大津城跡の表示は2カ所あるが、代官所跡を示したものは皆無。とんでもないことだ。

 石原氏は、江戸後期以後の大津代官。正美はその最後の人で、古高周蔵が仕えた正修の子息にあたる。本長寺には、なぜかその石原正美の墓碑のみ存在する。お寺の方に案内を願って、やっと見つけた。

 同じ大津代官でも、初期の小野氏のものは大きな板碑ですぐわかったのに。

 ここから京阪電車に乗って、京都市山科区へ移動。ほんとうは徒歩で越境したかったのだが、参加者全員に反対された。

 毘沙門堂は、もと洛中寺院(寺町今出川上ルあたりに所在)。近世前期に徳川家の意志で洛東安祥寺の土地を摂取して移ってきた。

 「都名所図会」の毘沙門堂の挿図を片手に、現境内を歩きまわった。近世中期からほとんど景観が変わっていない。すごいこと。

 移動直後の建物も残り(本堂など)、古高周蔵・俊太郎父子が毘沙門堂を訪ねたことがあったとすれば、もっとも父子を感じれる場所といえる(古高父子は、内裏近隣の里坊に仕えているので、ふだんは洛中にいる)。

 次回は本年6月24日(日)です。超豪華版です。よろしくご参集ください(詳細は↓)。要予約。

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2012.02.09

2月2日~2月4日の中村武生

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2012年2月2日(木)

 NHK文化センター京都教室に出講。「日本史をまなびなおす」講座。大化改新前夜。

 降雪のためJRダイヤ大混乱中。山科駅でも30分遅れが起きている。そもそもプラットホームにも車内にも人が少ない。本日JRを使わない人が増えているか?

 午後から京都新聞文化センターの巡検。「平清盛」をあるく講座。法勝寺跡など白河地区を歩いた。たいへんな寒さ。にもかかわらず、欠席者少なし。京都市動物園を歩きまくり。八角九重塔跡である観覧車にも乗る。けっこう高い。それでも八角九重塔の7分の1。どんだけでかいねんの連発。
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 終了後、受講者の一部と懇親。帰途、たい焼きをあるだけ買う。
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2月3日(金)
 くずし字入門に出講。本日も幕末大仏御殿家来日記。文久3年9月26~27日条(1863年) をよむ。
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 伴林光平と西田仁兵衛も平岡鳩平(北畠治房)ともに大和の戦場を脱出したと記す。平岡からの情報だろう。すると平岡は伴林が無事逃げおおせたと信じていたということか(実際は大和・河内国境で捕縛)。
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 その他、記主山田筑後守が平岡鳩平(北畠治房)の潜伏に関わったことがわかる。これはすでに北畠の回想録により周知であったが、より具体的な様子が感じられる(舌足らずで分かりにくいが)。
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 くわえて関白鷹司輔熈(「楊梅殿下」) の差控が免ぜられたとも記す。
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  終了後、城州葛野郡上桂庄に行く。
2月4日(土)
 京都新聞朝刊(地域プラス欄)に、中村武生と拙著『池田屋事件の研究』(講談社現代新書)が紹介される。執筆は仲屋聡さん。
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 名古屋市の栄中日文化センターの新選組講座に出講。
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 禁門の変。会津と長州の政治過程のなかで新選組をとらえることを心掛けた。九条河原の布陣は、本隊たる伏見長州勢が竹田街道を北上し入京する入り口にあたる。最重要ポイントの一つといえる。
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 結果は竹田口より南の藤森で伏見長州勢は大垣戸田家に敗れた。戸田家の砲撃に長州家老福原越後が負傷したからだ。戸田家は追撃を拒んだため、新選組が伏見街道の稲荷から墨染まで追撃した(浪士文久報国記事)。新選組はけっこうな活躍をしている。
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 このあと洛中から砲声が聞こえる。嵯峨天龍寺の長州勢が禁裏御所に迫ったのだ。新選組を含む会津勢は北上し、禁裏御所に迫る。このあたりはまた次回。
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 夜は上七軒のお茶屋大文字でお仕事。東海大がえし。湖北・湖東の雪景色に絶句する。平安京や洛東、尾張国愛知郡では見られなかった。が、野洲郡まで来るともう雪は無い。犬上郡までか。
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  上七軒でも清盛の話をする。終了後、「お化け」行事。われわれはAKB48に化ける。

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2011.12.20

逢坂山を越えた

2011年12月19日(月)
「都名所図会」をあるく、終わる。
本日は東海道を髭茶屋町から逢坂山を越えて大津八丁まで。
三つの蝉丸神社を参拝。山ほど車石を見て、最後は長安寺の牛塔。
「都名所図会」ではなく、「近江名所図会」をあるくでした。

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