【講演】西郷隆盛とその時代―元治・慶応期を中心に(町田明広さん)

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山科本願寺・ 寺内町跡(中心部) 国史跡指定追加 記念講演≪第4弾≫
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【日時】2018 年1 月7 日(日)14 時~
【会場】アスニー山科(山科駅から南へすぐ)
【講師・演題】
登谷伸宏先生(京都橘大学)「『洛東高校本山科古図』 にみる近世山科の景観」
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★事前申込不要
★参加費 500円
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主催:山科本願寺・寺内町を考える市民の会
問い合わせ〔Mail〕tasuki@dream.nifty.jp(中村方)
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このたび発見された伏見薩摩屋敷の絵図について、所蔵者である城南宮が一般対象に説明会を行います。
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日時:2017年(平成29)6月11日(日)午後2時から(受付開始は午後1時30分)
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演題:「新発見の薩摩藩伏見屋敷絵図について」
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講師:鳥羽重宏さん(城南宮宮司)
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参加費:無料(ただし神苑拝観料、大人600円、中学生400円が必要)
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場所:城南宮斎館(京都市伏見区中島鳥羽離宮町7)
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問合せ:城南宮総務部広報課(担当:川崎重寿さん、奥将人さん)
〒612-8459京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
電話075-623-0846 FAX:075-611-0785メール:mail@jonangu.com
報道資料http://www.jonangu.com/release.htm
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【講演】山科本願寺・寺内町跡(中心部)国史跡指定追加記念講演≪第2弾≫
西川幸治先生「都市史のなかの山科寺内町」
本年12月4日(日)14時~
アスニー山科(京都市山科区竹鼻竹ノ街道町92ラクト山科C棟2階)
予約不要
500円
主催:山科本願寺・寺内町を考える市民の会
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6月28日(金)
午後から「中村武生のくずし字研究会」に出講。引き続き幕末会津関係記録を読む。夜、山科本願寺・寺内町市民の会事務局の論文を読む会に参加。福島克彦氏が草野顕之氏論文を書評。終了後、福島さん、安藤弥さん、郡邦辰さん、島田雄介さんと懇親。
6月29日(土)
午後、名古屋市の栄中日文化センターに出講。新選組講座。慶応3年6月、新選組の徳川家仕官とそれに関わる茨木司・佐野七五三之助ら4名の自刃事件などを扱う。終了後、受講者と懇親。ほんとうは桑名市の幕末展に行きたかったが、疲れた。
6月30日(日)はれ
午後、幕末マニア講座A班(新選組)に出講。巡検。甲子戦争(禁門の変)における天王山の真木和泉を追うコース5回に分けてあるいている。今回は洛外に出たところ(城州紀伊郡東九条村)から竹田街道をとって伏見奉行所まで。休憩含めて3時間30分ぐらいだった。終了後、参加者全員と懇親。キリン一番搾りを飲ませ、80年代音楽のかかる店。
7月1日(月)はれ
前夜から娘発熱、今朝39度1分まで上がる。午前10時、都名所図会をあるくに出講。寺町を鞍馬口から南下。上御霊神社、阿弥陀寺、十念寺、本満寺、浄華院(清浄華院)、盧山寺に参る。明日、清浄華院で講演がある。出てこられた職員松田健志さんと軽く打ち合わせ。娘、日中39度6分まで熱あがる。翌日10年ぶりに会う予定だった友人I谷T士さんとの懇親、延期してもらう。が、その後、通院・投薬によりおさまりつつある。
7月2日(火)はれ
朝、娘の熱36度8分まで下がる。もう安心。
読売新聞京都総局の二谷さん(女性)から電話。高倉七条で検出された徳川時代に付け替えられた「御土居」基底部についてコメントを求められる。
昼から基礎からまなぶ!日本歴史に出講。いつもの1週間の日本史ニュース解説、および第一次吉田茂内閣。第二次農地改革、日本国憲法公布、傾斜生産方式、二・一ゼネスト中止など。
午後3時、清浄華院に移動。大方丈で講演。「清浄華院にいたころの松平容保―池田屋事件前夜」。友人で同寺史料編纂所の松田健志さんからのお誘い。第5世向阿の忌日の一環で。向阿忌は、僕の師の一人である前法主伊藤唯真猊下が再興されたもの。誠にありがたい機会を頂戴した。
終了後、参加者4人と池田屋騒動之址碑の建つ店で懇親。
7月3日(水)一時あめ
午前、京都女子大学に出講。歴史地理学という科目。昨年末の聚楽城本丸南辺石垣列検出、およびその保存・公開問題を紹介する。
終了後、共同通信の記者(女性)から大学に電話あり。前日に記した「御土居」基底部についてやはりコメントを求められる。
午餐で立ち寄ったラーメン店でカサを忘れる。
午後、一般向けに聚楽城武家地を案内した。前回のつづき。雨の危険のあるなか、意外と多くの新規の方がお越しになる。参加くださった豊臣期京都に詳しい郡邦辰さんからたいへんな示唆をうける。参加費をいただいてはいけないほどだった。
二条城東大手門では旧知の受講者にばったり。案内をしておられる。板倉勝重・重宗邸跡碑、直江兼続邸推定地道標、毛利輝元邸跡推定地、宇喜多秀家邸跡、徳川家康邸跡推定地、中村一氏邸跡推定地、平安宮内酒殿跡井戸検出地、松林寺、聚楽城本丸南辺石垣列検出地、杉原寧(豊臣秀吉正室)居所跡推定地、豊臣秀勝邸跡伝承地碑などをあるく。
聚楽城本丸南辺の石垣列が検出した地は、いま建設工事のまっただなかである。外から普通にのぞけたので写真を掲示しておく。西側から。石垣を公開した昨年12月24日の同じ場所の同じ角度の写真もあわせてのせておく。石垣列は地下に保存した由だが、まったく封印された状態だ。
途中、直江兼続邸推定地道標のそば、既知の喫茶店「チタチタ」でお茶会実施。
終了後、四条烏丸に移り、NPO法人京都歴史地理同考会理事の一部と臨時の打ち合わせあり。この間、京都市中ではゲリラ豪雨。運よく避けられた。
7月4日(木)あめ
午前、NHK文化センター京都教室に出講。もう一度まなびなおそう、日本史。今回は院政と保元の乱。「叔父子」問題について、角田文衛氏(故人)の旧説と美川圭氏の新説をご紹介。
雨のため、午後から予定していた豊国社跡と大仏跡巡検を中止する。やっとカサを買う(家から持ち出さなかった)。午餐は裏寺町の「喜の家」でひとりお好み焼き。この間に雨がやむ。たまたま立ち寄った四条河原町のブックオフで、受講者である京都女子大学文学部史学科2年生Oさんにばったり。せまい社会だ。カサ結局ほとんど使わず。晴れ男の面目躍如である。自分を信じて買わなきゃよかった。
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11月13日(土)はれ
高槻市立しろあと歴史館に出講。「幕末-京都御土居堀と禁門の変」を講ずる。
招聘くださったのは中西裕樹さん(当館学芸員)。ミヤコの城壁・環濠たる御土居堀に時間をついやし、禁門の変そのものの考察が不十分だった。
写真は京都市北区大宮土居町の部分。もっとも良好に現存する部分(2000年春撮影)。
夜は、東京の友人C野F哉氏が備後鞆ノ浦から上洛。懇親。
晩年の龍馬につき、議論。すでに周知のことだが、「船中八策」は明治以後の龍馬作家たちによる創作(フィクション)である。それがいかにつくられたか、C野さん作成の詳細な図を拝見。近いうちに公表されるであろう。
11月14日(日)はれ
岐阜市で惣構(そうがまえ)シンポジウムが行われる。早朝9時から夕方5時まで。朝早く拙宅をたち、午前9時すぎの開始から参加する。
昨日御世話になった、中西裕樹さん(高槻市立しろあと歴史館学芸員)や福島克彦さん(大山崎町歴史資料館学芸員)をはじめ、全国の研究者が惣構を論ずる。
実に勉強になった。細かい話を書きたいが、時間がない。京都の御土居堀は「異質」事例だと中西裕樹さん。感慨ぶかい。
日帰り。帰宅して入浴介護。夜食は久しぶりのカレーライス。
11月15日(月)ぼくのいたところは一時雨
午前中、「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」に出講。嵯峨をあるく。テキストは臨川寺のあと「小督屋敷」に行くようにすすめる。が、「小督屋敷」がわからない。近世京都の地誌類にも立項されていないもよう。
が、松尾芭蕉の「嵯峨日記」(元禄4年(1691)4月19日条)に登場することがわかった。そこには「松尾」にあると述べるものの、上嵯峨・下嵯峨にも三カ所あり、どれが確かかわからないと述べている。
いまはそれもすべて失われたようだ。ゆえに「嵯峨日記」にもある、渡月橋東詰の「三軒茶屋」跡に存在する「小督塚」にたちよる。このとき、大雨。洛中には降っていなかったとあとで知る。
つぎは天龍寺。人ばっかり。すぐに立ち去る。ついで野宮。ここで終了。嵯峨には三宅碑が多い。本日は3基はみたか。
午後から洛中へもどる。寺町今出川下ルの同志社大学「でまち家」(黒田了助清隆寓居)へ。途中、朝日カルチャー帰りのY田K和博士とばったり。立ち話5分。
でまち家から幕末薩摩旧蹟めぐり。黒田了助清隆寓居でも、西郷隆盛邸跡の「塔ノ段」付近でも、石碑がないことをなげく。
最後は小松帯刀邸跡の室町上立売上ル室町頭町付近で終了。熱心な方々ばかりで、歩きながら多数の質問をいただき、また答える。
夜はやっぱり入浴介護。
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10月28日(木)あめ
京都新聞文化センターに出講。龍馬講座。
龍馬の大政奉還の空間をあるく。
三条京阪駅に集合し、まず酢屋中川嘉兵衛方(木屋町三条下ル一筋目西入ル北側)に向かう。京都市教育会が1928年に建てた「坂本龍馬寓居之趾」標石がある。
この地に建つ解説板には、大政奉当時(慶応3年<1867>10月14日)の龍馬の居所であるという。龍馬は殺害直前の11月初旬、越前福井から帰京したのち、殺害現場となる近江屋新助方に移ったとある。
この根拠は、岩崎英重(鏡川)「坂本と中岡の死」であろう(『坂本龍馬関係文書』2巻、 360頁、1926年)。典拠は「井口新之助談話」とある。井口新之助は近江屋新助の子である。
ただこの成果には疑問がある。
1917年(大正6)9月27日および28日、龍馬研究者だった川田瑞穂(雪山)が、龍馬存世当時の中川嘉兵衛の子、近江屋新助の子井口新之助、菊屋峯吉こと鹿野安兵衛の三者から聞き取りをした。
これによれば、井口新之助は、近江屋に龍馬が入ったのは殺害の「前年ノ暮カ当年ノ春頃ヨリト思フ」とある(『坂本龍馬関係文書』1巻、449頁、1926年)。
岩崎英重「坂本と中岡の死」は事実に反したことを記していることになる。
当然のことながら、川田も、龍馬が近江屋に移ったのは「慶応三年春夏以後ノコトナリ」。「随(したがっ)テ大政返上当時ハ、近江屋ニ在リタルコト明白」と断じた(『坂本龍馬関係文書』1巻、 449~452頁、1926年)。
この成果を、岩崎英重(鏡川)は川田瑞穂から書翰で受けて知っていたのである。書翰がちゃんと岩崎編の『関係文書』に載っているからである。
井口新之助の談話のすべてが信用できないことは周知のことであるが、それはともかく岩崎はそれを根拠にしたのだから、殺害直前に近江屋へ移ったなんて話は出てくるはずがない。岩崎はどうしたことだろう。
ちなみに今回の大河「龍馬伝」でも、あいかわらずこの説が使用されるらしい。殺害直前に近江屋新助方に移るらしい。大政奉還は酢屋嘉兵衛方で知るということか。
そんなことを「坂本龍馬寓居之趾」標石の前で受講者に語った。
なおそのあと我々は、後藤象二郎寓居とされる壺屋跡に移り、ほんとうにここが大政奉還当時の後藤の居所といえるか、何が根拠か論じた。
だって岩崎鏡川『後藤象次郎』(1898年)には、後藤は二条城から「大仏の藩邸」に帰ったとあるもの。「大仏の藩邸」とは智積院のことである。さあ、どちらが正しいのでしょう。
ついで土佐屋敷跡から近江屋跡へ移り、ふたたび壺屋跡付近を通って二条城へ向かった。後藤の登城を模してみるわけである。
けっこうな距離があった(らしい)。ひとりの受講者は途中リタイヤ。ひとりはタクシーで単身二条城にこられた。
城内二の丸大広間で、信用できる史料にもとづいて大政奉還シーンの復元を試みた。自動で流れる解説の誤りを正しておいた。いつまでこの虚構が、参観客を事実から遠ざけつづけるのだろう。
その日、二の丸大広間には「大名」は来ていません(久住真也『幕末の将軍』246~248頁、講談社、2009年)。
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