毎日新聞にコメントが載りました
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去る6月11日(土)から関東へ下っていました。
東京都江東区の武蔵野大学有明キャンパスで明治維新史学会大会が行われていたため。12日(日)までの2日間。学ばせていただきました。いろいろありがとうございました。
6月13日(月)も在関東で、雨天のなか、横浜へ行っていました。西村芳次郎(「今松花堂」)の提携先である茂木惣兵衛の商店跡などに立ってみた。現地に立ってイメージがわく。そのうえでまた論文に立ち向かう。頭の中の風景がすでに変わっている。すごい。
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12月27日(土)に毎日文化センターの龍馬講座で、2014年の御用納め。その夜は摂津西宮N等さん方で幕末講座懇親会。
28日(日)から論文執筆と紙ごみ破棄のみの生活継続中。すでに提出済みの「幕末政治的主要人物京都居所考」と「御土居藪と角倉与一」に加筆。初校で修正するつもり。
29日(月)は来年1月24日刊行予定の『歴史読本』の原稿(池田屋事件と吉田稔麿)の初校が来る。即日返す。夜、京都新聞文化センター受講者の鈴木孚さんから『フロイス日本史』全巻(中央公論社)が届く。拙宅には全巻そろっていなかったので、ありがたく拝受する。
30日(火)は午後から奥さんが不在だったので、娘と昼食に出かけ、いろいろ甘やかす。奥さん帰宅後、紙ごみ破棄と「『三宅安兵衛遺志碑と八幡の郷土史家西村芳次郎」論文の最終修正をする。
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以下の玉著・玉稿を拝受いたしました。記して御礼申し上げます。
○竹中友里代さんより
『城陽市域の地域文化遺産―神社・街道の文化遺産と景観―』(京都府立大学文化遺産叢書第6集、菱田哲郎編、京都府立大学文学部歴史学科、2013年3月)
※竹中友里代氏「南山城における養蚕・製糸業と長池柞蚕製糸工場」が所載されている。この玉稿で僕が気になってしょうがない城南八幡の郷土史家西村芳次郎とその家族に言及がある。西村は三宅清治郎の建碑の最大協力者である。僕の仕事が遅れまくっているなか、竹中さんはつぎつぎと成果をあげられている。頭があがらない。
○藤田英昭さんより
同氏「「森川家文書」所収の江戸城「御本丸御奥方御絵図」について」(『千葉県の文書館』第18号抜刷、2013年3月)
※下総の大名森川氏に伝来した、徳川家光期の江戸城大奥の絵図に関する研究。従来しられていた江戸城本丸御殿絵図よりさらに古いものと位置づけられた。描写内容の検討から、家光御台所鷹司孝子の居所にまで言及しておられる。空間論から政治史や人物の動向に接近するという手法が興味深い。
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12月27日(月)はれ
午前9時、JR嵯峨嵐山駅に集合。
「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」、今年最後の巡検。嵯峨地区。
まず安堵橋と油掛地蔵に行こうと思っていたが、ルートの問題点を地元の参加者S貝さんに指摘された。したがう。
法然の弟子が建立した、往生院跡に立地する祇王寺と滝口寺に向かう。
いつものように、『京都市の地名』(平凡社)を頼りにしたが、驚いた。
まず「往生院」が立項されていない。
何度も申し上げたつもりだが、平凡社の『~の地名』は僕がもっとも信頼を置く地名辞典である。
とくに『京都市の地名』は、僕の観光地案内にほぼ全面的に依拠している。それが、である。
往生院は、実在のあやしい寺ではない。
たとえば応永33年(1426)9月、足利義持の命により製作されたと伝わる「嵯峨諸寺応永鈞(きん)命絵図」に載っているし(高橋康夫ほか編『図集日本都市史』92ページ、伊藤毅氏執筆部分)、文明17年(1485)9月10日、足利義政が「尺(釈)迦堂」参詣のあと訪問している(「親元日記」『大日本史料』当該部分)。
まず滝口寺に入る。
新田義貞首塚碑がある。側面には新しそうな勾当内侍の五輪塔もあった。
これまた『京都市の地名』の「滝口寺」項にその記載がない。
1894年(明治27)に富岡鉄斎が建立したものらしいが(さまざまな施設に邪魔されて碑石にちかづけず、銘が読めない)、「太平記」巻20に、義貞の獄門首をみた京都妻勾当内侍(こうとうのないし)が、「嵯峨ノ奥ニ往生院ノアタリナル柴ノ扉(とぼそ)」で供養をしたとあるのが根拠であろう(日本古典文学大系『太平記』2巻、327ページ)。 ただ供養をした地「往生院のあたり」といっているだけで、首を埋めたとはない。
義貞の首塚は他地域にも2か所あるし、まあ事実とは思えない。実証困難である。
滝口寺が参観者に配布しているチラシに以下の記載があった。
もと三宝寺(三宝院)といったが、近代になって、佐々木信綱博士が、高山樗牛著『滝口入道』にちなんで「滝口寺」と命名したとある。
いえいえそんなに新しくないです。江戸中期の観光ガイドブック『都名所図会』巻4「三宝院」の挿図に、すでに「滝口寺」とあります(『新修京都叢書』6巻、371ページ)。 もっと古いです。残念だ。
滝口入道の恋人だった横笛の歌を刻んだ「台石」があると、『都名所図会』に記載されている(前掲373ページ)。
それだという石の横に「滝口と横笛の歌問答旧跡 三宝寺歌石」と示す、1932年(昭和7)5月建立の標石があった。
向かって右側面に嵯峨村長(当時)小林吉明の和歌が刻まれていたので、一瞬未知の三宅清治郎建立碑かと思った。
書体が似ていたのと、嵯峨の三宅清治郎建立碑にも小林吉明の和歌を刻んだものがあったから。
書は「杵屋佐助」なる人による。この人、知らない。
同じく向かって左側面に「昭和七季五月勾当内侍供養」の日に、「大阪下村清治郎」が建てたという。
そこで気づいた。さっきの新しいと思った勾当内侍五輪塔の建立日に、いっしょに建てたのだ。
で、さっきの五輪塔にもどってみた。
何か刻んでいないか。
やっぱり、刻まれていた。
「昭和七年五月作曲記念/杵屋佐吉一門/佐門会建之/賛助小林吉明」だ。
作曲? 杵屋佐吉一門? 芸能人か?
あとからわかった。長唄三味線の名跡なのだった。
杵屋佐吉は世襲名で、現在は7代目になられる。この標石を建てたのは4代目のようだ。「滝口と横笛」みたいな歌をつくられたのだろう。
こうして史蹟はつくられる、いつもの話だな。楽しかった。
ついで祇王寺に入る。
ここでも『京都市の地名』の誤りにきづいた。
祇王寺の由緒を、往生院が「中世以降荒廃していたのを『平家物語』『源平盛衰記』の遺跡として明治に復興し、往生院祇王寺と名付けた」と記している(1078頁)。
ちがいます。祇王寺の参道に、貞享4年(1687)銘の「往生院きおうし」と刻む標石をみつけた。
つまり江戸前期にもう「往生院祇王寺」と呼ばれているわけだ。
境内に五輪塔と宝筐印塔が並んでいて、「清盛公供養塔」と「祇王・祇女・母刀自の墓」と記す駒札があった。
これら五輪塔や宝筐印塔らしきものは『都名所図会』にも載っているが(前掲372ページ)、当時は4つ以上あったようにみえる。
しかも宝筐印塔らしきものには、「祇王・祇女・仏・刀自」とある。
仏御前(「仏」)が消失している。
でもね、そのそばに建つ、明和8年(1771)の旧蹟碑(「祇王・祇女・仏・刀自之旧跡」、こんなものが残っていることに感激)には、「四尊尼墓」とあります。4人の尼なわけですよね、3人でなくて。
混乱している。情報整理が必要だろうな。おしい。
楽しい半日だった。
解散後、余韻をもって、昼食もせず、単身宝筐院に参拝した。
楠木正行首塚と足利義詮の墓がある。この真偽については深く立ち入らない。
問題は楠木正行の歌碑である。
その寄付者が裏面に記載されていた。「中村寿田」である。
これは富小路錦小路にあった中村石屋の人である。
なぜそんなことに関心があるかといえば、三宅清治郎の用達なのである。三宅碑の大半はここが請け負った。
金地院の父安兵衛の墓石もここがつくった(三宅清治郎日記によりわかる)。
「富錦」中村石屋が製作した石柱(石碑)は、洛中洛外の各所に現存する。
三宅碑調査の一環でこれも追っているが、今回未知のものを知ったわけだ。ありがたいなあ。
三宅碑論文も遅れている。すいません。池田屋事件が脱稿したら、すぐします。
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12月9日(木)はれ
京都新聞文化センターに出講。龍馬講座最終回。
「よみがえった龍馬」というテーマで、龍馬の死後、いかに存在が思い出され顕彰されていったかを論じた。
とくに日露開戦直前、葉山御用邸の皇后美子の夢枕に龍馬がたった話の意義について、つよくお話しした。30年廃業していた寺田屋が、旧地の西隣地に復活したのもこれが端緒になっている。
NHK大河ドラマによって今年は大きな龍馬ブームだったが、つぎはいつ大きくとりあげられるかまで予想しておいた。
宇治市小倉公民館の吉水利明館長から、すてきな封書をいただいた。
在野の文化財保護活動者としてしられる岩永蓮代(故人)に関するものである。体がふるえるほどうれしかった。ありがとうございました。
吉水館長については、以前のべた(本年10月23日付)。宇治市にある三宅碑の保護者のひとりである。岩永蓮代の高著『文化財保護ありのまま』(六興出版、1988年)にも登場される。
同じくすでにふれたが、実は岩永は現宇治市木幡にあった藤原道長ゆかりの浄妙寺跡の標石を寄附した人である(写真)。この近隣地に藤原道長は埋葬されている。標石は現存するが、それには岩永の名は刻まれていない。このままでは忘れられてしまうかも知れない。あらためてここに記してながく伝えたい。
夕方、自宅でパソコンにむかっていると、テレビニュースが、牽牛子塚古墳(奈良・明日香)のそばで地下から未知の古墳が見つかったと報じた。
絶句した。手をとめてニュースに見入った。牽牛子塚古墳は斉明天皇陵の有力候補である。「日本書紀」には、斉明天皇陵の前に孫の大田皇女の陵墓があると記してある。
が、牽牛子塚古墳の前に該当する古墳がなかった。この一点が、牽牛子塚古墳=斉明天皇陵説に不利だった。
それが解消されたことになる。考古学史上、画期的発見といえる。思わず「日本書紀ってホンマのこと書くんや」とつぶやいてしまった。
来る日曜日、珍しく外勤がない。現地説明会に行けるじゃないか。
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11月13日(土)はれ
高槻市立しろあと歴史館に出講。「幕末-京都御土居堀と禁門の変」を講ずる。
招聘くださったのは中西裕樹さん(当館学芸員)。ミヤコの城壁・環濠たる御土居堀に時間をついやし、禁門の変そのものの考察が不十分だった。
写真は京都市北区大宮土居町の部分。もっとも良好に現存する部分(2000年春撮影)。
夜は、東京の友人C野F哉氏が備後鞆ノ浦から上洛。懇親。
晩年の龍馬につき、議論。すでに周知のことだが、「船中八策」は明治以後の龍馬作家たちによる創作(フィクション)である。それがいかにつくられたか、C野さん作成の詳細な図を拝見。近いうちに公表されるであろう。
11月14日(日)はれ
岐阜市で惣構(そうがまえ)シンポジウムが行われる。早朝9時から夕方5時まで。朝早く拙宅をたち、午前9時すぎの開始から参加する。
昨日御世話になった、中西裕樹さん(高槻市立しろあと歴史館学芸員)や福島克彦さん(大山崎町歴史資料館学芸員)をはじめ、全国の研究者が惣構を論ずる。
実に勉強になった。細かい話を書きたいが、時間がない。京都の御土居堀は「異質」事例だと中西裕樹さん。感慨ぶかい。
日帰り。帰宅して入浴介護。夜食は久しぶりのカレーライス。
11月15日(月)ぼくのいたところは一時雨
午前中、「江戸時代京都の観光モデルコースをあるく」に出講。嵯峨をあるく。テキストは臨川寺のあと「小督屋敷」に行くようにすすめる。が、「小督屋敷」がわからない。近世京都の地誌類にも立項されていないもよう。
が、松尾芭蕉の「嵯峨日記」(元禄4年(1691)4月19日条)に登場することがわかった。そこには「松尾」にあると述べるものの、上嵯峨・下嵯峨にも三カ所あり、どれが確かかわからないと述べている。
いまはそれもすべて失われたようだ。ゆえに「嵯峨日記」にもある、渡月橋東詰の「三軒茶屋」跡に存在する「小督塚」にたちよる。このとき、大雨。洛中には降っていなかったとあとで知る。
つぎは天龍寺。人ばっかり。すぐに立ち去る。ついで野宮。ここで終了。嵯峨には三宅碑が多い。本日は3基はみたか。
午後から洛中へもどる。寺町今出川下ルの同志社大学「でまち家」(黒田了助清隆寓居)へ。途中、朝日カルチャー帰りのY田K和博士とばったり。立ち話5分。
でまち家から幕末薩摩旧蹟めぐり。黒田了助清隆寓居でも、西郷隆盛邸跡の「塔ノ段」付近でも、石碑がないことをなげく。
最後は小松帯刀邸跡の室町上立売上ル室町頭町付近で終了。熱心な方々ばかりで、歩きながら多数の質問をいただき、また答える。
夜はやっぱり入浴介護。
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10/22(金)はれ
午前10時、宇治市小倉公民館に出講。龍馬の話をする。
公民館館長と名刺交換して驚いた。宇治市の歴史研究や文化財保護にながく尽力されてこられた、吉水利明さんである。宇治市歴史資料館長でしたが、転任しておられたのですね。知らなかった。
初めてお目にかかったが、過去に宇治市域に建つ三宅清治郎碑のことでお電話で対応いただいたことがある。三宅碑を現在知られるように啓発されたのは、東京都杉並区の主婦岩永蓮代(故人)である。
岩永蓮代のその著書『文化財保護ありのまま』(六興出版、1988年)によって、僕も三宅碑を知った。出版直後のことである。そのあとがきの、お世話になった方一覧に、吉水利明さんは列挙されている。そのことも知っていた。
三宅碑の拙稿もお読みいただいていた由。お気づかい戴いて龍馬のことをいろいろ聞いてくださったが、あえて話題を変えさせていただいて、三宅碑や岩永蓮代の思い出話を聞かせていただいた。藤原道長建立の浄妙寺跡の碑は、岩永蓮代の申し出で彼女が出資した由。初めて知った。本当に感激した。
宇治市小倉といえば、玉露発祥の地として知られる。よいお茶をごちそうになったほか、土産もいただいた。聴き上手の聴衆にも恵まれ、夢心地で小倉地区を退した。
奈良県天理市へ向かう。天理大学に出講。出席を取らない、来なくてよいといいまくったので欠席者多数。それでも来てくれる子がいる。
今回は平城京羅城のはなしをした。身近な奈良県の話だったからか、静かにまじめに聴いてくれる。今日はいつもより後味がよかった。
入浴介護があるので、帰途を急ぐ。
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