2007.11.27

ひこにゃんと鞆ノ浦と三宅碑と惣構論

 ブログランキング、ついにベストテンをおちて、12位になっている。
 人気のないことだ。

 11/26(月)はれ
 また暖かい日でした。
 幸せを感じる、よい日でした。

 午前中、大谷大学に出講。
 三宅碑のはなしをする。
 ただの孝子ばなしでは終わりません、建碑は史蹟をつくりあげる行為につながると論じます。
 次回につづきます。

 事務所にいるとき、週末の鞆ノ浦での講演についてH谷さんからお電話。
 室内でパワーポイントによる講演と考えていたのだが、現地見学を中心に2時間といわれ、めんくらう。

 それではたぶん中途半端になって、けっきょくお伝えできないことだらけになりそう。
 
 で、お話しして、室内講演1時間30分、現地見学2時間ていどということにしてもらう。
 働く時間がふえてしんどいのだが、やる以上、よりよい成果をあげたいという思いがある。
 当然のことだ。

 「龍馬の宿」の入室費や、お茶代などもくわえて参加費1700円になるらしい。
 すこし高い気がする、新聞社主催のカルチャースクールが1時間半で2000~2500円ていどなので、まあそれほどでもないか。

 お電話のあと、あわてて佛教大学に出講。

 こちらは惣構(そうがまえ)論。
 網野善彦さんから小島道裕さんにいたる研究史を紹介する。

 小島道裕さんの「戦国期城下町の構造」(『日本史研究』257号、1984年)という論文は、町を囲う施設=惣構(そうがまえ)が歴史学研究に役立つことをはじめて明確に示したものとしてきわめて意義深い、と思っている。
 そのはなしをいたす。
 
 これを批判的に継承した、仁木宏さんの研究(「御土居への道」日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣)を次回紹介いたします、と予告しておわる。

 夜、「京都検定/日めくりドリル」の今週分をつくって送る。
 今週で「世界遺産シリーズ」はおわります。
 来週はなににしよう。

 今日のできごと。
「ひこにゃん」騒動の調停が継続されたと聞いた。
 詳しいことはわからないが、彦根市長さんの発言をきいていると、著作者の権利とはそんなに低いものなのかと不思議に思っていた。

 彦根市長さんは弁護士でもある。
 だからとても奇異に感じていた。

 今後の調停経過が気になります。

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2007.08.08

戦国期本能寺旧境内から堀が出た

8/7(火)はれ一時雨
 朝、京都新聞朝刊をみておどろいた。

 戦国期の本能寺旧境内から堀が出たという記事だ。
 外郭を囲む堀ではない。
 内部をさらに区画してるのだ。

 出土瓦が大きく写真掲載されている。
 「能」の字が現在のそれだ。

 つくりのところ「ヒ」「ヒ」が重なっているのがただしい字なのだが、たび重なる火災に縁起をかついだ同寺は、つくりに「去」という字を使って、まったくことなる字をつくった。

 それが戦国以前だとは思わなかった。
 近世のことだと思っていた。
 まったくもっておどろいた、というわけ。

 現地説明会がないらしい。
 これは残念。実に残念だ。

 夜、「R」で学習。
 ずっと持ち続けてきた某論文、その推敲。
 ようやく世に送る日がきたと意気込んでいる。

 飲み屋で勉強しやがって、という隣客のいやみに負けず、はかどらせる。

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2006.11.13

御土居堀、浅井忠、松花堂の1日

11/12(日)はれ、寒い日。
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 午前中、御土居堀を考える講座。
 JR二条駅に集合。

 今回からあたらしい企画。
 京都町奉行の御土居堀の視察(巡見)コースをあるくというものです。

 享和元年(1801)3月20日が、史料にのこるその第1回です。
 とても1度にすべて回れないので、何回かにわけます。

 今回は東町奉行所跡から二条通、寺町通をへて今出川通まで。
 途中、京都市歴史資料館にたちより展示を拝観。
 寺町の盧山寺に残る部分(国史跡)も見学。

 終了後、受講の方のお昼ご飯のお誘いをお断りし、午後から、単身、京都市美術館へ。
 「浅井忠展」を拝観。

 建碑の三宅清治郎の実弟安次郎は、浅井忠と交際がありました。
 浅井忠と深い付き合いのあった中沢岩太、武田五一と、三宅清治郎自身も交流がありました。

 すなわち三宅碑研究のための学習で、うかがったわけです。
 洋画がわかる素養はないけれど、楽しく、興味深く拝観できました。

 同館で友人と待ち合わせ、八幡市へ。
 松花堂美術館で特別展が開催されてますので。

 松花堂昭乗は八幡の郷土史家、西村芳次郎が生涯をかけて顕彰した対象です。
 西村は前記三宅清治郎を助けて、城南に建碑をした人物です。
 その関連で松花堂昭乗に関心があります。

 たまたま書を愛する友人が、そちらの関心で「行きたい」と行ったので、こちらも関心と重なりましたので、「じゃあ行こうや」ということになりました。

 帰りには西村旧邸でもある、松花堂庭園も拝観(写真)。
 もっと西村芳次郎を顕彰してほしいなぁ。

 でも研究もなく、無理か。
 いま誰も西村を研究する人はいない。
 結局西村顕彰のおくれは、論文発表が遅れている僕の責任か。
 
 楽しい、楽しい日でした。

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2006.11.01

城陽市の三宅碑1基が再建される

10/31(火)はれ
 基礎から学ぶ日本歴史に出講。
 まだ奈良時代の政治史。
 「続日本紀」の橘諸兄政権のある部分を講読。
 進まんなぁ。

 そのあと府立総合資料館に。
 司書Mさんからさまざまな情報を頂戴する。
 
 城陽市の三宅碑の1基が20年ぶりに再建された由。
 掲載された新聞を頂戴す。
 
 近々確認に行かねば。

 が、多忙すぎて、行けそうにない。

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2006.10.16

修学院・一乗寺の三宅碑をみてあるく

10/15(日)はれ
 午前中、修学院・一乗寺の三宅碑をあるくイベント。
 詩仙堂、金福寺、円光寺へ導く道標です。
 秋晴れ、少し暑い。

 その足で、午後から、ひと・まち交流館で行われた「維新を語る会」に出席。京都市教育会建立碑に関する報告があったため。みなさんにおススメしたら、参加者8人も同行される。
 昼食とるひまなし。
 
 高校生のときによくお邪魔した会。約20年ぶり。
 お世話になった方が多くおられる。「先生、先生」といわれて、気恥ずかしい。

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2006.10.03

淀の三宅碑をあるき、東京へむかう

9/30(土)はれ
 午前中、淀の三宅碑をあるくのイベント。
 7基をみてあるく。

 一基、淀駅ちかくの踏み切りにあった安養寺碑がなくなっていた。
 おそらく工事のため一時的に避難していると思われる。

 次は10月15日(日)、修学院の同碑をみる。

 午後2時すぎ、東京へ向かう。
 明日から、横須賀で坂本龍馬妻おりょうの没後100年祭がある。
 それを見に行くため。

 午後4時半、東京駅着。
 銀の鈴で歴史作家のK氏、出版人のY氏と待ち合わせ。懇親。
 深夜まで大盛り上がり。

 秋葉原に宿泊。

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2006.08.23

加茂と笠置の三宅碑調査にゆく

8/22(火)はれ一時雨
 未知の三宅碑を確認に、城南へむかう。
 大半は、知人や大学生が教えてくれていたものの、自身では未確認だったもの。 

 京都府相楽郡加茂町、笠置町に入る。
 計6基と出会う。
 満足。
 
 笠置山で大雨に遭う。
 まだありそうだったが、あきらめる。
 
 宇治田原町にもまだ4か所以上未確認のものがある。
 三宅碑は最初の論文以後、おびただしい成果を得ているのに、まだ活字になっていない。
 早く世に送らなければ申し訳がたたない。

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2006.07.16

宵山前日の嵯峨野・洛中を歩く

7/15(土)はれときどき雨
 
 午前9時、JR山陰線「嵯峨嵐山駅」集合。
 三宅碑をあるく。

 もう夏なので、参加者が日射に倒れないよう、午前中の見学会です。
 寛政年間の道標を発見しつつ、嵯峨甲塚町の「日像上人題目石」へ。
 17年前、付近で家庭教師をしていて、いつも見ていたこと、三宅碑だと気づいたのはかなり経ってからなどお話しする。

 遍照寺で貞享年間の仁和寺の境界石を二基みつけ、驚く。
 先日は園城寺や、山科毘沙門堂の境界石を確認。
 あるもんだなぁ。

 広沢池の三宅碑、また位置が変わっていた。
 裏面がみえない。

 嵯峨の農地をあるく。
 すばらしい。京都近郊にこんなに広い農地がある。

 いくつかの三宅碑をみながら名古曾滝の遺構、大沢池、大覚寺に。
 平安時代の天皇・上皇の離宮が、園池付きで、こんなに残されている(嵯峨院跡)。
 何度きてもすばらしい。

 今日は暑さをきらって午前中に行ったのに、午前中からすごい暑さ。
 お1人リタイヤもあった。
 午前12時、大覚寺門前で解散。

 洛中へ戻り、ゆっくり昼食。
 そのあと、祇園祭宵山前日(宵々山ではない)の下京をあるく。

 夕方、大雨。すごい人。逃げる。

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2006.07.06

寸断され廃棄された三宅碑

7/5(水)くもりときどきあめ

 午後1時、先日記した、水路で発見された「三宅碑」3片を某所へ確認にゆく。
 不要物としてハンマーなどで寸断され、廃棄されたと推定されます。
 下劣な行為にふるえる思いです。

 石碑をなんだと思っているのだ。

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2006.06.27

折れた三宅碑、3基発見の由

 久しぶりに2日もあいてしまった。
 各方面からご心配いただいています。
 
 新聞連載をふたつももっているので、その措置です。
 少し休憩するとすぐに締め切りがやってくる。
 
 昨日、衝撃だったのは、某所の水路から三宅碑が3基見つかったという連絡。
 しかも残欠らしい。

 いま駆けつける余裕はない。ただ「早く会いたい」と思っている。

 今日は午後から紫野・鷹峯の見学会です。
 午後1時、京都市北区の千本北大路南西角に集合、雨天決行です。
 ひさしぶりに、みなで「あぶり餅」を食べよう。 

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2006.05.29

山科の三宅碑をあるく

5/28(日)はれ一時あめ 

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 「山科の三宅安兵衛遺志碑を歩く」のイベント。

 現在、山科に三宅安兵衛遺志碑は1基しか残っていません(醍醐には2基)。
 だから必ずしも、現存碑を見に行くというわけではない。

 「三宅日記」によると、1926年(大正15)6月20日、記主三宅清治郎は、山科へ出かけ、建碑の地を探っております。
 そのルートを歩くというイベントです。

 参加者のなかには、小学校5年生のお嬢さんもあり。
 全体の空気がやわらいでいたような感じ。

 さてコース。
 日ノ岡駅跡⇒百華園跡⇒天智天皇陵⇒妙応寺 とおよびました。

 妙応寺ってご存知ですか。
 現在の山科では決して知られた寺院とはいえません。

 三宅清治郎は歴史研究者ではありません。
 西陣織の帯屋さんです。
 とくに山科の歴史に詳しいわけではないはずです。
 
 その彼が訪ねた。
 当時は知られた寺院だったようです。

 江戸時代の地誌(観光ガイドブックのようなもの)のひとつに、『雍州府志』というものがあります。
 それによると、天智天皇陵の前に「天智天皇ノ社」がありました。

 妙応寺(明王寺)は、「天智天皇ノ社」の神宮寺だとあります。

 つまり妙応寺は、天智天皇陵ゆかりの寺院だったのです。
 そのことがいまはまったく忘れられてしまったのです。

 今回お寺のご好意で本堂にあげさせていただきました。
 本尊観世音菩薩を拝しました。

 その横には歴代住職の位牌が。
 もしやと思って丹念にみると。

 ありました。

 天智天皇の位牌です。
 「天智天皇神儀」とあります。

 こんなものがあるのだ。
 感激です。

 側面には「今上皇帝」のものも。
 昭和天皇でしょう。
(上写真、クリックしてください。少し大きくなります)

 参加者みな思いをこめて、お寺にお礼を申しました。

 次の目的地は毘沙門堂です。
 旧三条街道(旧東海道)を歩いていきます。

 五条別れの沢村道範の道標をみる。
 その意義を多くかたる。

 その間、びっくりするほど車が通る。

 そのうち道標に自動車が突っ込むことでしょう。
 実際すれた跡がありました。

 白川橋三条の京都市内最古の道標も車が突っ込んで折れたこと、記憶に新しい(犯人は逃亡)。
 
 この道標は、この最古の道標などとセットで、京都市登録文化財となっています。
 文化財保護のため、あの曲がり角は自動車通行禁止にすべきです。

 山科駅前にたっしました。
 明治天皇聖蹟碑で、奴茶屋のこと話す。

 惜しいことをしました。
 1994年まで明治天皇休息の建物、残っていました。
 破壊されるところ、見ました。
 写真も撮りました。

 山科駅前再開発の一環で消えたのです。
 ここでも現代生活の利便性だけが優先されている。
 恥ずべきことです。

 毘沙門堂にいくまでに、予定の4時になってしまいました。
 小雨も降ってきました。

 で、駅前の三宅碑を訪ね、そこで解散をいたしました。
 
 「日記」には、その日さらに山科盆地の中心部へ歩いていくことが記載されています。
 今回とても行けませんでしたので、第2回をしましようと、その場で決まりました。

 6/25(日)午後1時、JR山科駅改札前集合です。
 今回お越しでなかった方もどうぞおこしください。

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2006.04.26

洛中・東山の三宅碑を歩く

4/25(火)くもり時々雨、のちはれ
 「洛中・東山の三宅安兵衛遺志碑を歩く」という見学会を催す。

 「京都史蹟講座」で三宅碑を取り扱う3回目です。
 はじめての平日開催でした。

 計12名(男8名、4名)。
 前回の嵯峨野とほとんど変わらず。
 これからは平日でもしよう。

 三条京阪で集まり、木屋町三条下る瑞泉寺へ。
 豊臣秀次の墓所として知られ、それを示す標柱が門前に建っていますが、これが三宅清治郎(三宅安兵衛遺志)建立碑。

 実は当寺は、三宅清治郎とその一家の墓所です。
 その母(安兵衛妻)が埋葬されて以来の縁です。

 そのため秀次墓の石柵や妻妾家臣の墓の標柱にも出資をしているのです。
 その他、妻妾の辞世の句の軸を収めた箱も清治郎の寄附です。

 当寺の解説書にもまったく書かれていませんので、全く知られていません。
 特筆しておきます。

 そのあと東大路仁王門の寂光寺へいき、本因坊算砂の墓を示す標柱をみ、南禅寺へ。
 
 茶店で休憩し、参加者親睦。自己紹介をしてもらう。
 ここで参加者のひとり、Kさん(女性)の自己紹介に仰天する。

 僕は1986年の浪人時代、鹿ケ谷にあった京都学院という予備校に在籍していました(現、廃校)。
 そのとき図書室の出納をされていたといわれたのです。

 びっくり。
 よく覚えています。
 大学生になったあともその予備校には通いまして、その際もかわいがっていただきました。

 昨年、佛教大学四条センターで僕がお話しするのを知られて、その際も聴講していただいた由。
 20年の邂逅です。

 世の中、いろんなことがあります。
 とてもうれしい日でした。

 金地院は、三宅安兵衛とその次男(清治郎の弟)安次郎家族の墓所です。
 その縁で、同院を含む南禅寺境内には、清治郎による建碑が目立ちます。
 
 同院は洋画家の浅井忠の墓所でもあります。
 安次郎は浅井忠と親しかったことがわかっております。
 両者が同じ墓地であるのは偶然ではないはずです。

 金地院から蹴上まで出て解散。
 数名の有志で懇親会。
 偶然その地は、東洞院六角東入る南側。
 
 三宅邸の西近接地で、よい場所での打ち上げとなりました。

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2006.04.24

【講座】洛中・東山の三宅安兵衛遺志碑を歩く

明日、次のイベントを行います。
平日ですが、どうかおこしください。

第6回京都史蹟講座
「洛中・東山の三宅安兵衛遺志碑を歩く」(亡父の遺志、京都に石碑を建立す・その3)

講師:中村武生(佛教大学・天理大学非常勤講師、京都史・歴史地理)
日時:4月25日(火)午後1時~4時ころ
集合場所:京阪三条駅中央改札口  ※雨天決行

コース:三条駅 ⇒ 瑞泉寺 ⇒ 三宅邸 ⇒ 寂光寺 ⇒ 金地院 ⇒ 南禅寺ほか

参加費500円  ※予約不要です。会場へ直接おこしください。
主催:京都史蹟隊(隊長・中村武生)

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2006.03.29

FMひらかたで三宅碑の話しをする

3/27(月)
 大阪府枚方市に行く。
 午前中、FMひらかた「枚方マナビスト」という番組収録のため。
 
 三宅安兵衛遺志碑のことについて語る。
 
 ラジオ収録というのは、特別な感覚があります。
 わずか10分の番組ですが、緊張しました。

 3月30日(木)、午前11時45分~59分の放送です。
 (再放送は、4月2日(日)午後9時)

 午後からは京都へ戻り、知恩院などの参詣をする。

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2006.03.14

嵯峨野の三宅碑を歩く

3/12(日)あめ
 午後1時、JR嵯峨野山陰線「嵯峨嵐山」駅に行かなくてはなりません。
 嵯峨野の三宅安兵衛遺志碑を歩くイベントがあるからです。

 午前10時、平城京羅城跡の現地説明会があります。
 嵯峨野に行くまでに、それへ行こうと思った
 大和郡山市です。

 Uターンできないか、ぎりぎりまで検討しましたが、最後はあきらめました。
 遅刻してはまずいから。

 午後1時すぎ、三宅碑を歩くイベント開始。
 天候不順にもかかわらず、13名のご参加あり。
 たまに小雨がありましたが、比較的歩きやすくありました。

 途中、清涼寺(釈迦堂)の門前の喫茶店で茶話会。
 とても仲良いグループ化しました。
 うれしいことです。
 
 10余基の三宅碑を見、大沢池で解散しました。
 またお会いしましょうと分かれました。

 午後6時前、河原町三条へ。
 東京からお越しの維新史研究者、町田明広氏とお会いする。
 裏寺町のお好み焼き店「世津」で歓談。
 楽しくありました。

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2006.02.26

第3回京都史蹟講座、盛況

2/25(土)はれ
 あたたかい日。よいにおい。春の予感。

 第3回京都史蹟講座の日。
 昨日、京都新聞に掲載されたにもかかわらず、まったく問い合わせの電話がありませんでした。
 ですから、参加者はほとんどおられない、と見込んでいきました。

 ところが現実には多数の参加者。
 岡山など遠方からの方もあり、盛況でした。

 次回は現地見学会です。
 3月12日(日)午後、嵯峨野の三宅碑を見て歩きます。
 乞うご期待。

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2006.02.24

【講演】三宅安兵衛遺志碑の成立

 明日、以下のように「京都史蹟講座」を行います。
 石碑建立と史蹟誕生の関係を考える、たいへん興味深い事例のご紹介です。
 どうかおこしください。
  ※本日の『京都新聞』朝刊「まちかど」欄(17版24面)にご紹介されました。

テーマ:亡父の遺志、京都に石碑を建立す・その1―「三宅安兵衛遺志」の碑の成立―

【内 容】
京都府下の石碑の裏面をみると、驚くほど出会う「三宅安兵衛遺志」の碑。それもそのはず。約400基も建てられていたからです。三宅安兵衛とはいったい何者でしょう。講師の最新成果を語ります。

講 師: 中村武生(佛教大学・天理大学文学部非常勤講師、日本史・歴史地理)

日 時: 本年2月25日(土)午後0時30分~1時40分

場 所: キャンパスプラザ京都・5階演習室
〒600-8216京都市下京区西洞院通塩小路下ル
(JR京都駅ビル駐車場西側・京都中央郵便局西側)
TEL(075)353-9111
参加費: 500円
※事前申し込み不要(直接お越しください)。

主 催: 京都史蹟隊(隊長・中村武生)

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2005.11.05

未知の三宅碑を宇治で発見!

11/4(金)はれ
 午後から、新旧の受講生のHさん、Nさんとともに、宇治市歴史資料館へ行く。
 いまここでは「宇治の碑」展が行われています。

 宇治には三宅碑がいくつか建っているはずです。 
 まだ1基しか確認していません。

 もっとあるはずだ。
 もしや、と思い、期待して参観したわけです。

 予想通り、未知の1基を確認!!
 銘文は、 

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 (表)「不焼地蔵尊 能化院」
 (裏)「昭和三年秋禀京都三宅安兵衛遺志建之」
 
です(宇治市木幡中村)。
 『木の下蔭』の「建碑一覧」に「能化院の碑」として載っているものです。
(拙稿「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」『花園史学』22号、70ページ、220番)。
 
 どこにあるか分らなかった「能化院の碑」が確認できたわけですが、付録がありました。
 能化院の本尊が「不焼地蔵尊」だったことです。

 実は宇治木幡の「不焼地蔵」の碑を建てるため下検分をした、という話しは「三宅日記」に載っていたのです。
 ところが「不焼地蔵」とは何で、宇治木幡のどこにあるのか、私の中途半端な調査では分かっていなかったのです。

 これにより2つの疑問が1つにつながり、解決いたしました。

 が、新たな謎も出て参りました。
 「不焼地蔵」の石標建立の下検分の記事は、1925年(大正14)1月18日条に出てきます。

 が、実際の建碑銘では、1928年(昭和3)秋になっていました。
 どうしてそんなに建立が遅れるのか。
 その後の日記に一切出てこないので分かりません。

 三宅碑は当初、京都市かそのすぐ近郊にのみ建碑されていました。
 それが城南の広範囲に建碑が及ぶのは、西村芳次郎が建碑にかかわる1926年(大正15)8月以後のことです。
 城南である宇治木幡の「不焼地蔵」への建碑計画が、その前年の1925年(大正14)1月に建てられるのは説明がつきません。
 三宅清治郎と能化院、宇治・木幡とのつながりも不明です。

 とはいうものの、同碑研究がまた進んだことは事実です。
 素直に喜びます。
 お礼として、同館へ上記の三宅碑の拙稿を謹呈しました。

 さっそく現地へ行き、同碑を確認。
 お寺の管理の方にお願いし、「不焼地蔵尊」も拝観できました。
 すばらしい一日でした。

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2005.11.04

広隆寺で未知の三宅碑確認

11/3(木)あめのちはれ

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 本日は戦前の「明治節」。明治天皇の誕生日です。
 いまは文化の日です。戦前以来、この日に文化勲章の授賞式があったから。
 これに反対しているのか、他にも理由があるのか、京都市のR命館大学は本日講義があります。

 さて本日は右京区太秦の広隆寺へ行きました。
 目的は桂宮院です。

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 ここにどうやら未知の「三宅碑」があるのではないか。
 ずっと気になっていました。
 ただ桂宮院は期間限定公開で、10月、11月などの日・祝しか入れません。

 今日は該当日なので訪問しました。
 200円です。

 広隆寺にはすでに2基を確認しています。
 1基が桂宮院碑です。
 桂宮院へ行く途中、参道入り口に「左 桂宮院」とあります。

 しかし「三宅日記」によると、桂宮院には2基建てたようです。
 どこにあるのだろう。
 しばらく分りませんでした。
 桂宮院を参拝したこと、ありませんでしたし。

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 広隆寺が発行した書物に、桂宮院の写真が載っていました。
 すると桂宮院を囲む築地・門の前に「桂宮院」と刻んだ碑があります。

 これが未確認の桂宮院の三宅碑ではないか。
 
 やっと今日接触できました。
 どきどきです。

05110304

 裏面を見て、ばっちり。
 あたりです。
 三宅碑です。
 すばらしい。

 さっそく碑銘の筆写、撮影、測量をいたします。
 
 多くのお客が桂宮院を参拝に来ます。
 建物には近づけません。
 門から遠望します。
 「ええーっ、これで200円?」
 悪態をついて帰っていかれます。

 僕は三宅碑確認の目的を果たせたので、何も思いませんが、広隆寺に特別思い入れのない人はそうなのでしょう。 

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2005.10.10

伏見城下町と坂本龍馬史蹟を歩く

 10/8(土)あめのちくもり

 午前10時、京都駅でF氏と合流。
 
 目的は伏見城と城下町を歩くことです。
 F氏は名古屋の中日文化センターのお客さんです。

 伏見城跡に残る「治部池」をご覧になりたいといわれたので、ご案内することになりました。
 治部池は、もと伏見城の水堀の跡です。

 ただそれだけではすぐ終わってしまいます。

 それゆえ別のネタのご案内もいたしましょう。
 F氏は坂本龍馬の熱心なる愛好者であられるので、坂本龍馬が寺田屋で遭難した際の逃亡ルートを想像して歩く、というのを提案してみました。

 関心をもっていただいたので、まずそれを行います。

 京都駅から近鉄に乗り、丹波橋駅から京阪に乗り換えます。
 中書島駅で下車。

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 まず久しぶり、三宅碑をながめます。
 表に「長建寺」を指し示す大き目の道標です。
 側面には「寺田屋/大黒寺」を案内しています(写真。移転前)。

 「寺田屋/大黒寺」はともに維新史蹟です。
 「寺田屋」は有名ですね。
 大黒寺も寺田屋事件戦死者9名の墓所なのです。

 さて以前にブログでご紹介しましたが、最近この三宅碑は位置が変わりました。

 僕はそのとき強く怒りましたが、その後、移転の経過がわかってまいりました。
 どうやら行政はこの碑が邪魔で、撤去を望んだそうです。
 それに対してある方が、強く反発し、そのため場所移転ですんだそうです。
 場所移転はまだましで、運が悪ければ、消失したわけです。

 「ある方」から、僕の三宅碑調査の助力者K氏に手紙で連絡がありました。
 それを拝見して知りました。
 
 お寒い話しです。
(つづく)

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2005.08.27

連載5「滋賀県の三宅碑」その2

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 「微妙大師万里小路藤房卿墓所」碑のつづきです。
 (写真はクリックすると拡大します)

 碑に記された、万里小路(藤原)藤房は、後醍醐天皇の側近の公家で、建武の新政を助けた人物です。
 ところがまもなく天皇と対立して突然出家、その後行方不明になります。
 
 道標に指し示された妙感寺には、妙心寺2世の授翁宗弼の墓所があります。

 いつのころか分かりませんが、この授翁宗弼こそが、万里小路藤房ののちの姿だという説があり、一部では信じられています。

 「微妙大師」は授翁宗弼の諡号で、昭和初年に贈られました。
 つまりこの建碑の直前です。
 碑の建立のきっかけが、大師号授与だったことは間違いないでしょう。

 碑銘に「授翁宗弼」ではなく、「万里小路藤房卿」と刻んだのは、これを妙心寺の聖蹟ではなく、南朝史蹟として認識したための建碑だったと思われます。

 ちなみに「三宅日記」にはこの建碑について一切記載がありません。
 清治郎自身が建碑したものは、多くの場合、何らかの記載があります。

 あるいは清治郎は出資しただけで、「南朝史蹟」に関心をもつ別の誰かによって建てられたものかも知れません。
(まだつづく)

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2005.08.26

連載5「滋賀県の三宅碑」

「京都に石碑を建立す」連載5
番外編その1「滋賀県の三宅碑」

2005_08240074

8/24(水)のつづき
 古高俊太郎の先祖墓地を離れたあと、旧中山道を通って、JR守山駅へ戻る。
 夕方5時少し前。

 日暮れにはまだ時間がある。
 もう一件、行っておきたいところがある。

 滋賀県唯一の三宅碑です。
 以前、某所で三宅碑の講演をしたとき、お客さんから教えてもらったのです。
 
 「滋賀県にもあったなんて・・・。」
 とっても驚きました。
 早く実見したかったのですが、なかなか行けず。
 
 今日は何としてでもと、やってきました。

 場所はJR草津線「三雲」駅前(旧甲西町三雲〈現湖南市〉)。
 旧東海道沿いです。

 碑銘は、
 (表)微妙大師万里小路藤房卿墓所
 (左)妙感寺 従是二十二丁
 (裏)昭和四年夏京都市三宅清治郎建之

です(写真はクリックすると拡大します)。

 お気づきでしょうか。
 いつもの碑とちがいますね。
 そう。
 「安兵衛遺志」ではないのです。
 三宅清治郎、自分の氏名をちゃんと書いているのです。

2005_08240080

 どうしてか。
 おそらく建立地が京都ではないからでしよう。

 ほかにも「三宅清治郎建之」や「三宅洛園建之」という碑が確認できていますが、いずれも京都府以外か、昭和5年以後です(「洛園」は清治郎の雅号)。
 つまり「亡父の遺言」の条件と異なる場合です。
(つづく)

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2005.08.19

三宅碑の関連史蹟を踏査

8/19(金)はれ
 午後、連載「京都に石碑を建立す」の関連史蹟を歩きました。
 いわば取材「旅行」です。

 まず円山公園へ。

2005_08190002

 芭蕉堂、西行庵、双林寺を参拝しました。

2005_08190018


2005_08190021


 ついで第1号碑の確認。
 このあたりは実に観光客が多い。

 清水寺から円山公園・八坂神社へ行かれるお客さんです。

2005_08190036

 この方たち、第1号碑の文言を読んで、目指す場所を確認していました。 
 (それでも判断に困っておられている方がおられたので、どちらへ行かれるのですか、とうかがいましたら、円山公園はどちらですかと聞かれましたので、目指しておられるところが分かりました。)

 意外でした。
 石の道標はもう役に立っていないと思っていましたので。
 第1号碑はまだ観光客の役にたっていました。

2005_08190069

 つづいて南禅寺金地院へ。
 自転車で移動します。

 ここは亡父三宅安兵衛の墓があります。

2005_08190076

 約5年ぶりの墓参をいたしました。
 受付の方に、4年前の秋に発表した三宅碑論文(『花園史学』22所収)を託し、住職さんへお渡しくださいとお願いしました。
 もっと早くお持ちするはずでしたが、大変遅れてしまいました。
 申し訳ありません。

 最後に南禅寺帰雲院の碑にも立ち寄りまして終了。
 本日も暑い日でした。

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2005.08.17

連載4「左々の碑」その3

京都に石碑を建立す 4話「左々の碑」その3

 ながくなっております。申し訳ありません。
 第4話「左々の碑」、その3です。

 関東大震災の2カ月後の11月1日、「日記」にこの碑の記事が出て参ります。

basyodo1980

 「真葛ゲ原の芭蕉菴に岩井藍水氏訪問、道しるべ石碑の事を尋ぬ」

 「真葛ゲ原」(真葛原〈まくずがはら〉)は、現在の円山公園付近の旧称です。
 また芭蕉堂(写真)の岩井藍水を訪問しています。何を尋ねたのでしょう? 分かりません。
 
 次の記事は12月3日です。
 この間に岩井藍水は揮毫をなしたようです。

 「豫に双林寺の奥へ更に建築をすべき指道碑の下書、岩井藍水氏より出来、中村石工、廻す」

とあります。
 「中村石工」は、例の富小路錦小路の中村善一(寿山)のことですね。
 石工に揮毫文を渡したわけです。
 
 これからわずか1ヵ月足らずで碑は完成します。

 「日記」12月24日条を見ますと、この日、完成を記念して、石工中村善一に昼食を振舞っています。
 
 注目すべきことに、この日の記事には、石材の種類についての記載がありました。
 それによれば、本体は根府川石、台石は滋賀県守山市の石でつくったとあります。

 根府川石は、神奈川県小田原市の石として有名です。
 予想外に遠いところから求めたのですね。
 本体と台の石材が異なるというのも、こっています。

 のち山城地方南部(城南)におびただしく建碑されますが、その大半が花崗岩です。
 建碑当初と後半では石材さえ異なることがわかります。

 その3日後、12月27日の夕刻、改めて芭蕉堂の岩井藍水を訪ねます。
 完成のお礼訪問です。
 「道しるべの揮毫御礼として金十円を呈す」とあります。

 いまの金額にして、おおよそ5万円ぐらいでしょう。
 
 第1号碑を揮毫した碓井小三郎にもそれに近い品を贈呈していますので、清治郎は揮毫を依頼するたびに、同程度の金銭を謝礼として贈呈したと思われます。

 碑は約400基あるわけですから、その全てに謝礼を出していたとしたら、この費用だけでも相当な金額に達したと思います。

 周知のように、この事業は、亡父安兵衛が「京都の公利公益に使え」と清治郎に1万円(現在の約5000万円)を託したことに端を発します。

 この謝礼もその1万円から支払われたのでしょうか。

 いえ、僕はそう理解していません。

konoshitakage1

 亡父母の追悼録『木の下蔭』によれば、完成したとき合計2万円を使ったとあります(写真中央)。
 この記事を信用するなら、清治郎も自ら1万円を出資しているのです。

 ところが「日記」には矛盾した記事があるのです。

 のちのことですが、清治郎は、1929年(昭和4年)上半期にこの事業を打ち切ります。
 その理由はよく分かりません。

 しかし同年下半期によそから建碑依頼があったおりの「日記」には、「既に故父上の遺志たる分は上半期にて締切」ったので、「余の私費を以て建立す」ることにした、とあります。

 おそらく同年上半期までに亡父の遺産を使い切り、それが理由で建碑事業を打ち切ったと解釈すべきだと思います。

 それにしても、すでに多額の自費を投入しているはずなのに、この時期になってあえて「余の私費を以て建立す」ると記すのは腑に落ちません。
   
 ここで「謝礼金」を思い出します。

 実は亡父の1万円は、石を加工するという、いわば直接的な費用にのみ使われ、謝礼などの間接的な費用は清治郎が支出した、それがこの1万円だった、このように考えるとこの矛盾が解けると思っています。
(おわり)

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2005.08.16

お盆で、墓参しました

8/16(火)はれ
 お盆です。
 午後、大阪府H市にある父方の墓参をいたしました。
 1年ぶりのことです。
 すでに近所の親戚がきれいな花を供えておられました。

 夕方京都へ帰る。
 木屋町三条、瑞泉寺へ。

2005_08160006
 
 こちらには三宅清治郎一族の墓所があります。
 僕に「日記」を託して下さった先代も眠っておられます。

 お参りをしました(写真)。
 
 そのあと近くの「書斎」で執筆に向かう。
 この「書斎」、実に久しぶりです。 
 主任A氏から「お元気でしたか?」といわれる。
 必死で生きておりました。

 約1時間半滞在。
 また喫茶店料金で滞在させていただきました。

 そんなわけで、本日は大文字送り火ですが、拝観しませんでした。

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2005.08.15

連載4「左々の碑」その2

京都に石碑を建立す 4話「左々の碑」その2

 「左々の碑」の碑銘は以下の通りです。

1923-1

 (表)高台寺
    きよミづ
    左へ左へ
 (裏)大正十二年冬三宅安兵衛


 所在地は、京都市東山区鷲尾町。
 円山音楽堂の南向かい、芭蕉堂の北向かいです。

 「日記」には、1923年(大正12)7月22日に初めて登場します。
 
 「岩井藍水氏ニ面会し双林寺、東の石碑の文字を依頼す」

 岩井藍水は元京都市立小学校長で、小学生に童話や歴史をおもしろおかしく口演する、「童話口演」の研究者として当時知られた俳人です。

 初めて碓井小三郎以外の揮毫を依頼したことになりますが、いずれにせよ通り一遍な文字ではなく、「名士」への揮毫です。三宅碑の一つの特徴です。

 「双林寺、東の石碑」というのは、第1号碑の東隣に建てる予定の碑、という意味です。

 つぎの記載は9月1日。
 「次で芭蕉堂へ到リ岩井藍水氏面会、石碑の文字揮毫を依嘱す」
 
 今回も揮毫を依頼。
 前回は「考えとく」とでもいわれたのでしょうか。

 ところで興味深いのは、この日の日記の欄外に、
「東京全滅」とあることです。
 
 当日は1923年9月1日。
 関東大震災の日です。
 これを付記しているわけです。
 おそらく後日の加筆と思いますが、この「日記」の特徴として適宜、時事ネタを記載している点があげられます。

 僕は昔習った先生から、日記を書け、そのとき時事ネタを加えよ、時間が経過し、改めて読み直したとき、「歴史」のなかの自分が自覚できる、と教わったことがあります。

 三宅清治郎はどういうつもりでこれを実行していたのでしょう。
 毎日日記を書いている者として、意識の高さに感嘆しております。
(つづく)

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2005.08.07

連載4「左々の碑」

京都に石碑を建立す 4話「左々の碑」

 三宅碑建立の事情を、まとまった形で伝える唯一の文献は、三宅清治郎が、亡父母の13回忌に刊行した追悼録『木の下蔭(このしたかげ)』(1932年6月刊行、私家版)です。
 
 そのなかに掲載された「建碑個所」一覧(343基)により、その建碑地がおおよそ推定できるのですが、なかには推定困難な碑があります。

 それが7番目に記載された「左々の碑」です。
 「左々の碑」って・・・・(苦笑)。
 この名称だけではどこに建っているか、まったく想像できませんよね。

 京都に詳しい友人たちに賞金をかけたことがあります。
 それほど発見は困難と思われたからです。

 しかし仕事のため京都市内をバイクで走り回っておられた友人K氏(女性)によって、この碑はあっさり発見されました。
 第1号碑のすぐそばだったのです。
hidari
(つづく)

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2005.08.04

連載3「南禅寺金地院、東照宮」

京都に石碑を建立す 第3話「南禅寺金地院、東照宮」

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 南禅寺金地院は、徳川家康の側近で黒衣の宰相といわれた崇伝ゆかりの寺です。
 ここには「東照宮」もあり、徳川家との縁の深さが知れます。

 この東照宮の前に三宅碑は建てられました(1922年9月29日竣工)。
 これが第2号碑です。

 前回紹介しました広隆寺桂宮院の碑は、銘によると1922年(大正11)12月の建立になっています。
 しかし「日記」によれば、翌1923年1月の建立でした。
 1922年の建立ではなかったのです。

 つまり金地院東照宮碑が、唯一の1922年碑なのです。
 どうして第2号碑が金地院に建ったのでしょう?

 実は同院は、三宅清治郎の亡父安兵衛の墓所なのです。
 亡父ゆかりの地に建てたわけです。
 
 碑銘は、
 (表)東照宮 金地院
      けあげ大津行電車近道
 (裏)大正壬戌仲秋日 三宅安兵衛建之
 (左)建設施主 吉田嘉一
              喜久子

 銘にある電車とは、三条通を走る京阪電車京津線のことですね。
 「けあげ」は「蹴上」で、最寄の駅名です。 
 金地院の前の道を通れば、南禅寺参道へ戻らなくとも駅に行けますよ、という意味です。
 
 ところで左側面にある建設施主の「吉田嘉一・喜久子」とは何でしょう。
 清治郎が建てたはずなのに、別に建設者があったということでしょうか。

 実は吉田喜久子は旧姓三宅で、安兵衛の次男安次郎の娘です。
 清治郎の姪にあたります。
 嘉一はその夫です。

 清治郎の建立事業に姪夫婦が手助けをしたということでしょうか。
 いえ、喜久子は、1922年当時まだ幼児でした。
 もちろん嘉一と結婚もしていません。

 そうすると現存碑は、清治郎の建てた碑が何らかの事情で失われ、のちに吉田夫妻が再建したものである可能
性が出て参ります。

 先年、ちょっとした機縁で、高齢の吉田喜久子さんにお目にかかる機会がありました。

 『京都新聞』で僕の三宅碑研究を知られた女性から連絡がありました。
 その方は僕が非常勤講師をつとめる花園大学の卒業生で、なんと吉田喜久子さんのお孫さんだったのです。

 京都市上京区の病院に入院中のところをお訪ねし、お嫁さんの介助でお話しをうかがいました。
 残念なことにすでにご記憶ではなく、答えはわかりませんでした。

 しかし三宅家ゆかりの建物の古写真などをご覧に入れると、明快に、三宅邸だとか、馬代町(の別荘)だなどと
語られました。
 目の前におられる方が安兵衛や清治郎と生きてこられたのだなぁと感慨深く思い、1時間ほどで辞去しました。
 
 他界されたのはそれからまもなくのことでした。

 忘れられない思い出になりました。

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2005.08.02

京都に石碑を建立す 第2話

京都に石碑を建立す 第2話「広隆寺桂宮院」

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 三宅碑の連載にタイトルをつけました。
 いつまで続くか分かりませんが、どうぞよろしくお願いします。

 第1号の三宅碑が1921年(大正10)年末に建てられましたので、第2号は翌1922年に建てられることとなります。
 この年には、2か寺に、計3基建てられます。
 広隆寺桂宮院と、南禅寺金地院です。

 まずは広隆寺桂宮院をご紹介しましょう。
 広隆寺は、飛鳥時代の弥勒菩薩像が残されていることで知られる寺院です。
 創建者が聖徳太子の側近、秦河勝とされますので、同寺は聖徳太子ゆかりの地としてながく信仰されてきました。
 
 たまたま1922年は聖徳太子没後1200年にあたります(622年死去)。

 清治郎の友人に平井仁兵衛という人物がいます。
 この人はなかなか文化財保護に熱心で、のちに清治郎といっしょに国から文化財保護に尽力したとして表彰されます。
 その平井が、聖徳太子没後1200年にあたり、広隆寺の「法要執行並に殿堂、宝物館、其他建設及び修復に付き寄附」を求めるのです。
 同年2月8日のことです。

 清治郎は平井の申し出に快く応じ、即座に当時のお金で200円寄附しました。
 現在のおおよそ100万円です(すごい)。
 
 その際、清治郎は、同時に広隆寺へ「道標の建設をも申込」みます。
 理由は、「同寺境内桂宮院は、京都第一の古建築物」のためです。

 ただ残念ながらこれは事実に反します。
 むしろ同寺の「講堂」の方が古い建造物です(平安後期)。
 広隆寺講堂は京都市内最古の建物、平安時代の建物たった二つのうちの一つなのです。

(弥勒菩薩像だけおまいする方が多くて残念です。
 ぜひ講堂を見学してください。
 なおもう一つの京都市内の平安時代の建物とは、醍醐寺五重塔です。)

 それはさておき、 
 この碑の建立過程は、第1号とは異なり、「日記」にさほど詳しく記載されません。
 それでも、今度も碓井小三郎に揮毫を求めたこと(12月)、翌1923年の2月に2基建立されたことなどが分かっています。

 しかし現在までに1基しか確認できていません。
 それは広隆寺境内の桂宮院への参道入り口にあります(写真)。
 碑銘は以下です。

 (表)左桂宮院
 (裏)大正十一年十二月三宅安兵衛建之

 気づかれることを指摘しておきますと、
 第1号碑と同じで、まだ「遺志」という文言はありません。
 父安兵衛は生きているかのように扱われています。

 また「大正十一年十二月」は建立年月と思っていましたが、「日記」のおかげで、これは碓井が揮毫した年月ということが分かります。

 さて残り1基はどこへ行ったのでしようか。
 
 現在桂宮院は、期間限定公開です(4、5、10、11月の日・祝日のみ)。
 恥ずかしながら僕は参拝したことがありません。 
 ですから桂宮院に近づいたことがないのです。
 
 しかし古写真などで桂宮院入り口を見ると、「桂宮院」と刻まれた石碑が建てられているのが分かります。
 これがもう一基の三宅碑ではないか、と想像しています。
 
 次の公開日には必ず参拝し、確認してみたいと思います。
(第2話おわり)
 

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2005.07.29

三宅碑第1号、完成す

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 三宅碑第1号の続報(最終回)です。

 石匠中村方に立ち寄った翌日、すなわち10月26日、再び碓井小三郎方へ赴いています。
 もちろん「道碑の事相談」するためです。
 
 11月2日、3たび地理係へ行きます。このときは石匠中村も同道します。
 その結果、ようやく2ヵ所の「双林寺畔道しるべ碑」の建設地が決定しました。
 しかしまだ手続きは残っています。

 2日後の11月4日、また地理係へ出向きます。
地所が決定したことを受けて、改めて建設願書を提出するためです。

 その帰途、碓井宅を訪ね、碑の文字の揮毫(きごう)を依頼します。
 具体的になってきましたね。

 碓井はすぐにこれに応じ、10日後の11月13日、揮毫文の下書きを清治郎に手渡しました。
 翌日、清治郎は石匠中村宅へ行きます。
 おそらく下書きを見せたのだと思います。

 それから1ヵ月、「日記」に碑に関する記載は見当たりません。 
 しかしこの間に碑の製作・建設作業が進められたようです。

 12月24日午後、清治郎は「双林寺及び高台寺北門北入ル所の二ヶ所に」建設された碑を検分します。
 こうして碑は完成しました。

 翌日、清治郎は碓井宅を訪問します。
 そして世話になった礼を述べ、品物を贈呈するのですが、ここで世話になった内容についてふれています。
 碑銘の揮毫のほか、もう1つ、これまで触れていなかったことを記していました。

 それは「市役所紹介」です。

 市役所地理係との交渉は、碓井の仲介があってのことだったわけです。
 なるほど、たしかに市役所地理係の初訪問は、碓井宅訪問の翌日でした。
 市議や府議を経験した碓井の紹介があれば、進めやすかったのでしょう。

 明けて1922年(大正11)正月2日、清治郎は「三宅清治郎商店」の店員全員とともに碑を訪ね、その前(東側の碑)で記念写真を撮りました。
 第1号碑の完成はよほどうれしかったのですね。

 写真は、碑の建立地と、それが示す場所との関係を示したものです(写真をクリックすると拡大します)。
 円山公園へお越しの節はぜひ一度お立ち寄りください。 
(第1話おわり)

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2005.07.28

三宅碑第1号を石匠に依頼す

1-2
 三宅碑第1号、続編その2です。

 碓井を訪ねた翌日、すなわち1921年(大正10)9月20日、清治郎は京都市役所の地理係を訪ねます。
 目的は「道標建設の届を」提出するためです。

 清治郎があのおびただしい石碑を無断で建てていたのではないことが分かります。
 ちゃんと行政の許可を得ているのです。
 
 なおここでも清治郎は本碑を「道標」と記しています。
 
 それからまた約1ヵ月、間があきます。
 10月25日、再び市役所地理係を訪ねます。
 
 この日は続きがあります。
 その足で「石匠中村方に立寄」ります。

 「石匠中村」は、京都市中京区富小路錦小路上ル東側にあった石材店です。
 当時知られた石匠だったようで、京都市内の多数の寺社の石碑にその名を確認することができます。

 清治郎は自宅の外壁建設など、以前からこの石材店を利用しているようです。
 実はこの「中村」こそ、三宅碑を多数刻むことになる石匠なのです。

 またお時間がまいりました。
 どうぞ次回をお楽しみに。
 

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2005.07.27

三宅碑第1号、名士に相談する

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 「三宅碑」第1号碑の続編です。

 建立者三宅清治郎の日記(以下「日記」と略します)に建碑の記事が最初に現れるのは、1921年(大正10)8月21日条です。
 父安兵衛(写真)の他界は前年12月ですので、8ヶ月のちのことになります。
 (建碑は亡父の遺産によってなされますので、少し気にしてみました)
 
 「双林寺畔(そうりんじ・ほとり)、西行庵(さいぎょうあん)に赴き、道しるべ建石の事を相談」した、とあります。
(ふりがなや句読点は記主中村が振りました。助詞のカタナカはひらがなに改めた部分があります。以下同じ)

 双林寺や西行庵は円山公園に南接した寺院です。
 西行庵の庵主は宮田小文といい、当時同庵を復興した人物として知られた人でした。
 この人に相談したわけですね。
 清治郎とは知己だったようです。

 注目しておきたいのは、わたしたちは三宅碑を「史蹟碑」と認識することが多いですが、当人は「道しるべ」と記していることです。

 この連載のかなりあとでふれる予定ですが、三宅碑には「史蹟碑」と「道しるべ」の両方の顔があることが分かってきます。
 本人の意思とは別に「史蹟碑」の顔をもちだすのはなぜか。
 これがこの碑の「探索」のおもしろいところです(私個人の視点ですが)。

 さて次の日記の記事は約1ヵ月後の9月19日です。
 この日、さらに碓井小三郎(うすい・こさぶろう)の意見を聞くため同氏宅を訪問しています。

 碓井は当時の京都の名士の一人です。
 京都市会議員や府会議員を経験した政治家ですが、それよりも京都の歴史を学ぶものにとって忘れがたい大事な「顔」があります。
 それは近代京都の地誌の金字塔といってよい『京都坊目誌』の編者である点です。

 清治郎自身が日記にはっきりと、
「京都市の地理、歴史に詳かなる同氏の意見を聴かんとてなり」
と碓井に相談した理由を記していました。
 
 お時間がまいりました。
 つづきはまた次回。

三宅碑の概要は以下をご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/yasu/index.html

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2005.07.24

三宅碑第1号は円山公園そばに

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 三宅碑第1号は、1920年(大正10)に建てられました。
 場所は京都市東山区鷲尾町、円山公園のそばです。
 まったく同一のものが2基建てられました。

 碑銘は、表が、
  向って 右南高台寺 清水寺
       左円山公園 知恩院

 裏には、
  大正十年辛酉 三宅安兵衛
とあります。

 第1号碑だけあって、建立者三宅清治郎の日記(個人蔵、未刊行)には、細かい建立過程が記載されておりました。

 それはまた次回。

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2005.07.23

連載開始!三宅碑の紹介

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 いつも話題にしている「三宅碑」を、1基1基、不定期にご紹介する連載を始めることにしました。
 なんせ約400基ありますので、なかなか終わらないと思いますが、どうかよろしくお願いします。

 写真は建立者、三宅清治郎氏です。
 

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2005.07.13

三宅碑建立の意味を「八幡の郷土史家」で解く

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 昨7月12日(火)、ようやくパソコンが修理から帰ってまいりました。
 ご心配をおかけしました。

 さっそく本日の佛教大学の講義で使用できました。
 ついに前期最終回です。

 今回は石碑(石標)が建立されたことによって生まれる、「地域の歴史像」についてお話しました。

 例えば京都府八幡市には三宅碑が約140本も建立されていますが、それはどういう意図でなされ、その結果八幡地域の人々の歴史認識にどのような影響を与えたか、を問題にしました。
 
 それは西村芳次郎(閑夢)という八幡の郷土史家の、実に個性豊かな行動を「発見」することにより解明が可能になったという落ちです(写真は西村が揮毫した三宅碑)。

 少しマニアすぎたかも知れません。

なおこれについては、
 ■拙稿「鳥羽・伏見の戦い―史蹟を読み解く視点」(『別冊歴史読本  新選組を歩く』新人物往来社 2003年10月)
 ■拙稿「『三宅安兵衛遺志』碑と西村芳次郎」(『京都民報』2129号所収、2004年4月11日)
に概略を記しました。ご参照ください。

 また秋にはJR東海のイベント「石碑のまち 八幡」で、現地でさらに詳しいお話しをさせていただく予定です。
 どうぞご参加ください。

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2005.06.29

学生さん、未知の三宅碑を見つける

58190005
 6/29(水)あめ
 やっと雨が降りました。
 終日断続的に降り続いておりました。

 佛教大学出講の日。
 受講生S君とH君から三宅碑調査報告を聞く。

 彼らは去る6月26日、車で京都府笠置町、宇治田原町などに行き、同地に散在する三宅碑数本を確認したのです(6月23日条コメント参照)。

 問題はそれが私の知らない碑であるかどうかですが、喫茶部で報告を聞き、びっくり。
 ほとんどすべてが未知の碑でした(写真)。
 その数、6基。
 両君、お手柄です。
 
 いままでいろいろな講義で三宅碑の捜索をあおってきましたが、学生さんでこんなに見つけてきたのは初めてです。
 僕は調子に乗って、さらなる未知碑の確認を依頼しました。
 両君快く受け入れてくれる。

 これで三宅碑調査は終息に向かうかも知れません。
 両君期待していますよ。

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2005.06.23

三宅日記のデータベースを見る

P4280027
 6/22(水)、佛教大学に出講。
 三宅碑の紹介をしました(写真)。
 昨年、製作協力した同碑に関するテレビ番組(KBS京都、きらめきstory、約4分)も上映する。
 http://www.kirameki-story.tv/back56.html

 1年に一度、必ずこの話をしますが、驚くほどいつも反応がよい。
 ある男子学生の感想に「普段は少し眠くなるのに、今日は全く集中力が切れませんでした」とあり。
 苦笑。

 夜はその「三宅日記輪読会」(於京都市右京区)。
 本日は大正10年(1921)の総括・その1でした。
 
 松田万智子さん(京都府立総合資料館)がエクセルで登場人物データベースをつくってくださり、それが公開されました。
 松田さんから丁寧な説明を受けます。
 これは便利。
 大事なものをつくっていただきました。ありがとうございます。
 
 これは今後、「三宅日記」研究の進展に大きく貢献することでしょう。

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