2008.06.12

山科本願寺・寺内町を考える市民の会の明日を考えた

 6/11(水)くもり
 朝1番、京都女子大学に出講。
 あいかわらず楽しかった。

 昨年の受講者がちらほら。
 ありがたいことだ。

 「来年もうけます」といって、受けられたためしがなかった。

 今年は京都女子大学、同志社大学で昨年受講者にふたたびあう。
 うれしいことだ。

 午後から基礎からまなぶ日本歴史。
 特別バージョンだったからか、すこし人は大め。

 つづいて建碑の打ち合わせ。
 すでに掲示した、「是より洛中」標石の件。

 急に現地に行くことになった。

 まだ建ってはいない。
 最近「源氏物語千年紀」の関係で、こちらの建設予定地のちかくに「西鴻臚館(にし・こうろかん)跡」の解説板が建った。
 その兼ね合いをみるために。
 まったく問題がないとわかった。

 つづいて喫茶店に入る。

 きたる7月13日(日)と7月19日(土)に、「河原町長州屋敷」にまつわる講演と、現地見学会をする。
 タイトルは「幕末史における長州毛利屋敷―広誠院の特別公開と木屋町幕末史蹟めぐり」(主催、京都民報社)。

 その告知チラシの原稿チェックの返事が遅れていた。
 至急ほしいみたいな感じだったので、喫茶店でチェックをし、ケイタイメールで送信した。

 参加は先着順ですので(初日は40人。二日目は20人)、おはやめに(有料)。

 横で総務のK畑さんが女将(おかみ)と世間話をしていた。
 K畑さんと何するわけでもなく、ほんとうに待っていたただいただけで、別れる。
 コーヒー代だけごちそうになって。ほんとうに申し訳ありませんでした。

 K畑さんは京都駅付近にもどられる。
 建碑のことでメンバーと打ち合わせ。

 こちらは佛教大学へ出講のため北上する。
 グッドタイミングで206番市バスに乗れる。

 午後4時10分、講義開始。
 本日の受講者、たった2人。どうなっとる。
 この2人は皆勤だ。すばらしい。

 また千本鞍馬口あたりをあるきたおす。本日は東入ル地区。
 楽しいなあ。
 郵便配達の兄さんに負けないぐらいこの地域の地形がわかってきたのではないか。

 そのあと洛東山科へ。
 午後7時から、山科本願寺・寺内町を考える市民の会の事務局会議。
 
 この会1997年に創立した。
 もう12年目。

 この間、いろいろなことがあった。
 山科本願寺・寺内町跡の一部の国史跡指定をみた。
 和島誠一賞も受賞した。

 が、いつまでも同じ形ではいられない。見直しのときがきた。
 その会議。

 よい方向にむいていけそうな予感がした。
 また僕がキャップにならないといけないが。
 もうすぐ山科のある旧宇治郡の住民になる予定だし、よいことと思われた。

 終了後、K野k之先生のお誘いで、川端泰幸博士、k田さんと懇親に行く。

 僕以外、全員kさんだ。
 はじめてきづいた。
 だからどうした。

 エライ人といると、エライ空気をもらえてよい。
 今日も賢くなれた(気がした) 。
 ありがとうございました。

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2008.05.10

薩摩邸に非ず、同志社の門

5/9(金)はれ
 あっついなあ。
 まだ長袖きてる。暑がりなくせに。
 たんに衣替えがめんどくさいから。

 朝、同志社大学に出講。
 もうひとつ調子に乗らん。まだ連休ぼけか。

 前回のコミニュケーションカードのひとこと。
 「同志社には薩摩屋敷の門が残されていて」云々。

 これは事実ではないことを最近知った。
 だからそれを伝えた。

 正しくは閑院宮邸の門である。

 けっこうな衝撃を与えたようだ。
 今回のコミニュケーションカードに感想があった。

 まあ、そうだろう。僕だって知ったときは衝撃だった。
 が、予想はできた。
 なんらの物証がないのに「有名」だったからだ。

 史蹟の事実検証がいかに大事かわかってほしい。世の中、ウソだらけだ。

 昼、くずし字入門。
 また「都の記」。

 京都所司代や京都町奉行歴代の名前を読んでいる。
 単調だ。
 不評らしい。
 そうだろう。ながい間、あんなに難しいものを読んでいたのだから。
 考えます。

 夕方、ある一件の許可がおりたと連絡があった。
 来週から開始される由。

 うれしいので会う予定のなかった仲間に伝えに行った。

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2008.04.21

伏見を論じて上七軒であそぶ

4/20(日)はれ
 嵯峨野学芸倶楽部に出講。
 またも多くの受講者にめぐまれる。

 伏見の歴史のおはなし、というより雑談。
 篤姫からはじまり、近世伏見論、中世伏見殿、豊臣政権の伏見城下町などなど。

 たくさん笑いがあった。
 とてもよかった。

 ひさしぶりに代表のH崎さんにお目にかかる。
 お元気そうでなにより。

 なぜしばらくお目にかかれなかったか、大きな山をこえようとしておられたから。
 このたび、それをこえられた由。
 ひとごとなのに、感激。
 まけてはいられない(ではどうする)。

 また受講者有志でいつものスマートで喫茶。
 その後、蛇塚古墳へ行く。

 蛇塚古墳へ行って石室部分だけ見て帰るのはつまらない。

 周辺をあるくと地割に古墳の輪郭が残っていること、よくわかる。
 それを歩いてみなさんに示した。

 これが歴史地理のおもしろさですよ、講釈をたれる。
 みなさん、聴き上手。
 ありがたい。

 つづいて夕方、上七軒歌舞練場へ。
 北野をどりを観覧。
 お茶屋大文字のお招き。

 いつもより、とてもわかりやすいお芝居でした。
 僕でも楽しめた。
 おススメします。

 夜はその大文字で接待をうける。
 舞妓はん、芸妓はんと楽しいひととき。

 ふだんは酒をやめているが、今日ばかりはいただく。
 濃厚な1日でした。

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2008.03.10

皇太后の山寺こと山科の安祥寺を参拝する

3/9(日)はれ
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 NPO法人山科醍醐こどものひろばに参加。
 今回は子ども・大人、あわせて10余名。

 山科区御陵の安祥寺の特別拝観が許された。

 平安前期、文徳天皇の生母、藤原順子創建の寺。
 いうまでもないが、醍醐寺より古い。

 醍醐寺と同様、上寺と下寺にわかれていた。
 上寺は古くに廃絶し、下寺も江戸前期に公収され、毘沙門堂の敷地とされてしまった。
 
 現在地は旧地から至近とはいえ、別の場所にある。

 詳しくは最近でた『皇太后の山寺』(柳原書店、2007年)を御覧下さい。

 ふだん非公開である。
 実は今回、はじめて立ち入る。

 明治期に焼けた多宝塔に安置されていた五智如来は京都国立博物館で拝んだ。
 現地にたちたかった。
 念願かなった。

 住職さん、とてもよい方で、ほっこりさせていただいた。
 
 「廃絶した」、という印象があったが、なんのなんの、荒れているが現状も充分ステキなお寺だった。
 青龍権現をぐるりと囲う水路が立派なこと。

 今度は中村ゼミできてみたいものだ。

 帰途は山階寺跡建碑予定地へ。
 山階寺跡の位置は最近、吉川真司さんが明らかにされた(前掲『皇太后の山寺』)。
 その成果にもとづいて、山科のNPOが近々建碑される。

 興福寺の前身で、藤原鎌足の墓所の地だ(高槻市・阿武山古墳は文献史の方法上、ありえない)。
 山科区民にとってほこるべき歴史だ。
 その地が実証的な成果により推定でき、間髪いれずに建碑されるというのは本当にすばらしい。

 そのあとアスニー山科へいき、本年度の解散式。
 完成された冊子を3冊いただく。

 はれがましい部分に僕の文章も載っている。
 今年も全力はついやせなかったが、リタイヤせずにかかわれた。

 来年もお誘いいただいている。
 来年はまた、子どもだけの会にもどる。
 また心をあらたにせねば。

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2008.02.14

積雪のなか紫式部を墓参する

2/13(水)
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 えらい大雪でした。

 ずっと家に籠もりたかったが、採点おわったものを郵便局にもって行かないといけないのと、支払いで区役所にも行かないといけなかったから外出した。

 健康にもよく、気持ちもよかった。

 途中、紫式部墓の前を通りかかった。
 そういえば今週、日めくりドリルで出題させてもらった(たぶん明日2/14分)。

 だから墓参する。
 雪がつもっていた(写真)。

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2008.01.06

山科側から稲荷山を登山

1/5(土)はれ
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 本年初外出仕事。
 山科・醍醐こどものひろばのイベントで伏見稲荷社に参拝。
 なんで「山科・醍醐」の会で伏見稲荷社なのか。

 山科区西野山から山道を通って伏見稲荷社に行くことができる。
 その山道を通ることが主目的。ついでに初詣。

 山口に鳥居があった。そばに「大石乃滝」と刻んだ標石。
 そばに「大石内蔵助山科閑居」の岩屋寺がある。
 それに関連しての大石遺跡だろう、ぐらいを思って山道を上がってゆく。
 あがってすぐ右手に廃れた社があった(写真)。
 
 なんだろう。
 そばにまた「大石良雄かくれ家巌屋寺/六町」とある。
 岩屋寺への道標である。ここから約650メートルで岩屋寺へ行けるらしい。

 廃社をひとつひとつみていくと「大石稲荷」というのがあった。
 大石内蔵助をまつったものではないか。
 それが廃社になっていていいのか。
 驚いた。

 帰宅して近世や近代の地誌類をみたが、この廃社、記載がなかった。
 たんに伏見稲荷社の山科側の山口を祭る社なのかも知れない。
 それでも廃社はあかんやろ。
 不思議な景観だった。

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2007.12.26

平安宮内裏跡に説明板19ヵ所設置確定を喜ぶ

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 すこし古い話題になってしまったが、どうしても特記しておきたかったので述べる。

 去る12月20日(木)の京都新聞朝刊の記事。
 以下、要旨。
 
 来年の「源氏物語千年紀」に合わせて、ゆかりの地40ヵ所に説明板を設置する。
 その第一弾として、まず内裏跡などの旧蹟19ヵ所が確定した、と京都市が発表した。
(以上)

 すでに建てられている石碑のそばや社寺、指定史蹟などに、京都市があらたに説明板を設置することはこれまでもよくあった。
 
 が、指定史蹟でもない旧蹟に、こんなにまとまってあらたな説明板を設置するというのは近年なかったのではないか。

 ましてやそれが内裏跡だと知り、たいへん驚いた。
 これは快挙である。

 内裏といえば、いまでいう「京都御所」のことだ。
 京都、いや日本のシンボルのひとつであることはまちがいない。

 が、「京都御所」は、鎌倉時代末期に光厳天皇が使用して以来の内裏で、平安時代以来の内裏の地ではない。
 
 旧地が現在のどこにあたるのか、古代学協会の高著『平安京提要』(1994年、角川書店)におさめられた付図をみれば誰でもわかる。周知のことだった。

 ところがそのほんらいの位置に、これまでほとんど石碑や説明板が建てられていなかった。
 こんな大事なことさえできていない現在の京都市が、「歴史都市京都」をなのる資格なんかないとさえ、正直思っていた。

 数年前から、その未開の地に少しずつ碑が建て出していた。
 全京都建設協同組合という団体のお仕事だ(写真)。
 同会の創立50年の紀念事業の一環という。
 
 行政ができないことを民間がなさる。
 ようやく「歴史都市京都」の恥をひとつそそげるかなと思っていた矢先のことだった。 

 そんなわけだから今回の決定はほんとうにすばらしい。

 歴代天皇が生活し、終焉の地でもあった清涼殿、もっとも大事な儀式の場、紫宸殿、内裏東限・西限・南限の門跡など大事なところがのきなみピックアップされている。
  
 全京都建設協同組合の建碑地も含まれている。
 同会のお仕事が契機のひとつになったことはうたがいないだろう。

 なお、こういう行政主導のまとまった説明板や石碑設置は、これまでも紀念祭がきっかけになっている。

 たとえば戦前の京都市教育会(現、京都市教育委員会とは別)は約80基の石碑を建てた。
 これは大正・昭和両天皇のそれぞれ即位の大礼にあわせてのことだった。

 戦後、こんどは京都市文化観光局が、京都市教育会の事業をひきついでやはり42ヵ所の建碑を行ったが、これも明治100年にあたる1968年(昭和43)から始まっている(3年間)。

 今回は石碑ではないが、史蹟顕彰のための行為としては同一とみてよい。
 実に40年ぶりの快挙といってよいのではないか。

 1点、注文がつけられるなら、ということがある。
 今回「源氏物語」が契機になったことがマイナスにならなければいいが、という思い。

 いうまでもなく、内裏跡など平安京の史蹟は、「源氏物語」の舞台地としてのみ意味があるわけではない。
 説明内容が「源氏物語」のみにかたよることなく、広く歴史のなかに位置付けたものになることを願う。

 ともあれ、快挙である(くどい)。
 関係者の尽力に心より敬意を表したい。

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2007.11.28

やっと鎌倉幕府を滅ぼした

11/27(火)はれ
 今日もいい天気だった。

 お昼12時30分から、基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 ようやく鎌倉幕府を滅ぼした。
 新田義貞が稲村ガ崎を突破した有名なエピソード。

 「太平記」のその部分を朗読する。

 スライドや映像でそのあたりの再確認もした。
 進みはわるいが、なかなか最近は充実しているのでは。

 いま、ある団体から建碑の打診をいただいている。
 以前にその団体で講演をさせていただいたことがある。
 そのご縁で、私の建碑への思いをくんでくださった。

 本日、その打ち合わせをさせていただく。
 うまくいけば来年実現する。

 夢のようなはなしだ。
 その日が楽しみだ。

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2007.10.15

小学生と上醍醐に登る

10/14(日)はれ
 朝9時30分、醍醐寺勅使門前につく。
 山科・醍醐こどものひろばのイベントに参加のため。
 山科・醍醐のお子さんに、同地域のよいものを伝えるNPO法人である。
 史蹟担当として、昨年から参加している。

 本日は上醍醐に登ることになった。
 今回のイベントはお子さんといっしょに親御さんも参加される。
 誰にむかって話すか、悩む。

 僕にとってのこのイベントの参加意義は、難しいことがらをいかにやさしく簡潔に伝えるかの実践。
 比喩が通じにくい小学生に伝えることができるなら、誰にでも可能となる、という見込み。

 いろいろ思うことあり。
 
 とにかく楽しく、勉強になった。

 自分のしゃべりはまだまだ不十分で、課題だけが残ったが、大人たちには好評のようだった。
 また聞き上手の方々に助けられた。
 いかん。
 

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2007.10.07

堀川院跡に立ち名古屋市にむかう

10/6(土)はれ
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 本日は午後1時から、名古屋市の栄中日文化センターに出講しないといけない日。
 その準備に時間がかかって、出遅れた。

 実は10時から11時、堀川通御池の旧城巽中学で、堀川院跡の現地説明会がある。
 遅刻したくないという思いがつよくあったが、ひと目でも拝見することがどれだけ意味深いかを知っている。
 だから奥の手を使い、11時ちょうどに現場に入った。

 20分ほど滞在した。
 やっぱり来てよかった。調査区が広いので、壮大な庭園をイメージすることができた。

 新幹線も11時35分のひかりに乗れた。
 問題なく中日ビルにも入れた。

 受講者、今回は約30人。
 前回より多い。
 京都からおこしの方もあった。
 驚いた。

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2007.09.23

また遍照心院跡にちかづく

9/22(土)はれ
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 午前10時、キャンパスプラザ京都へ。
 京都おこしやす大学で京都駅から八条・九条をあるくイベントに出講するため。

 同時刻、平安宮豊楽院跡の現地説明会はじまる。
 行けず。

 早めに行き、ちらりと拝んですぐタクシーに乗ってキャンパスプラザ京都に行くつもりだった。
 が、準備に時間がかかりすぎてできなかった。
 残念でならない。

 同じコースなんどもしている。
 パワーポイントによるスライド設定もできあがったものがある。
 準備はいらなかったかもしれない。

 でも同じことをするのがキライだし、受講者は初めてでも、スタッフは知っている。
 おうちゃくをしたか、あらたな手をいれたかどうか。
 その目が気にもなるので、かなり手をいれた。
 それで時間がかかった。

 自己満足なところがあるが、それが「仕事」なのだと自らを説得する。

 今回も遍照心院跡の六孫王神社におまいり。
 また「神廟」(六孫王=源経基墓)に立ち入れた。うれしかった(写真。前回撮影)。

 今回も聞き上手なみなさんにささえてもらいました。
 スタッフのみなさんも気持ちよく仕事をさせていただきました。
 感謝申し上げます。

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2007.09.04

保元の乱をあるき幕末史料を購入

9/3(月)はれ
 「基礎からまなぶ日本歴史」巡検。

 保元元年(1156)の保元の乱の舞台地をあるく。

 後白河天皇の内裏高松殿跡から、藤原頼長邸であり後白河の行幸所でもある東三条殿跡をへて、崇徳上皇の御所白河北殿跡まで。

 高松殿跡にある高松明神で「保元物語」をよむ。
 現地で史料をよむと臨場感がてでくる。

 為朝と義朝のそれぞれの夜襲を進言する部分。
 勝敗をわけたところ。
 宮司さんまでてこられ、きかれる。
 
 高松殿跡、東三条殿跡、白河北殿跡のいずれにも京都市教育会碑が建っていることは興味深かった。
 京都市教育会の充実した建碑行為には(幕末史蹟をのぞいて)感銘をうける。

 午前中だけでしたが、暑くなってここちよい疲れ。
 お昼は多くのみなさんとランチ。

 夕方、某古書店へ立ち寄る。
 あるまとまった幕末から明治の文書をみつける。
 無名の人物のものであるが、よく知られた大名の家臣のものだったこと、あるネタに使える珍しいモノがふくまれていたため購入する。

 びっくりするほど安価だった。

 幕末ていどのモのならまだまだよく出てくる。
 ていねいに探すことだ。

 またどこかの講座で公開すると思います。
 お楽しみに。

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2007.08.27

水火天満宮の近世・近代文書に驚く

8/25(土)はれ
 水火天満宮(京都市上京区堀川通紫明下ル東側)の虫干しに行く。
 菅原道真伝説を描いた絵巻が拝見できると宮司さんから聞いていたから。

 でもそれ以上に目をひいたのは、江戸後期以後の文書・記録・絵図類。
 こんなものがあったのか。
 たくさん、ということはないが。おどろく。

 同社の歴史は詳しくわかっていない。
 『京都市の地名』(平凡社)に簡略に記されているぐらい。
 
 『史料京都の歴史』上京区編ではまったくといってよいほどふれられていない。
 同書付録の上京区の文書目録に「水火天満宮文書」が入っていない。
 見落とされていたのだ。

 とても貴重なものですから大事にしてください、という。

 僕がかかわれたらいいのだけど、とてもそんな余力はない。
 残念である。

 この日の虫干し、参加者皆無。
 まったく新聞などに報じられていない。
 もったいない。

 友人をつれてきたらよかった。

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2007.08.19

平安宮・聚楽城跡を案内する

8/18(土)はれ
 京都おこしやす大学に出講。
 会場は京都アスニー(中京区七本松通丸太町)。
 午後からの平安宮跡・聚楽城跡巡検のレクチャーを行う。

 炎天下での巡検なので参加者少数。
 レクチャーだけ受けられて帰られた方さえある。
 が、そのぶんありがたい。
 
 たまたま本日、地蔵盆の日。
 立ち寄るところ各所にテントが設置され、イベント中。

 承明門跡では、終始うさんくさそうに注目される。
 早々に立ち去る。

 少人数だったのでかゆいところに手がとどくようなご案内ができた。
 よい日だった。

 お世話になった関係者のみなさんと受講者に感謝。
 いい汗をかきました。

 帰宅すると拙宅の前でも地蔵盆中。
 残念ながら関係せず、家にこもる。

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2007.08.14

隠れた名刹、遍照心院旧境内をあるく

8/13(月)はれ
 「基礎からまなぶ日本歴史」の巡検。
 午前10時、JR京都駅中央改札(1階)に集合。

 源実朝夫人(本覚尼)の寺、遍照心院(大通寺)の旧領地をあるく。
 同寺旧蔵絵図によると、鎌倉時代には現・六孫王神社をふくむ13町もあったという。
 その四至を歩き回るというわけ。

 その地は旧平家西八条邸跡。
 梅小路公園にはそれを紹介する解説板がある。

 ありがたいことはまちがいない。
 が、問題はある。

 遍照心院がまったくとりあげられていない。
 平家西八条邸跡と遍照心院は、たまたま同じ場所に位置したわけではない。

 平家西八条邸跡はいわゆる平家没官(もっかん)領として、鎌倉殿源頼朝のものとなった。
 頼朝の死後は2代頼家に、ついで3代実朝に引き継がれた。

 その実朝夫人の居所であるから、鎌倉幕府(北条政子)によってその一部が譲渡されたわけだ。

 この地はたんに実朝夫人の居所ととらえてはいけない。
 また同じくたんに実朝の冥福を祈る寺というわけではない。

 「右大将家の御菩提のため」とあるため、右大将=頼朝一家、すなわち頼朝・頼家・実朝の3代将軍の菩提寺と位置付けられたはず。

 実朝夫人が亡くなってまもなくの絵図によれば、境内に「経基御社」「満仲御社」が存在している。
 清和(陽成)源氏の祖、源経基・満仲父子も祀っているのだ。
 すなわち後には、源氏3代にとどまらず、清和(陽成)源氏全体の菩提所となったと思われる。
 
 それゆえ足利家・徳川家ともに、その正当性のため同寺を保護したわけだ。
 
 近世に入ってもその存在は地域(葛野郡西八条村)に影響を与えつづけている。

 たとえばその旧境内にミヤコの城壁・堀(御土居堀)が構築されている。
 それをおそらく近世を通じて遍照心院(大通寺)が「預」っていた。
  
 京都は1200年の歴史が重なっている。
 平家の屋敷跡だけで地域を語れない。

 鎌倉時代以後の歴史もかたってほしい。

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2007.08.08

戦国期本能寺旧境内から堀が出た

8/7(火)はれ一時雨
 朝、京都新聞朝刊をみておどろいた。

 戦国期の本能寺旧境内から堀が出たという記事だ。
 外郭を囲む堀ではない。
 内部をさらに区画してるのだ。

 出土瓦が大きく写真掲載されている。
 「能」の字が現在のそれだ。

 つくりのところ「ヒ」「ヒ」が重なっているのがただしい字なのだが、たび重なる火災に縁起をかついだ同寺は、つくりに「去」という字を使って、まったくことなる字をつくった。

 それが戦国以前だとは思わなかった。
 近世のことだと思っていた。
 まったくもっておどろいた、というわけ。

 現地説明会がないらしい。
 これは残念。実に残念だ。

 夜、「R」で学習。
 ずっと持ち続けてきた某論文、その推敲。
 ようやく世に送る日がきたと意気込んでいる。

 飲み屋で勉強しやがって、という隣客のいやみに負けず、はかどらせる。

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2007.06.07

坂上田村麻呂の墓が特定できた件

 とてもあいてしまった。
 こんなにあいたことって過去になかったはず。
 よっぽどなんやなぁ。

 去る6月4日の『京都新聞』夕刊に、山科区にある西野山古墓が坂上田村麻呂の墓の可能性がたかまったと報じられていた。

 京都大学の吉川真司さん(古代史)の成果である。
 きわめて意義深い。

 おめにかかったことはないが、これまでご成果を学ばせていただいてきた。
 とりわけ感動したのは、『安祥寺の研究』1に掲載された、山階(やましな)寺跡の復元研究だ。

 山階寺は奈良の興福寺の前身で、藤原鎌足の墓の所在地だ。
 それを宇治郡条里図や安祥寺の記録から位置を推定されたのだから、正直腰をぬかしてしまった。そんな方法があったか、と。
 現在の山科区厨子奥付近にあたる。

 山階寺は以前より、「大宅(おおやけ)廃寺」跡をそれにあてる説があったが、これにより可能性はふっとんでしまった。
 
 なお鎌足の墓について、1987年11月以来、大阪府高槻市の阿武山古墳がそれだとされていますが、論外です。
 文献史料の読み方をしっていたら、誰でもありえないことがわかります。
 藤原仲麻呂「藤氏家伝」が山階寺(山階精舎)といっている以上、現段階でこれを否定することは困難です。

 「多武峯縁起」なんて後世のものなんだから、そんなものケンカの相手にもならない。
 その「多武峯縁起」でさえ、摂津安威に埋葬された遺骸を大和多武峯に改葬したとある。
 
 じゃあ摂津安威地区の阿武山古墳にミイラ化した遺骨が出たらいかんじゃないか。
 すべての文献史料と矛盾するのだからお話にならない。

 なお最初にもどって重要なことは、今回の吉川さんの説を34年も前に提示していた人がいたということ。
 京都新聞にもすこしふれられていたが、研究者名・論文名などは記されていなかった。

 その研究者・論文は、鳥居治夫氏「山城国宇治郡条里に関する考察」(『近江』第4号 近江考古学研究会 1973年)です。記して敬意を表します。 

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2007.05.23

聚楽城南外堀跡に碑が建った

5/22(火)はれ

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 京都民報の担当、Hさんと今後のことをはなしあう。
 
 そこで意外なことを聞く。

 去る5/18(金)、京都市上京区智恵光院通下立売の松林寺門前に、「此付近聚楽第南外濠跡」の新碑が建った由。
 この地は幕末以来、聚楽城跡の南堀跡と伝えられていた。
 
 1919年(大正8)の京都府の史蹟調査でも報告されていて、広く知られるようになった。
 近年、森島康雄さん(京都府埋蔵文化財調査研究センター)や百瀬正恒さんの研究により、たしかに聚楽城の外郭を囲う堀の一部であると明らかにされた。
 
 が、碑の一本、解説板のひとつもなく、残念に思っていました。そこに建ったのである。

 聚楽城跡に碑が建つのは1915年(大正4)以来初めてのこと。
 これで地上に2基目の聚楽城跡碑が建ったことになる。

 それだけでもうれしいのにまだ続きがある。

 建碑担当者のひとりは元京都民報関係者で、今も購読している由。
 何といま僕が同紙で継続している連載「京都の江戸時代をあるく」を読まれていて、それが今回の建碑につながったという。

 たしかに以前、聚楽城跡は1回とりあげました。
 うんうん、そのとき使用した写真は、たしかに松林寺境内のくぼ地でした。
 ここだけ極端にひくいのだ、とふれました。

 すごい。
 これが事実なら、自分の書いたものが建碑に直接影響を与えたことになります。
 感激です。

 以前、山田邦和博士(同志社女子大学、考古学)からうかがったはなし。

 ある団体に講演をされた。
 そこで、この地は足利尊氏亭跡であること、創立期の「室町幕府」跡であることを伝えられ、碑でも建つといいのにといわれた。
 するとのちその団体はそれに刺激され、本当にその地にその由緒を示す石碑と解説板が建った。
 山田博士の発言が建碑等につながったのです。

 すごいなぁ、山田博士、と感心したものでした。
 
 今回それに近いことを体験しました。
 うれしくてなりません。

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2007.05.20

寺田屋でおもしろいものをみつけた

5/19(土)はれ一事あめ
 昨日18(金)、同志社大学とくずし字入門に出講。
 そのあと伏見区へ。
 寺田屋と法務省伏見出張所にいく。
 つかれる。

 本日はすこし遅く動き出したので、疲労感なし。
 
 また寺田屋に。
 毎日あきないことだ。

 いくたびに何か発見がある。
 さすがにもうない、と思ってた。

 が、あった。
 またあった。
 同行の友人がある説明文を読んでいて「意味、不明」を主張してきづいた。
 こんなものがあったのか。

 各部屋に散在する「額」もふくめ、現在の寺田屋にはいっぱいいっぱい「復興寺田屋」の痕跡がある。
 「龍馬の寺田屋」でおおっているようにみえて、誰もきづかない「ものがたり」がねむっている。
 これはやみつきになるなぁ。

 建物はもとより、位置さえ幕末期とちがういまの寺田屋。
 でも、ちがう楽しみ方があると今日きづいた。
 また、いこう。

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2007.05.08

寺田屋問題、まだまだ発見あり

5/7(月)はれ
 ゴールデンウイーク終了。
 今日から大学再開だ。

 世の中の人、みんなそうだと思ってたら、本日も明日も休みだという人がいた。
 なんという職場だ。
 おどろく。

 朝1番、大谷大学に出講。
 本日は巡検。
 大学ちかくの御土居堀跡をあるく。

 この周辺、碁盤目状の京都の特徴的な街区と方向を異にする道路がある。
 それが「御土居」の痕跡の道だ、なんて伝える。

 終了後、午後からの佛教大学からの講義の予習をしようと思っていたら、府立総合資料館の松田万智子さんからメールがきて、寺田屋にまつわる「こんな史料知っていますか?」

 知りません。
 さっそくかけつける。

 偶然K大学のT先生をおみかけする。
 たいそうご無沙汰しています。

 松田さんから紹介された史料、新出のものではないかった。
 が、副本がみつかったことが驚き。
 某所にあるアレはオリジナル一本だけだと思ってた。
 しかも書名がちがう。中身いっしょなのに。
 
 今度はこちらからおたずね。
 ある人物の履歴について。
 
 すぐ手にできるものではわかりませんでした。
 だからあきらめて帰ります。またよろしくお願いします。

 帰宅して佛教大学の講義の用意をしようとしたら、松田さんから連絡。
 ありました!と。

 おお、さすが。
 いやいや、さすが。

 これで一安心。

 佛教大学へ。
 近世京都道標論、その2です。

 夜、話題のCさん、上洛。
 貴重な書物を感謝をこめてお返しし、寺田屋問題研究、どこまで進んだかお披露目。
 ながい夜になる。

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2007.05.07

まだつづく寺田屋問題研究

5/6(日)はれ
 Mさん所蔵の稀こう本に、よく分からない人の「跋」が写真で載っていた。
 読みやすいくずし字だったので読んでみる。
 
 読み終わると内容から記主がわかった。
 これは感激。
 Mさんに連絡。知らなかった、とお返事。

 調子にのって総合資料館へいく。
 司書の松田万智子さん不在だが、今日は頼らず自分で仕事しよう。

 京都新聞の前身、日出新聞をマイクロでみる。

 先の「跋」に、寺田屋の当時の主人が「聖上」にあるものを献上したという。
 その裏づけ。

 あった。
 見つかるとは思っていたけど。
 
 予期せぬ成果あり。

 「聖上」とあるから大正天皇だと思ってた。
 びっくり、昭憲皇太后だった。

 過日、寺田屋は龍馬の「瑞夢」にからみ昭憲皇太后から下賜品をもらっている。
 いわばそのお礼をしたのだ。

 昭憲皇太后が龍馬の夢をみたというはなしがある。
 これを土佐グループの捏造だという人がある。
 ありえませんよ。
 
 捏造だというなら寺田屋の「瑞夢」にからむ献上品に皇太后は驚くはず。
 でも皇太后、ちゃんと受け取ってますからね。

 少なくとも昭憲皇太后は自分が龍馬の「瑞夢」をみたと世間が思っていることを知っていますよ。
 まぁ、昭憲皇太后もグルだというなら別ですけど。

 それはムチャでしょう。

 寺田屋問題研究、進みすぎた。
 ようまとめんわ。

 明日も何か見つかるのでは。

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2007.05.06

寺田屋問題、いかに落とすか

5/5(土・祝)はれ
 午前中、K県滞在中のC氏から封書が届く。
 ありがたい。例の文献だ。厳重な包装、貴重なものを預けていただいたことを実感。

 別のK県にお住まいのM氏からも、昨日の宿題の答えがさっそく連絡されてくるし。

 それらも含めて、この2日でえた情報を整理する。
 いやはや寺田屋問題は奥がふかい。はやまった、というのはたやすい。むしろ今回の連載のおかげで情報や認識が深まったと思うべき。

 よいことだ。

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2007.02.17

上七軒の勝瑠ちゃん、舞妓デビュー

2/16(金)はれ

Katsuru

 しゃべりっぱなしだったような日。

 午前10時50分、「基礎から学ぶ日本歴史」に出講。
 桓武平氏、清和源氏(陽成源氏)のおはなし。承平・天慶の乱(将門・純友の乱)などにもおよぶ。

 1976年(昭和51)のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の話もする。
 将門を加藤剛さん、純友を緒形拳さんが演じた。
 12時5分ころ終了。
 
 午後1時30分、東寺へ。
 東京都町田市の朝日の旅行の会の方々が上洛されている。
 3日間、京都の世界遺産をまわる旅程。
 その最終日に僕が少しだけ現地案内をする。
 大型バス二台で東寺に入ってこられる。
 多いなぁ。

 東寺は国宝・国重文など関係なく、より古いものを見るというスタンスでご案内。
 つまり門ばかりみて歩いた。

 つづいて西本願寺をご案内。
 西本願寺は反対で、新しいものを中心にご案内。
 北集会所跡や太鼓楼、龍谷大学など。
 もちろん本堂におまいりもしましたよ。
 唐門も拝し、飛雲閣も屋根だけのぞむ。

 午後4時30分、京都駅で解散。
 今度は町田市でお目にかかりましょうとお別れ。

 午後6時、上七軒へ。
 いつもの御茶屋Dへ。
 1時間、歴史のおはなし。

 今回は最近こっている遍照心院(大通寺)と阿仏尼のはなし。
 北野や西陣と関係がないからあまり受けないかなぁと不安でしたが、さすがみなさんいろいろご存知で。
 お話がいがあります。
 今日も聞き上手なみなさんに支えていただきました。

 本日、これまでみならいだった「ちずるちゃん」が舞妓さんとしてデビュー。
 「勝瑠(かつる)」ちゃんになられました。
 そのお祝いの席でございました。
 
 1日おわる。
 「いっしょうけんめい働いてんなぁ」と感じる日でした。

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2007.02.08

京都市教育会の誕生日

 本日2/8は、1902年(明治35)、京都市教育会の発起人会・創立総会が行われた日です。
 場所は京都市議事堂。出席者132人。

 京都市教育会はすでに廃止されています。
 現今の京都市教育委員会とはまったく別のものです。

 つまり存在しない団体ですが、無視できません。
 われわれ京都の歴史が大好きな人間にはいまだ縁がふかいからです。
 
 この京都市教育会は、1915~1939年にかけて、京都市域各所に史蹟碑を約80基建立しています。
 その大半が現存し、われわれに歴史を啓発しつづけているのです。

 たとえば、
【古代】大学寮跡、菅原道真邸跡、東三条殿跡、閑院内裏跡、法成寺跡、法勝寺九重塔跡など

【中世】平氏六波羅第跡・六波羅探題跡、法住寺殿跡、藤原定家京極邸跡、二条富小路殿跡、室町御所跡など

【近世】本能寺跡、聚楽第跡、京都所司代跡、徳川時代金座跡、伊藤仁斎古義堂跡、石田梅岩邸跡など

【近代(幕末)】坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地、池田屋騒動跡、古高俊太郎邸跡、長州屋敷跡、薩摩屋敷跡、京都守護職屋敷跡など
 
 このように全時代、じつに網羅的です。
 この事業は京都の史蹟、歴史意識を考えるうえで大事なものですが、いまだまとまった研究がありません。
 かくいう僕もまだ活字にしておりません。
 研究会発表は何度かしたことがありますが。

 で、このたび『週刊京都民報』に連載中の「京都の江戸時代をあるく」に、次々回から2回にわたってまとめることにしました。
 よろしければ御覧ください。
 2月18日、2月25日発売分です。

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2006.12.15

西園寺など鞍馬口から寺町をあるく

12/14(木)あめ
 午前中、寺町をあるく・その9に出講。
 新聞告知をしなかったからいつもの半分のご参加ですが、かえって小回りも利き、とても楽しくありました。
 鞍馬口通から寺町通を南下し、寺町寺院などを訪ねていきます。
 
 西園寺でながく滞在。
 いろんなことがおきて、楽しくありました。

そのあと大聖寺宮墓へ。
 こんなところに陵墓があるんだ!
 びっくり。参加者もびっくり。

 つづいて慈福寺。ここでお昼。
 またあまり進まず。
 でも有意義なことでした。

 午後から洛星高校(北区)で講演。
 京都の私学の中・高の社会科先生対象。

 土居堀のはなし。スライドで。

 そのあと巡検。
 雨の中、北区のもっとも残存良好の地をあるく。
 また有明さん(森田さん)にお世話になりました。
 ありがとうございました。

 夜は懇親会。
 たいそう楽しい日でした。

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2006.11.09

五条以南の寺町を濃厚にあるく

11/8(水)はれ
061108komadome

 午前中、「寺町を歩く」に出講。
 今回は五条通から南へ。
 京都市教育会建立の「河原院址」碑から、本覚寺、上徳寺、新善光寺、蓮光寺などにお参り。
 急なことなのに、各所で親切にしてくださり感謝。

 本覚寺は源実朝の御台所、本覚尼ゆかりの寺。

 本覚寺ゆかりの寺は、遍照心院(大通寺)が有名ですが、こちらもそう。

 本尊は本覚尼の持仏とされます(雍州府志)。
 なんと拝観させていただきました。感激。

 最後の蓮光寺は、檀家総代のMさんが受講者だったので、いろいろいい目をさせていただく。
 本尊「負別(おいわけ)阿弥陀如来」も拝観。胸を打たれる。

 蓮光寺は関ヶ原で改易にあう、長宗我部盛親の墓所です。
 その刑場、六条河原にあったという「駒留地蔵」の立派なこと(写真)。

 当寺は坂本龍馬を保護した、酢屋中川嘉兵衛家の菩提寺でもあります。
 こちらも墓参をいたしました。
 
 濃厚な会でした。濃厚すぎて、予定の場所に着くまでにタイムオーバー。
 今回は寺町の南限までゆくつもりだったのに、残してしまいました。
 またいつか。

 次回は11/29(水)午前10時、地下鉄「鞍馬口」駅改札集合です。

 昼食はMさんに誘われて、河原町松原のホテルサンルートの最上階へ。
 Eさん、小Mさんも同行。
 東山の絶景を楽しむつもりが、よい席はすべて予約でアウト。

 次は予約をしてきましょう。

 夕方からは佛教大学に出講。
 地形図の地図記号を実際にたしかめようということで、千本北大路付近をあるく。

 本講義初の巡検だったので、好評だったもよう。
 とりわけ夕暮れの船岡山はお見事。
 若い受講者諸君は、つぎは彼氏・彼女と来ようと思っていた由。

 本日はたいそう歩きました。
 万歩計、1万8千をこえました。
 健康的で何よりです。

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2006.09.22

小学生に琵琶湖疏水をおしえる

9/18(月・祝)はれ
 特定非営利活動法人「山科醍醐子どものひろば」に参加。

 山科・醍醐の子どものたちに、地域のよさを伝え、それを冊子にする活動団体。
 趣旨に賛同して、講師をひきうける。

 午前9時10分、京阪山科駅前のバスターミナル集合。
 今回は琵琶湖疏水をあるく。

 京阪三井寺駅にいき、琵琶湖収水口をみる。
 小学生にわかりやすい言葉で疎水の意義を伝える。むずかしい、むずかしい。

 電車で蹴上にもどってきて、南禅寺水路閣をへて、琵琶湖疏水公園の田辺朔朗像の前で弁当をひろげる。
 昼食後はインクラインを通って、琵琶湖疏水記念館へ。

 3時前、山科駅解散。意義深い1日でした。
 小学生に歴史を伝えることができたら、正直誰にでも伝えられる。

 4時半まで、駅前のロッテリアで次回の打ち合わせ。
 次回は、元慶寺と山科本願寺・寺内町です。

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2006.09.18

丸太町から寺町を南下する

9/16土午前中あめ、午後はれ
 「寺町をあるく」その3に出講。
 雨なのにたくさんの方々お越し。
 ひとりひとりに「雨やのにありがとうございます」とご挨拶すると、ある方から「先生に会いたかったから」といわれる。光栄。

 丸太町通から寺町を南下。下御霊社、革堂から妙満寺跡まであるく。

 昼食は寺町御池下ルのスマートへ。
 そのあと、白山社の祭り、梨木神社の萩まつりをみる。
 献句されていた「回天の偉業の跡、萩の宮」、気にいる。

 古書店ひやかす。
 探していた情報の載った書籍発見。大満足。 

 帰宅ののちは、ドリル3問つくる。

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2006.09.08

寺町をあるき、宮家の男児誕生をしる

9/6(水)はれ一時雨、夜また雨
 9時、「寺町をあるく」その2に出講。
 集合場所で、参加者Fさんから、紀子さん男児出産を知らされる。

 前回のコースを簡単に通り、蛸薬師通へ。
 蛸薬師、妙心寺、西林寺跡、正覚寺、六条道場歓喜光寺跡、錦天満宮、四条道場金蓮寺跡、染殿地蔵をへて
12時、四条通で解散。

 参加者お2人と昼食会へ。
 途中、河原町四条で読売新聞の号外をゲット。
 僕は号外コレクターなのです。
 「荒川静香金メダル」以来です(京都新聞、本年2月24日)。

 ばったり常連参加者のSさんと会う。
 4人で河原町四条上る東入る南側のミュンヘンへ。 

 御3人とお別れしたあと、バルに立ち寄り書店で3冊書物を購入。
 河原町通、日章旗が掲げられる。

 疲労困憊、睡眠不足、二日酔い状態なので、帰宅して仮眠する。

 夜起きて、連載原稿の執筆に向かう。

 明日も名古屋で「城と城下町」講座。
 その準備は明日早く起きてするほかない。

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2006.09.01

京都御苑をあるく

8/31(木)はれ夕方から雨
 「京都御苑をあるく」イベントに出講。

 10時、烏丸丸太町交差点に集合。
 ネタがよかったのか、とても多くの方こられる。

 堺町御門から北上。
 慶長と元治の内裏図を片手にいったりきたり。
 蛤御門で12時になる。

 参加者から未知の三宅碑1本の所在を教えてもらう。
 先日の三宅碑見学会に参加の方。
 びっくり。
 嵯峨野の碑。おそらく大覚寺門前に住んでいた有職故実家、小西大東の文字。
 笠置とか宇治田原ならともかく、嵯峨野にまだ未知のものがあったかと絶句する。
 
 夜、京都検定ドリル3問つくる。
 今日の夕刊で111問にたっする。きれいな数字やなあ。

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2006.08.27

京都寺町、寅薬師詣り

8/26(土)はれ
 巡検「寺町をあるく」その1に出講。
 三条京阪に集合。
 誓願寺の旧境内がいかに広かったか、歩き回る。

 西光寺で「寅薬師」にお参りさせていただく。
 急なことだったのに、無理をきいてくださりありがとうございました。

 三条・四条間をあるくつもりが、蛸薬師通で終わる。南半分はまた次回。

 終了後、参加者とお食事会。いろいろご要望もうかがえ有意義でした。

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2006.08.25

都名所図会をよみ、伏見をあるき、ビールを飲む

8/24(木)はれ
 小学館「古文書いろは」に出講。
 「都名所図会」の大仏方広寺、五山送り火の部分を読む。
 受講のおふたり、びっくりするほど読まれるようになっている。
 
 帰途、近鉄丹波橋駅を下車、伏見城下町跡を歩く。
 『京都民報』連載中の「京都の江戸時代をあるく」に掲載する写真撮影のため。

 夕方、烏丸四条で庭園研究者のSさんとはじめてお目にかかり、ビールを飲む。
 有名な作庭者のお孫さん。
 楽しいひとときでした。

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2006.08.22

京都の山内一豊旧蹟を案内する

8/21(月)はれ
 市立長浜城歴史博物館の太田浩司(おおた・ひろし)さん上洛。
 山内一豊に関係する京都の旧蹟案内を望まれる。

 1日、方広寺大仏殿跡、聚楽第跡、洛中「桑原町」の山内一豊妻(見性院、俗称千代)の終焉地、伏見城跡、伏見の山内邸跡などのマニアな痕跡をご案内。

 太田さん、石碑さえないことを各所でずっとなげかれる。
 いつも僕がぼやいていることを他人にいわれると、はっとする。 

 本日、『秀吉公のマチ・長浜―秀吉公ゆかりの石碑・石柱建立事業報告書―』(2006年5月、秀吉公ゆかりの石碑・石柱建立事業実行委員会)を拝受。
 そうだ、この人は長浜でたいそうな石碑建立事業を推進した人だった。

 以前にこの事業のことはご紹介しました。
 待ちに待っていた書物です。
 後世まで伝えるべき、画期的事業・書籍です。

 やっぱりこの人は「兄」だ。

 山内一豊妻(見性院、俗称千代)の終焉地で、ばったりAさんに会い、声をかけられる。
 木屋町三条のもと書斎、Gの店長だった人です。

 いま祇園で働いておられる由。
 大変やせておられてびっくり。
 ご苦労多いことと思います。
 どうかお体を大切に。
 再会を約束してお別れしました。

 甲子園大会、決勝再試合、やはり激戦であったこと、あとで知る。  

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2006.07.31

宇陀松山で天誅組志士の碑を発見

7/30(日)はれ
 朝から奈良県宇陀市へ。
 中近世都市史の研究会、1617会の行事で。

 宇陀松山城下町を歩きました。
 午後はシンポジウム。

 ほんらいの目的とちがうことに感銘をうけました。

 ①森野旧薬園(国史蹟)に初めて入りました。
   鷹峯薬園(京都市北区)の啓発に関心のある者として、訪れたかった場所です。

 ②幕末天誅組の林豹吉郎の誕生碑を見つけました。
    宇陀松山出身とは知っていましたが、恥ずかしながら建碑されていることを知りませんでした。

    主将中山忠光を逃がすため、自殺的に敵陣に斬り込んだひとりです。
    ほかに土佐の那須信吾と、三河の宍戸弥四郎などがいます。
    今春たまたま、宍戸弥四郎の誕生地〈愛知県刈谷市〉にも初めて行きました。
    思いいれが深いです。

 ③新選組伊東甲子太郎、山崎蒸が役目で訪問したところです。
   慶応2年(1866)12月のこと。宿泊地「上町」を歩けました。
   詳しくは拙稿「吉田稔麿論」(花園大学人権論集、2005年の号)

 夜は大和八木(奈良県橿原市)で懇親会。
 
 昼、考古学研究者、網干善教先生の逝去を聞きました。
 習った先生です。

 ある時期、一番前でかぶりついて講義をうかがいました。
 講義中、私語をする学生に「卒業生として、他の大学から出講くださる先生に恥ずかしい」と怒鳴っておられたのが忘れられません。
 網干先生は、佛教大学の前身、佛教専門学校のご出身で、その後龍谷大学大学院へ進学され、考古学を学ばれました。
 
 奈良県明日香村のお寺の出身で、高松塚古墳の発見者として知られます。
 この騒動の中の逝去は心残りだったことでしょう。
 ご冥福をお祈り申し上げます。

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2006.07.01

亀山城跡・山陰街道・三宅日記など

6/30(金)はれ
 午後12時30分、「基礎からまなぶ日本歴史」出講。
 受講者多く、満員御礼。

 やっと「古墳の話し」。
 それでも古墳時代前期でおわる。

 終了後、亀岡市へ。
 来月の朝日カルチャーセンターの「街道ぶらり旅」の下見。
 大本教本部(亀山城跡)や、亀岡市文化資料館へ。

 友人の車に便乗し、山陰街道、老ノ坂、沓掛、樫原をへて桂へ。
 桂離宮前の中村軒でお茶のような夕食のような休憩をとる。
 何度も前を通っていたが、今日はじめて入る。
 
 午後7時からは三宅日記輪読会。
 参加者3名。
 それでも楽しい時間。

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2006.06.20

尾張徳川家、伏見屋敷の絵図を閲覧

6/18(日)はれ
 本日も名古屋滞在。

 午前中、蓬左文庫へ行く。
 尾張徳川家の伏見屋敷の絵図を特別閲覧。

 興味深い絵図で、複写を依頼する。

 午後からは名古屋城と城下町の巡検。
 恥ずかしながら、天守閣に初めて登りました。

 復興天守なんて、と思っていましたが、いえいえとんでもない。
 勉強になりました。

 当然といえば当然ですね。
 だって敷地は、特別史蹟なんですもの。

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2006.06.17

伏見街道などの道標をみる

6/16(金)はれ

Sukudaibutsu_1

 午前中、k社のA記者と会う。

 来月初頭から、同社の週間新聞で、「京都の江戸時代をあるく」という連載を開始します(半年予定)。
 その打ち合わせです。

 江戸時代の京都史の数々をお伝えし、現代京都のまちづくり、文化財保護などのありようを模索するという趣旨です。
 どれほどいまの京都に江戸時代の痕跡がころがっているか、現地踏査の成果もふまえ、あつく語ってみたいと思っております。

 午後から伏見へ。
 6/20(火)、朝日カルチャーセンターの講座で伏見街道を歩きます。
 その下見、第2回。

 もともと街道沿いに建っていた道標が、行き場を失って学校に移転しています(写真)。
 それをみなさんに見ていただきたいと思った。
 
 小・中学校ひとつずつを訪問し、当日の許可をえる。
 いずれも快諾くださり感謝いたします。

 京阪丹波橋駅から電車に乗り、東福寺駅で下車。
 そこから大仏方広寺まであるく。

 途中、一橋小学校では、許可をもらって「伏見街道第一橋」の石橋を拝見。
 大仏前の甘春堂でお茶をし、京都駅へもどる。

 書けなかったけれど、今日もこれまで知らなかったものをいくつか路傍で発見。
 だからやめられない。

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2006.06.15

夕方の講義のあと野外調査

6/14(水)くもりのち夜あめ
 
 日中、京都検定ドリルの問題作製。

 夕方から佛教大学出講。
 「歴史と人間」、京都・明治維新史の人物。
 古高俊太郎を論ずる。
 
 研究対象にしにくい人物ですが、三種類の史料の発見により、ついに論文がかけるまでになった。
 研究とはこのようにするのだ、という話し。

 次回はその結果何がわかったのか、それにどんな意味があるのかをお話しする予定。

 教育実習中なのと、遅い授業なのとで、受講者少ないですが、それでもまじめに聴いてくれる人がいる。
 質問にきてくれる人、近所のお好み焼き店で見たといいに来てくれる人がある。
 うれしいことです。
 
 京都検定ドリルの問題作製で、どうしても知りたいデータが野外に落ちていると見込んだものですから、午後6時に講師室を出て、自転車で東山へ向かう。

 霊山護国神社参道と、新熊野神社。
 データはちゃんと「落ちていた」。
 予想通り。
 
 帰途なじみのお好み焼き店で大雨ふる。
 傘をかしてくださったが、出るとき小雨に。

 「ぬれていきますわ」と、お返しして自転車に乗る。

 運よく大降りにならず、ほとんどぬれずに帰宅。

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2006.06.14

京都タワーから東山を楽しむ

6/13(火)はれ
 夏みたいな日。

 午前10時50分から、「基礎からまなぶ日本歴史」へ出講。
 前回よりまた受講者増えていました。

 本日は「仏教伝来のころ」というタイトル。
 でも継体大王のはなしでタイムオーバーです。

 昼食のあと、ある資料館へ。
 小さいところながら、お金をかけていることがよく分かります。

 それに比して、中身がうすい。
 致命的なミスもある。
 えらい研究者が監修しているはずですが。
 どういうことかなぁ。

 京都タワーにのぼる。
 修学旅行生多数いて、やかましい。
 が、京都を見るにはとてもよい場所。

 東山をのぞみ、方広寺大仏殿跡を認識する。

 三十三間堂の大きなこと。
 そばで見るより、遠くからの方がよく分かる。

 東本願寺墓地(東大谷)と、京都韓国中学・高等学校がめだって東山の緑を侵食している。
 ゆかいではない。

 古書店をひやかし、帰宅。
 早く寝る。

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2006.06.13

聞き取り調査と城跡見学

6/12(月)はれ
 午後から、ある人物の聞き取りのため、京都市内の御遺族宅を訪れる。
 また貴重な情報を得られる。

 ずっと気になっていたある記録(印刷物ですが)、ついに今回そのお宅から出る。
 おそらく5年ほど持っていた疑問が氷解。
 ありがたや。

 夕方、長岡京市開田へ。
 中世の国衆屋敷、開田城跡(長岡京市指定史蹟)の土塁の現状を見学に。
 マンション建設にともない環境が大きく変わったこと知っていましたが、ずっと現地にこれずにいました。
 
 一部は壊されましたが、現地の研究者の努力で、ぎりぎり保存がかないました。

 城跡北西隅の残存土塁の前には、実にわかりやすい、見学者に気を配られた解説板が建っています。
 これまで山ほど史蹟の解説板をみてきましたが、そのなかでも抜群によいものでした。
 写真撮りまくりました。
 
 古書店に立ち寄る。
 『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』のうち、4巻分(旧版)が売りに出ていました。
 なんとすべて各500円。
 びっくり。

 復刻版(臨川書店)でもゼロひとつ多い場合があるのに。
 古書価格をご存じないこのお店に感謝。

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2006.06.11

方形周溝墓をみて、名古屋へ

6/10(土)はれ
 午前10時から右京区西院へ。
 京都市埋蔵文化財研究所による、弥生の方形周溝墓の現地説明会にゆく。

 昨日、みなさんにおススメしたためか、受講の方々多数お見かけする。びっくりするほどお見かけする。
 えらい人にも多数お目にかかる。 

 バスで京都駅へ。
 友人に昼食をごちそうになる。
 
 そのあと名古屋へ。
 朝日カルチャーセンターに出講。
 京都中世史を論ずる。

 そのあと受講生の方などと会食。
 大笑いさせていただく。
 
 夜、帰宅。
 明日は嵯峨野の「連」へ出講。
 予習しなければ。

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2006.06.10

明日、方形周溝墓を見に行きましょう

6/9(金)はれ
 お昼から「基礎からまなぶ!日本歴史」に出講。
 ようやく倭の五王のはなし。

 明日、京都市埋蔵文化財研究所による現地説明会があります。
 市内最大の弥生の方形周溝墓が出たためです。

 先日、方形周溝墓のはなしをしたばかりです。
 今朝の京都新聞のコピーをお配りし、できたら見に行ってください、とおススメしました。
 僕もうかがう予定です。

 本日はいままで1番多い参加者数でした。
 これから大変だわ。

 軽食のあと、五条坂、清水坂へ。
 安祥院の梅田雲浜、大高忠兵衛の墓参。とてもひさしぶり。

 路傍で安祥院に関する道標(境界石?)を見つけ、びっくり。
 こんなものがあるのか?

 「従是西之・・・・」
 「安祥院寺・・・・」
とありました。下は埋まっています。残念。

 渋谷街道を通って京都駅へ戻ってきました。

 明日、名古屋の朝日カルチャーセンターへ出講。
 あさっては、京都の「連」へ同じく。
 帰宅して、それぞれの準備をする。

 また寝るのが遅くなっちゃった。

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2006.06.07

「是より洛中」標石、新しいもの見つける

6/6(火)はれ

 若い友人から連絡があり、あらたな「是より洛中」標石みつける。
 これまでのとは異なる、とても価値のあるものでした。感激。
 
 これについてはまた改めます。

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2006.06.03

是より洛中の標石をみにいく

6/2(金)はれ
060602

 「基礎から学ぶ!日本歴史」に出講。
 受講生、増えてきました。

 本日は「魏志」倭人伝のころ。
 
 終わってから、友人と梅逕(ばいけい)中学校へ。
 ここには江戸時代の「是より洛中」の標石が1基あります。

 職員室で許可をえて、見学する。

 「是より洛中荷馬口付き之もの乗へからず」とあります。
 ほんらいは京都の出入り口に建っていたものですが、邪魔もの扱いをうけ、学校に引越ししてきたのです。

 もとはどこに建っていたかわからない以上、戻すことは無理です。
 でも、京都の出入り口に新造してほしい。

 長浜市は昨年、旧市街地のなかの免税地区(御朱印地)を示す標石をすべて復興しました。
 すばらしい。

 みやこの京都が、湖北の長浜の文化事業に負けている。
 かっこわるいこと。

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2006.05.27

また方広寺大仏殿旧境内の調査

5/26(金)あめ
 ひきつづき、方広寺大仏殿旧境内の調査。
 意外な成果(発見)、続々あり。
 やめられんなぁ。

 夜大谷大学へ。
 7時から、山科本願寺・寺内町を考える市民の会、事務局会議。
 
 終了後、K野K之先生のお誘いで懇親会。
 本日はK野先生の54歳の誕生日と知る。
 おめでとうございます。

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2006.05.24

京博平常展を楽しみ、大仏跡で歓喜

5/23(火)あめのちくもり
 午前中、「基礎から学ぶ!日本歴史」に出講。

 本日は弥生時代。
 森本六爾、杉原荘介など学史の話しも盛り込んで。

 専門的なものではありません。
 高等学校の日本史レベル。
 これに若干のアレンジをくわえ、一般の方へ提供しているだけです。

 受講生Tさん、推薦した副読本を購入してこられる。
 たまたま買いに行かれたJ堂B店で、それを探してくれた店員が佛教大生で、僕を知っていたという。
 それはすごい。
 僕のことを知っている学生なんてそんなにいるものではない。

 「SというK育学科の人でした。」
 知ってます、知ってます。
 すごく知ってます。
 院生です。
 その奇縁に驚く。
 
 午後から柳原銀行資料館へ。
 実ははじめて。

 近世の被差別部落を正面から扱ったありがたい資料館。
 『柳原銀行史』(500円)を購入。

 そののち京都国立博物館の「絵巻展」へ。
 雨なのに、平日なのに、大変な人。
 30分待ち。
 なんで博物館参観で並ぶの? 待つの?
 うんざり。

 人をさけて平常展へ。
 平常展、いつ行っても感動。
 いくたび感動。

 八幡・八角堂の阿弥陀如来さん、立派。
 山科・安祥寺の五ち如来さん、壮観。

 妙法院蔵の秀吉の妻、北政所(高台院)ねいの「桐草文様五衣」に出会う。
 元和年間に豊国社に寄進したことが確実なもの。
 なのになぜ妙法院蔵なのか。
 悲しい。

 幕末(文久年間)の有栖川宮父子の直衣、小直衣、感激。
 古高俊太郎や久坂義助も見たかも知れない衣装。
 じっと見つめる。

 さて本来の目的の方。
 さすがに待ち時間は無くなったが、でも館内にはあふれる人。

 不愉快千万。
 よく考えたら、僕はこの展示で特に見たいものはなにもなかった、と思いだす。
 で、行列の横を素通り、たまに人ごみがなくなったところをちらりと拝観。
 それでもういい。
 
 平常展の逸品を見れて、満足。

 方広寺大仏殿跡を歩く。
 いままで気づかなかった痕跡をみつける。
 まだまだ知らないものがあるわ。

 河原町に出る。
 話題の書店に行く。
 S君働いていました。
 お礼をいいました。
 また飲みましょう。

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2006.05.22

後白河、秀吉、龍馬の東山七条をあるく

5/21(日)はれ
 京都史蹟隊の巡検で東山七条をあるく。
 本日は少人数でした。
 あるくにはちょうどいいかもしれない。
 
 コースは、
 三十三間堂⇒養源院⇒法住寺⇒後白河天皇陵⇒方広寺南大門⇒今熊野神社⇒一ノ橋跡⇒方広寺西大門跡⇒鼻塚(耳塚)⇒豊国神社⇒方広寺鐘楼⇒大仏殿緑地⇒妙法院⇒豊国社旧参道⇒智積院

 龍馬や天誅組など、幕末期のこの地域の重要性についても披露。

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