洛北市原、藤原惺窩居所をたずねた

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昨日、「山科醍醐こどものひろば」の随心院(京都市山科区小野)巡検に参加した。
なにより難しい、この会は。相手は小学生。
短い時間で簡潔に重要なことを伝える。なかなかできない。
随心院に行って、真言宗小野派の本拠として大事だなんて(国史蹟です)、小学生に対して何の意味もないに等しい。
かといって小野小町の話を安易にするのも無責任。ほとんど非事実なんだから。
そういうことに悩む会。今回も規定外なのに主催者朱まり子さんに甘えて、5歳の娘の同伴を許してもらった。
はてさてうちの娘はこれにより何を想う。
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十輪寺では案内下さった女性の語りに胸打たれることがあった。
栢社は現在「大歳神社」を名乗っている。延喜式に掲載された神社の名前である。京都市の登録史蹟であることが意外だった。恥ずかしながら知らなかった。ネットで登録理由を読んだがよく分からなかった。式内社であることが実証されるほど文献が残っているわけではないし、乙訓郡に限定しても特筆すべき荘厳な杜とも感じられなかった。僕の見識が低いからなのか、不思議なまま。
栢社の前に「平安徳義会」があった。いろいろ思うことあり。もとは洛東岡崎にあった。創始者は田中泰輔。ちなみに子息は京都屈指の郷土史家田中緑紅。
帰りは「淳和天皇陵」を示す大阪皇陵巡拝会道標と、「大原野村道路元標」を灰方郵便局のそばで確認して満悦。
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2015年4月30日(木)はれ
長浜城歴史博物館の太田浩司さんと、長浜み〜な編集室の小西光代さん、西島進一さんと一緒に京都における湖北の幕末史蹟を歩いた。主に板倉筑前介(淡海槐堂)、西川耕蔵ゆかりの地である。近年稀な楽しい時間だった。充電された気がした。お気遣いも多数いただいた。
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西川耕蔵は、滋賀県の旧東浅井郡びわ町南浜(現長浜市)出身である。近く『長浜み〜な』に湖北の幕末が特集される由。西川を取り上げることを強く求めて、承諾いただいた。西川の地元での名誉回復の始まりに関われた幸福に感謝している。巡検中龍馬が斬られた近江屋跡に行く途中、たまたま裏寺町六角下ルの西念寺跡(西川菩提寺、現在市内西京区大枝に移動)に出た時は震えんばかりだった。今日はきっと西川耕蔵も付いて来てはったと思った。
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西川耕蔵は池田屋にいたことが確実な人物の1人である(拙著『池田屋事件の研究』314〜315頁)。六角牢屋敷につながれ、元治2年2月11日(1865年3月8日)、病で獄死した。埋葬地は不明だが(遺族に遺体は渡されなかったらしい)、一族の近江新報社社長西川太治郎が母妻の菩提寺西念寺に気づいて建碑した。
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『長浜み〜な』に志願して、板倉筑前介(淡海槐堂)と西川耕蔵を書かせていただくことになった。分量は少ないですが、新たな史料と視点で書ければと願っている。
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2014年11月27日(木)はれ
午前中、よみうり文化センター京都教室に出講。「吉田松陰と久坂玄瑞のみた洛中洛外」の2回目。幕末京都の景観とはいかなるものだったかをお話しする。
京都中央郵便局でNHK歴史秘話ヒストリアから依頼されたアンケートを投函。
午後、京都新聞文化センターの巡検に出講。こちらも吉田松陰がらみ。まず松陰と江戸の「西奥揚屋」で一時同獄だった小林良典(鷹司家諸大夫)の墓参をする。
場所は、出町柳駅の至近にある長徳寺。松陰は「留魂録」のなかで、多材多芸で、「文学」には深くないが、処事の才のある人と記し、弟子たちに遠島先であっても交流せよと期待した人物である。
松陰の死後まもなく獄死し、配流されなかった。高杉晋作はこれを記憶していて、松陰の遺体を世田谷村の大夫山に改葬するとき、そばにあった小林の墓もともなった。だからいまも世田谷区の松陰神社に墓がある。長徳寺のほうは、遺髪塚の由。
ついで松陰が初めて京都に入った嘉永6年10月1日(1853年)、その日のうちに訪ねた梁川星厳の居所跡をめぐる。梁川の書翰により、安政4年10月(1857)に転居したことのわかる東三本木地区に入り(ここが終焉地)、ついでそれ以前にいた川端丸太町上ルの居所跡に行く。
ここが松陰の訪ねた家だったと思われる(東三本木転居まで8年住んでいた由)。京都市教育会による石碑が建つ。最近京都市銘の解説板も建った。残念ながら、梅田雲浜や西郷隆盛らが訪ねたとあるが、松陰のことにはふれない。来年には京都市にとって、とても大事な場所なのに。
そのあとは岡崎公園に入って、松陰が同年10月2日に禁裏を拝んで詠んだ、「山河襟帯」の詩碑(野村靖撰文)を見て解散。
その間、いろいろな種類の電話がかかっていて、かけなおす。三条大橋東詰某所で少し原稿を打ち、帰宅する。おみやげは八天堂の菓子。夜、寝かしつけする。娘お気に入りの「耳なし芳一」を読みきかせると、そのまま寝付いてくれる。
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すいませんが、いま〈12位〉まで落ちていますので、どうかよろしくお願いいたします。
2014年11月10日(月)はれ
「都名所図会をあるく」に出講。一週間あいて、ひさしぶり。今回も上嵯峨。本日も中村屋のコロッケを受講者にふるまう。
深草里(現嵯峨大覚寺門前八軒町)、大沢池、後宇多院の陵(八角堂跡)、広沢池・遍照寺旧跡(釣殿跡、観音島、児の社)などを巡検。12時15分すぎに終了。
そのあとタクシーに乗ってJR太秦駅に行く。ちょうど電車が来て助かりました。午後1時5京都駅から新幹線に乗り、下総国へ。JR都賀駅に着いたのは4時20分。
滞在3時間で、午後7時38分に都賀駅をたつ。8時40分発の新幹線に乗り、京都駅着は10時58分。帰宅は12時前。
濃度の高い一日でした。宿泊して翌日午前中の祭祀にも参加したかったのだが、外勤があるのであきらめて前夜のみ参加した次第。
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外勤がなかったので、ずっと家にいた。
8月25日(月)あめのちはれ
「都名所図会をあるく」に出講。天候ややこしかったのに、けっこうお越しになる。八瀬から大原へ。
玉山稲荷社が旧八瀬遊園にあったと、竹村俊則の校注本にあったので、その跡地にあるエクシブ京都・八瀬離宮に残されているのか訪ねたが、すでに無し。「都名所図会」によれば、もと内裏にあった祠で、享保年間に高野村に移った由。もったいないね。
いったいどうなったのか、調べてくれると担当さん(女性)。ありがとうございます。丁寧に対応くださいました。
そのあと八瀬旧集落まで歩いた。竃風呂(京都市登録文化財)を拝観。ほんまは大原に入るべきなのだが、時間がなく、裏寺町蛸薬師から移転した西林寺に行く。もと寺町寺院だしというのと、坂本龍馬妻の実家楢崎将作とその先祖の菩提寺というので。「楢」文字だけ見える墓石を拝む。ほんとに楢崎将作の墓碑か分からないけど。
そのあとバスに乗って洛西へ。午後2時からK家文書調査に従事。既知でない大事な文書一通確認す。
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本日、下京四条寺町下ルの大雲院跡で、豊臣秀次供養墓の基礎が見つかったという報道を受けて思ったこと。http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140821000106
大雲院はもと織田信長とともに滅んだ信忠の供養所として創建された。もとは二条烏丸にあったが、のち秀吉の京都改造で寺町に編入された。
開基は貞安(ていあん)である。
その貞安が三条河原で殺される秀次一族に引導を渡したとか、死刑場に地蔵菩薩を持ち込んだなどと伝承されているし、大雲院には秀次側近の粟野木工助や白井備後守の墓が存在するから、秀次供養墓が同院にあっても何の不思議もない。
ただ京都墳墓調査の金字塔、寺田貞次『京都名家墳墓録』に、同院に秀次の供養墓は紹介されていない。粟野木工助や白井備後守の墓は紹介されている(復刻版、177頁)。
つまり秀次供養墓はかなり早くに廃棄され、それがこのたび出土したということだろう。聚楽城跡や秀次事件の再評価が始まった今日、意義深い発見といえる。
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2014年8月11日(月)はれ
午前中、「都名所図会をあるく」に出講。本日は北山御坊親鸞聖人の旧蹟(西本願寺北山別院)、天王社(八大神社)、詩仙堂を訪ねる。
北山別院の「霊水」の水が満ちていることに感銘。「聖徳太子影向石」も存在して、いろいろ感じ入る。もう少し手入れくださったらありがたいです。
なじみ深い山科西別院の旧名「舞楽寺」が、北山別院の本堂を移築したところから来たとは記憶からぬけていた。
詩仙堂(石川丈山居宅)が早くも1928年(昭和3)3月に国史蹟に指定されていることの違和感を感じる。近世の隠者の居宅がなぜ当時それほど評価高かったのか。
そういえば石川丈山の墓も単体で国史蹟だ(詩仙堂に2か月先立つ1928年1月)。京都府内(市内ではなく)で、古墳をのぞいて単体で墓が国史蹟指定を受けているのはこれだけ。
わかりますか。陵墓は当然としても、和気清麻呂も、信長も、秀吉も、龍馬も、木戸孝允も、京都府内に墳墓をもち、高校日本史教科書に載っている者のそれが、全く国史蹟に指定されていないのだ。
石川丈山墓、何かわけがあるな(たとえば破壊危機があったとか)。きわめて興味深い。
午後からは、また洛西K家文書調査。本日も重要な発見あり。本日から史料カードの作成を始めた。
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2014年8月4日(月)午前中はれ
都名所図会をあるくを執行。
本日は出町柳駅に集合して、干菜寺・勝軍地蔵に行く。
また「都名所図会」にあった旧蹟の消失を知った。それが勝軍地蔵。せっかくしんどい目して登山したのに。
ふもとの禅法寺に移されていた。いろいろ感じ入った。
午後は洛西山田村へ。旧家の史料調査。感動しました。ええ。
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