2008.07.19

ついに建碑なる!

7/18(金)
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 ついに建碑なりました(写真)。

 建立者は、市民団体「京都歴史地理同考会」(理事長中村武生)。

 たまたま上洛中の幕末史家、M田A広さんも駆けつけてくださる。
 そういえばM田さんは、K談社から、S津H光論の刊行のご予定。
 本碑にふさましいゲストがこられたものだ。

 同志社大学の男子学生3人も訪問してくれる。
 講義でいいつづけてたものなあ。

 同志社大学今出川キャンパスは、薩摩島津二本松屋敷跡に建っている。
 そうかぁ、これも縁だなあ。
 二本松邸から小松邸へ移動か。
 薩長同盟そのものやんか。

 あとから京都龍馬会の赤尾理事長、おりょうさんもきてくださる。

 除幕式はまもなくです。
 御たのしみに。

 そうそう。
 拙稿「鑑定を受けた坂本龍馬の妻「お龍の若き日の写真」(上)」が、『京都民報』(本年7月20日号、京都民報社)に載りました(ご購読は京都民報社のサイトへどうぞ)。

 3週連続の短期連載です。
 よろしくご愛読ください。

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2008.07.12

無縁仏になった松浦亀太郎

7/11(金)はれ
19850328

 同志社大学へ出講。
 8月18日政変から禁門の変まで。

 はしょった池田屋事件から禁門の変の経過が1番おもしろかった、もっとしてほしかったというご感想、続出。
 なるほどなあ、これが専門のすごみなのだろう。

 得意なところは、みじかくても濃度が濃いのだろう。

 終了後の喫茶で、松浦亀太郎(松洞)研究中のNさんから、定信院の墓所の近況をいろいろうかがう。
 松浦亀太郎は画家で、吉田松陰の弟子のひとりとして、江戸送りになる松陰の肖像画を数幅描いた人です。

 いわゆる「尊攘志士」で画家といえば、同じく長州出身の森寛斎が知られます。
 が、森が長命であったことで研究も多いのにくらべて、亀太郎は実に少ない。
 だからNさんの研究に期待している。
 いろんな可能性を秘めた人物ではないか、と思えている。

 その亀太郎の埋葬地は、洛東霊明社か、同じく洛東定信院である。
 僕がはじめて定信院を墓参したのは1985年3月28日で、そのころは台石もあり、独立した墓碑だった(写真)。僕は17歳(高校2年生)。

 が、1993年洛北へ移転し、「無縁仏」とかで、台石は取り去られ、一ヵ所に集合させられている。
 
 自分のせいのように思う。
 もっと墓参し、「大事な人だから」とお寺の方を啓発していたらよかったのだ。
 1987年には「過去帳」を拝見し、亀太郎の記載部分を筆写させていただいたこともあったのだ。
(このとき大学1年生)
 
 池田屋事件受難者、吉岡正助(庄祐)の墓碑のことを思い出す(寺町蛸薬師の誠心院)。

 ある写真集には台石のある独立した墓碑が掲載されている。
 が、僕がはじめて墓参したときには、すでに松浦亀太郎の場合と同じく、台石がなくなり、一ヵ所に集合させられていた。

 この人が池田屋事件を語る上で大事なことはわかっているのに、どうして研究者は保護してくれなかったのだ、と悔しくなげいたものだった。

 いま自分にかかってきた。
 後世の人は、1980年代に松浦亀太郎の墓参をしていた研究者がなぜ保護できなかったか、というにちがいない。
 移転計画を聞いたとき、あぶないと気づき、山口県萩市などの有志に働きかけるべきだったのだ。

 申し訳ないことをしました。

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2008.07.09

池田屋事件の日でした

7/8(火)はれ
 本日は池田屋事件の日でした。
 元治元年6月5日は、1864年7月8日です。
 
 もう144年かあ(在世してたみたいに)。
 たまたまいつもの木屋町三条「龍馬」に行った。

 偶然、「ある」決着がついていた。それを知った。
 それが池田屋事件の当夜だった。
 縁である。

 今年は例年とはちがい、野老山吾吉郎(ところやま・ごきちろう)の冥福を祈ってみた。

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2008.07.05

『吉田松陰を描いた男―松浦亀太郎の生涯と作品』でどうだ

7/4(金)はれ
 朝、ようやく講談社メールマガジンに「池田屋事件」(第16回)の原稿をおくる。
 今回ほどみなさんにありがたと思ったことはない。
 感謝しております。

 同志社大学に出講。
 やっと8月18日政変まできた。

 長州「尊攘派」の「王政復古」論は、けっして倒幕をともなうのではない、というややこしい話をする。
 もっと整理して語るべきだった。
 ようわからんかったというご意見、続出。反省。

 いつもの受講者との喫茶あり。
 「若さ」をいただいている。ありがたい。

 松浦亀太郎(松洞)の研究を卒論にしようという、Nさんのお仕事に舌をまく。
 細かい。

 これは活字にしたほうがよいな。
 出版も可能ではないか。

 『吉田松陰を描いた男―松浦亀太郎の生涯と作品』という書名でどうだ。
 どちらか立候補されませんか。

 午後からキャンパスプラザで「くずし字入門」。
 まだ板倉周防21か条を読んでいる。
 うまい文章じゃないなあ。とても理解しにくい。

 Y石材店にむかう。
 碑銘のゲラを提出するため。

 建碑までもうまもなくだ。

 旧U郡I村に建設中の家屋をみにいき写真を撮る。
 だいたい週1回ぐらいのペースで定点観測をしている。

 洛中にまいもどって、近衛小路の某ショップに衣装をみにいく。
 
 そのあと友人H氏をともなって、いつもの木屋町三条「龍馬」へ。
 K都国立博物館のM川T一さん、H野市立S選組のふるさと歴史館のF井K夫さんと密談をする。
 といっても、からあげとチーズケーキのはなしが多かったが。

 すこしのどの調子がよくない。
 今夜はウーロン茶に徹する。

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2008.07.04

近江屋新助と菊屋峯吉を墓参する

7/3(木)はれ

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 蒸し暑い日。

 昼から珍しく、御土居堀を考える講座を実施。
 多数のご来場者あり。

 午後3時、京都龍馬会メンバーとの墓参を約束していた。
 金戒光明寺の近江屋(井口)新助(写真)、知恩寺の菊屋峯吉(鹿野(かの)安兵衛)。

 実はいずれもはじめて。
 多忙きわまりない状態だが、いい機会なのでうかがう。
 知らなかったことをいくつか知れた。

 夜、いつもの木屋町三条「龍馬」でしめきりすぎてしゃれにならない原稿を打つ。
 ありがたい。深夜、ほぼ完成する。

 自宅にもどり最後の推敲をしながら、力つきる。

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2008.07.01

長井雅楽と島津久光の再学習

6/29(日)あめ
 めずらしく大雨がふっていた。

 同志社大学の講義で、文久2年(1862)の長井雅楽および島津久光論を展開中。
 自身の理解に不足があることがわかり、再学習をいたす。

 高橋秀直の論集にくわえ、芳即正さん『島津久光と明治維新』を読習。
 中原邦平『忠正公勤王事蹟』も点検。もちろん『長井雅楽詳伝』も。こちらは史料として活用。
(故人の敬称略)

 拙宅の蔵書は充実してきたなあ、と思ったものでした。

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2008.06.29

京都の幕末史情報の出典不明記の現状をなげく

6/28(土)あめ
 昼から大谷大学の生涯学習講座に出講。
 先週から始まったので、今回2回目。

 60人ほどのご参加。
 主テーマは「京都の江戸時代の大事さを考えよう」である。

 今回はいつもの御土居堀と「是より洛中」標石。
 建石の直後で、タイミングばっちりである。
 
 終了後はいつもの受講者と喫茶。
 雨がつよくなってきたころ、解散。

 夕方、必要な家具が格安で販売されていることを知り、閉店まぎわに駆けつけて速攻購入。
 スピーディであった。

 何事もこうありたいものだ。

 龍馬の妻お龍とされてきた古写真の鑑定結果について、某所に書くことになった。
 それにともなって、京都のある古典的古写真研究書を古書店で購入。

 今日届いて読んで驚いた。
 疑問に思っていたいくつかの有名なはなしのネタもとがこれだと分かったから。

 なんとなあ。
 恥ずかしいですわ。
 こんな有名な本をよまず、「わからんなあ」と思っていたのが。

 でも不勉強も恥じますが、どう頑張っても見落とす文献はかならずあります。
 つまりは京都の幕末史情報が、いかに出典不明記で出回っているか。

 実はそれが最大の問題なのだ。
 これからそれを是正していかないといけませんわ。
 
 と、思ったしだいです。

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2008.06.19

信じられないものをみていた

6/18(水)はれ
 午前8時50分、京都女子大学に出講。

 先週の僕の「目玉」を伝えなければならない。 
 先週のみなさんからのコミニケーションカードにお返事をしないといけない。
 講義すべき内容も進めなければならない。

 とてもとても1時間半ではたりなくて。
 ついつい早口になる。
 「ほとんど息継ぎをしていない」と今回のカードにあった。

 なるほどなあ。
 そんな気がする。
 それではいかんが、思いは伝わっているらしい。

 つづいてキャンパスプラザへ。
 午後0時30分、くずし字入門。

 いつもと曜日がちがうせいか、出席者少々少なし。
 「板倉の条々」を読む。
 文字は読みやすいのだが、内容は難解と思われた。

 このあたりで疲れはてる。
 途中で栄養ドリンクをのみ、電車のなかで仮眠をとり(数分)、北上。

 1時間ほど自宅で休憩したのち、午後4時10分、佛教大学へ出講。
 すこしエネルギー回復。

 折れて移動した、ある石の道標のことをお話。
 K岡市文化資料館のK林さんからいただいた御題。

 銘文から旧所在地を推定し、地図上におとすという作業をしてもらう。

 おどろくほど賢い子がいる。
 ものの数分で場所を指摘された。

 かといえば、等高線と道路のちがいがわからない子もいて。
 非常におもしろかった。

 講義はこういう少人数でしないとだめだ。
 ちなみに今日は6人。
 前回は2人だったので、3倍になった。

 終了後、木屋町三条、いつもの「龍馬」へ。
 午後6時半、ある会議はじまる。

 おそるべきものをみる。
 絶句。言葉にならない。

 こんなものを生でみている自分が信じられん。

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2008.06.17

京都大名屋敷の解体過程の研究を助ける

6/16(月)はれ
 大谷大学に出講。

 まえおきは「若き日のお龍」写真の検討。
 先月中旬、各新聞をにぎわせた記事について、自説を展開。

 本題は、大学周辺の天皇火葬塚の意味について。
 紫式部墓も検討対象にした。

 いつもの中村の「史蹟はつくられる」論。
 
 おもしろがっているのか、つまらないのか、よくわからなかった。
 残念だ。
 もっと反応してほしい。

 府立総合資料館へ移動。
 ながく休館されていた。
 ひさしぶりだ。

 K都女子大学のS口M宏さんから依頼を受け、そのゼミ生Mさんの卒論を少し助けることにした。

 明治維新期、京都の大名屋敷の解体過程の研究である。
 僕がながくしたかった研究の一つである。

 いいきっかけなので、夢を託すとともに、僕も勉強しようと思った。

 で、当館蔵の京都府庁文書の大名屋敷処理の史料をまとめてみる。
 いつもながら、松田万智子さん、福島幸宏さんの手をわずらわせる。
 おかげで、たいへんスムースにすすむ。
 ありがたいです。

 歴史資料課の閲覧室には、友人U田C尋さん(近世史)がおられ、再会をよろこぶ。
 
 おびただしいコピーを依頼し、退出。

 Mさんとわかれ、旧宇治郡へむかう。
 転居予定地の内部をみせてもらう。

 まもなく書庫に着手。その底部にレールをひく。
 その前に、どのていど基礎を堅固にしてくださったか見たかった。
 
 洛中へUターン。
 いつもの木屋町三条「龍馬」へ。
 また「龍馬プロジェクト」を検討する。

 夜、大事なお客さん来店。
 「夢」の話をする。

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2008.06.16

【案内】長州屋敷跡などをめぐるイベント

 既報の、長州屋敷跡である広誠院の特別公開と、木屋町三条付近の幕末史蹟めぐりの告知がなされました(講師、中村武生)。
 詳細は以下の京都民報社のサイトを御覧ください。

http://www.kyoto-minpo.net/kouenkai/bakumatu.html

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2008.06.15

明治維新史学会で武州に下る

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 明治維新史学会(於青山学院大学)で武州に下っておりました。

 2日間、勉強になりました。
 とても楽しかったです。

 いろんな意味で御世話になったみなさまへ、心より感謝申し上げます。

 K野S人さんは6/13(金)に木屋町三条(京都市)でお目にかかったのに、15日(日)、渋谷(武州)で歓談した。
 なんということだ。

 写真はハチ公。
 恥ずかしながら、はじめて参観しました。

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2008.06.07

大河「龍馬」にむけていろいろあり

 6月4日午後2時、恒例の池田屋事件戦死者の法要が、左京区岩倉花園町の三縁寺で行われた。
 当然、出席した。
 
 今年は京都龍馬会メンバー5人がおこしだったので、にぎやかになった。
 それで計8人。いかにいつもさみしい会かお分かりいただけよう。

 子孫はもうひとりも来れていない。
 大高忠兵衛の子孫の方はながくおこしだったが、ご家庭のご都合で2年連続断念されている。

 ←京都龍馬会のブログに参加者6人の紀念写真が載っている(撮影は京都龍馬会のT吉氏)。

  僕が映っていないのは、先に帰ったから。
  午後4時10分から、B教大学(京都市北区)の講義があったので。

  その日以来、「えらいこっちゃ」ということが相次いでいる。
 「まさか」と思っていたことが実現にむけて動いている。

 昨日、京都龍馬会本部に行き、そのことを聞かされた。
 原則酒を断っている僕が驚きのあまり深酒をしてしまった。
 それほどだ。

 大きなきっかけは、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」決定だ。

 そのうちいろいろ明らかにされていくだろうが、とにかく楽しくってしようがなくなった。
 生きてきてよかった、みたいな感じだ。

 いますべきことをしっかりしよう、そう思えた日でもあった。

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2008.05.07

三枝蓊展を参観した

5/6(火)はれ

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 連休最後の日。

 奈良県安堵町へ。
 歴史民俗資料館の三枝蓊(さえぐさ・しげる)展に行く。

 たいへんおもしろかった。
 三枝蓊にこんなに史料が残っているとは知らなかった。

 「最後の攘夷志士」としてのイメージがつよすぎた。
 伴林光平の横で歌などを学んでいたこと、リアルによくわかった。
 彼の再評価にとてもよい展示だった。

 たいそうなものでなくて良い。
 今回の解説文をそのまま掲載したものでいいから、「図録」がほしかった。
 出品目録だけではおしい。ものたりない。

 その生家である大和郡山市椎木の浄蓮寺がちかいことを知り、はじめて訪問した(写真)。
 徒歩20分ていどだったと思う。

 常住している方なく、山門の外から拝んだだけだが、「最後の攘夷志士」三枝蓊(青木〈市川〉精一郎)の生家がわかるというのは感銘をうけた。

 碑もなにもない。
 大和郡山市で建碑、なんとかなりませんか。

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2008.05.03

古高俊太郎から京都所司代へ移動

5/2(金)はれ
 あつすぎる日。

 5月2日は土佐出身の幕末志士池内蔵太(いけ・くらた)の祥月命日。慶応2年のこと。
 池は龍馬の手紙にひんぱんにてでくる。
 大和天誅組に参加したのち、海援隊に所属、この日五島列島沖の船舶事故で亡くなった。

 慶応2年5月2日は、1866年6月14日だ。
 だから厳密には本日ではないのだが、中学生のときに覚えた数字は、この年になっても忘れられない。
 毎年5月2日が来ると、池の亡くなった日と思い出す。

 一昨年、高知市の居宅跡ははじめて訪問できたが、いまだ五島列島の墓参はできていない。

 くずし字入門に出講。
 連休中というのに、ほとんど受講者へらず。
 みなさん、熱心すぎる。

 今回で古高俊太郎関係文書を一旦停止する。
 もっと気楽なものを。

 で、また府立総合資料館蔵「都の記」にもどる。
 上巻の1から。

 京都所司代歴代就任者の一覧表。
 答えはバレバレなのだが、みなさん気にせずほがらかに進められる。
 とにかく気楽でステキな会。
 よろしければ1度、みなさんおこしください。

 夕方、某所へ清めの砂をまきに行く。
 こんな経験はじめて。

 三軒ものブックオフをひやかし、夜は木屋町三条下ル「龍馬」へ。
 いま奈良県安堵町の資料館での「三枝蓊(さえぐさ〈さいぐさ〉・しげる)展」が開かれている。
 先日、地元の研究者の講演があった由。
 そのレジュメをみせてもらう。

 三枝は大和出身の天誅組志士で、最後は内裏に参内するイギリス公使パークスの殺害未遂により逮捕され、粟田口で斬首・さらし首にされた人物。慶応4年2月30日(1868年3月23日)のこと。

 この事件に震撼した木戸孝允は、修正中の「五箇条の御誓文」に、「旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ」の一項目を足したとされる(4条目)。

 旧来の陋習、すなわち外国人排斥(攘夷)を国是としないことの宣言である。

 三枝蓊、無名かも知れないが、司馬遼太郎の短編小説「最後の攘夷志士」の主人公である(『幕末』所収、文春文庫)。

 天誅組や「攘夷」に関心のある僕は、三枝をけっこう気にしている。
 研究は少なく、吉見良三「三枝蓊の人と作品」が比較的最近のまとまった成果といえる(『霊山歴史館紀要』10号、1997年、85~99ページ)。

 今日は天誅組のネタがふたつもあった。

 連休中、すきをみて訪館予定です。

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2008.04.28

『○×△□先生伝記』安い!

 あきすぎた。
 ここまであいたのは珍しい。
 
 ちょっとスランプ。
 「『篤姫のみた京都』を追って」の執筆に苦闘したため。

 今朝やっと提出した。
 すこし気楽になれた。

 某古書店で、息がとまりそうになった。
 探していた本に唐突に出会ったから。

 書物名はいわない方がいいな。
 僕のひとことがこの業界の値段に影響することもあるらしいから。

 ある本なんか、僕がすごい値段で買ったと発言したあと、さらに9万4500円にまではねあがった。
 元古書肆Aさんから「おまえのせいだ」といわれた。
 なるほど。
 責任重大かも。

 で、その本。
 幕末史の重要人物の伝記。
 
 僕のリンク先になっている方のブログでも話題にされたことがある。

 友人町田明広氏の8月18日政変に関する論文で多く引用されているもの(『日本史研究』539号)。
 伝記だが、その人の日記が掲載されている。
(わかる人にはわかってこられたか)

 僕も入手を試みたが、日本の古本屋サイトにはすでに品切れ状態。
 僕が出講している大学のいずれの図書館にも所蔵されていない。

 それを今日、みつけた。
 ぎくっ。

 1959年刊行の非売品。500部限定。全767ページ。

 さあ値段だ。
 いくらだ。いくらまでなら出せるか。
 1万円? 2万円?

 心地よい緊張。

 リンク先のKさんは安価とはいえなさそうな金額で入手された感じ。

 そっと最終ページをみる。そこに値段が書きこまれている。
 先頭に「45」の数字をみた。

 4万5000円か、これは無理だ。

 いや。
 コンマのあと数字は3つしかないぞ。

 4,500円か。
 まさか。

 何度も見直した。
 まちがいない。

 関心なさそうな顔をしてお金を出し、さっさと退店。
 うれしくってならない。

 本の値段って本当に難しい。
 店主はその価値を知らないのだろう。

 僕はたぶんかりに3倍でも買ったと思う。

 高くつけたらよかったのに。
 残念でした。

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2008.04.20

岡山県津山市で篤姫のはなしをする

4/19(土)はれ

 岡山県津山市で篤姫のはなしをする。

  美作大学の生涯学習講座の一環。
 既知の研究者(博士)にして、同大学の事務方職員の渡邊大門さんからのお招きである。

 到着までいくつかの「事故」があったが、無事講演行われる。
 90人ほどの受講者であった。
 京都をよくご存知の方が多く、篤姫と京都論という地域性高いはなしだが、助かった。

 美作といえば、幕末期に、岡山出身の岡元太郎、土佐の島浪間(天誅組志士)、井原応輔、千屋金策が戦死した美作土居の事件が思い出されます、なんて講演冒頭ではなしし、終了後は渡邊大門さんに墓参をいつかしたいと思いますといったもんだから、なんと連れて行ってくださった。

 えーっ、って感じで、本当に、本当に感激した。

 高校生以来の思いをかなえられた。
 志願して、20余年目のこと。

  生涯2度とこないかも知れないと、帰り際、なごりおしいて、なごりおしいて。

  ま、経験上、そういう場所は、かならず2度くるんだけど。

  天誅組天辻本陣跡とか(奈良県西吉野村)、中山忠光終焉の地(山口県豊北町田耕)とか。
  あ、三つとも天誅組だ。  

 渡邊大門さん、気をきかせてくださり、「ドライブ」と称して、とんでもないところまで送ってくださった。
 ありがとうございます。
 感謝にたえません。

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2008.04.07

名古屋で新選組講座、開始

4/5(土)はれ
 名古屋・栄中日文化センターに出講。

 「新選組の手紙をよむ」という講座。
 ひさしぶりの新選組講座である。

 2004年以来だと思う。
 大河ドラマのとき。

 受講者40人ぐらい。けっこう多い。

 第1回は「新選組誕生」。
 持論になりつつある浪士集団論にもとづき、新選組の母体となった浪士組を論ずる。
 前置きがながすぎて、まったく近藤勇の手紙がよめなかった。

 終了後、初受講の方からご質問とご要望あり。
 質問はまあいいのだが、ご要望はめんくらうような内容。

 でも結局ひきうけた。

 どういうことになるか。
 その内容、いつか明らかにする日があるでしょう。

 なお講座の今後の予定は、以下。

 2.池田屋事件―元治元年(1864)その1
3.禁門の変―元治元年その2
4.長州征討―慶応元(1865)~2年
5.徳川の崩壊―慶応3年
6.新選組の最後―慶応4年~明治2年(1869)

 詳しくは栄中日文化センターまで。

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2008.03.30

「倒幕とは何か」をかたる

3/29(土)はれ
 栄中日文化センターに出講。
 テーマは「倒幕とは何か」。

 高橋秀直さんの遺著『幕末維新の政治と天皇』(芳川弘文館、2007年)の成果を紹介させていただく。
 
 本講座は今日で終了。
 終了後、受講者と喫茶。
 みなさんにかわいがっていただいていまがあること、改めて痛感。

 次回からは「新選組の手紙をよむ」です。
 またどうぞよろしくお願いいたします。

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2008.02.24

楠葉台場跡から池田屋事件ゆかりの地へ移り夕食

2/23(土)くもりのちゆき
 河内国の楠葉台場跡(大阪府枚方市)の現地説明会にいく。
 幕末畿内地方の攘夷問題に大きくかかわる旧蹟。

 僕の大事なコネタだった。
 昨年、名古屋の朝日カルチャーセンターの40人の人々を案内したことさえある。
 
 良好な遺構が地表面に残っていた。
 が、文化財の指定を受けていなかった。
 あぶないと思っていた。
 
 今回、同市は国庫補助をうけて、2年計画で調査を行う。
 国史蹟として保護されるのではないか。
 大きく期待したい。

 それにしても1日3回の現地説明会があったにもかかわらず、100人ほどの参加者しかなかった由。
 なんということだ。

 京都防衛の大事な拠点である。
 だから当日とはいえ、京都新聞朝刊に載ったのだ。

 京都市内の方々、もっと関心をもってください。

 夜は、池田屋事件戦死者の菩提寺(三縁寺)跡をのぞむ創作和食の店でディナー。
 大雪がふる。
 ながめが実によい。
 幻想的でさえあった。

 講談社現代新書『池田屋事件』が出たら、ここでお祝いだな。

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2008.02.23

町田明広氏と龍馬で維新を語る

2/22(金)はれ
 あたたかい日。そろそろ春か。

 まだ確定申告、奮闘中。
 が、だいぶわかってきた。
 楽しくさえなってきた。

 「知れる」ってうれしいものだ。

 山陽新聞福山支社の西崎哲也氏から、先日の鞆での講演の掲載紙が届く(2月10日付朝刊)。
 大き目の記事で、僕が写真に写っていた。
 送ってくださりありがとうございました。

 夜、東京からご出張中の維新史研究者、町田明広氏とお目にかかる。
 僕のなじみのお寿司屋さんと、木屋町三条のいつもの「龍馬」で、かなり濃い維新史談義。

 「寺田屋の一室で維新は生まれた」とは誰かがいったことばだが、「龍馬のカウンターで維新史研究は進んだ」とは僕のひとこと。
 
 ここでも建碑計画が進められている。
 京都に複数のお龍の標石を建てるつもり。
 千円寄付をした。

 今年は京都建碑イヤーだ。

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2008.02.16

古高俊太郎と龍馬と鞆ノ浦

2/15(金)
 午前中、第11回「洛洛歩考会」見学ガイドの原稿、やっとしあげる。
 担当Yさんにおくる。
 
 午後から「くずし字入門」に出講。
 また古高俊太郎(升屋喜右衛門)関係文書をよむ。
 先代(先々代?)がらみの訴訟。
 
 終了後、さきほど原稿をおくったYさんがキャンパスプラザへおこし。
 先日2時間半こもってゲラに加筆したが、それを修正して持参される。

 今回は720人も応募があった由。
 定員は200名。
 500名も落選するのか。

 午後5時、木屋町三条下ル「龍馬」につく。
 6時から龍馬講座。
 今日からプロジェクターが使えるようになった由。
 その接続のため、早めにいく。

 お見事。
 ちゃんと映った。
 すばらしい。
 これでこれからスライド上映しながら、はなしができる。

 ネタは鞆ノ浦の現状紹介。
 バイパスによって景観が破壊されようとしている。

 しまった、署名してもらうの忘れてた。

 終了後残って、たこ焼きパーティに参加。
 理事長赤尾さんから、龍馬にかんするある稀覯本を見せられる。

 はじめ気づかなかったけれど、これは昨年「京都の江戸時代をあるく」寺田屋稿に没頭していたとき、探したけどついに手に入らなかったものではないか。
 びっくり。

 あっさり貸してくださる。
 さすがは理事長赤尾さん。

 『京都の江戸時代をあるく』刊行前の原稿整理中。
 まだまにあう。
 役にたつか。

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2008.02.10

鞆ノ浦で三条実美をあつく論ず

2/9(土)小雨
 鞆に滞在中。
 午前10時から、国重要文化財「太田家住宅」(県史蹟「鞆七卿落遺跡」)で、三条実美のおはなしをする。
 お招きくださったのは、太田家住宅を守る会代表の大井幹雄さん。

 建物のなか、ひな人形がたくさん。

 参加者募集いっぱいの35名以上。
 もちろん地元の方が多いのだが、すくなくとも京都からお2人おこしだった(中村ゼミの常連さん)。
 よくぞここまでおいでくださいました。

 鞆ノ浦は三条実美ら七卿がすくなくとも2回滞在している。
 1度は文久3年(1863)8月の政変の直後、京都から周防三田尻へむかう途中。
 
 2度目は翌元治元年(1864)7月、長州の上洛戦の際、後続部隊に所属し京都へむかう途中。
 が、京都にたっする前に「禁門の変」がおきて、先発隊が壊滅。
 ゆえに鞆付近でユーターンする。

 このいずれにも休憩所として使用されたのが旧中村吉兵衛邸。

(1度目の出典は、東久世通禧・田中有美『七卿回天史絵巻(旧書名「三条実美公履歴」)』71ページ、マツノ書店、1994年)

(2度目の出典は、『尾崎三良自叙略伝』上、67ページ、中公文庫、1980年)

 それが、国重文太田家住宅(県史蹟鞆七卿落遺跡)として現存。
 そこを会場とされた。

 七卿が座ったであろう部屋で、「三条が、東久世通禧が」と述べる光栄。
 忘れがたい日となった。

 これまでほとんど関心をもたれていなかった三条実美について、近年実証的研究が進んだ。

  笹部昌利「幕末期公家の政治意識形成とその転回―三条実美を素材に」(『佛教大学総合研究所紀要』8号、2001年)

  仙波ひとみ「『国事御用掛』考」(『日本史研究』520、2005年)
  同      「幕末朝廷における近臣―その政治的活躍のメカニズム」(家近良樹編『もうひとつの明治維新』有志舎、2006年)
などだ。

 今回大きく依存、勉強させていただいた。

 が、大物三条を語るには、なんといっても時間がたりなかった。
 今回はほとんど七卿落までで終わってしまった。
 流浪中の重要性については、また機会をあらためたいと思っている。

 山陽新聞と中国新聞の記者がおこしだったので、明日の朝刊に載るのではないか。

 終了後も熱心な参加者と懇談。
 大井幹雄さんのご好意で、普段非公開の朝宗亭も立ち入らせていただいた。

 終了後、「龍馬の宿」へ。
 NPO法人鞆まちづくり工房の松居秀子さんを尋ねる。
 本日の講演もおこしいただいていた。
 
 喫茶しながら、鞆港の埋め立て架橋計画問題の現状をうかがう。
 まことにあぶない状態。

 今回白紙の反対署名用紙をたくさんあずかってきた。
 各所でご署名をお願いすると思いますが、どうかご協力をお願いいたします。
 
 もう一泊して、いろいろしたかったが、締め切りすぎて矢のような催促をうけているものが少なくない。
 帰洛をいそぐ。
 バスや電車のなかでひたすらグーグー寝る。

 京都についてびっくり。
 北大路通の歩道に雪が積もっていた。

 日中に大量の降雪があったらしい。
 そのすごさが想像できた。

 そういえば、新幹線のなかで電車到着おくれが知らせていた。
 ぴんときていなかった。

 在京してなくてよかった。
 おそらく動きがとりにくかっただろう。

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2008.02.02

池田屋事件を考えて本能寺の最新成果をまなぶ

2/1(金)はれ
 朝1番に理髪。
 午後からJR西日本・ジパング倶楽部3月号に載せる写真の撮影があるから。
 みなりは気にしない方だが、写真は残る。
 あとから「なんでこんなむさくるしい姿やねん」と思うことしばしばだから。
 9時半に行ったら、10時からですといわれ、予約して一旦もどる。

 今日はお休みですか、と聞かれ、なるほどそう思うものかと知る。
 これからです、と返事。

 「12時30分から京都駅に行きます」
 「京都駅あたりがお勤めさきですか」
 「いえ、今日は京都駅ちかく」
 「そのつど、ちがうんですか」
 「そう」
 「そういうお勤め先なんですね」
 「はい」

 どういうお勤め先だと思われたのだろう。

 その12時30分、京都駅前のキャンパスプラザ京都でくずし字入門。
 これからしばらく金曜日に変更です。
 お気をつけください。

 大高又次郎の持ち物検査、おわる。
 現在、大高又次郎をしる人はすくない。
 池田屋事件犠牲者としてのみ知られているのでは。
 が、これは小物ではないわ。

 文久3年(1863)から元治元年(1864)上半期の京都政局の一端をになっている感じがする。
 「新選組誕生」の裏側にも、大高がいたのではないかと、いま考えている。
 そうするとその新選組に斬られるわけだから、こんな皮肉なことはない。

 次回のくずし字入門は、特別編「大高又次郎論」をするつもり。大高を総括してみる。

 JR西日本・ジパング倶楽部のうちあわせと写真撮影のあと、
 夕方、Y田K和博士邸へ。
 お宅拝見である。
 いや、初訪問ではないのだが。
 ちょっと事情があって「じろじろ」見せていただきたくなった。
 快諾いただいて、書庫を中心にじろじろ見せていただく。

 知ってはいたのだが、改めて御蔵書の充実ぐあいにうなる。
 うちの本の集め方なんて、実に中途半端だ。
 遠慮がちに本を買っていたが、遠慮は無用だと思った。

 先日『鹿児島県史料/斉彬公史料』全4巻と『島津斉彬文書』全3巻中の2・3巻を買ったが、こんなん今年しかつかわへんかも知らんのに、とさんざん悩んだのがあほらしい。

 Y田博士邸には『古事類苑』が全巻あったぞ。
 考古学者のY田博士には必携とは思えない。
 が、それさえお持ちだ。
 ほかの文献の充実ぶりがどんなものか想像されよう。
 ずっとうなったり、はしゃいだりしてましたわ。

 夜は同じぐらいエライ人たちが5人もY田博士邸に集まって、平安京・京都研究集会の準備会がある。
 何の役にもたたない僕だが、事務方として出席。
 次は本能寺がテーマとなる。
 本能寺の変ではなく、本能寺そのもの。
 その景観復元が討論されるであろう。
 
 Y田博士邸からあるいて帰る。
 帰宅してまだ仕事をつづけるが、疲れが出てあまり進まなかった。

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2008.02.01

部屋にこもって池田屋事件

1/31(木)
 朝から事務室に缶詰。

 講談社メルマガの原稿にたちむかう。
 まだ古高俊太郎論。
 なかなか池田屋事件そのものにたどりつけない。

 夕方までにどうにか片付ける。
 
 夜も残されていた庶務を行う。
 深夜にやっと自分の研究ができる。

 忙しいわあ。

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2008.01.31

大高又次郎の障子を知り大学おわる

1/30(水)はれ 
 2007年度大学最後の日。

 朝とても早くおきれた。
 最初は京都女子大学。

 京都駅に8時前につけた。
 これはプリンセスラインに乗らなくては。
 
 大学生は皆無だった。
 ほとんど小学生。すこし中・高生

 8時15分にはついた。はやすぎる。
 職員さんさえいなかった。

 8時50分、試験開始。
 50人たらず。

 西大谷の南むかいの校舎。
 本願寺のつくった学校から本願寺創始者の墓地がみえる。
 ぜいたくなロケーション。

 京都女子大は来年もいくことになった。
 今年で終わりではなくなった。
 が、今年の子らには楽しませてもらった。
 来年も同じような思いでいれるかはわからない。
 今年の子らに感謝。

 近年出講する大学がふえすぎて、受講者の名前も顔も覚えられなくなっている。 
 もちろん京都女子大学もそうだが、顔がわかる子は多い。
 ちゃんと名と顔が一致することもいる。
 思いいれがふかいクラスだった。

 去り際、「先生!」と駆けつけてくる子ふたりあり。
 「サインしてください」といわれる。
 思わず、色紙ですかといってしまう。
 
 そんなわけない。
 著書に、だ。

 一般の方に頼まれることはふえた。
 が、20代前半の大学生に頼まれたのは男子もふくめて初めてだった。
 光栄なことだ。
 
 し終えて返すと歓喜の声をあげながら去っていった。
 タレントみたい。
 握手してあげればよかった。

 午後からくずし字入門に出講。
 まだ池田屋事件関連史料を読んでいる。
 よめる人ばかりで教えてもらうことばかり。
 自主学習までなさっていて、読めたけれど意味のわからないモノをちゃんとどこかで調べてこられる。
 すごい。

 甲冑師、大高又次郎の所有品を列記した記録をよんでいたところ、「障子」20枚とか11枚とかあった。
 大高の家はそんな大きなものではない。
 升屋喜右衛門(古高俊太郎)の借家にすぎない。
 だから障子が計31枚もあるって不思議だった。

 すると受講者から武具の「障子板」ではないか、と指摘があった。
 なるほど甲冑師だし、それなら別に多くても不思議は無い。
 勉強になるなあ、すばらしい。
 
 いそいで佛教大学へ。
 これがほんとに最終テスト。
 無事おえる。

 明日から春休みだ。
 さすが達成感わ感じる。

 なんだかいつもとちがう異質な疲労感にも襲われた。

 夜は人と会う約束あり。
 祇園へ。
 ぐうぜん年度終了の打ち上げ会になった。
 今年入って3回目のビールを飲んだ。
 楽しかった。

 でもなあ、講談社メルマガの最終締め切りが明日なのだ。
 帰ってしなければ。

 講談社現代新書の『池田屋事件』。
 この春休みに立ち向かいたいと思っている。

 いや、そのまえに文理閣『京都の江戸時代をあるく』か。

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2008.01.29

すばらしい答案をみて「のだめ」をみつけて新聞取材に答えた

1/28(月)
 大谷大学と佛教大学で秋学期テストを行った。

 佛教大学の答案でうなるようないいものがあった。
 これは100点だな、と思った。
 優秀な学生がいるものだ。
 卒業論文提出のあとなので、レベルがあがっているのかも知れない。

 そうかと思うと、就職活動でほとんど授業に出ていませんでした、でも卒業にかかわる単位なのでまげて通してくれというのが両大学ともにあった。

 卒業がかかっている学生の答案をみるたび思い出す話がある。
 
 K大学のM先生の逸話。
 学生結婚をして留年し続けている学生がいた。
 今回落とすと妻に殺されるから通してくれと答案に書かれてあった由。
 留年して殺害されたなんて話を聞いたことがない、だからおもしろそうだと落としたらしい。
 すごい話だ。

 さて僕はどうしよう。

 佛教大学の書店のレジに「のだめカンタービレ」の19巻がおいてあって、びっくりした。
 11月刊行だからもう新刊ではないが、実は持ってなくて、なぜかうれしくて思わず買ってしまった。

 大学でマンガを買うなんてあってはならないことなのだが、初めてしてしまった。
 レジのねえさんにも「大学でマンガを買うなんておかしいですね」といらんことをいってしまった。

 まあ、ふつう置いてないですからねと返されてしまった。
 いやそんなことはない、おいてあるよ、といい返したかったのだが、だまっていた。

 出講している他大学に少年ジャンプとかおいてあるからね。
 そんなん置くのはどうかと思うが、売れるから仕方ないか、となげいていたが、同じことをしてしまった。

 大学に岡山県の山陽新聞の記者Nさんから電話あり。
 きたる2/9(土)の鞆ノ浦での講演を記事にしたいといわれた。

 しらないところで大ごとになっている。
 言葉すくなくだが、幕末史のなかでの三条実美の大きさをかたっておいた。
 近々に紹介記事がのる由。
 先着、35名なのに。

 こりゃすぐ満員になるな。

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2008.01.25

雪の薩摩二本松屋敷の門とされるもの

Dcf_1190

 京都、雪だ。
 
 午前中、同志社大学の後期試験のテスト監督に行った。
 ふだんは新町校地だが、試験は今出川校地で行う。

 雪が美しい。

 写真はその今出川校地に現存する薩摩二本松屋敷の門とされるもの。

 なぜそういえるのか、そろそろそんなことにもアプローチしないといけない。

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2008.01.14

京都の「篤姫」をあるくイベント

 どたばたしてたら、あっという間に2日も更新が滞っている。
 こわいなあ。

1/13(日)くもり、ときどき晴・雨・雪
 
 本年初の「京都おこしやす大学」。
 篤姫ゆかりの京都旧蹟をあるくイベント。

 今年は各所でこれに類似したものに関わる。
 本日、現地見学としてはその第一弾。

 準備のときや当日、いままで気づかなかったこと、いっぱい気づけた。
 正直、最初にそれぞれを引き受けた昨秋ごろ、ほんまにできるんかいなと不安に思っていた。

 が、もちろん完璧ではないのだけれど、自信持ってできるようになった。
 自分のオリジナル情報をもちだしたし。
 
 今年1年はまた楽しそうな予感がする。

 薩摩二本松屋敷跡(同志社大学今出川キャンパス)で、またいつもの京都大名屋敷論。
 ここで京都女子駅伝の先頭ランナーがくるところに出会った。
 しばし観覧。
 トップと2位の間がびっくりするほどあいていた。
 
 最後は相国寺で解散式。

 非常にせまい範囲をいったりきたり。
 それで3時間半もいたのだから、マニアなコースである。
 
 ひと昔なら考えられないことだが、世の中が「ありきたり」にあきてきたといえる。
 それについてこれない人は滅びる。
 明日はわが身だ。
 もっと研鑽しよう。

 最後は常連のみなさんと喫茶にいく。

 寒い中をみなさまごくろうさまでした。ありがとうございました。

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2008.01.11

ある篤姫ネタの出典に悩む

 この数日、「篤姫」のあることがらについて出典を知りたくて調べている。

 いま具体的なことがいえないのだが、さまざまな篤姫伝に出てくるのに、まったく転拠が示されていない。
 ついにご迷惑をかえりみず、歴史作家桐野作人さんに助けを求めた。
 ありがたいことに、すぐ反応くださった。

 結論をいえばご存じなかった。
 しかし薩摩史におくわしい桐野作人さんがご存じなかったことは、この典拠を知っている人はこの世にきわめて少ないということがわかって意義ぶかかった。

 おそらく薩摩島津家側にその史料はないのだろうと思えた。
 
 こまっている僕に桐野さんは「もしかしたら」という情報をくださった。
 ありがとうございます。
 つぎ、それをあたってみます。

 この捜索まだつづく。
 
 いま京都民報に連載していた『京都の江戸時代をあるく』の原稿を出版社(文理閣)に提出できずにいる。
 実は連載原稿にこまかな出典を書き込んでいる。

 加筆はあきらめて刊行をいそいだほうがよい、
 よむとき煩雑になるから典拠はいらない、
 
 いろいろ注意をうける。
 でもそう思えない。

 典拠をしめさない文章は後世に迷惑をかける。
 経験からそう思っていた。
 だから時間はかかるが加筆している。

 今回、やっぱり正しかったと確信した。

 これまでの篤姫伝(昨年・本年刊行のものを含む)が「このネタ」の典拠を記されなかったこと、正直困っている。
 僕は自分の読者にその迷惑をなるべくかけたくない。
 わかってください。

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2008.01.07

「篤姫」第1話、感想

1/6(日)はれ
 「京都おこしやす大学」本年第1回が来週1/13(日)にある。
 京都の「篤姫」ゆかりの地をあるくというもの。

 受講希望が40人もおありと担当Yさんから連絡があった。
 現地見学会の講座なのに、40人は多すぎる。
 久しぶりに黒字でありがたいが、大丈夫か。
 
 本日、その当日レジュメの原稿をつくって送った。
 こういう仕事、めんどくさくてきらいなのだが、今回はとても楽しくできた。
 「篤姫」に気合いが入っている。
 なかなかよくまとめられたと自賛している。

 夜、「篤姫」ついに始まる。
 些細なことはまあいい。
 宮崎あおいさんを中心に楽しくみれた。
 来週もたのしみである。

 調所広郷(平幹二郎さん)を好意的に書いてくれたことは大変うれしいことだった。
 これまで悪役専門だった。

 あえてクレームをいえば、実際の年令と俳優の年令の乖離がはなはだしかったことか。
 島津斉彬は、篤姫誕生とされた天保6年(1835)、数え年27歳である。
 扮された高橋英樹さんは、今年数え年65歳だ。きつすぎる。

 篤姫の父島津忠剛も、同年には数え年30歳。
 扮する長塚京三さんは数え年64歳。同じく無理がある。

 島津斉興は少し年配で、数え年45歳。
 でも扮する長門裕之さんは、今年数え年75歳やからね。

 よい俳優さんを使ってくださるのは誠にありがたいのだが、30歳以上の差はイメージ上、問題がある。

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2007.12.22

松浦亀太郎と講談社メルマガと忘年会とオアシス

12/21(金)はれ
 同志社大学「文化史特論」、本年最後の出講。
 城南八幡の郷土史家、西村芳次郎論。

 終了後、受講者Kさん、松浦亀太郎を卒論テーマに選んだNさんと歓談。
 松浦亀太郎について、また議論。

 一旦帰宅し、講談社メルマガにたちむかう。
 本日締め切り。

 つぎの予定への外出までになんとかしなきゃ。
 午後5時すぎまで頑張る。
 分量に問題はあるが、なんとか提出する。
 
 担当Y田さんからすぐ折り返しお返事。
「間に合いました」。
ありがとうございます。いつもごめいわくをおかけして申し訳ありません。
 
 午後6時から、西大路今出川上ルで、基礎からまなぶ日本歴史・くずし字入門、合同忘年会があった。
 僕をふくめて、25名のご参加。

 K畑さん、T富さん、名幹事で大変お世話になりました。
 とりわけT富さんのこばなしサービスは圧巻で、あっというまの2時間でした。
 僕はなにもせず、ただひたすらぼーっとしていました。それがありがたかった。

 2次会はちかくの喫茶店。
 また僕はひとりでぼーっとしていた。

 なかなか最近は、頭をカラにするヒマがなくて。
 貴重な日でした。

 そのあとは、たまたまご一緒にあるいて帰っていた参加者のNさん、Mさんといきおいで鷹峯までいく。

 御土居堀北西隅をのこすラウンジ「オアシス」で喫茶をする。

 とてもひさしぶりでした。
 森田さんご夫妻、従業員のみなさん、おかわりなく。

 一曲の歌もうたわず、日が変わったところで辞去。
 
 また御土居堀北西隅付近の環境がかわっていることに、おそまきながらきづいて、「明日写真撮らなあかんなあ」と思いつつ、帰途につく。

 このブログ、生活のほとんどを公開していると、あらためて思ったことがあった。

 上記Nさんからいわれたこと。 
 「このあいだ京都駅前地下で先生をみかけた、人といっしょに歩いておられたので、声をかけなかった、あとからブログをみて、一緒にいたのは新潮社の内田さんという方だとわかった」。

 「これで、僕がブログで記している行動が事実だとおわかりでしょ」とお答えしましたが、すべてを公開してんなあと、自分にあきれた次第でした。
 
 やめないけど。

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2007.12.14

土方歳三と松浦亀太郎と山科本願寺・寺内町を考える

12/13(木)
 夜、三谷幸喜さん脚本「土方歳三最期の一日」の再放映をみる。
 久し振りに三谷新選組を見た。

 楽しかったが、美化が過ぎて鼻につく。
 詳しくは本放映時のブログ記事をごらんください(2006年1月4日付、カテゴリー新選組)。

12/14(金)
 討ち入りの日。
 山科では義士祭がある。

 でも元禄15年12月14日、現在の暦では1703年1月30日にあたる。
 各地で行われる義士祭、1月30日に実施する自治体や団体があってもいいのになあ。

 同志社大学に出講。

 講義終了後、吉田松陰の弟子の一人で、松陰の肖像画を描いた松浦亀太郎(松洞)を卒業論文に取り上げるという3年生のNさんが、僕の受講生の紹介でやって来る。

 とても勉強されていて驚いた。
 飛躍のために、明治維新史学会への参加をおススメする。

 さすが同志社大、優秀な子が多い。
 出講も楽しくなってくる。

 午後からは天理大学へ出講。
 天誅組の従軍日記「大和戦争日記」を読み、古地図や現代の地図に天誅組の進軍ルートを描いてゆく。
 概論なのに、実習みたいになっている。
 うーん。

 夜、山科の「伏見」へ。
 山科本願寺・寺内町を考える市民の会の忘年会に参加。

 Y本会長、M田事務局長、R東高校のS田先生と、これまでと明日を語り合う。
 きっと「明日」もいい日だ。

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2007.12.13

第4回京都検定出題をみて

 12/13(木)の京都新聞朝刊に、第4回京都検定の問題が発表された。
 同紙夕刊の日めくりドリル執筆者として、関心あさからぬ。

 自分の問うたネタにかかわる出題がどれほどあるか、気にはなる。

 結論はまあまあ、ぐらい。
 さすがに1年半も連載している。
 かぶるものが多くあって当然か。

 逆に、講演や講義などでしょっちゅう話題にしていながら、かたよりすぎるからドリルには出さなかったのに今回出題された、なんてのもあった。

 K女子大学の受講者のNさんから、「2級を受けたところ、正面通や伏見ネタが出題されていた、先生が出題したのか」と尋ねられたぐらいだ。気づく人は気づくようだ。

 が、僕は出題者ではない。
 偶然あたっただけだ。誤解なきよう。

 ただし京都新聞出版センターの来春刊行予定、『第4回京都検定/問題と解説』の執筆者には内定している。
 また年末年始はこれにかかりっきりになるか。
 いやいやそれに没頭しているわけにはいかん。
 
 講談社現代新書『池田屋事件』が遅れている。
 これが1番しゃれにならない。
 いまだ新発見がつづいている。
 古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)関係だ。

 正直、そろそろあきらめて、改めて別に『古高俊太郎伝』として書いた方がいいかも。
 滋賀県の出版社の方、地元のヒーローですが、いかがでしょうか。

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2007.12.05

建武の新政と忘年会と建碑計画とイス

 すごいな。
 ブログランキング、首位目前じゃないか。
 あと2人クリックされたら、首位じゃないか。
 久しぶりのことだなあ。

12/4(火)くもり時々あめ
 基礎からまなぶ日本歴史に出講。
 
 今日は建武の新政。
 梅松論の「延喜・天暦の治をめざした」という部分や、建武年間記の「二条河原落書」を読む。 

 京都史蹟隊メンバー(基礎からまなぶ日本歴史、くずし字入門受講者など)の忘年会をすることになった。
 K畑さんとT富さんが幹事をひきうけてくださった。
 ありがたい。
 これで今年も無事行われる。
 いまのところ25名ほど参加表明しておられる。

 終了後、受講の方有志と喫茶をする。
 
 来年をめざしていくつか建碑計画がある。
 その話のひとつを話し合う。
 楽しみなこと。

 帰途、京都新聞文化センターにより、担当Yさんと次回講座の相談をする。
 コーヒーをごちそうになる。

 「幕末京都と天璋院篤姫」の予定。
 2回に1回、現地見学会をする。こんなに外に出るカルチャースクールは珍しいぞ。

 辞去の後、いまとてもお気に入りのイスのある喫茶店で、仕事をする。
 ついついくつろいでしまう。
 それほどよいイス。

 ほしいけど、家においてもなあ。くつろげなさそう。
 喫茶店で座るのがよいと思われる。

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2007.11.12

伏見・佐竹邸跡をみずに明治維新史学会へ

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 京都大雨です。
 困るなあ。
 
 かなり空いてしまった。
 毎日更新がほんとうに困難になってきた。

 去る11/10(土)は、名古屋の中部大学へ。
 明治維新史学会に出席。

 伏見旧城下町では佐竹屋敷跡が検出され、現地説明会がおこなわれた。
 行きたかった。でも行けなかった。

 なくなく明治維新史学会に出た。
 大会運営委員なのだ。さぼれない。

 が、これぐらいの強制力がないとまたいかん。
 皆勤のためにはいいことなのだ。
 なんだかんだといっても維新史研究が本業(のはず)なので、最新研究と学界の動向を理解するには参加不可避なのだ。

 会場でY志舎(東京)の社長Nさんと歓談。
 また出版のこと、はなしあり。
 
 世に送りたい研究の出版がつぎつぎに決まってゆく。
 こんなありがたいことはない。

 頑張って生きねば。

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2007.10.31

長州毛利家が東照宮を勧請していた

10/30(火)はれのちあめ
 基礎からまなぶ日本歴史に出講。

 鎌倉時代、「霜月騒動と永仁の徳政令」を論ずる。
 専門でもなんでもないが、聞き上手のみなさんに支えられる。

 あいかわらず前半は最近の「個人ニュース」紹介。
 いま東照宮にとても関心をもっている。

 長州毛利家が東照宮を勧請していたこと、まったくしらなかった。

 関ヶ原以来徳川を敵視し、元旦には徳川打倒を話題にしていたという有名なエピソードももつ毛利家。
 だから念願かなってついに倒幕に成功した。

 そんな毛利家が神君家康を神様として祀っていた。
 毛利家がずっと倒幕を考えていたなんてウソだ。
 むしろながく徳川を恐れていた。
 だから東照宮の勧請は充分ありえることである。

 が、そんな事実、恥ずかしくて人にいえない。
 だから維新後に抹殺した可能性がある。

 それをあばけたらとおもしろいのにと、ある先生からいわれたことがある。
 ほんとうだ、あばいてみたいものだと思っていた。

 いえいえすでに明らかにされていたのだ。
 
 高藤春俊さん『家康公と全国の東照宮』東京美術、1992年
 中野光浩さん「諸国東照宮の勧請と造営の政治史―長州藩と秋田藩の事例を中心に」(山本信吉ほか編『社寺造営の政治史』思文閣出版、2000年)

 はずかしいことだ。
 でも、やっぱりそうだったか、という思いもつよく、うれしさもある。

 なおだれでも知っていたこと、ということではなかった。
 歴史地名辞典の金字塔、平凡社の地名(『山口県の地名』)に東照宮の記載がなかった。

 だから知らなくてもしょうがないのかもしれないけれど、でもショックだった。

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2007.10.20

天誅組志士の遺品を手にする

10/19(金)あめ
 朝、奈良県吉野郡川上村にむかう。
 同村をフィールドにする友人、K田K美子氏の自家用車に便乗して。

 幕末の大和を震撼させた天誅組の乱にふかい関心がある。
 いま抱えているいろいろな仕事をおえたら、つぎに立ち向かいたい対象。
 不定期にその旧蹟をあるいている。

 川上村の伯母谷は、天誅組が壊滅直前に立ち寄った場所。
 そこに、重病のため本体から遅れた久留米出身の小川佐吉を匿った洞窟がある。
 なづけて「天誅窟」。

 以前から行きたかった。
 が、けわしい山腹にあるので案内者がいないと困難。

 今回、K田K美子氏が尽力くださり、地元の方に案内してもらうことになった。

 が、朝から雨である。
 
 向かっている途中、案内をお願いしていた方から電話が入り、延期といわれる。
 残念。
 よほど縁がないようだ。
 スケジュールぎっしりのため、本日をのがすとしばらくうかがえない。

 が、引き返さない。
 もう一件、お約束をしていた。

 おなじく小川佐吉が匿われたとされるN氏方である。
 
 ひとり暮らしのご婦人、おひとりでお迎えくださる。
 小川佐吉使用とされる、兜、槍、鉄砲などを拝見する。
 
 N氏方のことも、そこに遺品が保存されていることも、今回K田氏に教えていただくまで知らなかった。

 天誅組研究の古典にして名著、久保田辰彦氏『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』にも、近年刊行の吉見良三氏『天誅組紀行』にも記載がなかったから。

 これらの研究により、別の場所に残されていた小川の遺品は、維新後、小川の遺児に返されたと知っていた。
 だから小川の遺品はもう大和にはないと思っていた。

 実は、N氏方のことが過去にまったく報告されていなかったわけではなかった。
『吉野郡史料』にちゃんと記載があった。
 中谷順一氏編『こうだに誌』(奈良県吉野郡川上村上谷区、1986年)によって本日知った。 
 恥ずかしいことだ。

 いわば賊徒といえる小川佐吉を匿いつづけた村民の意図がわからない。
 彦根勢など追討軍がきたとき、通報したらいいじゃないか。
 もし隠匿がばれたらお上の罰をうけるではないか。

 これを「残念さん」信仰を検討した井上勝生さんなどの成果に便乗し、真正面から攘夷をかがげる長州毛利家への敬意と理解している(同氏『幕末維新政治史の研究』塙書房、202-215ページ)。

 が、本当にそれでいいのか。天誅窟に入って考えようと思っていた。
 また次回だな。 

 小川佐吉はせっかく完治したのに、また危険な世界へ飛び込んでいった。
 
 宮田半四郎と名を変え、長州毛利家に仕え、鳥羽伏見戦争に戦死するのだ。
 助けた村民はこれを知ってどう思ったのだろう。

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2007.10.04

古高俊太郎は非常勤職員だった

10/3(水)はれ夕方一時雨
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 朝1番、京都女子大学へ出講。
 大仏方広寺を論ずる。

 次回その巡検。
 今週休まれた方、次回は教室での講義はありませんので注意ください。

 午前8時50分、東山七条交差点東側、智積院前に集合です。
 いうまでもありませんが、受講者以外はお越しになりませんよう。

 昨日とても楽しい酒席があった。
 その「名残り」があり、頭痛がする。
 頭をおさえながら、喫茶店で「新撰組より差出候書付写」(古高俊太郎の供述書の良質な写本)の原文を翻読する。
 つづいて12時30分からキャンパスプラザ京都のくずし字入門に出講するので、その予習。
 
 菊地明さんほか編『新選組日誌』上巻(新人物往来社)に全文が翻読されていて、とてもありがたいが、誤読や注記なしの文字の変更が多い。
 内容を大づかみでつかむには便利だが、残念ながら「研究」には使えない。

 それゆえ国会図書館から原文の紙焼きを手に入れて読んでいる。
 いくつか誤読を正せて、新たな事実が判明している。

 たとえば古高が父周蔵の履歴をのべたところ。
 毘沙門堂(日光宮、輪王寺宮)に仕えたというところ、『新選組日誌』は「末動家来」として召抱えられたとある。
「末動家来」は意味が通らない。

 父周蔵の前職は大津代官所手代で、役職は「手代」とわかっている。
 が、毘沙門堂での立場がわかっていなかった。
 たんに「家来」のみだった。
「末動家来」の「末動」部分はおそらく誤読で、これが正しく読めると謎がとけるのではと思っていた。

 受講生T田さんのご協力で、「未勤」が正しいことがわかった。
「未勤家来」なら意味が通る。
 有栖川宮家などに実在する役職だ。
 正職員でない家来、すなわち非常勤職員という意味だ。

 「書付写」によると、父他界ののち俊太郎がそのまま父を引き継いだと読めるので、古高も毘沙門堂非常勤職員だったことになる。
 古高は正職員ではなかった。
 だから門跡の家来でありながら桝屋に養子に入ることもたやすかったのだろうと、考えられるようになった。

 史料は刊本に頼ってたらあかん、原本によらないと、とあらためて思ったものだ。
 詳細は近著『池田屋事件』(講談社現代新書)で述べる予定です。

 午後4時すぎからは佛教大学へ。
 京都の人文地理現象を論ずる授業。
 でも1回目は「江戸時代を大事にしないまち京都」。
 まだ歴史くさいことをしている。

 午後6時半、同志社大学の嘱託講師懇親会に出席。
 昨日の酒が残っているので今日の酒席は避けたかったが、そうも行かない。
 楽しいことがいっぱい待っているにちがいない。

 やっぱり。
 久しぶりにY田K和博士(写真)とお目にかかる。

 Y田博士の方から気づいて、わざわざ声をかけにきてくださる。感激。

 テレビなどでよくお見かけする高名なT・I先生(K都S業大学)の自己紹介に思うことがあった。
 岐阜におすまいで、同県出身の志士梁川星巌の京都宅跡(川端丸太町上ル東側)を訪ねたら、標石がなくなっていた、京都はいいものがありすぎてこんな大事なものさえおろそかにする、となげかれた。

 この標石は京都市教育会碑だ。
 1年ほど前なくなったことを僕も気づいていた。
 捜索すべきところを放置していたが、今回T・I先生は建設予定マンションの一角に横たおしになっていたことを見つけられたという。その行動力にも驚く。
 失礼だが、仕事のできる方はやっぱりいつまでも「お若い」、と思った。

 会場にはお世話になっている先生や、旧知の方など多数おられて、この業界の同志社大学出身者の多さをあらためて感ずる。

 Y田博士のお誘いで2次会にも参加させていただく。
 M藤先生はじめみなさんから、中身のこすぎる朝鮮や中国の現代考古学事情をお聞かせくださる。
 勉強にもなりましたし、ごちそうにもなりました。ありがとうございました。

 とてもステキな夜だったので歩いて京都市内を帰ろうとしばらく歩いていたが、ときどき不穏な方々とすれちがい身の危険を感じる。

 「親父狩り」に合うわけにはいかんと、過剰な危機意識に後押しされて少しの距離だったがタクシーに乗る。

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2007.09.25

洛東霊明神社の秋祭に出席

9/23(月・祝)はれ夕方から雨
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 祇園界隈、お彼岸客や観光客がたいそう多い。

 午後2時、洛東霊明神社にうかがう。
 秋の祭典に出席のため。

 霊明神社は幕末志士の葬地として知られる。
 神主は村上氏。
 久坂義助が先祖の永代供養をねがい、中岡慎太郎が参拝したことが信用できる史料によるわかる場所。
 だから坂本龍馬や中岡はこの地に埋葬された。

 いま隣地の霊山護国神社がその管理者だが、1876年(明治9)に政府が霊明神社(霊明舎)から土地を
没収(上知=あげち)し霊山護国神社(東山招魂社)にわたしたため。

 いま龍馬らのお墓まいりをするには霊山護国神社から入るしかない。
 が、同時代の志士たちが訪問し祭祀を依頼した地は隣地の霊明社である。
 どうかこの事実を知っていただき、村上氏の霊明社にも参詣してほしい。

 今回、50人ほど参加されていた。
 今回8世を継がれた村上神主、建物のなかにある大きな社殿前で祭祀をなさる。

 建物や社殿はあたらしいものだが、その地が幕末から動いていないことは確実。
 僕は今回2度目の参詣だが、ここに知られた志士たちがみな来たのだとまた思い、ひとり感激していた。

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2007.09.16

古高俊太郎と坂本龍馬を語った日

9/15(土)はれ
 朝1番、9時10分、「くずし字入門」に出講。
 乃美織江の手記が終わって、前回から古高俊太郎の供述調書こと「新撰組より差出候書付写」を読んでいる。

 この講座ほど中村ワールド炸裂みたいなものはないなぁ。
 最近全然「入門」ではないような。
 でも池田屋事件研究の最前線を知られたい方にはご期待にそえる内容と思う。えらそうですが。
 おかげさまで「講談社メールマガジン」の連載「本気で考える池田屋事件」もつづいている。

 夕方5時からはスナック「龍馬」で「寺子屋龍馬」講座。
 今回は「薩長同盟研究のいまと坂本龍馬」みたいな内容。
 
 桐野作人さんの昨年の論文をつかわせていただいた。多謝。
 佐々木克先生ご発見の『吉川経幹周旋記』所収、例の「非義の勅命は勅命あらず」の大久保利通書簡を声を出して読む。
 力が入ってしまった。

 終了後はたこ焼きパーティに居残る。
 受講のみなさんと歓談。

 そのあとは親しいS水さんからのお誘いで木屋町の珍しい店にいく。

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2007.09.14

洛東霊明神社で感動する

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 驚くような偶然により、洛東霊明神社の神主村上繁樹さんと縁ができた。
 龍馬ら幕末志士の墓所が、もともといとなまれていた場所です。

 明治政府の方針により境内の大半を没収され、それが隣地の現霊山護国神社に引き渡されてしまった、数奇な神社です。

 去る9/12(水)、霊明神社を訪問。
 はじめて村上さんにお目にかかり、本殿のおまいりもさせていただく。

 さまざまなお話をする。
 未知の史料が多数あることを知った。
 
 神主村上さんとたいそう意気投合する。
 文書・記録だけでなく、墓地もご案内いただく。
 
 恥ずかしながら、境内の南に飛び地の墓地があることを知らなかった。
 西の墓地は知っていたが。

 そしてもっと恥ずかしいことに、そこに和田義亮こと大沢逸平の墓碑があることを知らなかった。
 池田屋事件に受難し、庭の大釜に隠れて命が助かったと「乃美織江の手記」に記される人物だ。

 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』に立項されていない。
 贈位をうけているので『増補贈位諸賢伝』には立項されているが(下巻、703ページ)、埋葬地や墓所の記載がなかった。

 何年この人物のことを意識していただろう。
 こんな身近に墓碑があったのか(写真)。
 恥ずかしい。
 
 それから、霊明神社と志士の縁をつくった曇華院の吉田玄蕃の墓所もここと知らなかった。
 吉田は『明治維新人名辞典』に立項されているが(初版、1067ページ)、墓所の記載がなかった。

 いろいろ思いがふかい。
 村上さんに、これから深く長いお付き合いをお願いしてお別れした。
 一生忘れられない日のひとつになった。

 帰途、有名料亭の前に移動させられた天誅組墓地の道標の銘文を書き写していたら、その料亭にS戸内J聴さんが入っていかれるのをみた。以前に京都駅でお見かけした。2回目だ。