2018.04.04

洛西妙心寺、洛東鷲尾山

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 2018年4月2日(月)はれ
 午後から某用件のため洛東鷲尾山に行く。おもいつきで参拝にあがったので奥様がおられたらありがたいと思ってたら、村上繁樹神主もおられ、奇遇を感謝。いろいろ有益情報を得る。昨秋の暴風雨で旧境内の墓地が倒れたとうかがう。訪ねたら用件のそれがそれだった。復旧をめざされている雰囲気でもなく、暗い気持ちにさせられる。予期せず長居。あいかわらずここはすごい。情報量抜群。14歳になる年から出入りしてるが、51歳目前でもまだ気づかないことがある。
 夕方、円山公園で休憩をかねて某原稿修正。桜はちりかけ。予期せずこちらも長居。
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同年4月1日(日)はれ
 午後から「幕末、地図ぶらり」。10回目。今回は妙心寺。大名屋敷の居所と位置づける。土佐山内、仙台伊達などが使用。とくに伊達家は使用した塔頭を示した絵図が残っているので、意義深い。2時から5時まで境内と付近をあるきまわる。
 懇親会トラブルがあり、予期せず京都駅で二次会する。話したことのナニが人にウケるか分からんなと思った。
 

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2018.04.01

尊号一件、「蝦夷魯西亜船一件」

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 2018年3月31日(土)はれ
 夕方、酒場「龍馬」で幕末政治史を講ずる。2回目。天子兼仁(光格天皇)の生父、閑院宮典仁親王の尊号一件、および文化4年6月(1807年8月)の「蝦夷魯西亜船一件」の禁裏への報告について。これが幕末、外交問題に天子が介入するきっかけになった。参考文献は藤田覚氏『幕末の天皇』(講談社)。
 竹本知行博士(大和大学、政治学)が多忙のなか聴講にお越しになる。終了後も同所で終電まで懇親。

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2018.01.28

天誅組、公議所会頭、征夷府、乃美織江、原平三など

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  昨日の毎日文化センター梅田教室の「日本近代史を学びなおそう」は文久3年9月(1863)の天誅組壊滅から翌年2月の一橋慶喜の参預諸侯への面罵まで。
 本日の重要点は10月の大久保忠寛の書翰の「公議所会頭」がなぜ家茂でなく慶喜なのか、当時「幕府」が「征夷府」と言い換えられている意味など。
 時間を1番かけたのは冒頭の天誅組の乱。なぜこれに注目するか、天理大学の講演録には触れられなかったことを述べた。はよ活字にせえよと改めて思う。
 併会の「日本の歴史を学びなおす」は、鎌倉時代、源頼家の失脚、比企一族の滅亡。安達景盛を敵に回したことに留意してみた。安達景盛の父盛長は比企尼の婿である。つまり比企氏の縁戚なわけで、状況次第では比企側に付いたかもしれない。要は梶原景時、安達盛長・景盛を失ったため、庇護者は比企氏のみとなり頼家は滅んだといえるというような話。北条の独走だけでは他の御家人の反感をかったはずで、愚管抄が正しければ頼家の子一幡は探し出されて殺されている。戦乱のなかの事故死ではないのである。前将軍の子で頼朝の嫡孫候補なのに。すごいことだ。なお僕は鎌倉時代は非専門なので話半分にしてください。
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 終了後、江州野洲で講演された、町田明広博士を囲む京都の会に合流。雪の影響で大阪駅発の電車が遅れ、乾杯直後に入店。
 真ん前に座っておられた久坂和尚さんの質問に答えて、久しぶりに「乃美織江在職筆記」について話す。京都留守居役としての乃美織江の活動をまとめておくことを失念していたことに気づく。しんど。
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 帰宅したら、古書店から『原平三追悼録』(私家版、1992年)が着いていた。ようやく入手。感慨無量。原平三の学恩を思う。その実証の姿勢に卒業論文書いているころどれだけ励まされたか。天誅組の話をした日だったのは誠にうれしい。
 久住真也さんから『王政復古-天皇と将軍の明治維新』(講談社現代新書)を恵贈いただく。一昨日は小林哲也さんから『敗者の明治維新』(歴史real、洋泉社)を恵贈いただいた。あわせて御礼申し上げます。学ばせていただきます。小林さんは、徳川慶喜、松平容保、松平定敬、徳川昭武、伊達慶邦、松平斉民の6名を担当されている。

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2016.11.07

11月5日に話題にしたことのメモ

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   2016年11月5日(土)の復習。
 池田屋事件研究の視点、古高俊太郎の意義、楢崎龍は写真を撮らなかったの典拠、多額の財産の消失話は気をつけろ、寺田屋再興前に寺田屋が存在していた、大浦兼武の寺田屋跡訪問の実態、井上伊三郎の旧蔵品の流出、坂本中岡50年祭の未知の刊本、流離譚引用史料の翻刻、後藤象二郎の居所。

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2016.10.01

嘉永7年大地震、三吉慎蔵日記、忠光暗殺

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 2016年9月30日(金)はれ
 午前、くずし字研究会に出講。本日読んだ、年不明6月19日付父宛板倉筑前介(淡海槐堂)書翰は嘉永7年6月15日(1854年)の大地震にふれていたので、年次の特定ができた。これにより武田修理之介を名乗った期間を従前理解より2ヶ月狭めることができた。
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 午後、T理大学に出講。場所の偽由緒について論じる。
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 帰宅後、入手したばかりの三吉治敬監修、古城春樹・中曽根孝一編『三吉慎蔵日記』をさっそくざっと拝見し、いろいろ知らないことを学ぶ。
 初歩的なところでは三吉は坂本龍馬より年下ではない(4つ年上である)とか、明治以後は楢崎龍(龍馬の妻)より菅野覚兵衛の妻として妹楢崎君江との接触の方が多いとか(というてもわずかであるが)、池田屋事件の報を伝えた長府毛利家臣熊野清右衛門の記載とか。人物索引を付して下さっているので、とても便利である。
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 1888年(明治21)8月2日条に、中山忠光「病死」の次第について杉孫七郎(徳輔)から尋ねられたので、長府毛利家の「家記」の控えを渡したとある。忠光の死の真相追及の始まっていることがわかる。
 その4年後の1892年7月、忠光の妾であった恩地とみ(忠光女仲子の生母)が東上し、中山孝麿邸で、忠光が消息を絶った夜のできごとを語っている。とみも現場を見たわけではないが、翌日自身が駕籠で避難する際、舁夫から前夜「白木長持ヲ舁キ払暁通行セシ者アルヲ見タ」と聞き、「若クバ忠光朝臣ヲ殺害シ遺骸ヲ入レ持行タルナラム」と推定している。
 ただし中山招魂社(現中山神社)神官吉村清享による本格的な真相調査は、1906年(明治39)のこと。

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2016.08.27

朝日新聞鹿児島版の「御花畑」絵図発見記事

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  去る8月22日(月)の朝日新聞鹿児島版に掲載された、「京の『御花畑』絵図見つかる」記事です。本日、記者林国広さんから拝受いたしました。ネット上に流れていないようなので掲示いたします。

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2016.07.30

中村武生に聞く―京都新聞「御花畑」記事掲載

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  今朝の京都新聞(地域プラス欄)に「近衛家別邸『御花畑』の場所、学会発表、絵図が実証―中村武生さんに聞く」(仲屋聡さん)が大きく掲載されました。
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 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵「御花畑絵図」がカラーで全体掲載されたのは初です。担当町田剛士さんに感謝いたします。
 中村による位置復元図も入れて下さいました。
 

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2016.07.03

世尊寺行尹の書が4両は安い

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2016年7月1日(金)はれ

 午前中、くずし字研究会に出講。世尊寺行尹の筆跡を購入した残金1両2分3朱を支払った文書。おそらく本人ではなく仲介したものであろう。世尊寺行尹の書が4両と分かる。山本博文さんの説に従えば1両は6万円。現代の買い物とすれば安い。幕末は価値が半分に下がるのでさらに安い。それでも3回に分けて支払っていて、なかなかリアルでおもしろかった。この横に楢崎将作遺族(龍馬の妻など)がいる。

 夕方、K都B教大学に出講。洛南伏見の慶応二年の寺田屋事件を再現実験をしてみせる。当事者による信用できる史料が複数残っているというのはどういうことなのかを論じた。龍馬の襲われた寺田屋事件は、たとえば「どちらの足から一歩出たか」みたいなことまで分かる、珍しい事例という事を示してみた。次回につづく。

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2016.06.18

「維新階梯雑誌」31冊発見の報に接して

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 さきほど、池田屋事件に関する新情報を載せた、会津の記録が見つかったという報道に接した。

http://www.sankei.com/west/news/160618/wst1606180029-n1.html

 池田屋事件はともかく、「維新階梯雑誌」が31冊も残っていたのは意義深い(所蔵者は宮内庁宮内公文書館)。

 同史料は明治以後に会津松平家が編纂した記録で、大日本維新史料稿本(東京大学史料編纂所蔵)にも多く収録されているが、部分の引用でしかなかった。

 東京大学史料編纂所にもまとまったものは1冊しか所蔵していなかった(池田屋事件の部分は含まれていない)。

 会津の京都守護職時代の研究に役立つだろう。

 ただしすべての情報が信用に足るとは限らない。使用にあたっては内容の吟味が必要である。

 池田屋事件の部分をざっと見ての雑感を述べておく。

 興味深い内容もあった。たとえば記事が大きく報じた「御上意」発言や、それを部屋の入り口ではなく、浪士の間を割って通って奥に入ってから発言したこと、のちに近藤が「御上意」発言を聞いた浪士などが臆したため、「未た徳川ノ御威光不尽(つきず)」と発言したという伝聞(「由」が付してある)などである。

 しかし事件直後の文書の引用ではない以上、これまでの通説を否定するほどの力はない。価値のある「参考」ていどの情報に過ぎないと思う。事実かも知れないが、そうではないかも知れないという感じといえばご理解いただけようか。

 なお新聞が公開した写真によると、筆写された用紙には「臨時帝室編修局」とある。臨時帝室編修局は『明治天皇紀』を編纂したところで、明治天皇崩御のあと大正3年11月30日に組織された(この呼称は1916年〈大正5〉11月4日以後使用)。

 当該「維新階梯雑誌」31冊は、『明治天皇紀』編纂のため、1916年〈大正5〉11月4日以後、筆写・収集されたものと判断される。

 残念ながら『明治天皇紀』(第一)は、池田屋事件を立項しなかったので、どのていど参考にしたかは不明である。

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2016.06.14

関東に下っていました

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 去る6月11日(土)から関東へ下っていました。

 東京都江東区の武蔵野大学有明キャンパスで明治維新史学会大会が行われていたため。12日(日)までの2日間。学ばせていただきました。いろいろありがとうございました。

 6月13日(月)も在関東で、雨天のなか、横浜へ行っていました。西村芳次郎(「今松花堂」)の提携先である茂木惣兵衛の商店跡などに立ってみた。現地に立ってイメージがわく。そのうえでまた論文に立ち向かう。頭の中の風景がすでに変わっている。すごい。

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