2016.11.07

11月5日に話題にしたことのメモ

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   2016年11月5日(土)の復習。
 池田屋事件研究の視点、古高俊太郎の意義、楢崎龍は写真を撮らなかったの典拠、多額の財産の消失話は気をつけろ、寺田屋再興前に寺田屋が存在していた、大浦兼武の寺田屋跡訪問の実態、井上伊三郎の旧蔵品の流出、坂本中岡50年祭の未知の刊本、流離譚引用史料の翻刻、後藤象二郎の居所。

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2016.10.01

嘉永7年大地震、三吉慎蔵日記、忠光暗殺

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 2016年9月30日(金)はれ
 午前、くずし字研究会に出講。本日読んだ、年不明6月19日付父宛板倉筑前介(淡海槐堂)書翰は嘉永7年6月15日(1854年)の大地震にふれていたので、年次の特定ができた。これにより武田修理之介を名乗った期間を従前理解より2ヶ月狭めることができた。
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 午後、T理大学に出講。場所の偽由緒について論じる。
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 帰宅後、入手したばかりの三吉治敬監修、古城春樹・中曽根孝一編『三吉慎蔵日記』をさっそくざっと拝見し、いろいろ知らないことを学ぶ。
 初歩的なところでは三吉は坂本龍馬より年下ではない(4つ年上である)とか、明治以後は楢崎龍(龍馬の妻)より菅野覚兵衛の妻として妹楢崎君江との接触の方が多いとか(というてもわずかであるが)、池田屋事件の報を伝えた長府毛利家臣熊野清右衛門の記載とか。人物索引を付して下さっているので、とても便利である。
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 1888年(明治21)8月2日条に、中山忠光「病死」の次第について杉孫七郎(徳輔)から尋ねられたので、長府毛利家の「家記」の控えを渡したとある。忠光の死の真相追及の始まっていることがわかる。
 その4年後の1892年7月、忠光の妾であった恩地とみ(忠光女仲子の生母)が東上し、中山孝麿邸で、忠光が消息を絶った夜のできごとを語っている。とみも現場を見たわけではないが、翌日自身が駕籠で避難する際、舁夫から前夜「白木長持ヲ舁キ払暁通行セシ者アルヲ見タ」と聞き、「若クバ忠光朝臣ヲ殺害シ遺骸ヲ入レ持行タルナラム」と推定している。
 ただし中山招魂社(現中山神社)神官吉村清享による本格的な真相調査は、1906年(明治39)のこと。

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2016.08.27

朝日新聞鹿児島版の「御花畑」絵図発見記事

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  去る8月22日(月)の朝日新聞鹿児島版に掲載された、「京の『御花畑』絵図見つかる」記事です。本日、記者林国広さんから拝受いたしました。ネット上に流れていないようなので掲示いたします。

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2016.07.30

中村武生に聞く―京都新聞「御花畑」記事掲載

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  今朝の京都新聞(地域プラス欄)に「近衛家別邸『御花畑』の場所、学会発表、絵図が実証―中村武生さんに聞く」(仲屋聡さん)が大きく掲載されました。
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 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵「御花畑絵図」がカラーで全体掲載されたのは初です。担当町田剛士さんに感謝いたします。
 中村による位置復元図も入れて下さいました。
 

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2016.07.03

世尊寺行尹の書が4両は安い

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2016年7月1日(金)はれ

 午前中、くずし字研究会に出講。世尊寺行尹の筆跡を購入した残金1両2分3朱を支払った文書。おそらく本人ではなく仲介したものであろう。世尊寺行尹の書が4両と分かる。山本博文さんの説に従えば1両は6万円。現代の買い物とすれば安い。幕末は価値が半分に下がるのでさらに安い。それでも3回に分けて支払っていて、なかなかリアルでおもしろかった。この横に楢崎将作遺族(龍馬の妻など)がいる。

 夕方、K都B教大学に出講。洛南伏見の慶応二年の寺田屋事件を再現実験をしてみせる。当事者による信用できる史料が複数残っているというのはどういうことなのかを論じた。龍馬の襲われた寺田屋事件は、たとえば「どちらの足から一歩出たか」みたいなことまで分かる、珍しい事例という事を示してみた。次回につづく。

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2016.06.18

「維新階梯雑誌」31冊発見の報に接して

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 さきほど、池田屋事件に関する新情報を載せた、会津の記録が見つかったという報道に接した。

http://www.sankei.com/west/news/160618/wst1606180029-n1.html

 池田屋事件はともかく、「維新階梯雑誌」が31冊も残っていたのは意義深い(所蔵者は宮内庁宮内公文書館)。

 同史料は明治以後に会津松平家が編纂した記録で、大日本維新史料稿本(東京大学史料編纂所蔵)にも多く収録されているが、部分の引用でしかなかった。

 東京大学史料編纂所にもまとまったものは1冊しか所蔵していなかった(池田屋事件の部分は含まれていない)。

 会津の京都守護職時代の研究に役立つだろう。

 ただしすべての情報が信用に足るとは限らない。使用にあたっては内容の吟味が必要である。

 池田屋事件の部分をざっと見ての雑感を述べておく。

 興味深い内容もあった。たとえば記事が大きく報じた「御上意」発言や、それを部屋の入り口ではなく、浪士の間を割って通って奥に入ってから発言したこと、のちに近藤が「御上意」発言を聞いた浪士などが臆したため、「未た徳川ノ御威光不尽(つきず)」と発言したという伝聞(「由」が付してある)などである。

 しかし事件直後の文書の引用ではない以上、これまでの通説を否定するほどの力はない。価値のある「参考」ていどの情報に過ぎないと思う。事実かも知れないが、そうではないかも知れないという感じといえばご理解いただけようか。

 なお新聞が公開した写真によると、筆写された用紙には「臨時帝室編修局」とある。臨時帝室編修局は『明治天皇紀』を編纂したところで、明治天皇崩御のあと大正3年11月30日に組織された(この呼称は1916年〈大正5〉11月4日以後使用)。

 当該「維新階梯雑誌」31冊は、『明治天皇紀』編纂のため、1916年〈大正5〉11月4日以後、筆写・収集されたものと判断される。

 残念ながら『明治天皇紀』(第一)は、池田屋事件を立項しなかったので、どのていど参考にしたかは不明である。

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2016.06.14

関東に下っていました

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 去る6月11日(土)から関東へ下っていました。

 東京都江東区の武蔵野大学有明キャンパスで明治維新史学会大会が行われていたため。12日(日)までの2日間。学ばせていただきました。いろいろありがとうございました。

 6月13日(月)も在関東で、雨天のなか、横浜へ行っていました。西村芳次郎(「今松花堂」)の提携先である茂木惣兵衛の商店跡などに立ってみた。現地に立ってイメージがわく。そのうえでまた論文に立ち向かう。頭の中の風景がすでに変わっている。すごい。

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2016.06.11

薩長同盟締結の邸宅云々の京都新聞今朝の記事への感想

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 今朝の京都新聞の御花畑御屋敷の位置の発見を報じる記事をみた。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160610000143

 去る6月3日の産経新聞に載った原口泉氏の論説を焼き直しただけの記事。

 そのため、先行研究を無視し、視点がずれてしまった。あわせて致命的なミスをしている。御花畑御屋敷は森之木町だけではなく、小山町、中町にまたがる東西に広大なもの。正門が小山町にあるため、住居表示も森之木町ではなく、小山町。

 原田良子さんという方を評価するのは良いのです。総合資料館の麁絵図の発見者やから。けどなここまでの研究の過程を無視して、そこだけ切り取って表示したらそれは非事実になります。

 幕末期の政治的主要人物の京都居所の位置を明らかにしその意義を解明するという中村の問題設定を受けて、桐野作人さんが二本松邸周辺の薩摩人の居所を知る史料を積極的に提示して下さいました。2007年ごろの事です。当時、『週刊京都民報』(京都民報社)に「京都の江戸時代をあるく」という連載をしていました(2008年、文理閣から刊行)。そこでこのテーマを取り上げました。

 大久保利通の石薬師邸はすでに建碑されていたので承知していましたので、西郷隆盛の料亭中熊の寓居、塔之段邸、黒田清隆の寓居である紙商丹波屋西村安兵衛方でした。

 そのうえで小松帯刀に手を出しました。くどいですがこの段階では中村の関心です。それに合わせて桐野さんが探して下さるという状態でした。

 なので桐野さんも小松の寓居が御花畑などと呼ばれているのはご承知だったと存じますが、その位置を特定するというところには及んでおられませんでした。

 そんななかで桐野さんは、調所広郷の「御改革御功績之概略」に、「大客屋近衛様御衷(裏カ)並堀川御屋敷御花畠(略)御修繕」とあることに気づかれました。

 すなわち一条通堀川東入ル北側の近衛堀川邸が、小松帯刀寓居ではと可能性を見出しました。これを受けて、この年(2008年)から京都市内での建碑活動を開始していた中村は、この向かいの個人宅に当該石碑を建てました。

 ただし蓋然性に問題があったため「参考地」と付しました。桐野さんは除幕式にもお越しくださいましたので、その後も小松の御花畑邸の位置を知れる信用できる史料を意識的に気にしておられたと思います。

 近衛堀川屋敷を仮に小松寓居と設定するという問題提起は、建碑のほか、2008年刊行の中村武生『京都の江戸時代をあるく』(文理閣)にも記しました。

 ところがそれからわずか数か月後に、桐野さんは島津家臣葛城彦一の日記に「近衛家室町頭之御花畠御屋敷」などとあることに気づかれたのです。

 「室町頭」を室町頭町の略だと判断され、室町通上立売上ルを遺跡地として2010年1月刊行の『歴史読本』(同年3月号)に論文を発表されました。

 事前にうかがっていた中村は、同書刊行の直後にブログ「歴史と地理な日々」にこれを記し、誤りを受け入れつつも参考地碑は当面廃棄しないこととしました(現在は撤去している)。

 当初は中村も室町頭町説を受け入れていましたが、それ以後のある時期(おそらく2010年内)にそれを否定し、室町通と鞍馬口通の交点が「室町頭」だと判断しました(※この小文を最初にまとめた段階では、2012年秋、非常勤で出講していた大学での受講生のノートにもとづきその時期には室町頭町説を支持していたと記していましたが、特定非営利活動法人監事郡邦辰氏の記憶にもとづきそれ以前と判断しましたので訂正しました)。

 桐野さんにも複数回お伝えしましたし、それ以後講演会やネットなどで広くこの見解を発しました。

 学術の場としては、2014年秋の明治維新史学会関西例会(於キャンパスプラザ京都)で「幕末期政治的主要人物の京都居所考―土佐・長州・薩摩を中心に」と題してこれを報告しました。報告後、桐野さんもフロアーからこれを肯定する(自説を撤回する)コメントを下さいました。

 この報告は、2015年3月刊行の御厨貴・井上章一編『建築と権力のダイナミズム』(岩波書店)に収載されました。近衛御花畑邸の位置「室町頭」は、室町通と鞍馬口通の交差点付近という自説は世に出たのです。

 この自説が誤りないことを決定づける資料の初出現が、去る5月24日(火)から始まった鹿児島県歴史資料センター黎明館での企画展(担当町田剛士氏)で、玉里島津家資料の「御花畑絵図」だったのです。その意義を熟知していた中村は、その4日後に鹿児島に入り、翌29日(日)午前、絵図に対面し「室町通森之木町」「鞍馬口通小山町」の記載を目にして、桐野さんとの論争が終わったと認識したのです。

 原田良子さんが、どの段階でどのようにして「室町頭」を桐野さんの室町頭町(室町通上立売上ル)ではなく、室町通と鞍馬口通の交点付近だと認識されるにいたったかは存じません。

 どうあっても、その結果、府立総合資料館の麁絵図を見出された。その意義を認めることはやぶさかではありません。

 しかしその間、桐野さんと中村は論拠を提示して公共の場で論じあってきたのです。これが学問です。その議論と無関係に存在された方を、いくら良質の資料を発見されたからといって、この二者を無視して単独で新聞記事に紹介するのは学問の否定です。先行研究への侮辱といえます。

 

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2016.06.04

御花畑御屋敷発見の衝撃1

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 去る5月24日(火)夜、同日始まった鹿児島県歴史資料センター黎明館の企画展で「御花畑絵図」が公開されているという情報を桐野作人さんから得た。

 これ以来、ずっと頭のなかはこればかり。当面の論文(「三宅安兵衛遺志碑と西村芳次郎」)をないがしろにしている。

「御花畑」は幕末期の薩摩島津家家老小松帯刀の京都屋敷の通称で、近衛家別邸である。この位置がどこなのか、2008年よりの懸案であった。

当初は近衛の堀川屋敷と判断し、一条堀川東入ル南側にそれを示す標石を建てた。

 が、その数か月後、桐野さんによって島津家臣葛城彦一の日記に「近衛家室町頭之御花畠御屋敷」などの記述のあることが確認され、堀川屋敷の可能性は皆無となった(石碑はその後撤去した)。

 桐野さんはこの「室町頭」を室町通上立売上ルに現存する「室町頭町」の略称と判断されたが(『さつま人国誌』幕末・明治編2、南日本新聞社、2013年)、

筆者はその500m北の室町通鞍馬口交差点付近こそが幕末期の「室町頭」と異論を述べた(拙稿「幕末期政治的主要人物の居所考」御厨貴・井上章一編『建築と権力のダイナミズム』所収、岩波書店、2015年)。

 葛城彦一の記す「室町頭」は、室町通上立売上ルか室町通鞍馬口交差点付近が論点となっていたのである。

 当該絵図がこれを解明するものと期待された。が、そもそも当該図が小松帯刀の京都屋敷と判断される根拠は何か気になった。

 担当学芸員町田剛士さんやその情報を得られた桐野さんにより、根拠は袋に「御花畑絵図」と記してあるということと知る。それだけなら必ずしも直結しない。

 いくつかの調整をへて、その週末28日(土)午後7時30分(正しくは遅れて40分)、急きょ鹿児島に飛び、翌29日午前10時半ごろ、絵図と対面した。

「室町通森之木町」、「鞍馬口通小山町」の記載があった。これにより本図が誤りなく探していた近衛家別邸「御花畑御屋敷」を描写したもので、その位置は拙論のとおり、室町通鞍馬口と明らかになった。

約4時間かけて絵図を粗描、担当学芸員町田剛士さんと面談したのち退館、午後7時10分(正確には遅れて40分)発のJALで鹿児島を発った。

(つづく)

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2015.12.28

天誅組再考をふたたび

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 昨夜も悩んだ天誅組再考を。

 

 1960年代以前の明治維新史研究の問題意識として、変革主体者が誰であるかがあった。そして革命段階論的に下からの革命(ブルジョア革命)であることが望まれたため、農民が多く参加している天誅組と生野の両乱は研究対象となりえた。

 

 ただし指導した下級武士層が農民を利用しただけだったので、それに気づいて逆襲され挙兵は失敗に終わった。愚かな奴らだという低い評価でしかなかった。とはいえこの文久3年の段階で「討幕の勢力配置の見取図がほぼできあがった」(堀江英一『明治維新の社会構造』)と位置づけられたので、討幕の先駆という評価は得た。

 

 以上の学史をふまえて、何を克服しなければならないかを意識し、ようやく天誅組・生野の両乱は研究対象となりえる。個別の事実を明らかにするだけでは学問的とはいえない。

 

卒業論文に立ち向かっているころ、なぜ天誅組・生野両乱を論じる研究者たちはその指導者たちを悪しざまに書くのかが理解できなかった。以上の学史をふまえてみて初めて理解ができる。そして当時思った、何かがおかしいという感覚も克服できて初めて正しかったといいえる。というのは2000年近くになってようやく分かってきたこと。青山忠正氏『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)を参照。

 

そもそも農民を動員し失敗したことを善悪で論じる必要はない。戦略上の問題として認識すればよいこと。そもそも幕末の挙兵に農民が参加しないといけない必然性もない。ある時期の西洋を模範にしたあるべき革命像が前提にあったから。それを排除し日本独自の幕末政治史を理解しようとすべきであった。

なお僕の卒論の対象は池田屋事件だった。天誅組や生野の乱ではなかった。が、高木俊輔氏『明治維新草莽運動史』に導かれ、同様の論点で池田屋事件をまとめようとしていたため、両事件に関する論文をわりと読んだ。結局は消化できずで、あらためて池田屋事件は別の切り口を考えないといけなかった。

 

1990年12月に提出した卒論をA先生にお見せしたところ、野呂栄太郎以来の日本資本主義論争から学びなおせとご指導いただいた。当時はその意味するところがいまひとつ理解できていなかったが、その後「明治維新の史学史」を発表され、当時先生自身がその件に立ち向かっておられたのだと知った。

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