2017.02.05

第11回山南忌のお知らせ

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 【お知らせ】第11回「山南忌」 (京都市中京区壬生賀陽御所町49)
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※旧前川邸で切腹した新選組総長山南敬助を偲ぶ会です。
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本年2017年3月12日(日)午前 10時から
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光縁寺で墓前焼香。
参拝後、順次、旧前川邸で受付、山南敬助切腹の間で焼香。
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13時から壬生寺会館にて記念行事
(【講演】壬生寺貫主松浦俊海氏「壬生寺の歴史・壬生寺と新選組」など)
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※光縁寺、壬生寺には問い合わせをしないでください。
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主催:新選組屯所旧前川邸、田野一十士
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問い合わせは以下です。

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2017.01.02

対馬京屋敷跡碑、ネットニュースにも

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 「対馬宗氏京屋敷跡/附(つけたり)桂小五郎寓居跡」の件、ネットニュースにも流れました。以下です。
 
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170101000027

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2016.10.02

池田屋直前の近藤勇書翰を読んだ

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 2016年10月1日(土)、はれ
 名古屋市中区の栄中日文化センターに出講。新選組講座。まだ新しい方が来て下さる。ありがたし。
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 池田屋事件前夜、すなわち元治元年5月(1864年)までの長州の動きを中心に論じた。
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 同年3月24日付の小島鹿之助・橋本道助宛と、同年5月20日、同じく小島鹿之助・橋本道助、および同日付中島次郎兵衛宛の近藤勇書翰計3通が存在する。これを読んだ。
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近藤の追いつめられているのが分かる。帰郷を求める病に臥せったという養父ら。それを言葉を尽くして制する。それでも在京しつづけているのは国防のため(「尽忠報告」)。が、京都にいることはもちろん、そもそも自分たちの存在意義に悩む。国防のためにいろいろ献策するのに全く取り上げられないことへの不満。で、老中酒井雅楽頭忠績(ただしげ)に新選組解散を視野に入れて訴えたことを伝える文書たち。
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 この翌月、古高俊太郎が逮捕され、池田屋襲撃へ及ぶ。全くよいときに起きたものだ。
 さて次回は古高俊太郎とは何者か、だ。 

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2016.07.25

芹沢鴨殺害と有栖川宮接触について考えてみた

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 2016年7月24日(日)はれ
 外勤のない日。昨日の新選組講座の復習を。2013年9月16日の各紙に報じられた件。
「芹沢(鴨)は浪士15名を率いて」と記事にはあるのだが、あさくらゆう氏『新選組を探る』に掲載された写真によって、15名の具体的な名前が知れる。それを受けて「芹沢鴨は土方歳三・沖田総司・井上源三郎・原田左之助ら15名とともに」と記すとすれば、受ける印象が異なる。  
 その数日後に土方歳三・沖田総司らが芹沢を殺害するのである。有栖川宮に近づいたため会津容保が殺害を指示したというなら、土方や沖田らも同罪にはならないのかと感じる。土方や沖田は同行しただけというのはご都合主義というべきでは。すなわち現段階では有栖川宮に接触したことと芹沢暗殺はつなげない方がよいのではないかという感じ。
 誤解のないように。僕は芹沢は素行不良のみではなく、政治的対立によって殺害されたという解釈に好意的です。
 夜は奥さんの指示により、お好み焼きをつくる。お好み焼き(に含まれるキャベツ)を好まない娘がちゃんと二枚食べた。
 
2016年7月23日(土)はれ
 毎日文化センター大阪に出講。日本史講座は応天門の変、新選組講座は芹沢鴨殺害と天誅組の乱。
 おみやげは山科珉珉の餃子と唐揚げ。

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2016.06.26

仁明天皇朝から近藤勇の焦燥を論ずる

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2016年6月25日(土)くもり

 午後から毎日文化センター大阪に出講。高校日本史と幕末史の講座。前者は仁明天皇朝におきた承和の変。

 藤原順子と安祥寺、淳和上皇と後西院天皇の関係、文徳天皇と清和天皇が正統性を疑われたやろうなと両朝のいくつかの不思議な施策を紹介。まあ、国史編纂(仁明天皇紀だけの「続日本後紀」、文徳天皇紀だけの「日本文徳天皇実録」)、郊天祭祀、田邑陵への神代三陵構築などなんやけど。

 仁明天皇朝はいろいろおもしろい。清和の子陽成が失脚したあと、後継した光孝が仁明の子というのも示唆的。仁明朝の研究会発足指示して亡くなった角田文衛博士の慧眼にいまさらながら。

 後者は、鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵「御花畑絵図」その後、「維新階梯雑誌」31冊発見と島田魁肖像の複数写真を報じた京都新聞記事の紹介、最後に八月十八日政変直前の近藤勇の立場(焦燥)について、同時期の近藤の上書を使用して論じた。

 ほんまは八月十八日政変どころか、芹沢鴨殺害をせないかんのやけど(天誅組もしてへん)、遅れまくり。しょうがない、報道にも配慮すべきやし、あとから見つかるいろいろ史料もあるんや。10月からも継続が決定しております。

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2015.12.27

2015年12月26日の中村武生

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2015年12月26日(土)はれ

 毎日文化センター大阪教室に出講。日本史講座は、奈良時代末期の光仁天皇から桓武天皇朝。長岡廃都まで。また河内交野の郊天祭祀にふれる。禁野本町遺跡(おそらく百済王氏邸宅跡。大阪府枚方市)の壊滅をなげく。

 新選組講座は、清河八郎ら浪士組建白の話。これが会津侯松平容保に与えた影響などについて考えてみた。

 夕方から西宮市の「みつや」さんで忘年会。

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2015.10.25

あらたな新選組論をめざして

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 2015年10月24日(土)

 午前中、対馬宗氏の京屋敷の意義について、やっとまとめた。監事Kさんに送る。

 午後、毎日文化センター大阪教室に出講。日本史講座は、長屋王から藤原四子にいたる奈良時代の政争。

 新選組講座は、第1回目。三野行徳さんを先駆とする文久の浪士取立論を行うつもりが、新選組全体の位置付けを論じる。いわば各論ではなく総論になり、第1回としては意外と良い感じとなった。

 たとえば芹沢鴨殺害は、永倉新八手記が述べるような、単なる素行不良が原因ではなく、八月十八日政変や天誅組の乱を背景にした政治的事情があったのかもしれないという持論を展開。

 あさくらゆうさんが発見し新聞コメントされた件に注目している。

 なぜ芹沢鴨が有栖川宮家に近づいたことが(中身がなくても)大事なのかを、古高俊太郎や池田屋事件を事例にあげて述べた。本当は元治甲子戦争(所謂禁門の変)での有栖川宮家の動きを事例として使うべきだったのだが、忘れていた。

 山南敬介(敬助)や河合耆三郎らの死が、内部対立や事務処理違反ではなく、政治的事情であったらどうします的な煽動もした。ようは「新選組史」とでもいうべき、時代史から切り離された扱いからの脱却(2003年の松浦玲さん以来の)を目指すことの宣言の様なことを改めて述べたということ。

 あらためて本日も平尾道雄の浪士論整理が不可避などと述べる。また以前も述べたが、高木俊輔さんの草莽運動論もしかりである。

 あと奈良本辰也から松浦玲さんの研究系譜も改めて位置づけなおすべきだろう(故人は敬称略)。

 終了後、結城詩さん(芸名)に気づかせていただいたことをひとつ。

 文久3年末に慶喜急死の報が当時のイギリスの新聞に載っている由。国内の風説留では見たことないが、十分あり得る。

 元治元年上半期に会津容保の暗殺が流れたのと同理由だろう。長州や親長州浪士が政敵を揺さぶる時の常套行為。海外史料はデマでも役に立つ。

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2015.10.15

2015年10月14日の日記

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 昨日のこと。

 週末の天誅組講演、ある意味、学会報告並の努力をしている。聴講者も主催者も誰も望んでいないと思うが、自身の問題。レジュメがまにあうか。当日早めに行ってその場で印刷してくれではどやされるやろか。本日もわりと進みました。

 洛東大仏日吉山大学に出講のあと、急いで帰る。宮本さんにお願いして(車でお迎えに来てもらって)、洛中研究室に『国史大事典』(吉川弘文館)を全部移動させた。山科別業では使わんからね。

 本日の洛中研究室ゼミは、いま話題の南京事件を取り上げた。殺戮対象が無抵抗の捕虜および非戦闘員に及んだのか、それは実証できるのか、できたとしてその総数は中国政府が主張する30万人に達するのかどうかが論点であるというようなことを述べる。

 移動してくずし字初級会。本日は尾張慶勝が三家老の首実検をして、四参謀も斬首されたとかの文書を読んだ。時期は元治元年11月(1864年)。

 朝ドラ「あさがきた」。山本耕史さんが土方歳三役でではるというので、はじめてちゃんと見た。

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2015.10.05

新選組の解散示唆の頃の政治史を論ずる

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 幕末政治史の中の新選組に出講。元治元年5月20日、近藤勇が老中酒井雅楽頭に対して新選組の解散を示唆した、小島鹿之助・橋本道助宛書翰を中心にお話をした。

 この直前、将軍家茂が大坂を発ち、江戸へ戻った。上方での将軍の攘夷戦争の先鋒として在京していた近藤らにとっては、自身の存在意味がないと追いつめられていた。

 長州などが京都で暗躍する不穏な状態のときに、将軍が上方を去るなんてという不信感も生まれていた。これは京都で市中見廻の任にあった故に肌で感じていたのであろう。どのていど近藤が事実をつかんでいたかは不明ながら、この時期、長州の幕末史の画期があった。

 前月の4月19日までに、久坂玄瑞が、世子毛利定広の進発賛成に転向していたのである。それを山口政府を説得するための使者、来島又兵衛・寺島忠三郎を送るにあたって、大坂でかなりの議論があった。ようやく意見がまとまり、両人が大坂を離れたのが5月4日からまもなくのことと思われる。5月15日までに両人は山口に入っている。

 これを追うように、一旦京都に戻った久坂も、5月15日再び離京し、大坂をへて山口へ向かう。本年8月に丸亀で発表された、年月不明21日付土肥七助宛久坂書翰はこのときに書かれたものと判断される。

 5月27日、久坂は品川弥二郎を連れて山口に入る。世子定広の進発が決定するのは、それからまもなくの6月4日である。

 この翌日、6月5日早朝、在京の新選組は有栖川宮家ゆかりの古高俊太郎を逮捕する。すでに宮部鼎蔵の家来も捕えていた。それまでに20カ所程度の浪士潜伏地を確認していたのである。この時期にこの大きな浪士追捕(池田屋事件)が行われたのも、将軍不在の危機感が近藤らに大きく作用したことなのであろう。

 というようなことを述べた。

 次回は古高俊太郎逮捕から池田屋襲撃と行くべきなのだが、特別編「龍馬暗殺-疑われた新選組」をします。なんせ11月15日なもんで。

 古高云々は12月に。

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2015.10.03

古墳を媒介にした文化財保護論など

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 昨日はある古墳を題材に、古墳を単体で捉えてはならない、本日まで残りこの古墳を避けて道路がつくられていることに注目せよ、この古墳を破壊することは地域形成の事情、および不便があってもこれを維持すべきとした先人の意識も失うことになる、というようなことを述べた。

 人文地理学概論という講義で。

 本日、名古屋市の栄中日文化センターに出講。幕末政治史を詳細に理解すれば、史料の少ない新選組でもわかることは多くある、と言った。

 たとえば天誅組を新選組はどう見ていたか、とか。

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