2007.11.06

鞆ノ浦で義昭・秀吉・龍馬に出会う

11/1~2(木・金)はれ
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 午後5時35分、鞆ノ浦バス停に下車。鞆に入る。
 
 非常に暗い。明かりが少ないのだ。
 時間はまだ夕方なのだが、深夜な感じ。

 ホテルに荷物をおいて、観光地図をもち、夜の鞆の市街地をあるきだす。
 暗いのに見えるんか、と思われると思うが、暗くてもわかることがある。

 昼間ならわからない、夜の鞆の味もわかる。

 頼山陽宿舎跡、坂本龍馬宿舎跡(旧桝屋清右衛門宅)などをすぐに見つける。
 古城山(鞆城跡、歴史民俗資料館)、今回問題の「龍馬の宿」(旧魚屋万蔵方、写真)にもであった。

 街区の道が非常にせまい。
 木造家屋が多い。
 地域の頑張り次第でいくらでも「よい町並み」になりそうだ、そんな感じがびんびん届く。

 が、そのせまい道に多数の車が通ってゆく。
 信号がないからであろう、抜け道になっていると思われる。

 本屋を一軒みつけた。
 地域を知る書物をと期待したが、郷土出版社の豪華な写真集をのぞいて何もなかった。

 そういえばJR福山駅前に大き目の書店があったので、『広島県の歴史散歩/新版』(山川出版社)を求めようとしたがなかった。広島県の地域本は皆無だった。
 かわりに京都観光本の特設コーナーがあった。

 京都方面の観光客が福山にくることを想定せず、地元の人間の京都志向にだけ答えようとしている。
 なんという意識の低さ。
 こんな本屋が駅前にあったらダメだ。
 
 7時すぎまで歩いた。
 さすがに食事をすることにした。
 ホテルなどの店をさけ、市街地で店をさがす。
 が、2軒しかみつからなかった。

 どちらにも入ってみた。

 いずれも魚料理を試食した。
 まあおいしかった。味に不満はない。
 海辺でも「カツ丼」を頼むような男だが、今回はそれをせず。
 
 しかし、いずれも営業熱心とはいえない。
 観光客めあてではなく、近所のおじさん・おばさんを相手にしている。

 ちなみに2軒目のテレビで中日の優勝をみた。
 お客は僕ひとり。

 この町、すごい潜在能力をもっている。
 翌日のお散歩でつくづく思った。

 午後2時半、今回招聘くださったNPO関係のみなさんと合流、修復中の「龍馬の宿」の中を拝見した。
 そのあとの会議で上記の思いのたけをお話した。

 これを具体的に語るゆとりがいまないが、来たる12月8日(土)午後2時ぐらいから、鞆で一般向けの講演をすることになった。
 そこでお話しますから、ぜひきてください。
 いま話題にしていない「義昭(足利)・秀吉(豊臣)」ってなにかもそのときに。

 場所は未定です。決まりましたら掲示します。

 地域全体が観光で生きていこうとほとんど思っていない。
 この「宝」が明日に持ち越されるかいなかは地元の意識にかかっているのだが、それを誰かが喚起しないといけないのだろう。
 地元の有志が頑張っておられる。
 それが届いていない。
 残念でならない。

 すでにいまいくつもの市民活動に参加している。
 もうあらたに手を出すわけにはいかない。
 自重している。
 かえって迷惑をかけるから。

 でも鞆は、ひかれてしまった。
 どこまでかかわれるか分からないが、とにかく12/8は講演します。

 題して「どうして僕は鞆にひかれるか―歴史地理研究の立場から」(仮タイトル)。

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2007.09.21

宮内庁、天皇陵公開の報をきく

 今朝、昨日の京都新聞夕刊を読んだ。

 「宮内庁が研究者に天皇陵公開」の記事に衝撃をうける。

 ついにこの日がきたか。
 頑張ってこられた方の顔がうかぶ。

 伏見城・城下町の研究をしてきたものとして、明治天皇陵にはぜひ立ち入りたかった。
 
 入れる日がきたのだ。
 
 具体的にどういう申請をすればよいのか、調べなきゃ。

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2007.09.10

「太閤堤」で問題ないか、考えた

9/8(土)はれ
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 去る9/6(木)の京都新聞朝刊トップで報じられた、宇治市菟道の「太閤堤」の現地説明会にいく。

 現在の宇治川右岸堤防の東側の地下から、長さ約75メートルにわたって護岸の石列がみつかった。
 これを豊臣政権が文禄年間におこなった大事業の遺構だというのである。

 午前10時30分、京阪宇治駅に到着。
 午前中なのにもう暑い。
 日傘をさして現地へ急ぐ。
 知った方、何人かに声をかけられる。

 すでに説明が始まっている。
 写真でみていたとおり、ながい石列はなかなかの威容である。

 若い担当者に大きな声で遺跡の保存を訴える人が目をひいた。
 そのあとテレビカメラもその人にインタビューをこころみていた。

 マンション建設予定地だ。
 遺構は壊さず埋め戻すだけだと担当者のひとりがいっておられたが、史蹟指定をして地上に露出させることをのぞむその人の気持ちもわかる。

 それにしても場所がなあ。
 宇治川右岸堤防のすぐ東側ですよ。
 万一の洪水でここは決壊する可能性がある。
 そうすると生命の危険のあるところ。
 そこにマンション建設か。

 建てようと思うものは別の論理があるからともかくとして、それをみとめる行政は人の命を軽視しているとしか思えない。
 住む人間はもちろん危機意識が低すぎる。

 毎年のように水害で家が流されるニュースに接しているはずだから、こんな地に立つマンションに住む人がいるとは思えないのだが。

 生命の危険のある住居をつくらせるより、近世初頭の土木事業を知る貴重な遺構として、史蹟公園化し市の目玉のひとつにした方がよいと思う。

 が、これが豊臣期に構築されたものかはもっと慎重であるべきだろう。
 
 文献には左岸につくったことしか出てこない上、遺物が少なく、とても豊臣期と断定できるものではない。
 遺物からは少なくとも江戸前期には存在していたことがわかる程度だ。

 石垣の構造が豊臣期の城郭のそれと似ているからと担当者がいわれたが、どの城郭のどの部分と類似しているかまでは説明がなかった。
 
 文禄と慶長・元和にはっきりわかるほどの石垣技術の差異があるのか。
 地域差も問題にしないといけないはず。

 山城国紀伊郡の城郭で石垣が出ているのは伏見城だが、伏見城の石垣の年代研究なんてそんなに進んではいないだろう。

 豊臣政権が構築したことが確実な、鴨川堤防たる御土居堀は石を組まず土塁である。
 なぜ宇治川堤防は石で、鴨川堤防は土なのか、その説明ができない。
 
 その鴨川堤防が石垣になるのは文献上、寛文10年(1670)のことだ。
 文禄から約80年もあとのことだ。

 そんな事実をふまえると、今回の遺構が「太閤堤」というには大きなためらいがある。

 が、前述したように近世前期の治水を知る貴重な成果であることはまちがいない。
 大きな目の保養になった。
 ありがとうございました。

 そのあと橿原市の藤原宮の門跡の現地説明会にも行きたかったが、昨日締め切りだった国土交通省のイベント資料の原稿があがっていないので、家路につく。

 原稿が完成したのは午後4時ごろだった。

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2007.08.06

展覧会ご案内、ぜひ行ってほしい

 京都府埋文センターの森島康雄さんから次のようなご案内がまいりました。
 尊敬する研究者のおひとりです。

 思いがわかりますのでご紹介させていただきます。 

 ぜひ行ってください。 
 参加者が少ないと、このような展覧会は中止になるでしょう。

 遺跡に対する国民の関心が低いとほかの面にも影響が及びます。

 たとえば発掘調査。
 これはその土地を次に開発する業者が原則、費用負担します。

 義務ではありません。
 協力してもらうのです。

 正直、いやだと思います。
 高いお金かかるのですから。

 でも社会への大事な還元と思って協力されるのです。

 それなのにその成果を知らせる現地説明会に人が来なければ、業者さん、どう思われますか。
 ニーズのないことに金をつかわせやがって。研究者のエゴだ、と思われるでしょう。

 そして発掘調査や現地説明会、遺跡保護に協力してくれなくなります。
 それはとても困ります。

 ですからどうか、遺跡啓発のイベントにはなるべくご参加ください。
 長い目でいて、いろんな遺跡保護につながるのです。
  
(以下は森島さんの案内文)

 今週末から、恒例の第23回小さな展覧会を下記のとおり開催しますので、ご案内いたします。

 この展覧会は、当調査研究センターおよび京都府内の各教育委員会・各機関が、平成18年度に実施した主な発掘調査の成果を、出土遺物の展示と写真パネルで紹介するものです。

 昨年度の京都府内の調査成果を概観する良い機会だと思うのですが、近年、入場者数が減少傾向にあり、このままではこの展覧会の存続も危うくなるかもしれません。

 近くにお越しの際、あるいは盆休みなどに、お時間がありましたら、ぜひ、お越しください。

                       記

会場:向日市文化資料館  向日市寺戸町南垣内40番の1【入場無料】

会期:平成19年8月11日(土)~平成19年8月26日(日)
※休館日  8月13日(月)・20日(月)
開館時間:午前10時~午後5時(入館は4時45分まで)

主な展示品:
 ①古墓に供えられた輸入陶磁器(宮津市成相寺旧境内遺跡) 
 ②水辺の祭祀に使われた土器群(宮津市難波野遺跡)
 ③土器に書かれた古代の文字(福知山市土遺跡)
 ④鈴のついた須恵器高杯(福知山市安井北古墳群)
 ⑤弥生時代の磨製石器群(亀岡市時塚遺跡)

 ⑥国分古墳群の副葬品(亀岡市国分古墳群)
 ⑦前方後円墳に供えられた家形埴輪(大山崎町境野1号墳)
 ⑧琴柱形石製品(木津川河床遺跡)
 ⑨韓国からもたらされた陶質土器(城陽市芝ケ原9号墳)
 ⑩古墳時代中期の家形埴輪(木津川市内田山B8号墳)

 なお、18日(土)午後1:30から、展覧会場近くの向日市民会館において、今回の展覧会に合わせた内容の埋蔵文化財セミナーを開催予定ですので、合わせてご案内いたします。

1.古墳時代の水辺のマツリ-宮津市 難波野遺跡-
      (財)京都府埋蔵文化財調査研究センター主任調査員  引原 茂治

2.埴輪と古墳のマツリ-木津川市 内田山B8号墳-
      (財)京都府埋蔵文化財調査研究センター主任調査員  竹原 一彦

3.八角形墳と銀装の大刀-亀岡市 国分古墳群-
      (財)京都府埋蔵文化財調査研究センター調査員  筒井 崇史

4.小さな展覧会の見どころ(主な展示品の解説)
      (財)京都府埋蔵文化財調査研究センター資料係長 田代 弘

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2007.07.30

雑草生い茂る「教科書」の地

7/28(土)はれ
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 鎌倉の旧蹟をめぐる。

 東勝寺跡に愕然とした。

 最後の得宗、北条高時ら自刃の地である。
 いわば鎌倉幕府終焉地といっていい。

 当地に「腹切りやぐら」なる場所がある。
 高時ら自刃地と伝承され、前日も紹介した鎌倉町青年団による建碑がなされている。

 が、自刃したのは数百人である。
 常識的に考えて、「腹切りやぐら」なるせまい地で全滅は不可能だ。
 建物内だろう。自刃地は。

 数年前、発掘調査が行われ、広大な建物跡がみつかった。
 客殿跡と推定されている。
 成果が大きいので、国史蹟に指定された。

 今回その地を見に行った。
 20年前、「腹切りやぐら」はみた。
 ちがうイメージをもちたかった。

 が、その地は、金網に囲まれた雑草の地にすぎなかった。
 解説板はあるから「ここ」とはわかるが。
 絶句した。

 いうまでもなく鎌倉幕府滅亡は教科書に記載のあることだ。
 新田義貞が攻め、北条高時が自刃した、と。

 保存されたことはよかった。
 が。

 京都など各所でこんな事例は多数みてきた。
 なれていたはずだった。

 いやいや。
 とんでもない。

 本当に残念だった。

 こんなことではダメです。
 なんとかしてください。
 姿勢がとわれます。

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2007.07.16

台風一過で、嵯峨野学芸倶楽部へ

7/15(日)くもりのちはれ
 台風がさった。
 ほっとした。

 嵯峨野学芸倶楽部に出講。
 受講者17名の由。

 東京からこられる予定の方がいたそうだが、新幹線がとまったとかでこられなかった。
 
 先月検出された西堀川小路跡のことや、薬子の変のことをお話しする。

 終了後はまたうちわの北野の史料を読む会。
 今回から上七軒関係史料もよむことになった。

 上七軒歌舞練場の創建年代のこと、まとめないといけないのにまだできていないなぁ。
 ちょっと気になることがある。

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2007.07.15

中世の岸和田城跡が破壊されます

 大阪府岸和田市に、江戸時代の岸和田城が現存します。
 
 それに先行する、古い岸和田城跡が地下から発見されていましたが、市当局の無理解により、まもなく破壊されます。
 それについて急ですが、明日7/16(月・祝)、午後2時から現地説明会が行われます。
 
 私は2時半から(祝日にもかかわらず)佛教大学(通学部)の講義がありますので、どうしても行けません。
 古城に関心のある方、文化財保護に関心をもたれる方、ぜひ行ってください。

 以下はそれをお伝えくださった、都市史研究者の仁木宏さん(大阪市立大学)からのメールです。
 どうぞごらんください。


 お世話になっている皆さんへ
 この10ヶ月近く、保存に尽力してきた岸和田古城跡ですが、残念ながら開発前提の発掘調査も最終版にさしかかっています。

 この城は、岸和田の歴史、和泉の中世後期を考える上でかけがえのない遺跡であり、そのことは、この間の連続講演会で明らかにしてきたことであり、また今後、私たちが出版する図書でより鮮明になると思います。

 下記の通り、何とか現地説明会が開催されます。
 せめて、みなさんの目にこの城跡を焼きつけておいてください。
 よろしくお願いします。

 場所は、南海岸和田駅の山側、和歌山方面に出て、山の方へ向かう旧街道(駅前郵便局の前)を50mほどゆき、左手に福祉総合センターの大きなビルがみえる三叉路を右折して、坂を下っていった所です。

                    from  仁木 宏

各位
 大阪歴史学会で保存運動に取り組んできた岸和田古城跡ですが、5月から記録保存の発掘調査に入っておりましたが、外部者の立ち入りを認めない、現地説明会の実施に同意しない状態で終盤に来ておりました。

 7月21日は明け渡しということになっているようですが、ようやく現地説明会の開催の話が着いたようです。

 7月16日月曜日14:00~となりました。

 昨日、連絡いただいたところで、まことに急な話ですが、時間があれば是非お越しいただければ幸いです。

 また、みなさま方それぞれに、関心のある方面に対して、説明会開催の情報を流していただきますよう、心よりお願い申し上げます。

 わたしが、数週間前に訪れた際の話では、15世紀後半の遺物が出ているようで、やはりいまの郭についてはその時期のもののようです。
 
 16世紀前半に、いまの岸和田城が築城されるのと、時間的には連続的に理解することが可能かと思います。

 これまで14世紀としていたのは、遺物が少ない中で瓦器片が入っていたからでしたが、今回の発掘でも、土塁の土にやはり瓦器が入っているようです。

 区画整理で既に上部は失われている2の郭とされている東にあった郭こそが、原型となる方形居館ではないかと推定されておりました。

 その時期は確かめようがありませんが、いまの古城跡部分について、堀を掘削して土塁を築いた中に瓦器が入っていることからすると、二の郭は古くさかのぼる可能性は十分想定できるだろうと思います。

 15世紀になって、防御性を高めるために、いまの古城跡や、さらに西にあった郭などが増設された、という見方もありうると思います。

 この雨で、発掘調査の完了まで、また業者ともめる可能性があると思いますが、いずれにしても、古城跡を見ることのできる最後の機会と思われます。

 各方面に情報を流していただき、市民の、研究者の、関心の高さを、業者、岸和田市当局に示したいと思いま
す。

よろしくお願いします。

岸本直文
OCU大阪市立大学

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2007.06.30

四葉のクローバーのタクシーをみた

6/29(金)はれ一時雨
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 同志社大学に出講。江戸時代、御土居堀を論ずる。
 次回は明治維新期以後の変容について。
 「まだ御土居堀してんのか」と自分でも思うが(芸がないような)、受講者は拙著を読んでいないようで、「目からうろこ」らしい。まだ話すべき意義があるらしい。

 午後からくずし字入門に出講。
 前回から、幕末長州毛利家の京都留守居役、乃美織江の手記を読んでいる。 
 池田屋事件について記した基本史料ながら、ほとんど検討されたことがないもの。
 それを詳しく説明しながら、明治の自筆本を読んでもらっている。

 近代の記録なので文字のくずし方が特異で、とても難解。
 「入門」だったはずが、突然「応用」編になっている。
 それでもみなさん、ちゃんとついてきてくださる。
 ありがたい。
 3ヶ月辛抱してください。
 また「都の記」にもどりましょう。

 夕方、烏丸四条で、ヤサカタクシーの「四葉のクローバー」を屋根の突起に描いた車をはじめてみる(写真)。
 幸運感をお客に与えるため、4車両だけ用意されているときいている。
 乗ればよかった。

 そういえば今日はいいことがあったなぁ。

 夜、右京区で「三宅日記輪読会」。
 Sさん、Mさん、Kさん参加。
円満な会で、情報交換にあけくれる。
 あっというまの2時間。
 退屈する暇がない。

 Mさんから、上七軒歌舞練場創建にかかわる史料をいただく。
 僕がきづかなかった『日出新聞』の記事。
 1894年(明治27)以前から建設計画があったことがわかった。
 ありがたいなぁ。

 深夜、自宅で来週の「京都検定/日めくりドリル」の問題を2問つくり、担当Yさんに送る。
 
 未明、友人U原氏からメールあり。
 上七軒歌舞練場創建年代特定を喜んでくれる内容。
 最近お目にかかっていないが、結婚されて以前より多忙になられた由。
 よくわかるので、つっこみはしない。

 が、結婚って人の足かせにしかならないものかと、思うことは甚大。

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2007.06.29

発見!上七軒歌舞練場の創立年代

 また「発見」をした。

 毎月、嵐山電鉄「帷子ノ辻」駅前の三壺庵(さんこあん)で「京都歴史講座」を担当している(主催:伝統プロデュース「連」)。

 終了後、関係者だけで、『史料京都の歴史』上京区編を使って、北野地域の史料を読む会をしている。
その「読む会」でのこと。

 参加者に建築学研究者、井上えり子さん(京都女子大学)がおられる。
 上七軒の花街文化研究会のメンバーで、老朽化した現在の上七軒歌舞練場(1931年改築)の保存問題にかかわっておられる。

 話題が上七軒歌舞練場のことにおよんだ。
 そのとき思い出したことがあった。

 先日、寺田屋伝説調査の一環で、府立総合資料館で『日出新聞』のマイクロフィルムをみていた。
 そのとき偶然「上七軒歌舞練習場」とかかれた記事をみつけた。
 同建物創建の記事のようだった。

 特別関心はなかったが、上七軒自体は僕と縁のふかいところ。
 僕もいちおう「連」のメンバー(のつもり)だし、いつもかわいがっていただいているお茶屋さん「大文字」のこともある。

「大文字」でお話しするコネタになるかもなぁ、なんていう思いもあった。
 また現在の建物の修理費が期待どおり集まらないということも伝えきいていた。
 タイムリーさを感じて、何かに役に立つかもぐらいの気持ちで、ほんらいの目的とはちがうが、その記事を複写しておいた。
 ほんと、そのていどだった。

 たまたま「読む会」のとき、井上さんのまえでそのことを思い出し、話題にした。
「『日出』で歌舞練場の創建の記事をみつけましたが、創建のころのことは周知のことなんですか」と。

 さすが調査・研究をしておられる井上さん。
「創建年は1902年(明治35)と聞いているが確実な史料がなく、1895年(明治28)説もある」と即答された。
 
 驚いた。わかってないんだ。
 ということは、先日僕がみた新聞記事は、初の確実な史料の出現ということになる。

 そのときの記憶では、1904年(明治37)の4月か5月の記事だったと思った。
 すると1902年(明治35)とする通説とは異なる。

 どう考えればよいか。
 井上さん曰く「1902年(明治35)は計画かも知れない。計画と実際にずれがあってもそれはありえることだ」。
 なるほど。

 いずれにせよ確実な史料によって上七軒歌舞練場の創建年代がわかったということか。すごい。
 確認のため大急ぎで帰宅。
 すぐにコピーをさがした。

 が、先日ゆえあって「緊急掃除」をしたので、数日前に持って帰ったばかりのコピーが行方不明になっていた。
 しかしなんとしても見たかったので、またひっくり返して、なんとか見つけることができた。
(また掃除しなきゃ)

 すると大きな誤解をしていたことに気づいた。
 記事はたしかに創建を報じるものだった。
 それにまちがいはなかった。それはほっとした。

 が、年代をまちがっていた。

 1904年(明治37)ではなく、1894年(明治27)だったのだ。10年古かった。

 とすると、異説として伝えられていた1895年(明治28)よりまだ古いということになる。
 定説が大きくくつがえり、予想よりもっと古く、しかも確実な史料で裏付けられたということになる。
 これはすごい。

 さっそく「連」の代表、濱崎加奈子さん(東京大学大学院生、京都女子大学非常勤講師)に電話し、井上さんへの伝達をお願いした。

 まったく偶然にこの発見をした。
 その劇的さにふるえた。

 僕はどうやら思っていた以上に「北野上七軒」とふかい縁にあるらしい。

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2007.05.17

高知城跡、国史蹟未指定地があぶない

5/16(水)はれ、夜あめ
 未明、高知城跡シンポジウムの原稿、やっと完成。
 K大学のI先生などに送る。

 いま高知城跡の国史蹟未指定地の「破壊」がはじまろうとしています。
 昨秋、それを問題視するシンポがありました。
 K大学のI先生のご依頼で僕もはなしました。

 その内容が書籍になります。

 問題そのものはまだ渦中です。
 昨日「破壊」がはじまったという報をえました。
 もう、どうなってんねん、という感じ。

 去る13日(日)深夜には、講談社現代新書『池田屋事件』の序章を完成。
 S舎のYさんに送った。

 いろいろ仕事片付いているようにみえて、終わりきっていない。

 おかげでまた民報の原稿が遅れがちだ。
 いかん。

 そろそろ体制の変化を試みないと。

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2006.11.28

土佐に立って思ったこと

 やっと天気になりましたな。
 
 昨日もいっぱい歩きました。
 万歩計21526歩でした。

 シンポジウムを開くまで問題となったマンション建設予定地をみる。
 高知城天守はスマートで美しい。
 好きなほうだ。
 その遠望をふせいでしまう。
 また同じことは必ずおきる。
 それを防ぐための抜本的施策が必要。
 
 あいた時間で龍馬とその仲間たちの旧蹟を見てあるく。
 やはり歩かないといかん。
 つくづく思った。

 この数年、さんざん土佐の維新史でくわせてもらった。
 そこで話題にしてきたこと、なんとうすいことか。
 現地にたち、はじめて気づくこと甚大。

 具体的なことはいまいえない。
 
 今後に活かそう。
 幕末の土佐をかたる以上、もっと高知にこよう。

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2006.07.25

16年前に

7/24(月)あめ
 毎日雨。
 毎日晴れで暑い、もいやだが、長雨も困る。出かけにくい。

 午前中、佛教大学通信教育部のスクーリング。「地理学特講」という科目。
 受講者10人。3時間50分もの長時間はきついだろう(3回休憩したが)。

 終了後、学食でランチを食べ、喫茶部でコーヒーをいただきながら、連載原稿執筆。

 午後4時から某所で会議。
 おわると別の所へ行って、また会議。
 実に有意義。

 いま、38歳。
 16年前、20代前半に夢見たことが現実化しだしてきた。

 何事も思い続け、牛歩でもいいから前に進めることだな。

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2006.02.10

100点な日

2/9(木)こゆきのちくもり
 午前、京都府立総合資料館へ行く。
 入り口で歴史資料課の福島幸宏氏とばったり。
 ご結婚の祝辞を述べる。

 本日の訪問は、ある文献のコピーのため。
 事前に司書松田万智子氏に連絡をしていたため、同氏不在にもかかわらずご用意あり。
 
 コピーをしていたら、松田氏お戻り。
 以前より調査継続中の「旧馬町十三重塔」の文献を下さる。
 ありがたし。

 たまたま高瀬川研究の泰斗、石田孝喜先生とばったり(昨年『京都・高瀬川』をご刊行)。
 お声をおかけし、歓談。
 「もう少し静かに」と松田氏から注意される。反省。

 お昼になったので、近所のファミリーレストランに行き、歓談継続。
 つぎの刊行予定のご著書のことなどうかがう。
 
 1時を過ぎたので石田先生、総合資料館へ戻られる。
 
 僕は兵庫県尼崎市へ。
 市立尼崎高校で「富松(とまつ)城跡」を守る市民向けの講演・座談会が開かれます。
 それへの参加。

 富松城跡土塁の保存問題は、関西の中世都市史・城郭史研究者にとって大きな注目になっています。
 僕も2002年5月から関係させていただき、大きく学ばせていただいています。

 平日の午後、さすがに人は少ないだろうと思って入室。
 いやはや恐れ入りました。
 とても多い。
 300人程度はおられます。
 どうしてこんなに動員できるのだ、とまた驚く。

 演者のひとり、富松神社宮司善見壽男氏の「富松城跡を残したいですかー?」の問いに、聴講者ことごとく手をあげ、拍手。圧巻でした。

 終了後、コーディネーターである市澤哲先生(神戸大学)、善見寿男氏と「コーヒー」に行き、歓談。
 わずかの時間でしたが、心あたたまる愉快なお話しの数々。
 やっぱりきてよかった。
 「富松」は僕の心のオアシスです。

 とんぼ返りして京都へ。
 大谷大学で「山科本願寺・寺内町を考える市民の会」の定例会議。
 大幅に遅刻しましたが、さいごに合流でき、懸案事項を確認しました。
 
 終了後、草野顕之先生(大谷大学)のお誘いで、近くの「二次会会場」へ。
 安藤弥先生(同朋大学)、川端泰幸先生(大谷大学)も同行。

 4月から草野先生が「文学部長」に就任されることをうかがい、一同愕然。
 繁忙になられることまちがいなく、「市民の会」の業務にかかわれないことは確実。

 しかし楽しいお話に終始し、なぜか「なんとかなるやろ」という空気で終わる(本当か?)。
 
 一日中、ステキな人たちと時間を共有。
 まったく僕の「好みの環境」のオンパレードで、100点な日でした。
 なかなかこんな日はない。

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2005.11.30

大和郡山の惣構の堀が改変されています

11/28(月)はれ

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 天理大学の日。
 近鉄を利用して出講しています。

 京都方面から、「九条」駅を通過しますと、右車窓から、大和郡山城下町の惣構の土塁と堀が見えます。
 最近、気にしていなかったのですが、たまたま本日意識してながめてみると、驚いた光景がありました。

 堀が近代的な改変を受けているではありませんか。

 講義ののち、改めて「九条」駅に戻り下車。
 現地へ行ってみました。

 これはひどい。
 同市の河川課の事業です。

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 「城下町」をまちのシンボルにしているのに、その外郭を、景観上破壊しています。
 
 先日の大阪市立大学COEのシンポジウムでは、岐阜や金沢で、すでに失われた惣構の土塁や堀を復活させようという計画を学びました。
 そんな時勢に、せっかく残っている堀を壊すなんて、暴挙といえましょう。
 
 このままでは残されている土塁も、いつどうなるか分かりません。
 
 大和郡山市民の方、文化財係に訴えてください。

(写真上が2003年3月撮影の旧状(南から)。下が現在。同じ場所を北から撮影)

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2005.11.27

実相院の紅葉をみながら思ったこと

11/26(土)はれ

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 所用ありて、夕方、岩倉実相院(いわくら・じっそういん)に参拝。
 実に見事な紅葉に驚く(写真)。

 が、それ以上に驚いたのは、人の多さです。
 閉門の午後5時になっても、いもを洗うほどの人がいました。

 建物がぎしぎしといっています。
 
 建物は、享保5年(1720)、東山天皇の中宮、承秋門院の旧殿を移築したものです。
 ある時期の大宮御所の建物が生きているわけです。

 それを示す「実相院日記」の当該条まで展示されてありました。
 事実であることが分かります。

 その建物の保護のためには、この紅葉客の量はムチャではないか。
 見事な紅葉をみながら、そんな無粋なことを思いました。

 杞憂であればよろしいが。

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2005.11.03

立命館大学へ行き文化財保護を語る

11/2(水)はれ

ritsu1

 友人から電話あり。心やすらぐ。

 午後3時、立命館大学へ(写真)。
 
 考古学の木立雅朗(きだち・まさあき)先生に呼ばれる。
 卒論を書く学生さん(女性)に、僕の文化財保護活動のこれまでを語ってほしいという依頼です。
 快諾をいたしました。

 拙著『御土居堀ものがたり』を読んでいてくださり、終始楽しくありました。
 木立先生やその学生さんもかかわる文化財保護活動のこともうかがえ、僕が勉強になりました。

 夜は木立先生と学生さんと飲みに行く。
 拙著の出版祝いといわれる。お気持ちがうれしい。 

 西院で軽く食事したあと、居酒屋「北平」へ。

 京都惣構(御土居堀)の土塁・堀跡を少し残す店です。
 拙著にも紹介しましたので、今回お店に寄贈しました。
 
 たいそう酔って帰宅しました。

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2005.06.17

「古墳全壊」報道に思うことあり

zenkai
 
 6/16(木)はれ
 朝起きるなり、愕然とさせられる。
 毎日新聞朝刊のトップ記事です。
 
 「無届け工事 古墳全壊 ドコモ関西 形態基地局新設で 池田 府教委、緊急調査へ」
 大阪府池田市の古江古墳のことです。

 でも見出しに驚いて新聞を読んだものの、「古墳全壊」をあおるその書き方に、納得がいきませんでした。
 見もふたもないけれど、古墳を初めとする遺跡の消失は日常茶飯です。
 これまで「調査をした」あと、どれほどおびただしく壊されてきたか。

 だから今回も常識的には、まずどうあっても破壊される前提のものだった可能性大といえます。

 ですから、①無届けだった、②未調査だったという点のみが問題なのです。
 極端な言い方をしますが、「全壊」はさほど問題ではないはずです
(しつこいですが、さんざん壊してきたじゃないか。マスコミも当然のこととして無関心だったじゃないか)。
 
 調査をして壊すのと、しないで壊すのとではちがう、「記録保存」されたら後世に情報が残る、未調査なら何も残らない、といわれるかと思います。

 ある意味、そうかも知れません。
 でもそれは「やむをえない処置」であって、理想的な姿ではないはずです。
 
 「やむをえない処置」を理想的な処置に転ずるするために、これまでもっとマスコミも取り組むべきでした。
 調査をしたからといって遺跡は壊してはいけない、という姿勢が必要でした。
 それをして来られたのなら、「古墳全壊」をトップで報じられても問題視はしません。

 そのような事情を知らない一般読者には、「古墳全壊」だけに目が行き、意味するところが伝わりにくい記事でした。

 僕には今回のことは「法規にふれた」程度の問題にしか思えません。
 すなわち日常茶飯の「破壊」を、今回だけトップ扱いするというのは、過剰反応と思います。
(普段、文化財〈史蹟〉破壊を問題視し、新聞の取り上げ方があまりに小さいと嘆いている者ながら、そう思います。)

 私の思いは、
 ①拙稿「文化財保存にどう向き合うか」(『花園大学考古学研究室だより』45号、2004年)
 ②拙著『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版センター、2005年7月下旬刊行予定、本当か?)
にも述べています。
そちらもご参照くださればありがたく存じます。
 
 本日は名古屋市の栄中日文化センターで講演をしました。
 今回は「豊臣政権の首都構想―大坂・伏見」です。

 主に京都橘大学の横田冬彦さんの一連の御説を紹介しただけのような内容でしたが、プロジェクターで映像を
ご覧いただきながらお話したので、少しは見やすかったのではないでしょうか。
 受講者のみなさま、ご清聴ありがとうございました。

 終了後、いつものようにお客さんと茶話会、二次会と歓談。
 朝田のぼる、沢田聖子(さわだ・しょうこ)というシンガーの話題でもりあがる。
 僕は高校生の頃、沢田聖子さんが大好きで、それ以前のアルバム、シングルB面までことごとく聴いて(収集して)いました。
 いまでも落ち込むと聴きます。元気が出るのです。

 帰宅すると、貝塚市教育委員会の前川浩一さんから、玉稿「貝塚寺内の都市計画」が恵贈されておりました(『史潮』57号、2005年5月31日発行)。
 おおこれは、以前話題にされておられたものですね。
 わざわざお送りくださりありがとうございます。勉強させていただきます。感謝です。

 新聞夕刊が、野茂英雄投手の日米通算200勝達成を報じていた。
 うれしいです。野茂投手の動向(活躍)は気になってしょうがありません。
 おめでとうございます。今後もずっとご活躍を祈念しております。

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