2016.12.30

パソコンの電源アダプターが壊れる

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 2016年12月28日(水)
 タブレット(マイクロソフトのサーフェス。これにキーボードをつけてパソコンとして利用している)の電源アダプターが壊れたようで、充電できず、ついに止まった。真っ青である。12月31日締切の原稿もあるし、年明け1月8日にそれを使ってパワーポイントでの講演もある。10日締切の原稿もある。
 あわててヨドバシカメラに駆け込むも、電源アダプターは市販しておらず、その場でマイクロソフトに電話して替えを頼むも、同社のアカウントを取得してなかったようで、そこからせねばならず。ところがネット環境にない。ヨドバシカメラの社員さんが親切で、パソコンを使わせてくれて試みたがうまく行かず、1時間ぐらい奮闘するも(となりにクレーマーがいてうるさいどころか机を何度も蹴られて閉口し)断念。そのあとくずし字。ため息ばかり。

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2016.08.23

岡田有希子さん今年も誕生日

 昨日8月22日は、岡田有希子(本名:佐藤佳代)さんの誕生日でした。存命なら49歳です。記して今年も記憶にとどめます。

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2016.08.06

O谷大博の末永コレクションを観て

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 2016年7月26日(火)
 お昼、「日本の歴史、いま・あのころ」に出講。昨日の発見のことなど語りすぎて、本論に入れず。
 夕方、O谷大学に出講。前期試験の監督。今回の学生さんにはほんとに救われました。
 早く到着しすぎたので、O谷大学博物館での夏季企画展「大谷大学所蔵の考古資料―末永コレクションを中心に」(7月30日まで)を観覧。末永雅雄(1897-1991)は1942年から44年まで本学の嘱託教授だった縁で、さまざまな考古資料をO谷大学に寄贈した由。考古学史の愛好者として、観覧せんわけにはいかないという程度の関心だったのだが、その質の高さに息をのむ。
 とりわけ絶句したのは「美濃山大塚古墳」(美濃山王塚古墳)出土の遺物。これは現八幡市美濃山の古墳群のひとつで、戦前に梅原末治ら京都帝国大学考古学教室が調査したことは周知である。ここに「三宅安兵衛遺志」碑のひとつが建っている。すなわち八幡の郷土史家西村芳次郎が調査に協力しているのである。末永雅雄もそのメンバーだったのだろう。その際、遺物をいくつか個人で持ち帰ったものといえる。
 西村芳次郎伝ともいえる「三宅安兵衛遺志」碑論文の完成を急いでいるいま、あまりにタイムリーな出来事だったため感じ入ったわけ。
 あとから向谷進『考古の巨星―末永雅雄と橿原考古学研究所』(文藝春秋、1994年)を読み返したら、ちゃんとO谷大学嘱託教授時代の記載があって、末永雅雄が大学に出講することになったので、京都帝国大学考古学教室主宰者である梅原末治が、末永に講義ノートの提出を要求したため、屈辱にたえかねた末永は梅原と決別したという有名な話が、このときのことだったのだといまごろ気づく。これ最初に読んだ頃はO谷大学と無縁やったからね。

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2016.07.23

現天穂日命神社はもと田中社と呼ばれた

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 2016年7月22日(金)はれ
 くずし字研究会に出講。尊円法親王の書などの美術工芸品の売買の史料が頻出するのだが、これがある1つの目的に関する文書群なのではと気づく。少なくとも10月のものの多くは万延元年(1860)ではないか。今後その意識で文書を見直すべきと述べる。
 夕方、B教大学に出講。本年最終回。次週、試験。
 夜、江州葛川明王院の門前比良山荘でD文字のT会。少し葛川明王院や参籠札、文書、絵図の話をする。帰洛ののちBライトンホテルで二次会。
2016年7月21日(木)はれ
 名古屋市の栄中日文化センターに出講。「日本の城と合戦」講座は、伏見指月城と真田信繁父子の話。日本史講座は豊臣期政治史。
 
2016年7月20日(水)はれ
 K都女子大学に出講。後白河天皇陵を含む法住寺殿跡巡検。次回につづく。昼から洛中研究室ゼミ。突然研究室の転居が決まる。メンバーと下見に行く。
 夜、くずし字初級会に出講。
 前回の「攘夷」と「征夷」は異なるのではないかという疑問は誤読であったことを伝える。「ら」と思った字は実は「与」だった。で、「と」と読むと意味が180度変わるという恐ろしい事例であった。
 すなわち「ならでは」と読んだ部分が、実は「などでは」だった。つなげると征夷ならでは巣穴は壊せないではなく、征夷などでは壊せないになった。つまり「征夷でないとダメだ」が、「征夷ではダメだ」に変化するのである。すでに活字になっていたふたつの釈文を比較していて気づいたもの。いろいろ感じ入った。
 
2016年7月19日(火)はれ
 午前中、NHK文化センターに出講。新撰組講座。芹沢鴨殺害をテーマに天誅組の乱と壬生浪士(のち新選組)の関係を論じてみた。
 午後から日本史講座に出講。明仁天皇が譲位の意志を示された件から転じて、前近代天皇の譲位、太上天皇について述べる。本編は崇徳天皇の「叔父子」問題。
 夕方、O谷大学に出講。蓮台野の陵墓巡検。後花園天皇火葬塚、大応寺、水火天神、紫式部・小野篁墓、雲林院遺跡解説板、現雲林院、絹(衣)懸塚などをめぐる。
 
2016年7月18日(月)はれ
 午前中、都名所図会をあるくに出講。洛東石田・日野。都名所図会とは関係ないが、前回醍醐寺に行ったので、『義演准后日記』に同寺金堂木材や瓦を陸揚げしたと記される「石田新舟入」跡かと想像する場所に行ってみる。
 
 ついで現在の天穂日命神社に参拝。ただしこの神社の由緒は錯綜しているので、情報整理をする。万葉集や枕草子などに出てくる「石田(いわた)森」も現在地だということにされ、歌碑など連立しているが、それを同一と判断する材料はないのではないか。
 現天穂日命神社は徳川時代には「田中社」であった。鎌倉時代の山科条里図に「田中森」とある地と同一であるというのは問題ないと思う。事実はここまで。
 すなわち「石田(いわた)森」、式内社の「天穂日命神社」、田中社はそれぞれ別個のものと考えるところから始めないといけないのではないか。
 昼食は洛中へ出て、Hさんと裏寺町蛸薬師下ルの「喜の屋」で。

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2016.07.19

お願い

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2016.07.18

攘夷と征夷はやはり同じ意か

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 2016年7月17日(日)朝雨、日中はれ
 外勤のない日。朝早く雨が降っていて、山鉾巡行実施を危ぶんだが実施された模様。
 7月13日(水)に気づいた「攘夷」と「征夷」の違い云々の件、もっと深い、そして合点の行く点に気づく。うわ。そうか。メンバーには次回お伝えします。
 娘の紀念日会に両方の祖父母お越し下さる。家が一瞬きれいになるのでたまには来客はあるべき。
 夜、たまたま藤原竜也さんの新番組を観てしまい、うかつにも次週が気になりだす。
 
2016年7月16日(土)はれ
 午後からキャンパスプラザ京都の御土居堀を考える市民講座に出講。惣構論の研究史をまとめ、それを話させていただいている。今回は小島道裕・前川要・千田嘉博氏らによる1990年代までの織豊系城下町論を中心に。自身の課題が山積といまさらながら。
 受講者と少し懇親して帰宅。おみやげは王将の餃子。宵山の洛中下京には行かず。
 
2016年7月15日(金)はれ
 午前中、くずし字研究会に出講。
 日米和親条約締結後の嘉永7年5月16日(1854)付父宛板倉筑前介(淡海槐堂)書翰に、同国の要望のとおり徳川公儀は相模あたりに1万坪の土地を与えた、交易はどう決まったか聞いていないとある。板倉は在洛東伏見街道五条。前者は誤報。和親条約締結(修好通商条約締結以前)の段階で、アメリカに国内の土地を与えたというのはありえない。この噂をキャッチした板倉書翰が特殊か、よく見いだされるものなのか(一般的なのか)は知らない。 
 夕方、K都B教大学に出講。洛南伏見寺田屋伝説を論じる。
 夜、娘を連れて祇園祭宵山前日の洛中に出向く。下京東洞院六角の一画で優雅な一夜を過ごさせていただく。

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2016.07.15

攘夷と征夷は意味が違うらしい

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2016年7月14日(木)
 午前中、古書店から『七年史』(2006年9月、マツノ書店復刻)が届く。刊行当時、こんなに会津侯松平容保や家臣たちに関わると読めず、買い漏らした。手元になく困ることが増えたので無理して購入。
 午後から京都新聞文化センターに出講。前回、洛南向島城跡と指月の伏見城跡を巡検したので、それに関連して真田信繁と指月城および木幡伏見城の話をした。あわせて本題の洛中惣構土居堀の解体過程の第1回もした。慶長年間から出入口が増えだすことのみならず、主要出入り口に接した部分に土居が削られ町屋などが建設されだすことなど。
 夜は私的な祝賀会。娘ののぞむおかずを奥さんがつくり(奥さんはフライドポテトを失敗したというものの娘はおいしいと言う)、僕はほかのサイドメニューとケーキを買って帰る。初めて乳歯が1本取れたとか、本日はいろいろ娘の紀念日。
 
2016年7月13日(水)
 朝イチK都女子大学に出講。陵墓に関わって後白河天皇陵と法住寺殿の話。ご当地やからね。
 K都新聞のY田Mどりさんと某打合せを兼ねてブルービートで昼食。
 午後から洛中研究室ゼミ。大河ドラマ「花の乱」の応仁の乱の描写を話題とする。
 夕方からキャンパスプラザ京都のくずし字初級会。まだ老中稲葉正邦へ提出した徳川公儀・諸侯への建書を読んでいる。ながい文章である。おそらく真木和泉か久坂玄瑞あたりが記したものであろう。「攘夷」と「征夷」の意味の違いを述べていて感じ入る。
 講義中、明仁天皇の譲位(「生前退位」)の意志ありという報道が入ってきて、衝撃を受ける。 
 
2016年7月12日(火)
 午後からいつもの「日本の歴史、いま・あのころ」に出講。鹿苑寺で大塔の遺物出土の報道や、河野太郎衆議院議員の陵墓治定改定に関する発言などを取り上げる。本編は保元の乱。「叔父子」問題に入ったところで時間切れ。夕方、O谷大学に出講。

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2016.07.12

山科・醍醐・東九条

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2016年7月11日(月)、はれ

午前中、「都名所図会」をあるくに出講。醍醐寺下醍醐中心部、および一言寺へ行く。途中ばったり岳父と会う。下醍醐中心部では『義演准后日記』の豊臣期の復興部分を読む。

夕方、洛南東九条の長谷川邸での「東九条研究会講座」に出講。伏見城と武家地の話をする。そのあと近く行われる長谷川邸での地図展に出品される絵図を事前に拝見する。

2016年7月10日(日)、くもり

外勤のない日。妻子も不在だったので原稿を打てた。夕方、妻子帰宅。みなで連れ立って参議院議員選挙の投票に行く。夜、結果がみえみえでつまらない選挙結果をほとんど見ず、BSで録画した大河「真田丸」を視聴し、娘を寝かしつけ、そのまま寝落ち。

2016年7月9日(土)、あめ

午後から山科に出講。通訳ガイドさんに日本史を講ずる。連続講座8回目。本日は保元・平治の乱。美川圭さん、元木泰雄さんなどの説をいただきながらお話しする。終了後は懇親会にも参加。

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2016.07.09

けっこう有意義な一週間

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2016年7月8日(金)はれ夕方雨

午前中、くずし字研究会に出講。ある一字の読みに悩む。配布した釈文は「向」と記したが、参加者から「内」および「何」ではないかと指摘あり。結局、意味から「何」と判断した。

終了後、京都地方法務局宇治に行き、昨日の件に関連させて旧土地台帳と旧公図を閲覧・複写。予想外の成果あり。いま立ち向かっている原稿を書き直し。うれしい悲鳴。

夕方、K都B教大学に出講。先週のつづきで寺田屋事件の復元。

本日7月8日は、元治元年なら6月5日(1864年)にあたるので、有志に誘われて池田屋跡碑の飲み屋で池田屋事件ミニ講座をし、のち懇親。

2016年7月7日(木)はれ

午前中、NHK文化センター京都教室に出講。小牧長久手の戦いとそれ以後の羽柴秀吉の話。午後から京都府立総合資料館へ。京都日出新聞、大正元年(1912)・2年のマイクロを読む。予想通りの記事を発見。

2016年7月6日(水)はれ

   朝イチ、K都女子大学に出講。鳥辺野(鳥戸野)の陵墓の話をする。午後から洛中研究室のゼミ。綾小路きみまろの独演会や大河「花の乱」の応仁の乱あたりの描写について話題となる。夕方、くずし字初級会。藤村幾之進が老中稲葉正邦へ運んだ徳川公儀・諸侯への建書のつづき。

2016年7月5日(火)はれ

キャンパスプラザ京都の日本史講座に出講。沖縄県石垣市の白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)遺跡」で旧石器の全身人骨が発見された。その報道を受けて、意義を述べる。

夕方からO谷大学に出講。蓮台野の陵墓の話をする。次回巡検予定。終了後は近衛別邸御花畑御屋敷跡を改めてあるく。

2016年7月4日(月)はれ

「都名所図会をあるく」に出講。宇多天皇皇子敦実親王(母は藤原胤子なので醍醐天皇と同腹)の子の雅慶の掃苔。山城国宇治郡条里図に表示されているため、醍醐天皇陵とともに信用できる陵墓のひとつ。そのあと醍醐三宝院へ。昼食は境内のお蕎麦屋に受講者と。

2016年7月3日(日)

外勤ないゆえ、拙宅で娘と朝日新聞の「しつもん!ドラえもん」の切り貼りをまとめてする。

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2016.06.30

伏見城武家地、御花畑、甲子戦争

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2016年6月29日(水)くもりのちあめ

 朝イチ、京都女子大学に出講。慣例となった空中写真の実体視をして(本日は近江国府跡あたり)、そののち伏見城武家地のおさらい。

 お昼から洛中研究室ゼミ。本日も御花畑御屋敷・その後など。

 夕方からはくずし字初級会。

 甲子戦争(所謂禁門の変)前夜の元治元年6月24日(1864年7月27日)ごろ。京都竹田口の城州紀伊郡東九条村(現京都市南区東九条)に諸侯布陣。会津のほか、南端に近江水口侯加藤明軌勢300余、北端に伊勢桑名侯(京都所司代)松平定敬勢200余がというところまでがほぼ前回。

 今回は山崎から藤村幾之進が長州使者として城州淀へ派遣されたところから。老中である城主稲葉正邦への朝廷への奏書と徳川公儀・諸侯への建書を持参したもので、その建書を読み始めた。けっこうながい。

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