2016.02.26

豊臣期十口がどこかを考えた

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2016年2月25日(木)はれ

 午前中、昨日あげた八幡の歴史を探求する会の土井さんに掲載写真を3枚お送りする。

 午後から京都新聞文化センターに出講。「御土居絵図を読む」の3回目。豊臣期の復元。

 構築当初の「十口」がどこであるか、こだわってみた。拙著『御土居堀ものがたり』(京都新聞出版センター、2005年)ではふれなかったが、福島克彦さんの所説に従えば、当然東寺口は含むべきで。そしたらみごとに10口になるのね。つじつまあわせみたいで恐縮ですが。これもちゃんと論文にしとかないと。昨日気づいたのだれど、『豊臣秀吉と京都』(文理閣、2001年)の拙稿に出入り口の復元案は示していなかった。

 早めに帰って、娘の育児。奥さんが町内会の会議に参加しないといけないから。お風呂に入れて、夕食いっしょにして、その間に奥さん帰宅して、で早めに寝かしつけ。読み聞かせはシンデレラ。そのまま寝落ち。 

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2015.11.15

「討幕」を死語にすべきこと

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 去る11月12日(木)、京都新聞文化センターの幕末長州講座に出講。タイトルは「楫取素彦と薩長同盟」なのだが、楫取素彦の動きとは別に、薩長同盟とは何であったかを論じた。

 そのうえで薩長同盟は戦争回避の盟約か、「討幕」のための軍事同盟かという業界の議論を紹介したうえで、そもそもは「討幕」とは何かを、柏村数馬日記の慶応3年8月14日条などを使って考えた。

 同条で西郷隆盛は京都・大坂・甲府で同時挙兵(「期を定三都一時ニ事を挙候積ニ御座候」)を主張しながら、当方は「討幕」はしないと述べたという(「於弊藩討幕ハ不仕」)。つまり京都・大坂・甲府での同時挙兵は、「討幕」にはあたらないということになる。

 ということは、宮地正人さんがみいだされた、慶応元年12月26日付、市岡長右衛門殷政ら(在美濃中津川宿本陣)宛、伊勢屋池村久兵衛(在京都)書翰にある、黒田清隆が述べたという、薩長同盟によって薩摩島津家が「それを機会として、防長二ヶ国より起り、其頃迄麦(バクと読み幕の意で幕府)滞在なれハ、是も乗取手筈」とか、「万一右策はつれ(外れ)候節は、日枝(比叡山)へ御座(天皇)を奉写(移)、其所ニて屯と申事」なども、「討幕」にはあたらない可能性がでてくる。

 さきの柏村日記の同条は、そのあと、「ことを挙げたのち、状況次第により、将軍を討て(「討将軍」)という新帝(天子睦仁)の命令(「綸旨」)は差し出されるべきか、これは仲間の公家よりおおよその内意を探っている」とあり、これが「討幕」を指すのか、そうでもないのかが議論となろう。

 もしこの「討将軍」が「討幕」にあたるのなら、実際に徳川慶喜(しかも当時はすでに前将軍)を「討」たなかった明治政府は、「討幕」は実現せずに明治維新をなしたことになりますね、と言った。

 ここで想起されるのが、天誅組で、これもながく「討幕」を目指したといわれてきた。

 が、主将中山忠光は、挙兵直後に「東夷打」という希望を述べているものの、その実態は将軍家茂・慶喜・春嶽らを殺すという、私的な(綸旨や勅命を得ない)要人殺害ていどのことなのである。上記を受け入れるなら、これを実現したからといって「討幕」にはならないことが気づかれてくる。

 すなわちかりに将軍家茂・慶喜・春嶽らを殺せたとして、そのあとに別の人物が将軍や幕僚部を後継したらどうなるか。トップの顔ぶれが変わったていどでも、「討幕」を目指したと認識してよいものか。

 学術用語として「討幕」は一旦死語にし、新たな表現(それが桐野作人さん、町田明広博士が主張される「廃幕」でよいかも含めて)と定義の構築をすべきときだとまとめた。

※「討幕」と「倒幕」の差異については、あえて論じませんでした。

※町田明広博士が玉著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復 (近代史研究叢書17) 』(岩田書院、2010年、12~13P)において、「討幕(倒幕)」「廃幕」について丁寧に論じておられる。今後はこれをたたき台にさせて頂いて、もっと深めていくべき。

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2015.07.10

松陰だけではない安政大獄の毛利家

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 昨日の京都新聞文化センターの松陰講座は、「安政の大獄と長州毛利家―吉田松陰の周辺」をいたした。安政の大獄における毛利家といえば、吉田松陰のみに特化されるが、決してそうではない。松陰関係史料だけではなく、「井伊家史料」(大日本維新史料のうち)などによって実態解明を試みた。

 たとえば公家屋敷への投書問題では、従前松陰の筆跡だと梅田雲浜が指摘したので、松陰は江戸送りにされたといわれる。

 が、実は松陰だけではなく、文章の「中程より末文」までは赤祢武人の筆跡に「七八歩程似寄」ると頼三樹三郎(三樹八郎)と梅田が証言している。しかし赤祢は江戸送りにはならなかった。

 その他、大楽源太郎や久坂玄瑞、中村道太郎(のち九郎)、宍戸九郎兵衛(のち左馬介)、周布政之助など毛利家中の者が多数話題にされている。

 毛利家にとっての安政大獄の嫌疑は、松陰だけとは決していえない。

 それにしても文久・元治期長州毛利家を研究対象にしていると、故梅田雲浜のネットワークが活きていることをビンビン感じる。梅田の供述に登場する人物が、文久・元治期に活躍する者やその周辺の人物が多いのである。

 梅田研究は安政大獄で終えてはいけない。たとえば池田屋事件犠牲者は、古高俊太郎・大高又次郎・西川耕蔵及びその家族が、梅田門下かその至近にいる者である。

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2014.11.28

松陰らのみた洛中洛外を語り、あるく

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2014年11月27日(木)はれ

 午前中、よみうり文化センター京都教室に出講。「吉田松陰と久坂玄瑞のみた洛中洛外」の2回目。幕末京都の景観とはいかなるものだったかをお話しする。

 京都中央郵便局でNHK歴史秘話ヒストリアから依頼されたアンケートを投函。

 午後、京都新聞文化センターの巡検に出講。こちらも吉田松陰がらみ。まず松陰と江戸の「西奥揚屋」で一時同獄だった小林良典(鷹司家諸大夫)の墓参をする。

 場所は、出町柳駅の至近にある長徳寺。松陰は「留魂録」のなかで、多材多芸で、「文学」には深くないが、処事の才のある人と記し、弟子たちに遠島先であっても交流せよと期待した人物である。

 松陰の死後まもなく獄死し、配流されなかった。高杉晋作はこれを記憶していて、松陰の遺体を世田谷村の大夫山に改葬するとき、そばにあった小林の墓もともなった。だからいまも世田谷区の松陰神社に墓がある。長徳寺のほうは、遺髪塚の由。 

 ついで松陰が初めて京都に入った嘉永6年10月1日(1853年)、その日のうちに訪ねた梁川星厳の居所跡をめぐる。梁川の書翰により、安政4年10月(1857)に転居したことのわかる東三本木地区に入り(ここが終焉地)、ついでそれ以前にいた川端丸太町上ルの居所跡に行く。

 ここが松陰の訪ねた家だったと思われる(東三本木転居まで8年住んでいた由)。京都市教育会による石碑が建つ。最近京都市銘の解説板も建った。残念ながら、梅田雲浜や西郷隆盛らが訪ねたとあるが、松陰のことにはふれない。来年には京都市にとって、とても大事な場所なのに。

 そのあとは岡崎公園に入って、松陰が同年10月2日に禁裏を拝んで詠んだ、「山河襟帯」の詩碑(野村靖撰文)を見て解散。

 その間、いろいろな種類の電話がかかっていて、かけなおす。三条大橋東詰某所で少し原稿を打ち、帰宅する。おみやげは八天堂の菓子。夜、寝かしつけする。娘お気に入りの「耳なし芳一」を読みきかせると、そのまま寝付いてくれる。    

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2014.11.15

幕末三昧

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2014年11月13日(木)はれ

 

 朝から部屋の掃除。めっちゃ、ごみ捨てたよ。

 午後、京都新聞文化センターに出講。吉田松陰講座。今回は京都の安政大獄。受講者から「今回は眠くならなかった」だって。

 本日、九州旅行の請求書いただく。帰りにすぐ振り込む。担当Y田さんからよい話も聞く。おめでとうございます。お祝い、なんでもしますよと言う。

 

2014年11月14日(金)はれ

 午前中、くずし字研究会に出講。会津家臣日記は姉小路公知暗殺直前。K家文書は、仁孝天皇の崩御を伝える書翰。午後から某家文書調査。将軍家茂上洛を伝える書翰に気づく。あ、武田相模守信発書翰もあったな。いろいろたのし。

 

 

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2014.04.21

山城槙島城から筑前福岡大宰府へ

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2014年4月10日(木)

 京都新聞文化センターに出講。新年度開始。でもかわらず黒田官兵衛の城と合戦。担当Y田Mどりさんが移動になった。いろいろ変化があった。

 お題は足利義昭と信長、最後の戦い。山城槙島城の戦い。次回は巡検。信長本陣跡から槙島城跡まであるく予定(現在の京都府宇治市域)。

 移動先のY田さんを訪ねたのち、出版部で拙著1冊を手に入れる。久しぶりにN井さんに会えた。もう二児の母になられる。年をとった。

 秋(10月11日~13日)の筑前福岡・大宰府旅行(中村武生とあるく)の具体を考える。ようやくコースができた。肥前名護屋城跡まで足をのばすことにした。黒田官兵衛を意識しつつも、古代から幕末までのさまざまを入れた。かなり楽しそうだ。どうぞおこしください。

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2014.03.31

三木城跡をあるいた

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2014年3月27日(木)はれ

 京都新聞文化センター「黒田官兵衛の城と合戦」講座に出講。

 本日は巡検。兵庫県三木市へ。昨年国史跡に指定された三木城跡のうち、本丸遺跡・二の丸遺跡、および羽柴秀吉陣所跡と考えられる平井山ノ上付城に行った。

 僕は10年ぶり。そのときは、三木市教育委員会の方に車で各付城跡を案内いただいた。当時国史跡を目指しておられた。それが実現して改めてうかがったので、感慨深かった。

 三木城跡本体から平井山まで、湯の山街道などをへて徒歩。参加者さん、よくぞ歩いてくださった。すごい。平井山ではやぐらが組まれていて、難なく三木城跡本体が見えた。とても工夫のされたこととやはり感心。

 ふもとの竹中半兵衛墓は、いつから認識されているのか気になった。今回の指定からも外されているし、当地にも来歴の解説がなかった。

 

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2014.03.14

雨のなか有岡城跡をあるいた

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2014年3月13日(木)あめ

 京都新聞文化センター「黒田官兵衛の城と合戦」講座の巡検で、兵庫県伊丹市の有岡城跡をあるいた。雨のなか、15人で。補助は吉田みどりさん。

 JR伊丹駅そのものが城郭跡。石垣を露出させた駅前公園は、実は城郭の北西隅でしかない。解説板にもそれを明示したものをみなかったような。「城跡は駅前」だという人が多かった。誤解をまねいているのでは。

 信長から10か月も城を守った「壁」、惣構の土塁と堀跡を雨の中みてまわった。崖線がそのまま残っているのでとてもわかりやすい。

 雨でなかったら全周するのだが、今回は南側はあきらめ。参加のみなさま、おつかれさまでした。

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2013.06.29

荒神口から真木和泉の墓参へ

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6月27日(木)はれ

Photo

 午前中、ひさしぶりの「京の七口と街道をあるく」に出講。

 今回は荒神口。清荒神こと護浄院に参拝し(寺か神社かもめる。現在は寺院です)、ここを出発地とする。荒神口の名の由来だし。光格天皇の胞衣塚がある。禁裏の辰巳にあたるので。意外と知られていない。

 徳川前期以後の荒神口が枡形構造であることを紹介し、その障壁である寛文新堤を論じる。鴨川を渡って、白川道(志賀越道)を進む。市登録文化財(史蹟)の近世の道標をふたつ見る。とりわけ東一条交差点の沢村道範建立のものには思い入れがある。保全に尽力された中村直勝博士への思いを熱弁。

 終了後、乙訓郡大山崎町へ急ぐ。

 午後は京都新聞文化センターの「覚馬と八重のみた洛中洛外」講座の巡検。

 甲子戦争(禁門の変)における会津・新選組の真木和泉ら追討戦をあるく。この戦いに確実に山本覚馬はいた

 天王山登山し、真木らの墓参をする(写真)。一般に犠牲者は17人とされる。明治元年建立の墓碑にすでにその人数の記載があるが、根拠希薄である。

 自刃前に真木の指示で天王山を退去したとされる大澤逸平(和田義亮)の話を聞いた河上彦斎の手記は犠牲者を24人と記している(改訂肥後藩国事史料巻5)。

 ただその大澤逸平(和田義亮)がなぜか24人にこだわりをもたず、早々に17人説を支持するためこの問題は話題になることが皆無だった。

 甲子戦争(禁門の変)はとにかくほとんど専論がない。原口清さんの「禁門の変の考察」は戦争にいたる政治過程の考察であって、戦闘分析はされなかった。それでよいわけがない。

 解散後、京都駅でおそいひとり昼食をする。店にむかうなか京都駅では火災報知機がなり消防士が走っていた。避難せず回転ずしでのんびりしていたら誤作動と報じられる。ま、そんなところだろ。

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2013.04.26

新選組が探知した20ヶ所候補をあるいた

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4月25日(木)はれ

 京都新聞文化センターの巡検に出講。会津と新選組講座の「池田屋事件」。

 いつもとちがうことをした。池田屋をふくむ、一会桑・奉行所・新選組らが襲撃したことが確実な場所(あるいは長州がアジトに使っていたことが確実な場所)を訪ねるというもの。新選組は池田屋襲撃当日までに二十カ所のあやしい場所を確認できていた。その候補地をあるくというわけ。コースは以下。

 京都新聞文化センター→大黒屋今井太郎右衛門邸跡→水口加藤家の「高倉の下陣」跡(安東鉄馬居所)→俵屋清兵衛の居所→(明治時代の大黒屋今井太郎右衛門邸跡、古聖堂跡)→河原町長州屋敷跡→対馬屋敷跡→池田屋跡→豊後屋跡→三縁寺跡碑→小川亭跡→魚品跡(木村甚五郎逮捕地)→祇園中の町(近江屋きん方跡)→宮川町一丁目(近江屋まさ方跡・吉岡庄祐終焉地)→宮川町二丁目(小倉生満方跡、佐藤一郎逮捕地)

泉屋重助方跡、丹波屋次郎兵衛方跡、桝屋喜右衛門(古高俊太郎)方跡に行き損ねた。さらに可能なら曙(明保野)亭跡、水口加藤家の「瓦町の下陣」(瓦屋五郎兵衛方、坂本龍馬・北添佶摩居所)跡にまで行きたかったが、タイムオーバー。

 終了後は、松原通の「水茶屋」で一部の受講者と懇親。

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