2010.11.22

龍馬伝紀行47話をみた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

「龍馬伝」47話「大政奉還」をみた。

 この番組を語るのは実にひさしぶり。

 でも本編には何もいわない。きりがないから。

 エンディングの「龍馬伝紀行」にモノ申す。

 たった2分弱なのに、ふたつも誤りがあった。

 ①ナレーション「徳川家康が将軍に任命された二条城」。

 ちがいます。家康が将軍宣下を受けたのは伏見城です。

 ②ナレーション「海援隊の京都本部となった酢屋。幕府から追われていた龍馬は都にとどまり、大政奉還成功の知らせを聞きます」。

 ちがいます。大政奉還の知らせを聞いた場所は近江屋です。

 来週最終回。もうひとつ、予告編にひとこと。いきなり龍馬が「ほたえな(土佐弁でさわぐな)」と叫んでいた。

 「ほたえな」って、龍馬は本当に言ったのですか。なぜわかるのですか。言われた人は本当に部屋の外にいたのですか。出典は何かご存じですか。

※【後報】11月21日(土)の再放送をみましたら、①だけ訂正されていましたね。②はそのままでした。

|

2010.08.29

龍馬伝第35回をみた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

 龍馬伝第35回「薩長同盟ぜよ」をみた。

 このコメント、ひさしぶりである。いそがしいこともあるが、やってられんからである。

 今回も突っ込みどころ、満載、ほんとうに満載だった。

 木戸孝允が二本松薩摩屋敷に入ったあと、龍馬も三吉慎蔵と二本松屋敷に着いた。が、新選組が付近にいたから入れなかった。そして伏見の寺田屋に入った。なんでやねん。

 伏見は京都から約8キロ南にはずれた、別の町である。紀伊郡伏見町である。大坂からきた龍馬は伏見を通って、上洛している(「三吉慎蔵日記」『坂本龍馬全集』4訂、695ページ)。

 なんでわざわざ上京(かみぎょう)に入ったのに、また伏見へ戻るか。失礼ですが、番組制作者は地理的感覚がおかしい。

 そういえば寺田屋に入った龍馬に、お龍は「京から離れてください」と願っていた。だから離れてるじゃんか、と突っ込むべきだ。伏見は京都じゃないよ。伏見を京都と思っておられるのではないか。

 それから寺田屋にいるお龍と龍馬は「他人」ではない。お龍の回想によれば、今回の舞台である慶応2年(1866)1月より1年半前の元治元年(1864)8月に内々の結婚式をしている。夫婦なのである。お龍の回想を疑う理由はない。

 まだあるぞ。寺田屋に入った龍馬を、平気で登勢やお龍は「龍馬さん」といっているが、当時の龍馬は薩摩島津家家臣「西郷伊三郎」を名乗っている。「西郷さん」と呼ぶべきだ。危険だ、危険だといっているわりには2人の女は発言が軽率すぎる。

 近藤勇ら新選組が見廻組に土下座していた。ありえない。前年11月、大目付永井尚志の側近として、近藤勇は長州に入っている。近藤の当時の社会的地位は決して低くない。

 会津支配下の新選組と直参見廻組にはたしかに身分差はあるが、近藤の実力や新選組のこれまでの実績を考えれば、ああいうシーンは考えられない。

 少なくとも見廻組と新選組には上下関係はない。誤解される。

 守護職屋敷で近藤勇は建物の外で土下座していたし、「だまれ」みたいなこともいわれていたが、そういうこともありえない。

 そうそう弥太郎が拷問されていた「新選組屯所」ってどころだろう(いうまでもなく弥太郎は新選組に捕まったことはない)。

 当時の新選組の旅宿は、西本願寺である(慶応元年3月から)。が、ドラマの「屯所」いうところは、市中にあった。なんでだろう。

 なぜお龍が吉井幸輔を紀伊郡伏見町の寺田屋に連れてこれたのか。吉井幸輔は京都留守居役である。京都の薩摩屋敷のトップなのである。人を使わずほとんど単身で来るだろうか。いやいやそれはいいや、それよりも吉井と龍馬は初対面みたいだった。

 ばかな。龍馬と吉井は、少なくとも元治元年7月にはともに神戸の勝海舟邸から上洛をしている(「海舟日記」)。既知の関係である。

 紀伊郡伏見町からの上洛であるから、当然竹田街道を使ったはずだ。洛中に入ると竹田街道は東洞院通に呼称が変わる。まっすぐ進めば今出川通の北に二本松の薩摩屋敷がある。

 ところが龍馬は突然、新選組屋敷に寄ってくると言った。吉井らは雪のなか待ちぼうけをさせられた。気の毒に。何時間待たされるつもりだったのだろう。先に二本松屋敷へ行っているといわないなんて、なんてお人よしな人。

 西本願寺の新選組屋敷なら七条堀川上ルなので、吉井らは東洞院通七条あたりで待たされたということか。現在のアパホテルのあたりですね。

 でもなんで雪なのだろう。東洞院通七条下ル(葛野郡東塩小路村)の農民、若山要助の日記によれば、慶応2年1月22日は「雨下(ふる)」であって、雪ではない。

 この冬は暖冬だったのか、前年の12月19日と20日に「雪雨」「雪じまき」があってからは、2月10日に「晴少々雪」とあるまで、まったく雪の記載はない(『若山要助日記』下、283~286ページ)。

 新選組屋敷の外で、龍馬らは岩崎弥太郎を拾う。三吉慎蔵は龍馬に二本松薩摩屋敷行きを勧めて、弥太郎は寺田屋に連れて行くと言った。

 それだけでも、ええーっなのに(下京にもほかに宿があるやろ、錦小路の薩摩屋敷だってあるし。雪の中、ケガ人を約8キロも離れた紀伊郡伏見町の寺田屋に連れて行くなんて信じられない)、薩長同盟会議終わって二本松屋敷から出てきた龍馬を外で三吉が待っていた。上京と伏見ってどんだけ近いねん。やっぱり伏見を洛中にあると思っておられますね。

 いい忘れたが、実は三吉は寺田屋にとどまり、龍馬とともに上洛はしていない。

 龍馬と同行して上洛したのは、新宮馬之助(寺内新左衛門)と池内蔵太(細川左馬助)である(「三吉慎蔵日記」『坂本龍馬全集』4訂、695ページ)。だからこのあたり、ほとんどフィクション。みもふたもない。

 薩長同盟シーン。小松帯刀屋敷が舞台だったが、確たる史料があるわけではない。二本松薩摩屋敷の可能性もある。

 小松帯刀屋敷の位置は、上京の室町頭(室町通上立売上ル付近)と、桐野作人さんの調査・研究によりほぼ特定できた(『歴史読本』2010年3月号掲載の論文)。

 にもかかわらず、「龍馬伝」紀行で一条戻り橋ちかくが映されたのは、そこに「小松帯刀寓居参考地」碑が建っているからである(2008年、京都歴史地理同考会建立)。すべての責任は同会理事長の僕にある。現在、抜本的是正を検討している。

 龍馬は(薩長と無関係である)フリーの土佐亡命志士という扱いだが、ちがう。龍馬は薩摩の代理人(エージェント)として長州を説得してきたのである。だから「島津家家臣西郷伊三郎」と名乗れた。いやたんに名乗っただけではなく、事実上島津家家臣だった可能性もある(西川吉輔風説留、『街道の歴史と文化』5号所収の宮地正人さん論文、13ページ、2003年)。

 薩長同盟、五カ条だとか六カ条だとかいっていたが、それは「龍馬伝紀行」にも映った、龍馬宛の木戸孝允の手紙に記された木戸の記憶による。

 当日、その場で記されたものではない。小松や西郷らが木戸にどういう形で誓約をしたかはよくわからない。

 そのとき、龍馬は何をしていたのかもよくわからない。ほんとうにドラマのように仲介役だったのか、ちがうのではないか。ただ横で見ていただけではないのか(もちろんそれで価値が下がるわけではない)。

 大事な五か条目の解釈がまちがっていた。「幕府軍が一橋・会津・桑名と組んで朝廷を取り込もうとしても、薩摩はあくまで戦う」と西郷がいった。

 ちがう。どこにも「幕府軍が」なんて言葉は出てこない。「一橋・会津・桑名が」主語である。

「一橋・会津・桑名が朝廷を擁して、長州征討を継続し、長州の社会復帰を妨害するなら、薩摩はついに決戦に及ぶほか手はない」、である。

 つまり薩摩の敵は「幕府」ではなく、「一橋・会津・桑名」だと少なくとも木戸の手紙は記している。「討幕」などいっていないのである。

 ただしそれが薩摩の本音かどうかはわからない。最近、注目されている美濃・中津川の市岡家文書に記された黒田清隆のいう薩摩の本音は、徳川将軍政府との対決である。ただしこれが事実かどうかは今後検討が必要である(前掲『街道の歴史と文化』5号所収の宮地正人さん論文、13ページ、32ページなど)。

 とりあえず現段階では、木戸の手紙が薩長同盟のすべてではないことは知らなければならない。

 その日も「1月22日夜」になっていたが、21日の可能性が高い。時間はわからないと思う。

 二本松薩摩屋敷には会津の隠密がいて、即日薩長同盟の成立が会津に伝わっていた。すごいな。そんな諜報集団がいるのなら、新選組なんていらないじゃん。

 龍馬の寺田屋襲撃は、指令ルートがちがうようだ。それについてはまた来週って、来週書く気になるかわからないけど。

 時間をとってしまった。

|

2010.07.11

龍馬伝第28回をみた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

 龍馬伝第28回「武市の夢」をみた。

 すごいストーリーでしたね。見てられない。

 山内容堂が武市半平太の獄舎に入ってきていた。もちろんそんな事実はない。

 「山内容堂様が(獄舎で)同じ地べたに座った。上士と下士もない時代がくるといった10年前の龍馬の言葉を思いだして感動した。奇跡だ」みたいなことをいっていた。

 まったく事実のない設定で感激させてもなあ。絶句するところか。

 武市が容堂に「吉田東洋を斬らせたのは自分だ」といった。ありえない。もしそんなことをいったら切腹ではすまないだろう。

 このころの刑の根拠は自白が第一であった。だからいろんな証拠があっても自白がなければ極刑にはならない。

 武市の実弟田内衛吉は、拷問にたえかねて自白をしてしまった。死刑・獄門は確実になった。だから武市自身が毒を盛らせて即日自殺させた。

 死刑・獄門では武士の面目がたたないからである。だから自殺するのである。

 以蔵の毒殺許可をその父弟に求めたのは、しゃべりすぎてみなが迷惑するということもあるが、打ち首・獄門が確実になったいま、武士の面目がたたない。だから面目を守るために死なせてやろうとしたともいえる。

 それを父弟はわからなかったわけだ。実際打ち首・獄門になったのに。

 ドラマでは以蔵はついに口を割らなかった。口を割らなかった者を殺すことはない。

 現実のはなし。この「勤王党」の獄で口を割らなかった者で死罪になった者はいない。半平太が唯一の例外で切腹になっただけ。それだけ容堂は半平太をにくんでいたともいえる。

 これに対して口を割った者は以蔵をふくめ4人。これは全員打ち首・獄門になっている。

 この時期の土佐の法制はこういう感じだった。そのシステムをご存じなかったようである。残念なことだ。

|

2010.07.04

龍馬伝第27回をみた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

 龍馬伝第27回「龍馬の大芝居」をみた。

 ひさしぶり。池田屋事件以来である。

 述べる気にならないほどひどかったから。

 今回もひどかったですね。

 いうまでもなく、龍馬は武市半平太らを助けるため土佐に帰ったりしていません。してもいない吉田東洋殺害を後藤象二郎に語ったりしません。

 岡田以蔵は拷問にたえていません。とっくにぺらぺらいろんなことを語っています。土佐到着の即日(元治元年(1864)6月14日)、

「牢番らあと長州でどふやら、吉村虎太かどふやらなどゝ大声てはなし(話)をしよつた」(元治元年6月15日付、姉・妻宛半平太書翰、『武市瑞山関係文書』1巻481ページ)。

 これは序の口。拷問が始まるとつぎつぎと仲間の人名を出し、それによって逮捕者が増えていく。

 だから半平太らは困って、以蔵の毒殺を考えた。

 しかし半平太は必ずしも残酷ではない。

 獄外の仲間に、家族(父と弟)の許可をもらうように指示します。そのうえでの殺害を指示した。

「七児(以蔵)之事、親へ御申解之由、随分受けよきよし。只々此事而巳(のみ)祈申候」(『武市瑞山関係文書』1巻、597ページ。慶応元年(1865)3月6日夜から翌7日、島村寿太郎宛、半平太書翰)。

(※『武市瑞山関係文書』1巻の編者は、元治元年(1864)9月6日の書翰と推定しているが、横田達雄の指摘に従い慶応元年(1865)3月6日夜から翌7日とする。横田『「維新土佐勤王史」のウソ・マコト』42ページ、私家版、2000年)

 が、弟がのらりくらり逃げた。

「早速呼付ケ談候処、存之外異論ニてと角父にも相談、右之趣ニ付どふも受千事。悪く候。色々諭候得共とふも受悪く候。実ニ恥ヲしらぬには込り入申候。然れ共トニ角ニ此儀ハ祭主愈納得ならてハ悪星消滅ニハ至リかたくニ付色々申聞セ置候。」

「【意訳】さっそく(以蔵の弟を)呼びつけて話したところ、予想外なことで、とにかく父にも相談(しないとという)。こんな状態で、どうも反応が悪い。いろいろ諭したのだが、どうもいかん。実に恥を知らないというのには困ってしまった。しかしながら、この件は家族(祭主)がいよいよ納得しないと、毒殺(悪星消滅)は実施しにくく、いろいろ申し聞かせた。」(慶応元年(1865)3月上旬、森田金三郎宛・島村寿之助書翰、『武市瑞山関係文書』2巻111ページ)。

 ゆえに結局、毒殺は実施されなかった。

 ぜひ「このドラマはフィクションです。実在の人物とは無関係です」の表示をドラマのオープニングかエンディングかに掲示してください。お願いいたします。

 来週は獄中で龍馬と武市が会うそうですね。へー。

※「岡田以蔵毒殺問題」については、本文にもふれた横田達雄『「維新土佐勤王史」のウソ・マコト』、私家版、2000年)によった。

|

2010.06.06

龍馬伝第22回をみた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

 龍馬伝第22回「龍という女」をみた。

 事実がとても少ない回だった。

 龍馬とお龍の出会いについては、お龍の晩年の回想に詳しい(安岡秀峰「反魂香」『坂本龍馬全集』増補4訂版、940ページ)。

 それによれば、元治元年(1864)6月以前、龍馬が北添佶摩らと京都東郊、大仏南門(現国重文・蓮華王院南大門)門前付近(京都市東山区本瓦町付近)の「河原屋五兵衛」の隠居方に住んでいた。

 これは北添佶摩の元治元年(推定)5月2日付母宛書翰に、「洛東東山近辺瓦町と申すところに居宅を借り受け、ほかに同居の人5~6人もいる」と記している(『北添佶摩』76ページ)。これがお龍の回想と一致するので事実と認定される(中村武生『京都の江戸時代をあるく』107-112ページ、文理閣)。

 そこに住み込みの賄いとして雇われたのが、故楢崎将作の妻貞(てい)と末娘君江だった。それがたまたまお龍の母と末妹にあたった。

 当時、お龍が住んでいたのは、洛中の七条新地の扇岩なる旅館という。大仏南門から七条新地までは徒歩約10分である。

 お龍は母・妹に会うため、ときどき大仏南門そばの龍馬らの住居に行っていた。そこで龍馬と会ったらしい。

 ドラマでは、その「扇岩」ののれんのある旅館で龍馬とばったり会っていた。設定に無理がある。

 当時の龍馬は洛東に住居を持っているのだから、旅館に泊まる必要はない(しかも徒歩約10分の距離のところに)。実在の人名を使っているのだから、フィクションもある程度でおさえないといけない。

 ちなみに「大仏」とは、現在の方広寺だけではない。皇族の入っていた妙法院(宮)が管轄する、現在の方広寺や三十三間堂、法住寺、養源院、智積院などを囲いこむ、広い範囲をさす。

 当時、妙法院のことを「大仏御殿」といった。大仏を管理されている宮様の御所という意味である(たとえば村山修一氏『京都大仏御殿盛衰記』、法蔵館、2003年)。

 智積院は、上洛した山内容堂の居所して知られるが、随伴した寺村左膳の日記には「大仏内智積院」と書かれている(文久3年1月25日条、『寺村左膳道成日記』(2)、7ページ、県立青山文庫後援会)。大仏境内の智積院の意である。このことが驚くほど一般に理解されていない。

 エンディングの「龍馬伝紀行」にも、龍馬とお龍の出会いの地として、ドラマのシーンとは異なり、「大仏」の地を紹介した(いいのか)。

 ここまではよかったが、現存する大仏南門や付設された「太閤塀」を取り上げず、現方広寺建物やその外郭の巨石を映していた。残念、ピントがずれてます。

 妹(貞の次女光枝)を借金のかたにとられたので、とりもどしに行くところを龍馬に見とがめられ、助けるために金が必要だろうと渡していた。

 光枝を取り戻すためにお龍が大坂へ行き、本当に取り戻してくる。これは事実である(慶応元年9月9日付、姉乙女など宛龍馬書翰。坂本龍馬全集』増補4訂版、57-60ページ)。

 が、借金のかたにとられたわけではなく、「わるもの」が母貞を「だまして」「いゝふくめさせ」て、女郎として買ったのである。

 そこで「大坂にくだり」、「うでにほりもの(刺青)した」「わるもの」のところへ乗り込んでいき、相手に「とびかゝりて、其者むなぐら(胸倉)つかみ、かを(顔)した(た)かになぐりつけ」た。

 「わるもの」が「女のやつ殺すぞ」と反応すると、「殺(せ)殺(せ)、殺サレニはるばる大坂ニくだりてをる、夫(それ)ハおもしろい、殺セ殺セ」といった。

 すごい話である。このシーンがなかったのは実におしまれる。この人を同じ手紙のなかで龍馬は「まことにおもしろき女」と言ったのである。そんな龍馬の好みがえげつない。おもしろい。

 だから金は、売った金を母から取り上げればすむはずだから、龍馬が与える必要はない。残念、まちがい。

 岡田以蔵が新選組に追われていた。ありえない。なぜ追われなければならないのか。一切説明がなかった。

 以蔵の逮捕理由は「志士」活動ではない。金品強奪容疑である。

 以蔵は、二条通東洞院西入ル(仁王門町)の糸商幸次郎方に行き、「高利をむさぼるは許せない。(われに)金をほどこせ」といって、金を強引に借りた(押借り)。その結果、町奉行所に逮捕された。

 そうとう金に困っていたらしい。

 文久3年(1863)3月以前にも、高杉晋作から金6円(6両か)を借りたが返せなかったらしい。千屋菊次郎が返してやっている(「再遊筆記」同年同月19日条、『維新日乗纂輯』1巻291ページ)。

 以蔵の判決が出たのが元治元年(1864)5月で、「洛中洛外払」すなわち京都追放である。気の毒なことに、東町奉行所の判決状では「無宿鉄蔵」という名になっている。「土佐郷士岡田以蔵」ではないのである。

 『維新土佐勤王史』によれば、土佐の監察吏は「所司代」(これは誤り。東町奉行所)にその身柄の引き渡しを望んだ。

 そのため刑の執行のため、「二条通紙屋川の土堤外」、すなわち京都の城壁・環濠の御土居堀(洛中洛外の境界)の西外(現在の中京区西土居通旧二条交差点付近)に連行され、土佐の役人に身柄が引き渡されたという(『維新土佐勤王史』542ページ)。そして土佐へ送られた。 

 土佐の獄中にあった武市半平太が姉・妻に宛てた書翰同年6月15日付によれば、「前日、岡田以蔵が出ておった」とある(『武市瑞山関係文書』1巻、480ページ)。土佐に着いたのである。

 さあ、次回は池田屋事件ですね。

|

2010.05.23

龍馬伝第21回をみた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

 龍馬伝第21回「故郷の友よ」をみた。

 文久3年(1863)7月の京都から始まった。八月十八日政変の直前である。

 その段階で、龍馬は勝海舟に、

「日本はこの前まで攘夷派が大変な勢いをもっておりました。が、いつのまにか風向きが変わってしまったがです」

といっていた。

 とんでもない。

 孝明天皇の攘夷親征、大和への攘夷祈願(大和行幸)発表はこのあと。8月12日である。

 中川宮尊融親王の(攘夷のための)西国鎮撫使任命も8月9日である。

 これに追い詰められた中川宮が薩摩に助けをもとめる。

 そこで会津松平家の軍事力の援助を受け、クーデターを強行した。

 すなわち、大和行幸の中止、国事参政・寄人の廃止、議奏・伝奏の諸員と国事御用掛三条実美ら13名の参朝、および外出・他人との面会を禁止、長州毛利家の堺町御門警備の罷免である。

 これにより長州毛利家や三条実美らの京都における地位は、一瞬にして瓦解した。まさにクーデターなのだ。

 8月18日以前にその陰りは見えなかった。だから中川宮や薩摩も追い詰められていた。ゆえに政変を強行したのだ(町田明広氏『島津久光=幕末政治の焦点』講談社選書メチエ、2009年)。

 このドラマは平井収二郎の逮捕から、長州勢力とそれを背後にもつ武市グループ(いわゆる土佐勤王党)の衰退がはじまったかのように描いているが、そんなことはない。

 平井収二郎は、間崎哲馬・広瀬健太と中川宮(青蓮院宮)に謁し、山内家当主豊範の実父豊資宛の同家の改革を命じる令旨を求めた。

 それが容堂には越権行為と思えた。当然だろう。家臣が殿様や政府を動かすため、より上層から意見してもらおうとしたわけだから。さしでがましいことこの上ない。

 ゆえに「他藩応接役」を解任し、帰国を命じて切腹させたのだ。ばれなければともかく、ばれたのだから処分は免れない。

 「どうして藩のために頑張った収二郎が」と、武市や龍馬、加尾がこぞって言っていたが、驚くほど無見識だ。

 これは組織=「勤王党」への弾圧ではない。平井収二郎・間崎哲馬・広瀬健太の個人の越権行為に対する処罰なのだ。吉田東洋殺害犯の探索とは直接関係ない。

 ドラマでは吉田東洋問題で拷問までされて、ボロボロになっていたが、そんな記録はない。爪痕とはいえ(墨が使えないため)獄中でも日記を書いている。拷問されてはそんなゆとりはないだろう。

 とにかく吉田東洋殺害とは無関係である。

 ましてや「攘夷派」没落につなげるのは困難である。

 劇中、何度も「攘夷の火は消えた」という発言があったが、これまたとんでもない。

 八月十八日政変のあとでも、ずっと江戸や京都では横浜鎖港が問題とされている。横浜鎖港とは、通商条約で開港した横浜港を閉鎖するわけだから、攘夷政策にほかならない。

 実際、横浜鎖港交渉のために池田筑後守長発ら使節がパリなどに向かうのは、同年12月末である。 

 彼らが帰国したのは、翌元治元年(1864)7月で、長州が京都で敗戦した禁門の変と同じころである。その際、使節池田らは横浜鎖港の不可をとく。これにより彼らは処罰される。そう、政府はまだ横浜鎖港の可能性をさぐっているからだ。

 ちなみに攘夷が事実上無くなるのは、慶応元年(1865)10月5日である。

 この日、孝明天皇がついに安政の通商条約を勅許するのだ。意外とこのことが認識されていない。幕末最大の事件のひとつだ。いわば「そのとき歴史は動いた日」といってもいい。 

 勝海舟が塾生に土佐帰国を止めたり、山内家が武市グループに帰国命令を下したのは事実である。

 が、時期にずれがある。

 ドラマでは政変(文久3(1863)年8月18日)と武市投獄(同年9月21日)の間だったが、もっとあとである。

 まず勝海舟が武市の失脚を知ったのは同年10月12日で、門弟の千屋寅之助・望月亀弥太から知らされた。そして関係者の逮捕・帰国命令が出たとする(「海舟日記」同日条)。

 これを受けてと思うが、土佐山内家御目付衆宛に龍馬らの帰国猶予を求めている。これが同年12月6日である。が、江戸屋敷留守居役から拒否される。

 龍馬らに正式に帰国命令が下るのは、もう少し遅れて翌元治元年(1864)2月のことである。

 龍馬と親しい大久保忠寛(一翁)の同年2月12日付海舟宛書翰に、「坂龍(坂本龍馬)始、土(土佐)へ呼戻は如何。容堂公に不似合、小気之処置と不審に存候」とある。

 龍馬は海軍修業のため「40才ぐらいまでは家に帰えるつもりはない」と姉に述べた(文久3年(1863)3月20日付)。

 ドラマでも先週類似のことをいっていた。

 それが捕らえられた友のために帰国するという。そんな事実はない。

 龍馬は日本のために御国(土佐)や家族を捨てたのではなかったか。それが幼馴染(この言葉も何回か出ましたね)のために帰国するという。一貫性のない人だ。

 事実は勝の庇護のもと、土佐帰国を拒否しつづける。当然だろう。事実の方が道理にあう。

 今回、新選組が出ましたね。

 次回、のちの妻お龍(真木よう子さん)の初登場です。待望でした。

|

2010.05.09

龍馬伝18回再放送をみた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

 龍馬伝18回「海軍を作ろう!」の再放送をみた。

 島津久光の肩書部分の訂正が入るか気になり、再放送をみた。

 驚いた。

 本放映で「薩摩藩主」だったテロップが、「薩摩藩『国父』」に変わっていた。

 訂正されたのだ。

 人間誰でもミスはあります。それを受け入れ、すぐさま措置された関係者の危機意識の高さに敬意を表します。

|

2010.05.03

龍馬伝第18回をみた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。どうかよろしくお願いいたします。

 龍馬伝第18回「海軍を作ろう!」をみた。

 冒頭、龍馬が勝海舟とともに順動丸に乗って上国(大坂・京都)を目指していた。年次の設定は、前回の終わりと同じく、文久2年(1862)12月末である。

 実はこれに龍馬は乗っていなかったとも、前回に述べた。

 龍馬は勝に先だって、千葉重太郎・近藤昶次郎(長次郎)らとともに京都に来ていたらしい。海舟の日記によれば、12月28日、千葉重太郎とともに兵庫の海舟のもとに現れ、京都の話をした。

 翌文久3年(1863)正月元日、「龍馬、昶次郎、十太郎ほか一人を大坂へ到らしめ、京師に帰す」と勝日記にあることがその根拠。

 勝は兵庫から龍馬らを大坂に派遣し、そのまま京都へ帰らせたという。

 ここから当時の龍馬の居住地が京都とわかる。その場所は残念ながら分からない。龍馬らを順動丸に変わった朝陽丸に乗せていない。

 龍馬らが兵庫にあらわれたのと同じ12月28日、老中格小笠原長行も兵庫へやってきたのだが、ドラマではまったく描かれなかった。

 今回の上国行きは、将軍上洛に先だって、老中格小笠原長行を運ぶことが主目的であった。神戸村に海軍操練所をつくるのが主目的ではない。

 神戸村に海軍操練所に設置されるのは、まだ先のことである。

 将軍が上坂し、4月23日、大坂港で順動丸に乗る。兵庫・和田・神戸と巡察するのだが、その際、勝は神戸村に海軍操練所をつくりたいと将軍に直訴した。将軍は「直に英断」を下す。つまり許可した(「海舟日記」『勝海舟全集』18巻、47ページ、勁草書房)。

 その翌日、大坂城に登ると、さっそく許可された文書が下る(同)。27日には、神戸に替地が与えられ塾を開くことも許された(『勝海舟全集』18巻、49ページ)。

 こうして神戸海軍操練所と勝塾は開始されるのである。

 ただ将軍に願い出る以前から計画されていたことは容易に想像できるから、その前身の勝塾があってもいいかも知れない。

 それが大坂の勝の寓居「専称寺」にあったとするのは、近藤長次郎の遺児百太郎の回想録である(吉村淑甫氏『近藤長次郎』144ページ、毎日新聞社、1992年)。

 勝日記の同年(文久3年)3月1日条に「此日、旅宿を北溜屋町真正寺に定む」とあり(『勝海舟全集』18巻、32ページ)、北溜屋町も真正寺も実在しないので、近藤百太郎のいう「専称寺」のことだろうと考えられている。

 専称寺は現存しないが、過去に大坂北鍋屋町(現大阪市中央区淡路町3丁目)に存在したことがわかっている。北溜屋町(タメヤマチ・tameyamachi)と北鍋屋町(ナベヤマチ・nabeyamachi)、音は似ているので海舟の聞き違い・記憶違いとされるわけだ。

 ドラマでは、今回その「専称寺」が登場した。そこで海軍修業が行われていた。龍馬のドラマで初めてではないか。画期的だと思った。

 が、本当にあんな整然とした塾組織が専称寺にあったかは疑問がのこる。 

 この時期、勝の旅宿は、専称寺以外にも「本町三丁目」(文久3年1月21日付、母宛、望月亀弥太書翰『維新志士の手紙―望月亀弥太・間崎滄浪』5ページ)や、「安治川一丁目順正寺」(「海舟日記」同年2月27日、上記『海舟全集』18巻、31ページ)が使用されている。

 神戸に先行した、大坂の勝塾の実態は実はよくわからない。

 今回、大和屋の娘お徳が登場した。これが長次郎の妻(百太郎の母)になるのだが、長次郎が結婚していて、遺児がいたことはかなり最近まで知られていなかった。

 事実上初めて紹介したのが、前述の吉村淑甫氏『近藤長次郎』である。

 同書が紹介する遺児百太郎の回想によると、佐藤与之助が仲人をしたという(144ページ)。

 佐藤与之助も今回初登場だった。龍馬は最初、与之助の方言を聞き取れなかった。というのは、与之助は東北出身なのである。出羽国飽海郡高瀬村である(現山形県)。それを示したのだろう(『初代鉄道助/佐藤政養』2ページ、佐藤政養先生銅像建立奉賛会、1965年)。

 龍馬が「佐藤先生」と呼んでいたが、龍馬とは同格である(年齢は海舟より2つ上。龍馬より14才上。えっ、龍馬と海舟って、ひと回りしか違わないの!そう)。

 勝は龍馬を客分のような扱いをしたというから(文久3年5月17日付、姉乙女宛、龍馬書翰、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、18ページ)、前回のように勝の荷物持ちをさせたり、与之助に上からモノをいわれたりするのはイメージがちがう。

 またまた長くなった。

 山内容堂が武市に龍馬の亡命を免罪にするといったり、容堂の武市グループ分裂策の一環として、望月亀弥太や高松太郎、千屋寅之助が勝塾に送り込まれたりと、いろいろ事実でないシーンがつづいた。

 武市と容堂の関係もなんだかひどい。このドラマ、武市と容堂が魅力的でない。こんな非魅力的な個性の人物たちに、同時代の支持者がたくさんつくものだろうか。

 このドラマで山内容堂や、土佐の上士がよくいう、「郷士は犬猫同然」の発言って、出典はなんだろう。

 郷士が「犬猫同然」で人間扱いされないなら、農民・職人・商人(農工商)やそれ以下とされた賤民階級の人たちはどんな扱いなのだろう。素朴な疑問。

 本当にドラマのような郷士の虐待ってあったのだろうか。

 最後にいい忘れていたことを。

 同年3月7日、将軍家茂が上洛し、参内した。

 ドラマでは、その場で、攘夷の期日を明確にするよう求められた。松平容保、島津久光、伊達宗城、山内容堂が同席した食事会で、松平容保が「黒幕がいる」と述べ、長州か土佐か、久光が「武市半平太の一派がいる」というようなシーンがあった。

 参内のときの内容も、松平容保、島津久光、伊達宗城、山内容堂が同席した食事会もありえない。だってたとえば久光の着京は3月14日で、将軍の初参内のとき、京都にいないから(たとえば『伊達宗城在京日記』174ページ)(18日にはもう帰っちゃう)。

 致命的だったのは、その久光の肩書が「薩摩藩主」だったこと(2008年の大河ドラマ「篤姫」をご覧になっていた方はご承知ですね。久光は「藩主」になったことはありません。「藩主」の父ですね)。おそらくNHKにクレームが殺到していることだろう。監修・考証の先生方、お気の毒です。

 管見では、2005年の大河ドラマ「義経」第1話の冒頭のテロップ、「播磨・一ノ谷」以来の失態だった(一ノ谷は摂津国です)。

 土曜日の再放送までに修正が可能か。もう諦められるか。

 そろそろこのへんで。

|

2010.05.02

龍馬伝第17回をみた

 龍馬伝第17回「怪物、容堂」をみた。

 龍馬が勝海舟に出会った直後なので、時期設定は、文久2年(1862)12月末ごろだろう(前回を参照ください)。

 勝海舟のもと、咸臨丸で龍馬はジョン万次郎(中浜万次郎)に初めて会っていた。

 龍馬がジョン万次郎(中浜万次郎)に会ったことがあったか、実はわからない。史料はまったくない。

 はたして文久2年(1862)12月末ごろ、ジョン万次郎(中浜万次郎)が勝海舟のもとにいたかどうかも疑わしい。

 勝海舟と交流があったことはまちがいない。

 万延元年(1860)、海舟が咸臨丸でアメリカに渡航したとき、ジョン万次郎(中浜万次郎)も教授方通弁主務として同船しているから。

 しかし帰国後の文久2年(1862)、万次郎は軍艦頭取小野広胖のもと、小笠原島開拓に従事している(同年8月3日には徳川政府より賞せられている)(「小笠原島紀事」ほか『維新史料綱要』4巻121ページ)。

 その後、万次郎(当時は手付普請役格)は、小笠原島捕鯨に関しても、上司である伊豆国韮山代官の江川太郎左衛門を介して、徳川政府に意見具申をし、10月28日責任者に任命されている(「小笠原島紀事」ほか『維新史料綱要』4巻209ページ)。

 ※この「江川太郎左衛門」は、有名な坦庵英龍ではなく、その子の英敏のこと。

 その後、小笠原に渡った。父島に住んでいた外国人を使い、捕鯨任務に従事する。

 が、翌文久3年(1863)上半期、そのうちアメリカ人ウイリアム・スミスが仲間のジョージ・ホートンとはかって、積荷を奪おうとした事件に遭遇する。

 万次郎は彼らを逮捕。5月17日、横浜のアメリカ領事に引き渡した(いわゆるホーツン事件)(『維新史料綱要』4巻434ページ)。

 この経緯をみると、ドラマのように文久2年(1862)末から翌年初頭ごろ、海舟のもと咸臨丸に乗りこみ、そこで龍馬と会うということはありえないのではないか。

 ちなみに咸臨丸に乗ったことも気になる。朝陽丸か順動丸なら問題ないのだが。咸臨丸は当時、ほんとうに海舟のもとにあったのだろうか。

 また舞台設定はどこだろうか。品川だろうか。

 というのは、海舟は龍馬と初めて会ったころ、とても忙しい。

 すなわち文久2年(1862)12月17日、老中格小笠原図書頭長行を乗せ、順動丸で品川を出帆、摂海(大坂湾付近)へ向かっている(以下「海舟日記」は『勝海舟全集』18巻、22ページ~23ページ)。

 ちなみにこれがドラマのエンディングにあった、龍馬が軍艦に乗っていたシーンにつながるのであるが、実は龍馬は乗っていなかったと考えられる(松浦玲氏『坂本龍馬』25ページ、2009年)。

 12月21日夜(九ツ時過ぎ=翌22日午前0時ごろ)、兵庫港(現神戸港)に着く。このとき順動丸は、港の漁船と接触し外輪を破損した。

 とりあえずは問題なかったようで、翌22日天保山前(大坂湾)に入る。

 その後海舟は、小笠原を案内して、大坂湾のほか、紀伊国加太苫浦や淡路国由良浦に出かける。12月24日、大坂に戻り東本願寺の別院に入った(『続再夢紀事』1巻)。

 小笠原と別れた海舟は、25日、兵庫に移る。26日、ようやく順動丸の修理が始まった。

 その翌27日、江戸から追いかけるように、朝陽丸が大坂湾にやってくる。28日には海舟のいる兵庫へ移る。このあと海舟はの修理中の順動丸は使わず、朝陽丸を使う。ここまで海舟の日記に咸臨丸はまったく登場しない。

 ところでここまで龍馬も登場しなかった。どうしたのだ、思っておられる方々、申し訳ありません。

 実は、龍馬が海舟の日記に登場するのは、その翌日、12月29日のことである。

 「千葉十(重)太郎来る、同時坂下(本)龍馬子来る、京師之事を聞く」とある。

 これが海舟の日記に龍馬が出てくる最初である。もちろんこれが出会いではない。それ以前なのだが、日記に出てこないから厳密な日は分からない。

 おもしろいのは龍馬は京都から来たらしいこと。

 千葉重太郎と同行しているのもドラマのイメージとちがう。

 海舟のもとに行くと、重太郎・佐那兄妹に道場で別れを告げていたが、いやいや重太郎とは別れないのだ。

 千葉佐那がいつ江戸に帰るのかと尋ねる。

 神戸村に向かい、そこにながくいるかのように行っていたが、いやいや京都にいたようだし、そもそも軍艦に乗れば神戸と江戸は瞬時に往復できる。

 永久の別れみたいな空気には違和感があった。

 佐那を褒めまくった姉乙女宛の龍馬書翰は、推定文久3年(1863)8月14日付である(宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、991-993ページ、光風社出版、1988年)。

 もし事実なら、勝門下になっても佐那と交流がつづいていたことになる。勝門下になって千葉道場と縁切れになる理由はない。

 佐那の回想によれば、龍馬が父千葉定吉に「伉儷(こうれい)求」め(結婚を望んだ)、定吉はそれを認めた。「聘礼として短刀一口を」龍馬に贈った。

 龍馬は、「春嶽公より拝領してすでに着古びた袷衣(桔梗の紋付けたるもの)一領を以てその聘礼に代」えた、という(『女学雑誌』352号、1893年(明治26)9月刊行、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、962ページ)。

 もちろん裏付ける史料がないので、佐那が事実を述べているかどうか実証できないが、ドラマがあまりに一方的な佐那の片思いで終っていたので、記しておく。

 また長くなった。

 「望月亀弥太」が京都で初めてセリフを発した。以蔵に「人斬り」と言ったシーンだ。望月清平・亀弥太兄弟には個人的に思い入れがある。

 京都での殺戮を以蔵だけが担当していたみたいな描き方には問題がある。以前にもふれたが、武市グループのかなりの人が関係している。

 山内容堂と龍馬が対面した。そんな事実はない。最晩年に謁見を許されたことを記したものがあるが、それはまた改める。

 書きたいことがいっぱいいっぱいあるが、今回はこのへんで。

|

2010.04.25

龍馬伝第16回をみた

 龍馬伝第16回「勝麟太郎」をみた。

 龍馬が京都・大坂から江戸へ移った。

 その厳密な月日はわからない。このころの龍馬の動向は史料不足でいかん。

 が、その龍馬の史料不足が解消されだすのもこの時期である。松平春嶽や勝海舟にちかづいたため、その記録に動きが残されるからである。

 この時期の龍馬の江戸滞在が確認できるのは、文久2年(1862)9月10日である。

 同日付の村田忠三郎宛の江戸在の間崎哲馬(滄浪)の書翰に、「此地、(上田)楠ニ(次)兄弟・(門田)為之助、外輪ニテハ龍馬、いづれも苦心尽力。小子事も無事ニ周旋」とある(『坂本龍馬関係文書』1巻、482~484ページ)。

 同じ間崎哲馬(滄浪)の漢詩に、「壬戌秋日、門田為之助・坂本龍馬・上田楠次とともに会飲す。時新令始下」とある(『坂本龍馬関係文書』1巻、484ページ)。

 「壬戌(みずのえ・いぬ)」は文久2年である。

 「新令」は同年閏8月22日に発せられた、参勤交代の大名の江戸滞在期間短縮・妻子の帰国を認めるなどの文久改革令のことであろう(「昭徳院殿御実紀」『続徳川実紀』第4篇、371ページなど、1967年)。

 だから文久2年(1862)閏8月22日から9月10日ごろ、龍馬は江戸に来ていたと推定されるのだ。

 ちなみにその後の動きも少しわかる。

 同年11月12日、久坂玄瑞と「万年屋」(万年楼)で飲んだことが久坂の日記でわかる(「筆廼末仁満爾(ふでのまにまに)」『久坂玄瑞全集』311ページ)。

 同日記事の全文は「暢夫同行。勅使館に往。武市を訪。龍馬と万年屋一酌。品川に帰る。」であるから、

 もしかしたら高杉晋作(暢夫)と武市半平太も一緒だったかもしれない。

 武市も当時江戸にいた。ドラマで描かれたように、勅使三条実美・姉小路公知に随行して京都から来ていた。ドラマでは姉小路公知は描かれませんでしたね。

 実は武市は三条ではなく、姉小路公知の雑掌(諸大夫)柳川左門として東下している。「勅使館に往って武市を訪ねる」とは、そういう意味だ。

 勅使や武市の江戸滞在期間は、同年10月28日~12月7日である。

 ドラマでは久坂・高杉・武市・龍馬の飲み会はなかった。あったらよかったのに。ありえる話なのだから。惜しい。だからいうのだ。事実はフィクションより興味深いのだ。

 このころ龍馬が千葉道場に滞在していたかどうかはよくわからない。が、ありえるとは思う。

 ドラマでは、龍馬が千葉定吉や重太郎に懇願して松平春嶽拝謁に成功し、その紹介で勝海舟に会っていた。

 この時期、松平春嶽に拝謁していることは事実である。

 ただし龍馬単独ではなく、間崎哲馬・近藤昶次郎(長次郎)が同伴している。

 春嶽側の記録類によれば、まず同年12月4日に拝謁願いを出している。そのうえで、翌日夜に許可がおりた(「枢密備忘」)。

 で、同年12月5日、3人で春嶽に会った。

 個人的に興味深いのは、そのとき建言したのが、「大坂近海防御之策」だったこと(「続再夢紀事」や「枢密備忘」)。

 当時の龍馬の関心がどこにあったかがよくわかる。「摂海」の防衛なのである。「摂海」とは、大坂・兵庫などをふくむ摂津国の海岸線のことである。

「摂海」を突破されれば、大坂や京都が攻撃を受ける。大坂はもちろん、京都は天皇と朝廷のいるミヤコなのである。日本の最も大事な都市なのである。

 すでに佐久間象山や徳弘孝蔵に砲術を学びにいっている。剣術修行中にもかかわらずである。

 のち勝海舟の門に入り軍艦術を学ぶ。これらはすべてこの国の防衛意識によって解ける。軍艦でアメリカに行きたいとか、商売をしたいとかというのは枝葉にすぎない。

 春嶽も龍馬らの建言に賛意をしめした。「至極尤成筋ニ御聞受被遊」(【意訳】きわめてもっともなこととお聞きになられた)(「枢密備忘」)。

 4日後の12月9日、ふたたび龍馬と近藤長次郎が春嶽邸を訪れ、建白書を提出した。そこには「摂海之図」も添付されていた。

 ここまでの話。管見ではほとんど紹介されたことがない。

 「枢密備忘」は、「大日本維新史料稿本」(東京大学史料編纂所蔵)文久2年(1862)12月5日条に掲載されている。

 龍馬らと春嶽の初会見については、これまで中根雪江の日記『続再夢紀事』ばかりが使われてきた。

 が、「枢密備忘」には『続再夢紀事』にない記載がある。

 12月5日の前日に拝謁の希望を求めたこと、当日春嶽は龍馬らの考えに賛意を示したこと、12月9日ふたたび龍馬と近藤長次郎が春嶽邸を訪れ、建白書を提出したことである。

 大事なことなのでふれておく。

 「大日本維新史料稿本」は、東京大学史料編纂所のホームページのデータベースの「維新史料綱要」のコンテンツから誰でも閲覧・複写できる(無料)。

 僕が大学院生のときは、わざわざ東京まで閲覧に行っていた(交通費はもちろん、複写費も安価ではなかった)。いまは自宅で可能になった。なんてありがたいことだ。感謝してやまない。みなさんもぜひ活用ください。

 さて戻る。

 松平春嶽への拝謁がどのようにして実現したかはわからない。千葉父子の紹介があったかは不明である。

 ただ当時、松平春嶽は清河八郎の建議をうけて、有識な浪士の取り立てを進めていた。

 清河八郎と同じく浪士取り立てを進めていた講武所教授方松平主税助忠敏は、12月13日付の目付杉浦正一郎(梅潭)への書翰で、龍馬をその候補にあげていた(「浪士一件」国文学研究資料館蔵。下掲の三野行徳さん論文)。

 当時、龍馬は有能な浪士として、徳川政府に就職する可能性があったのだ。徳川政府の京都の浪士集団に新選組がいる。そう、つまり状況次第では龍馬が新選組隊士になった可能性さえあるのだ

 この魅力的な話は、最近、三野行徳さんによって深められている(「幕府浪士取立計画の総合的検討」大石学編『十九世紀の政権交代と社会変動』東京堂出版、2009年)。

 そういう経緯があるから、松平春嶽は比較的たやすく面会を求める浪士に会っていた可能性はある(もちろん誰かからの紹介状はもっていたと思われるが)。

 もしかしたら、同年12月5日の謁見をうけて、春嶽が松平忠敏に龍馬のことを話したのかも知れない。

 維新後の回想であるが、松平春嶽は、自ら勝海舟と横井小楠を龍馬に紹介したと述べている(1886年<明治19>12月11日付、土方久元宛春嶽書翰、宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』4訂、565ページ、光風社出版、1988年)。

 この回想、同伴したのを間崎哲馬・近藤昶次郎(長次郎)ではなく、岡本健三郎としているなど、記憶違いがありそうだが、話全体を積極的に否定する必要はなく、海舟や小楠を龍馬に紹介したのは春嶽でいいと思う。

 そうすると海舟のもとに行くのは、文久2年(1862)12月5日以後となる。

 ちなみに海舟の日記に龍馬が初めて登場するのは、文久2年(1862)12月29日条である(勝部真長ほか編『勝海舟全集』18巻、23ページ、勁草書房)。

 ただしこれが初訪問ではない。初訪問の記事は日記からは漏れている。

 古い書籍をみると、龍馬と海舟の対面を同年10月とするものを見受けられる(たとえば平尾道雄編『坂本龍馬のすべて』所収年譜、269ページ、新人物往来社、1979年)。

 が、すでに否定されたものといえる。いまだにこれを使用しておられる書籍もあるので、お気を付けください。

 海舟と龍馬の出会いがどのようなものだったかは全くわからない。

 龍馬が千葉重太郎と斬り殺しに行ったというのは、海舟自身の回想によるが(『氷川清話』74ページ、講談社文庫)、ご当人の回想なのに恐縮だが、まったく信用に足らない。

 なので論外なのだが、ドラマで描かれたようなシーンも、まったくの創作である。使える史料があるわけではない。

 ドラマで描いたような、龍馬入門以前に近藤長次郎が入門していたことはありえないとはいわない。

 が、少なくとも龍馬が知らなかったとは思えない。

 だってすでにふれたように、龍馬と長次郎はいっしょに春嶽に拝謁しているのだもの。勝の屋敷で久しぶりに再会した、ということはない。

 この時期、武市や以蔵が海舟に会いに行ったという史料はない、とかいろいろ語るべきことがあるが、今回はここまで。

|