2011.09.30

除幕なった聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地標石

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除幕なった「聚楽城武家地 豊臣秀勝邸跡伝承地」標石です。

側面に「平安宮内裏蘭林坊跡」も刻みました。

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2011.09.28

【建碑除幕式】豊臣秀勝邸伝承地に

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【お知らせ】建碑除幕式

 NHK大河ドラマ「江」にからみ、江の2度目の夫豊臣秀勝屋敷跡伝承地に建碑いたしました。

 江の居所で、娘完子(さだこ、九条幸家室)の誕生地の可能性があります。

 オールカラーの豪華な解説板を付設致しました。

 どうぞおこしください。

〈表銘〉聚楽城武家地、豊臣秀勝屋敷跡伝承地

〈日時〉2011年9月29日()午前11時から

〈場所〉上京区(千本通東入ルすぐの)土屋町通出水上ル、ひも製造会社「円山」の入り口

以上

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2011.08.25

片桐且元の責任

 本日は京都新聞文化センターに出講。

 「江」講座。豊臣家滅亡と三姉妹。

 大坂の役において、茶々・初・江、そして高台院がどう動いたかを論じた。

 大坂の役開戦の直接原因は、片桐且元の大坂城退去・茨木籠城である。片桐且元の責任がかなり大きいことを述べた。茶々の信頼にこたえなかった。茶々は多数の神仏に誓ったのに出仕せず、退城した。

 片桐且元は秀頼・茶々の死後、まもなく死ぬ。自殺かと思いたくなるほど直後である。自殺ではないので、やっぱりショックだったのだろうと思う。まさか滅亡するまでは思わなかったのではないか。

 ちなみに亡くなったのは京都である。烏丸三条西入ルの邸宅である。

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2011.08.11

秀頼最後の上洛を考えた

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 京都新聞文化センター講座終わる。豊臣秀頼論。
 東京芸術大学蔵や養源院蔵の秀頼像の真偽について考えた。
 秀頼の最後の上洛がどういうものであったか、「当代記」も含めて検討。
 復元してみると、NHK大河ドラマ「葵―徳川三代」のこのシーンは、信用できる史料に厳密に描いていないことがわかる。家康が秀頼に盃を与えたり、満場「万歳」を述べるシーンはない。
 上洛ルートの復元も試みる。
 加藤清正や浅野幸長は淀へ迎えにきているし、徳川義直らは上鳥羽である。これすなわち鳥羽街道を進んだことになる。
 だから本多正純がいう、「竹田通」(竹田街道)を通ったというのは誤りと断定した。これを地図上にマーキングしてもらった。
 おそらく東寺門前、四塚から洛中に入り(惣構の土塁・堀を通り)、堀川を北上すれば、二条城東門にたっする。
 
 そのとき言わなかったのだが、どうしてこのとき秀頼は参内しなかったのだろう。前右大臣なのに。なにかわけがあるはずである。朝廷に対して失礼だし。それがわからない。

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豊臣秀頼と京都を論ずる

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 本日は京都新聞文化センターに出講。「豊臣秀頼と京都」みたいな話をする予定。

 とくに最後の上洛になった家康との対面について。史料は少ないけれど皆無ではない。

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2011.06.26

芹沢鴨と太田浩司さんとあそぶ

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6/25(土)はれ
 名古屋市に向かう。
 栄中日文化センターの新選組講座に出講のため。
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 途中、JR山科駅で、人身事故により京都・大阪駅間が運行中止としる。えらいこっちゃ。大阪へ向かうのでなくてよかった。
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 本日の新選組講座は、芹沢鴨と大和屋事件でした。
 芹沢鴨が大和屋を焼き討ちしたのは事実ではない、大坂の相撲取りとのケンカも芹沢や壬生浪士が一方的に悪いとはいえない、なんてことをいいました。
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 来週もあります。次回は八月十八日政変と芹沢鴨殺害です。
 通説否定に挑戦してみます。
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 たまたま本日、長浜城歴史博物館の太田浩司さんが栄中日文化センターに出講しておられる。まちぶせをする。
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 太田浩司さんは、今年のNHK大河ドラマ「江」の「資料提供」者である。毎週ドラマのオープニングに名前が掲示されている。
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 帰路、こだまでご一緒する。たくさんたくさん超タブーのお話をする。たのしいたのしい1時間であった。

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2011.06.24

事実が極少な養源院の解説

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6/23(木)はれ

 午前中、北区鷹峯へ。

 京都新聞の澤田記者から、先日建設した鷹ヶ峰薬園跡の副碑の取材をうける。

 午後から七条京阪へ。おなじく京都新聞文化センターの巡検。「江」ゆかりの地、大仏地区に入る。担当Y田Mどりさんのお世話で、江の墓参が実現した。

 養源院はとても意味深い寺と思っている。もっと深めるべきなのだが、残念なことに寺の方のたくさんご説明のなかには、おそろしいぐらい事実が少なかった。

 江の母、織田市の墓なるものにもまいったが、市のものだとする根拠は皆無である。

 ちなみに茶々や江と伝承される肖像画も(特別公開中)、そのものに何らの記載はなく、事実とは思いにくいと感じた。

 秀頼像だけは法号が記載されているので、可能性はあると思う。ただそれもいつ記されたものかが明らかでない以上、疑おうと思えばいくらでもできた。

 血天井はさっぱりわからない。

 養源院はいちど、事実だけを集めて寺史をまとめなおされた方がよい。大事な事実は多く見落とされ、根拠希薄なネタを使って語られている。実にもったいないと思った。

 辞去ののちは、一旦豊臣鶴松の墓所祥雲寺跡(つまり智積院)で喫茶し、豊国社跡をあるく。秀吉の墓である。

 いま京都女子学園への通学路となっている通称「女坂」は、もと豊国社の参道で、江戸時代には「豊国道(とよくにみち)」と呼ばれた。

 その道をとおり、社殿跡にたっす。埋葬地には行かず(階段がすごいから)、ふもとの京極龍と豊臣国松の墓参をして、京都女子学園のプリンセスラインバスの停留所で解散した。

 これで今回の講座は終わりです。ありがとうございました。次回講座もまたよろしくお願いいたします。

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2011.06.08

桐野作人さん著『江の生涯を歩く』の書評、載ってたんや

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 桐野作人さん著『江の生涯を歩く』(KKベストセラーズ、2011年、819円)の『京都新聞』の書評、6月2日(木)に載ってたんや。

 いつ載るか気になってた。そうか、載ってたんか。古新聞整理で気づいた。

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2011.05.27

大津城跡をあるき伏見城遺構三重塔をみる

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5月26日(木)くもり

 京都新聞文化センター「江」講座の巡検で、大津城跡をあるいた。

 大津城は関ケ原合戦直前、京極高次の居城だった。江の姉初の夫である。ここが関ケ原合戦直前、毛利勢約1万に攻撃される。そのとき初もいた。京極高次の姉妹龍(京極龍子、松の丸殿)もいた。大河でもかならずこのシーンはあるだろう。

 あるくに『図説大津の歴史』上に収録された復元案をつかわせていただいた。

 近世の大津町はほとんどが旧大津城域にあたる。近世の大津代官所跡も大津城本丸跡である。

 過去の発掘調査のあった場所や堀跡推定地を中心にあるく。現存石垣とされる場所にも立ち寄った。曳山展示館の東隣地。復元案では三の丸の堀にあたる。これが正しいといえるかを検証したりした。

 その後、園城寺を参拝した。大津城と直接関係ないが、「園城寺古記」に大津攻城戦の記載がある。真横であるから、状況次第では巻き込まれる危険があった。

 それはともかく、園城寺三重塔に関心があってきた。園城寺三重塔は旧比蘇寺の塔で一旦伏見城に移され、徳川初期に家康によって園城寺におさめられたと「園城寺古記」は記す(『園城寺記録』24ページ)。

 前回、伏見城跡(指月地区)をあるいたときにその話題をした。名古屋市博物館が昨秋公開した「洛中洛外図屏風」にその三重塔と思われるものが描かれていたとご紹介した。

 それゆえ今回園城寺に立ち寄ったというわけ。

 みるべきものが多数ある。時間がないのでそのほとんどに目をくれず、三重塔まであがった。その地の解説板に伏見城から移築したと記されていない。拝観料を支払っていただいたペーパーにもない。実に惜しいことだ。史料で裏付けられる、豊臣期伏見城の数少ない遺構といえるのに。

 なお仁王門(大門)も同時期に伏見城から移されたと、これは解説板に記載されていた。もとは甲賀郡の常楽寺のものだったとある。

 たしかに「園城寺古記」にも、「甲賀西寺楼門、内府様より三井寺へ寄付」とある(『園城寺記録』24ページ)。が、伏見城から来たとは記さない。これはどういうわけか。

 三重塔は伏見城遺構といえるが、仁王門はそうではないかも知れない。

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2011.05.12

高槻市の博物館2つをはしご

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 昨日、有志と、高槻市立しろあと歴史館と今城塚古代歴史館をはしごした。中西裕樹さんから招待券をいただいていたから。ありがとうございます。感謝しております。

 高槻市立しろあと歴史館では、豊臣秀勝の興味深い史料が公開されていた。そうか高槻城の金箔瓦は秀勝か。高山右近でなくて。目からうろこだ。

 またロザリオをもったキリシタンの人骨もそのまま展示されていた。いずれも現物を初めて拝観した。すばらしい展示だった。

 移動中、びっくりする大雨にであう。車中でよかった。ありがとうございます、Kさん。

 今城塚古代歴史館もたいへん楽しかった。ほんとうは整備なった今城塚にも登りたかったが、とにかく超大雨だったからあきらめ。また改めます。

 本日の京都新聞夕刊に、滋賀県日野町中在寺の宮前橋が豪雨のため折れ曲がっている写真が載っていた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110512-00000031-kyt-l26

 すごい。自然災害すごい。

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