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5/15(土)はれ
よみうり文化センター天満教室に出講。
また坂本龍馬講座。今回は大坂南郊、住吉の土佐陣屋跡をめぐる。
信用してよいかわからないが、『維新土佐勤王史』によれば、龍馬は少なくとも文久2年(1862)末と同3年(1863)の二度、住吉に立ち入っている。
住吉陣屋は今回の大河でも登場しましたね。
『皆山集』所収の住吉陣屋図を使って、現地の推定をする。現東粉浜小学校付近である。
最近は地元でも知られてきたようで、我々一行に見知らぬおっちゃんが近づいてきた。
いま現地に石碑など跡地を示すものはない。地元が盛り上がってくれれば、建碑も実現するかも。期待している。
住吉陣屋跡の遺構とされる石垣が、近くの生根神社絵馬堂の基礎に使用されているという。出典はわからないが、とにかくやってきた。
そのあと、龍馬が宿泊したという三文字屋跡にたつ。三文字屋なんてわかるもんかと思っていたが、実はよく知られた店だった。摂津名所図会に数枚の挿絵つきで紹介されているし、「東海道中膝栗毛」では弥二・喜多がかかわっている。
いま跡地は住吉警察署という。これまたどうしてわかるか知らないが。やはり現地に痕跡はない。石碑もない。
住吉大社に参拝。龍馬が泊まった「通夜堂」も何なのか、どこだったのかわからない。
そのあとは、龍馬が住吉陣屋の桧垣清治と訪れた、北畠顕家墓に参る。
阪堺電車に乗って、「北畠」で下車。現北畠公園。
江戸中期、当地の「大名塚」なるものを北畠顕家の墓と比定し、建碑したのが儒学者並河永(誠所)である。
並河誠所は興味深い。
徳川政府の公認をうけて、畿内の地誌を編纂した。それが『五畿内志(山城志・大和志・摂津志・河内志・和泉志)』だが、その調査過程で忘れられた過去の著名人の墓らしいものを見つけると、建碑している。
この北畠顕家墓もそのひとつ。それだけではない。
河内国藤坂村(現大阪府枚方市藤阪)の「オニ(於爾)墓」もそう。
並河が発見した河内国禁野村、和田寺の記録(元和2年(1616)の「王仁墳廟来朝紀」)によれば、古事記・日本書紀に登場する百済の学者、王仁の墓という。ワニがオニになまって勘違いされている、という判断。
現地には自然石以外の標がないため、長尾陣屋にあった領主旗本久貝氏に指示し、「博士王仁之墓」の標石を建てさせた。
いずれもその後大阪府の指定史蹟になった。すごいことだ。いわば江戸時代に史蹟をつくった人である。
ただ藤坂の「オニ墓」が王仁の墓だというのはかなり無理がある。
まず5世紀の人の墓の位置を、17世紀の記録で判断するという手法に問題がある。
そもそも王仁の子孫は西文(かわちのふみ)氏で、現羽曳野市あたりに居住した。枚方に墓がある理由がない。
ましてや5世紀は巨大古墳の時代である。倭王(のちの天皇)から招聘された学者の墓が自然石だけであるはずはない(以上、片山長三「王仁塚」『懐徳』26号、72~79ページ、1955年)。
並河の比定は誤りだろう。
北畠顕家戦死地の有力地も、堺市石津とされるので、大阪市阿倍野付近の当地は誤りかもしれない。やはり並河の比定は誤りである可能性は高い。
が、『維新土佐勤王史』がいう、龍馬が参拝した北畠顕家の墓はここに間違いない。
ゆえに当地は南北朝史蹟というよりも、幕末史蹟ですねと述べた。
ここで終了。
懇親会などしたかったが、疲労がたまっていたのでまっすぐ帰る。
※建碑されると「史実」になり、行政による指定史蹟となる場合がある。すると、その後の研究成果によって史実としては否定されても、史蹟の指定解除をうけることは少ない。
碑の力って、すごいと思われませんか。こわいことでもあります。だから観光客は路傍の石碑が示すことを無批判に受けて入れてはいけないし、建碑主体者は位置も表記も慎重であるべきなのです(自戒をこめて)。