2011.08.23

幕末大坂のある寺を探しています

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  とある事情で、幕末の大坂にあった寺院を探している。

 土佐関係のある人の埋葬地なのだが、長堀の土佐屋敷跡付近(現西区)にはみいだせない。

 過去にはあったが戦災などで消え失せたか、そもそも別の場所か。同名の寺は一ヶ寺あるにはあるのだが、東淀川区淡路なのだ。そんな遠方までわざわざ行くとはちょっと思いにくい。

 大阪市内の地誌や古地図はさすがに収集してない。そのうち買い求めるか、府立図書館にでも行くかと思って書庫をぼーっとあるいていたら、なんと旧版の『大阪市史』(全8冊)や『西区史』(全3巻)があって驚いた。

 そういえば買っていたわ。こんな日のためだったんだな。過去の自分に感謝。
 
 だから答えがすぐ見つかるわけではないのだが。本日のちょっとうれしかったこと。

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2011.07.11

大阪市内の幕末史蹟碑に建碑などしてこられた奥野聡子さんの玉稿を拝受する

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 奥野聡子さんから以下の書籍を恵贈いたたぎました。記して謝意を表します。奥野聡子さんは大阪市内の幕末史蹟に標石などを複数設置してこられた篤志家です。

 一、『霊山歴史館紀要』第20号(霊山顕彰会、奥野聡子氏「大坂の幕末史蹟を顕彰する」所収)、2011年7月

以上

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2010.10.03

名古屋で藤吉のはなし。大阪では小松帯刀墓所碑が建った

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10月2日(土)はれ

 名古屋の栄中日文化センターに出講。龍馬講座。

 海援隊誕生のはなしをするはずが、最近の京都・大阪・滋賀県の建碑事情がながびきすぎてできなかった。前回の薩長同盟論のつづきもしたしね。また次回持ち越し。

 最近、ある事情で龍馬の家来藤吉の履歴を検討している。

 これまでほとんど典拠を明らかにして論じられたことはなかたようで、既出の略伝はほとんど誤っている。まだまだわれわれは、龍馬の周辺のことを何も知っていないのでは。

 中日ビルはさぞかし優勝バーゲンですさまじいことだろうと思っていたが、さほどでもなかった。

 あとから知ったのだが、この日、大阪市内では、小松帯刀墓所跡の建碑除幕式が行われた。今回は僕はノータッチである。今回も建碑者は、奥野聡子さんです。

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2010.09.23

大坂の龍馬ゆかりの地に解説板が設置された

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 先日、龍馬ゆかりの勝海舟大坂居所・海軍塾とされる専称寺跡の解説板が、大阪市中央区淡路町三丁目(旧北鍋屋町)に設置されました。

 奇特なる建立者は、奥野聡子さんです。すでに新選組ゆかりの天満八軒屋の京屋忠兵衛跡や、新選組大坂居所跡標石(萬福寺)も実現されておられます。

 今回も萬福寺にひきつづいて少し協力させていただきました。本当はもっと早くに建設できたのに、僕の不手際で遅れました。奥野さんはじめ関係者におわび申し上げます。

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2010.06.27

新選組大坂旅宿跡の碑が現れた

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 本日、萬福寺で「新選組大坂旅宿跡」標石の除幕式がありました。

 20名ちかくの参加者がありました。NPO法人京都歴史地理同考会から理事3名参加。京都女子大学の学生さんが3人も来てくれました。各新聞社の文化センター受講の方もおこしでした。

 新聞社やテレビはまったくこられませんでした。

 以下がその風景です。

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大阪市に新選組の碑が建ちます

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 本日、2010月6月27日(日)午後2時、大阪市内で新選組の石碑除幕式があります。

 「新選組大坂旅宿跡」と刻みました。

 中村武生が主碑および副碑(解説板)の文章を撰しました。

 場所は、大阪市天王寺区下寺町1丁目3-82萬福寺山門前です。

地図はこちらhttp://www.jalan.net/ou/oup2000/ouw2001.do?spotId=27109ag2132028967

 本堂で落慶法要があります。萬福寺は非公開寺院なので、建物内部に入れる珍しい機会です。

 ぜひお越しください。

          ―記

 行き方:地下鉄谷町線「谷町九丁目」駅下車、③出口から出て、千日前筋を西へ進み、松屋町筋を左折(南行)、しばらく進むと左手(東側)にあります。

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2010.05.17

龍馬の土佐住吉陣屋跡めぐりをする

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5/15(土)はれ

 よみうり文化センター天満教室に出講。

 また坂本龍馬講座。今回は大坂南郊、住吉の土佐陣屋跡をめぐる。

 信用してよいかわからないが、『維新土佐勤王史』によれば、龍馬は少なくとも文久2年(1862)末と同3年(1863)の二度、住吉に立ち入っている。

 住吉陣屋は今回の大河でも登場しましたね。

 『皆山集』所収の住吉陣屋図を使って、現地の推定をする。現東粉浜小学校付近である。

 最近は地元でも知られてきたようで、我々一行に見知らぬおっちゃんが近づいてきた。

 いま現地に石碑など跡地を示すものはない。地元が盛り上がってくれれば、建碑も実現するかも。期待している。

 住吉陣屋跡の遺構とされる石垣が、近くの生根神社絵馬堂の基礎に使用されているという。出典はわからないが、とにかくやってきた。

 そのあと、龍馬が宿泊したという三文字屋跡にたつ。三文字屋なんてわかるもんかと思っていたが、実はよく知られた店だった。摂津名所図会に数枚の挿絵つきで紹介されているし、「東海道中膝栗毛」では弥二・喜多がかかわっている。

 いま跡地は住吉警察署という。これまたどうしてわかるか知らないが。やはり現地に痕跡はない。石碑もない。

 住吉大社に参拝。龍馬が泊まった「通夜堂」も何なのか、どこだったのかわからない。

 そのあとは、龍馬が住吉陣屋の桧垣清治と訪れた、北畠顕家墓に参る。

 阪堺電車に乗って、「北畠」で下車。現北畠公園。

 江戸中期、当地の「大名塚」なるものを北畠顕家の墓と比定し、建碑したのが儒学者並河永(誠所)である。

 並河誠所は興味深い。

 徳川政府の公認をうけて、畿内の地誌を編纂した。それが『五畿内志(山城志・大和志・摂津志・河内志・和泉志)』だが、その調査過程で忘れられた過去の著名人の墓らしいものを見つけると、建碑している。

 この北畠顕家墓もそのひとつ。それだけではない。

 河内国藤坂村(現大阪府枚方市藤阪)の「オニ(於爾)墓」もそう。

 並河が発見した河内国禁野村、和田寺の記録(元和2年(1616)の「王仁墳廟来朝紀」)によれば、古事記・日本書紀に登場する百済の学者、王仁の墓という。ワニがオニになまって勘違いされている、という判断。

 現地には自然石以外の標がないため、長尾陣屋にあった領主旗本久貝氏に指示し、「博士王仁之墓」の標石を建てさせた。

 いずれもその後大阪府の指定史蹟になった。すごいことだ。いわば江戸時代に史蹟をつくった人である。

 ただ藤坂の「オニ墓」が王仁の墓だというのはかなり無理がある。

 まず5世紀の人の墓の位置を、17世紀の記録で判断するという手法に問題がある。

 そもそも王仁の子孫は西文(かわちのふみ)氏で、現羽曳野市あたりに居住した。枚方に墓がある理由がない。

 ましてや5世紀は巨大古墳の時代である。倭王(のちの天皇)から招聘された学者の墓が自然石だけであるはずはない(以上、片山長三「王仁塚」『懐徳』26号、72~79ページ、1955年)。

 並河の比定は誤りだろう。

 北畠顕家戦死地の有力地も、堺市石津とされるので、大阪市阿倍野付近の当地は誤りかもしれない。やはり並河の比定は誤りである可能性は高い。

が、『維新土佐勤王史』がいう、龍馬が参拝した北畠顕家の墓はここに間違いない。

 ゆえに当地は南北朝史蹟というよりも、幕末史蹟ですねと述べた。

 ここで終了。

 懇親会などしたかったが、疲労がたまっていたのでまっすぐ帰る。

 ※建碑されると「史実」になり、行政による指定史蹟となる場合がある。すると、その後の研究成果によって史実としては否定されても、史蹟の指定解除をうけることは少ない。

 碑の力って、すごいと思われませんか。こわいことでもあります。だから観光客は路傍の石碑が示すことを無批判に受けて入れてはいけないし、建碑主体者は位置も表記も慎重であるべきなのです(自戒をこめて)。

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2010.03.29

大坂の龍馬ゆかりの地をあるいた

3/25(木)

 既述だが、午前中、いつもの「江戸時代京都の観光モデルコース」2日目を終える。

 午後から京都新聞文化センター「龍馬講座」の巡検で、大阪市内へ。

 伏見と大坂を結ぶ船乗り場跡のうち、龍馬ゆかりといえる2ヶ所(「八軒家」堺屋重兵衛跡と、東横堀の思案橋西詰め河内屋与次兵衛跡)をたずねる。

 前者は、近年奥野聡子氏が、大阪市立中央図書館蔵の安政3年(1856)の水帳(土地台帳)から、新選組ゆかりの京屋忠兵衛の東隣地にあったことを明らかにされた(同氏「新選組定宿・京屋忠兵衛跡を発見!」『維新の道』136号、霊山歴史館、2010年)。

 神戸村に移る前の勝海舟の大坂の居所跡は複数ある。今回は2か所を訪ねた。

 まず近藤長次郎の息子百太郎が伝える「北鍋屋町専称寺」跡(吉村淑甫『近藤長次郎』144ページ、毎日新聞社、1992年)。

 『海舟日記』文久3年(1863)3月1日条に記載された、勝の旅宿「北溜屋町真正寺」は誤記で、正しくはここか。それなら同日龍馬らが京都より訪ねている(勁草書房版『勝海舟全集』18巻、32ページ)。

 やはり近年、前述奥野聡子氏が、大阪市立中央図書館蔵の水帳から北鍋屋町「専称寺」を確認された(同氏より教示)。

 また望月亀屋太の母宛書翰(文久3年(1863)1月21日付)にある、「本町三丁目、先生の御旅宿」も勝の旅宿跡のひとつである(横川正郎編・解読『維新志士の手紙/望月亀屋太・間崎滄浪』5ページ、維新志士の手紙刊行会、1997年)。

 詳しくはわからないが、現在の本町三丁目を訪ねてみた。

 それから地下鉄に乗り、西区西長堀駅ちかくの土佐屋敷跡へ。現在も立派な土佐稲荷社があるため意識できる。

 維新後は岩崎弥太郎のものになったので、いまも三菱関係社の保護が多いらしい。玉垣に「三菱」の多いこと。

 「岩崎弥太郎邸跡」の碑もあり、今年の史蹟めぐりにはまったく都合がよい。訪問者も多いはず。幕末期の石造物も少なからずあり、龍馬らが触ったかもと遊んでみる。

 大坂の龍馬や幕末史蹟はとても多い。が。京都に比して知られることが少ない。おしいことだ。

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2009.07.14

大阪駅で号外配布に出くわす

7/13(月)はれ

 昨日につつぎ、大阪市内へ出張。

 今日はNHK文化センター大阪教室での講座。ここで「京都の江戸時代をあるく」を論じている。今回はミヤコの惣構こと御土居堀と寺町(寺丁)。あいかわらず、好き放題な話をさせていただいた。

 終了後、3人の方からサインを望まれた。ありがとうございます。そろそろサイン書きもなれないといけません。

 帰途、次の仕事を進めるため、帰宅を急ぐ。下手に大阪市内に滞在しているとビールを飲みたくなる。飲んではだめだ。仕事ができなくなる。

 午後3時すぎ、大阪駅で、号外をもっている人にきづく。「しめた、号外を配っているのではないか」。以前、書いたが、僕は号外コレクターである。もちろん日本屈指の新聞コレクターY名さんには及ぶべくもない。実にささやかなコレクターである。

 駅前でみつけた。朝日新聞だ。2部もらった。「総選挙8月30日」が決まったことを報じていた。裏返すと、裏はちがう記事だった。珍しい。だいたい裏は関連記事なのだが。「『脳死は人の死』成立」速報だった。

 実は号外を配っている人からもらったのは初めて。いつもはあとから人からもらうことが多い。1回だけ落ちているのをひらったことがある。

 うれしい日だった。

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2009.07.13

大坂冬の陣古戦場、惣構跡をあるく

7月12日(日)はれ

 よみうり文化センター天満校に出講。今回は巡検の日。

 午後1時30分、JR環状線「玉造」駅に集合。大坂冬の陣の古戦場、惣構(そうがまえ。いわゆる外堀)跡の南端をあるく。「玉造」駅は南東角の「黒門」跡と推定されている。

 積山洋さんの論文「豊臣氏大坂城惣構南面堀の復原」(渡辺武館長退職記念論集刊行会編『大坂城と城下町』思文閣出版、2000年)の挿図を使わせていただいた。

 真田丸跡にも立ち寄ったり、丁寧に堀跡を示す崖線を追ったので、ことのほか時間がかかった。約2時間かけたのに西はしの東横堀川に到達せず、空堀商店街の途中の谷町筋で終わる。もっと歩きたい方もおられたようだが、炎天下であった。しんどい方も多数おられたはずだ。

 みなさま、どうもありがとうございました。来月は「幕末の大坂をあるく」の座講(教室講義)です。お間違えありませんように。

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