京都市役所で代理人弁護士などと記者会見
| 固定リンク
| 固定リンク
※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。
一昨日(8月1日)、栄中日文化センター「中部地方の幕末維新」に出講。将軍家茂の初上洛を論ず。テキストは久住真也さんの『王政復古』(講談社現代新書)。終了後、熱田神宮に参拝し、家茂が通った旧東海道を通って、浜御殿跡と七里の渡し跡に達す。写真は旧東海道至近から北の熱田社を遠望。
浜御殿を出たのち、佐屋街道を進み、岩塚、神守をへて佐屋宿本陣で昼食。八ツ時出発後、河原を1里ほど歩行したのち、尾張慶勝の用意した御座船で乗船(『続徳川実紀』第四篇、新訂増補国史大系)。
1901年の5万分の1地形図に熱田から岩塚、万場川の渡船までのルートを描いてみました。
つづいて神守から佐屋の南1里あたりの乗船地まで。
| 固定リンク
※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。
嵯峨浩であって、愛新覚羅浩ではない(なにかをみた)。
楢崎お龍であって、坂本お龍ではないのと同じ。夫婦別姓が常の国と時代であるから。
嵯峨浩の戦略に無批判であっては事実を見誤る。『流転の王妃』や『「流転の王妃」の昭和史』はきちんと史料批判して使用するように。嵯峨浩が「愛新覚羅浩」のペンネームで刊行したというだけでもう戦略がみえみえであることに気づかなければ。そもそも嵯峨浩は「王妃」ではないし。
嵯峨浩が中山忠光の曾孫というのはここに及ぶと実に奇縁だというほかない。さすがにぼくの天誅組論に嵯峨浩ネタ使うつもりはない。
| 固定リンク