市街地でキツネを2匹もみてびっくり
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一昨日(7月29日<水>)午後4時ごろ、勝竜寺城本丸跡北口(京都府長岡京市)からキツネが2匹入って来てたの、伝え忘れてた。
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文久2年(1862)4月8日、土佐郷士那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵は、同山内家参政吉田東洋を殺害して亡命、久坂玄瑞ら京都長州屋敷を介して同薩摩屋敷に保護された。その後、那須と安岡は天誅組に参加し死亡、大石のみ高見弥市と改名し島津家に所属し英国留学生(第一次)となった。この分かれ目はなんであったかにふかい関心がある。自身の問題意識に直結するから。
ついついなぜ大石が天誅組に参加しなかったかに気がいくが、那須と安岡が天誅組に参加したのはなぜか、もっといえば島津家に残って英国留学生になれなかったのかというのも実は重要ではないか。
大石は奈良原繁と深い縁をむすび養子となる。それが英国留学生につながるのだが、ではなぜ那須と安岡はそのような縁を得られなかったのか、それがあれば天誅組に参加しなかったかもしれない。
それは文久3年5月20日夜の姉小路公知暗殺事件(朔平門外の変)が影響した、分かれ目だったのではないかと感じている。
安岡は分からないが、那須は姉小路暗殺犯を島津家の田中新兵衛と知ったところから同家を「敵」と認識しだした(同年5月29日付中平保太郎宛書翰 )。自身が同家に保護されていることをなげいている。
これに対して大石は島津家のために長州情報をさぐっている(同年8月15日付大久保一蔵宛木場伝内書翰)。毛利家が攘夷親征のため洛南八幡行幸を計画していること、当地で錦旗を掲げ関東を討つ計画をたてているなどを伝えたという。ここに明快に両者は歩む道を分けたといえる。那須と安岡が中山忠光一行に加わり離京した(天誅組として行動しだした)のは8月14日である。
大石がいつこの情報を得て木場に伝えたかは定かではない。石清水行幸・攘夷親征案は、同年6月18日付益田弾正宛の毛利慶親・定広父子の親書に記載があるので、それから大和行幸発令の8月13日以前のあいだであることは誤りない。
大石が情報を得るため派遣されたという「林休左衛門所」は不明。気になる。
なおこの段階で大石はすでに高見を名乗っている。奈良原の養子になり留学する時期の改名と理解していたが、そうではないことになる。また大坂薩摩屋敷の木場がかくまっている、つまり京都ではなく大坂薩摩屋敷にいるかもしれないこともイメージを異にする。那須と安岡は京都にいるはずだから。
余談ながら那須は島津家を敵視しながら、同邸を飛び出すことはできなかった。天誅組参加当日(同年8月14日)、ようやく薩摩屋敷を出る(同日付養父宛書翰)。
ちなみにこの木場書翰は『大久保利通関係文書』に入っていないようである。
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最後の姿も貼っておきます(中央)。おそらく200年以上存在し、少なくとも90年前には医史蹟として顕彰対象になりながら指定文化財とならず、近日消失する井戸に哀惜の念を禁じ難く存じます。手前のゴミ溜めは無関係。
非力を恥じます。違う形で恐縮ですが、この反省を活かします。お許しください。
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現状。
井筒を取り除いたため井戸穴のみ露出しています。
事故回避のための措置を施しておりますが、近寄られるおりは重々ご注意願います。
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洛北鷹峯薬園跡旧藤林邸井戸の土地購入は不可能でした。
そのため地権者の同意を得て、井筒のみ解体し移動することにしました。本日その措置を行いました。自身の非力を恥じております。別の場所に井筒の再設置を検討します。
この間、お世話になった多数の方々に深甚の謝意を表します。

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去る7月21日(元治元年(1864) )は真木和泉らの祥月命日。天王山で自刃した人数が17人であるというのは根拠がないこと、宮部春蔵ら2人を含むのは誤解の可能性が高いなど、『近時新聞』38号(2019年)に書きました(「元治甲子戦争における天王山「 十七烈士」考」)。追悼いたします。
同年7月23日付、会津家臣高橋外記ら宛、西郷文吾ら書翰に「凡廿人余何れも割腹屍を並へて罷在候」とあるのを最も重要視すべきと判断しております。すなわち20名余りが天王山で自刃した人数といえます。
以下に貼っておきます。
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オンライン講座「天誅組研究会」、第3回「『挙兵』前夜―中山忠光の場合・その3」の動画を公開しました。
ご希望の方はダイレクトメールでお知らせください(有料)。
中山忠光の下関での攘夷戦参加、帰京、毛利家の忠光への期待などにふれました。まだ木屋町通の長州施設に潜伏し、中山家に帰宅できていません。
もう忠光伝は書く自信が付いた。忠光伝は1931年の正親町季董『天忠組主将中山忠光』以後まとまったものは出ていないはず。まもなく100年。が、いまそれどころではない。
忠光の変名の森俊斉(斎)の森の読みはモリかモーリか。毛利は近世初頭まではモリと読んだことが分かっている。幕末にはモーリで定着しているようだが。
世子定広は姉小路暗殺を聞き、忠光に謀っている。忠光がにわかに京都に帰ろうと思いたったのは、祖父忠能の使者の説得でも、小笠原の率兵上京の報でもなく、姉小路の横死を聞いてのことである。姉小路暗殺は各地に波紋を広げている。
忠光が馬関を出て京都に向かった日はいつか、島津家の収集したあやしげな情報に頼らんでも奇兵隊日記に記してあったがな。
忠光は基本的に祖父忠能をなめている。が、160年前であるので、現代とは比較できない。なめているとはいえ忠能への敬意は感じられる。ただ恐れてはいないし、何しても許されるぐらいは思っているような。
忠光の動きは行き当たりばったり。計画的ではない。これに周りが振り回される。賢い人とも思えない。ただいつくかの条件がそろって他人に魅力を与える。ただし満18歳になるかならんかぐらいの年齢であることは差し引かねばならない。とくに賢明であれというのは無茶なことかもしれない。
忠光の個性を問題視するのはけっこうだが、本質を見誤ってはならない。とりあえず白石正一郎日記だけで判断するのは危険。白石の忠光観のすべてが日記に書き込まれているかは分からない。そもそもあれは書き直したものだしね。
そんなわけで天誅組は志学社さんから出すことが決まっている。それまで命があればよいが。
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昨日の山科本願寺・寺内町跡中心部(京都市山科区西野山階町)。南から。
中央の森が第一郭を囲う北西隅の土居堀遺構。民有地(奥田邸)。史跡未指定。
農地や駐車場部分に御影堂跡、阿弥陀堂跡、寝殿跡などいずれかの遺構が残っていると見込まれる。
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昨7月14日(火)の洛北鷹峯薬園跡、旧藤林邸井戸。30年付き合った井戸の落日を見ている。感情の高ぶりがある。
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洛北鷹峯薬園跡、旧藤林邸井戸の危機につき、7月11日(土)京都新聞朝刊の紙面記事も載せておきます。
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一昨日7月11日(土)、アイリス京都のオンライン日本史講座は、受講者55人でした。
文禄2年(1593)4月、文禄の役の講和開始から、同4年8月の関白秀次一族滅亡まで。
今回こそ秀吉の死まで行くと思っていたのに、全くだめでした。
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京都市北区鷹峯藤林町の公儀薬園跡井戸の危機が今朝の京都新聞に載りました。中村武生もコメントしています。
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昨夜の京都新聞ネットニュースによると、北野天満宮にある洛中惣構土居(国史蹟)の西斜面が崩れた由。
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/302629
紙面は昨日朝刊に載っていた。
一昨日7月8日は、国史蹟指定90年紀念日だった。そんなときにこの惨事。なお北野天満宮は追加指定なので、指定日は別の日。
紙屋川が構築した河岸段丘崖きわにつくられたものなので、崩落は頻繁に起きてきた。知ってるだけを以下に列挙すると、
一、1965年(昭和40)7月6日、北野天満宮の土塁(当時史蹟未指定地)のうち、紙屋川へ降りる口付近が崩落した。この直後の10月27日に追加指定された。
一、翌1966年7月にも、豪雨により、北区鷹峯旧土居町2の国史蹟指定地が一部崩落した。450万円(国庫補助7割、市3割負担)で災害復旧工事が行われた。
一、1978年(昭和53)6月22日、豪雨のため北区紫野西土居町の国史蹟指定地のうち、高さ10メートル、幅4メートル分が崩落している。
一、1999年(平成11)6月、北区鷹峯旧土居町2番地の国史蹟指定地の土砂が、豪雨のため、幅約30メートル、高さ最大約20メートルにわたって崩落。
一、2000年(平成12)2月23日、市文化財保護課が、前年6月に崩落した北区鷹峯旧土居町2番地の国史蹟指定地の復旧に着手、「連続繊維複合補強土工法」により8月に完成。
一、2010年7月15日(木)の豪雨で、北区大宮土居町の国史蹟指定地のうち北西部分、堀の北側「肩」部分の上端が2ヵ所、それぞれ横幅約3・6メートル、約10・4メートルが崩落。
すべての知識を吐き出して死ねるわけではないのだが、災害史さえ把握しているこのネタ、もうちと知ったことを書き残しておくべきだな。
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一昨日、地権者へ保存を求めた要望書を提出しました。掲示します。
2020年7月4日
株式会社××××××××××
代表取締役社長 ××××様
鷹峯地域の歴史と文化を考える会
代表 ××××
京都女子大学・大谷大学非常勤講師
××××
鷹峯藤林町にある徳川公儀(幕府)井戸の保全に関する要望書
いつも地域にご理解くださりありがとうございます。
さて、昨日、鷹峯藤林町1番85の地に重機が入り、当地の井戸そばの建物が壊されていることに気づきました。もしや井戸が消失するのではとたいへん驚き、さっそく貴社本店に参りましたところ、××××××××副店長の××××様から当該地が4つの宅地に分譲されること、井戸は保護されないことを伝えられました。
われわれはこれを重く受け止め、以下のお願いをいたします。
この井戸は、徳川(江戸)時代に、公儀(幕府)が営んだ薬園の遺構で、管理を任されていた医師藤林道寿の屋敷のものです。
現地名「藤林町」は、その由緒を現在に伝えております。
この薬園でつくられた薬種は朝鮮人参など105種類におよび、
天皇や上皇に献上され、江戸の徳川将軍の健康を維持するためにも使用されました。
江戸には小石川薬園が営まれ、こちらは現在東京大学理学部の付属植物園として維持され、国の史跡および名勝に指定されています。
たまたま当地は大学などが管理せず、指定文化財でもありませんが、その重要性はすでに周知で、早くも戦前の『日本薬園史の研究』(上田三平著)に井戸の写真とともに紹介されています。
戦後も『京都の医学史』(京都医師会編)、『京の医史跡探訪』(杉立義一著)など京都の医学の歴史を論じた書籍に載り、最近でも『京都の江戸時代をあるく』(中村武生著)、『京の水案内』(カッパ研究会編、京都新聞出版センター)などにも取り上げられています。徳川時代京都の代表的旧跡といえます。
そのため2010年にはNPO法人京都歴史地理同考会によって西隣地のセブンイレブンの入り口に「徳川時代 公儀 鷹ヶ峰薬園跡」石碑と解説板が建てられ、鷹峯地域屈指の大切な場とされています。
現在、直木賞候補のひとりに挙げられている、澤田瞳子氏の小説『ふたり女房―京都鷹ヶ峰御薬園日録』は、鷹峯薬園や藤林家を舞台にされたものです。今後は全国的にもっと知られていくでしょう。
鷹峯の子どもたちも、小学校の地域学習の場として、これまで光悦寺など本阿弥光悦の旧跡、御土居(豊臣秀吉が構築した京都の城壁)などとともに親しんできました。
いまこれを無くすことは大きな損失です。
これからも地域の子どもたちが学ぶ場として、光悦寺と金閣寺を結ぶ観光ポイントして、ながく維持させたいと存じます。
どうか藤林町1番85の井戸を残してください。衷心より希望いたします。
ご返答を賜りますと幸甚です。
ご多忙のところ恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
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本日、京都市北区鷹峯藤林町の徳川公儀薬園跡井戸につき、地権者から保存できないと返答がありました。
必要なら約2000万円での土地の購入を求められました。
7月13日(月)が期限です。地域や行政が将来の公園化のために購入してくれることが望ましいのですが、未指定文化財なので困難があります。
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洛北鷹峯にあった徳川公儀の薬園の管理者、藤林道寿邸跡の井戸周辺(現京都市北区鷹峯藤林町1番地85)の開発が開始されました。
更地にされて4軒の分譲が行われる由です。井戸も井筒も維持されず破壊されるそうです。
写真は昨日7月4日(土)午後5時ごろです。壊されずそのまま維持されることを願っています。
藤林邸跡や薬園跡は文化財に未指定どころか、京都市遺跡地図にも載っていないので、「遺跡」でさえない。発掘調査さえされずに消失します。すぐ隣地には旧蹟を示す石碑や解説板があるのに。
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本日の栄中日文化センター「中部地方の幕末維新史―大名家・人物・事件」は、「和宮の江戸下向―中山道を通過」でした。政治史のなかで和宮降嫁の意味を考えました。
最大のきもは、和宮は名古屋に入る予定だった。なのに荷物だけ来た、だな。
今日も藤田英昭さんを話題にした。自身の過去の仕事ミスにからめて。エイショーさんはすばらしい。
来月の家茂初上洛行列との対比のために今回の和宮江戸下向を取り上げたのだと言い忘れた。大ミス。こちらは久住真也さんのお仕事を使用する。
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松平春嶽は12代将軍家慶と従兄弟にあたる。だから13代家定は従兄弟の子にあたる。14代家茂も家慶の異母弟の子なので、やまり従兄弟の子。家慶に実子がいなければ、春嶽はその後継者(つまり13代将軍)になりえたか。
ぐうぜんだが、家茂と和宮はいずれも実父の死後に生まれている。ともに実父を知らない子。これが2人の間で話題になったことはあったか。
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