« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »

2020.03.07

見落としていたことを求めて江州大津へ行ってきた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 昨日、江州大津へ取材。旧湊町の矢嶋藤五郎邸跡をさぐる。大津町の惣年寄を近世初頭から担っている。幕末、松平春嶽と縁があったため、政敵にあたる親長州浪士が同邸を襲い、主人を殺害しようとした。文久3年8月2日(1863年9月14日)である。矢嶋一件として『新修大津市史』当該巻に載っているし、『維新史料綱要』にも立項されている。周知の事件といえる。

 ところが見落としていたことがあった。自身の関心に直結していた。というようなことを『週刊京都民報』に連載中の「龍馬、新発見」に書きだしている。詳しくは次週刊行号とそのつぎに。乞うご期待。なかなか天誅組に到達しない。

|

2020.03.06

池内蔵太と松本奎堂のこれまで認識されていなかった件

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 池内蔵太と松本奎堂が天誅組以前に政敵に関わった商人へのリンチ(天誅事件)に参加していたのは知られていたか。森銑三『松本奎堂』(中公文庫)には記載がなかった。

|

2020.03.05

光秀京屋敷跡、彦根井伊家の伏見長州屋敷放火とか

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 昨日は洛中研究室ゼミで明智光秀の京都邸跡の件、議論した。かなり深まってきた。河内将芳さん、桐野作人さんの学恩に感謝。そのあと二・ニ六事件の報じられた新出情報を話したりした。くずし字初級会はいつもの甲子戦争記。将軍家茂と天子統仁(のち孝明天皇)の感状から諸侯の配置や活躍を考えた。彦根井伊家は伏見長州屋敷を放火したのだが、それが評価対象になってないのはなぜかとか。

|

中村武生と歩く、山崎合戦跡の告知始まる

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。
JR東海「そうだ、京都行こう」のイベント、「中村武生と歩く、山崎合戦跡」の告知が始まりました。どうぞよろしくお願いいたします。
https://souda-kyoto.jp/card_member/event/729.html

 

 

|

2020.03.04

講演依頼はきちんと来るのだが、

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 講演依頼はきちんと来るのだが(いま来た)、また中止となるかもしれないと思うとしんどい。めんどくさい。

 今日3月4日は文久3年なら将軍家茂着京の日(1863年4月21日)。この時期のことで一生終わるかもしれん。それだけすべきこと(されていないこと)多い。

|

2020.03.03

本日は上巳の節句

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 本日は上巳の節句ですね。桜田門外の変の日。安政7年(1860年3月24日)。

|

2020.03.02

洛東法然院方丈建物は「桃山御陵」から移築したって

 本日訪ねた洛東法然院の駒札。方丈建物のもとあった施設「桃山御殿」(伏見城)とすべきところを「桃山御陵」としている。これに対してその英語訳、中国語訳、朝鮮語訳は正確である。

 伏見城の建物を移築したという伝承を知っていたので、桃山御陵がなんの誤りか気づけました。そのうえで参加者が英訳に気づいてこちらは合ってるのにねといったところで中国語とハングル文字にも注意を払ったというわけ。

|

2020.03.01

幕末の大坂城代、大河内信古の話をしてきた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 昨日、名古屋の栄中日文化センター(「中部地方の幕末維新史大名家・人物・事件」)で三河吉田侯、大河内信古(のぶひさ)の話をした。大坂城代として文久・元治の攘夷の矢面に立った人。しかしその後京都所司代や老中になれず。支家の大河内正質は老中格であったのに。前任の大坂城代、本荘宗秀は京都所司代に転任し老中となった。なぜ大河内信古はなれなかった。安政大獄の老中、間部詮勝の子だったからか。大坂城代就任のおりはそのため大原重徳の反対を受けた。松平春嶽らが応じなかったので実現したが。

 大河内信古の日記や書翰は残ってないのだろうか。なぜ所司代や老中になれないのか?なげいた史料はないものか。文久3年(1863)8月、外国船を打ち払えという禁裏とそうしてはならないという在京老中の板挟みにあい、上層でまとめてから伝えてくほしいと公儀に上申するなど政令二途状態を現場で苦しんでいた。

|

« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »