知足院夢覚生家 加藤家旧蹟
坂本龍馬妻 楢崎お龍家族寓居跡
舘ノ内 侍屋敷跡伝承地
二〇一九年(令和元)九月一日 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会建之
加藤洋一 寄附
当地はもと丹波国何鹿郡岡村字「舘ノ内」という。このような地名は全国的に分布し、「土居ノ内」「堀ノ内」などと同じく中世の侍屋敷跡のなごりと推定される(『綾部市史』上巻、『丹波綾部の中筋歴史散歩』)。
ここに幕末期の青蓮院(現京都市東山区)入木道(書道)支流、知足院夢覚(一七九六~一八七一)の生家加藤家があった。知足院の兄省吾は医師である。天保一一年(一八四〇)一〇月五日、典薬寮の「医道長上丹波朝臣」(錦小路頼易)から「当流医道入門之事(を)許容」されている。その子であり知足院の甥にあたる二代目省吾(一八三一~一九〇二)は、青蓮院の侍医楢崎将作(一八一三〜六二)に学び、当地で開業した。楢崎の長女がのちに坂本龍馬の妻となるお龍である。
文久二年(一八六二)、楢崎が京都において数え五〇歳で死亡したため、お龍を始めとする遺族(妻貞、次女光枝、三女君江、長男謙吉、次男太一郎)が零落した。知足院と省吾は物心両面でその保護を行う。その具体的な内容は知足院から二代目省吾に宛てた書翰群など(加藤家文書)によって明らかである。少なくとも貞や謙吉は一時期当地に庇護されていた。加藤家文書は、省吾の後裔省一氏その意を汲んだ美恵子氏(省一氏の後継者昭二郎氏後室)の努力によって、現在まで残されたことを特記する。
晩年のお龍の回想によれば、元治元年(一八六四)八月一日、知足院の仲人でその居所青蓮院内金蔵寺において龍馬と内祝言を行ったとされる。知足院と省吾はその後も龍馬ともども楢崎遺族の生活に気を配った。それゆえ慶応三年(一八六七)一一月一五日、龍馬が殺害されると、知足院はそれを省吾に報じ、楢崎遺族の困苦を憂いたのである。
なお加藤家は、省吾以後も嫡子太一郎が当地で医業を継いだほか、前掲省一氏が灸治所を営んだ。後継者昭二郎氏も一九六七年(昭和四二)まで加藤医院を開業しており、ながく地域医療に貢献されたのである。
二〇一九年九月一日
特定非営利活動法人京都歴史地理同考会理事長 中村武生
