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2019.05.03

「北条早雲伝」と政治史

 伊勢宗瑞(北条早雲)が駿河に下向し、今川龍王丸(氏親)の蜂起を主導して駿河今川氏の家督を奪取せしめたのは、将軍足利義尚みずから近江坂本に出陣し守護六角高頼の討伐を開始したのとほぼおなじとき。長享元年(1487)下半期。両者が連動している可能性も。

 足利茶々丸の自刃により伊豆堀越公方家が滅亡したのは、蓮如が洛東山科本願寺の南殿で死去する7か月前。明応7年(1498)8月。

 伊勢宗瑞が茶々丸に侵攻したのは、明応2年(1493)。同年4月22日、将軍義材不在中に細川政元が挙兵。義材を排し、天龍寺の清晃(足利義澄)を新将軍に擁立した。茶々丸は義澄の母と弟を殺害している。宗瑞は義澄の命で伊豆下向したとすればこれも政治史のなかで理解できて興味深い。

 近年の伊勢宗瑞研究の進展は、「北条早雲伝」が当然のことながら戦国期室町幕府史のなかに存在したのだということを教えてくださり感じ入っている。

 なぜ茶々丸は元服名ではないのだろうと不思議に思っていたが、継母と異母弟殺害が延徳3年(1491)で、義澄は文明12年(1480)生まれだからその異母兄茶々丸が仮に1年上誕生とすればまだ数え13歳となり、元服前の可能性もある。マンガやドラマ(志垣太郎)の視覚イメージの影響は大きい。こわい。

 あ、非専門のひとりごとですので。

黒田基樹氏『今川氏親と伊勢宗瑞』(平凡社、2019年)などにまなびました。

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