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2019.05.16

大久保利通邸の茶室「有待庵」保存の要望書を京都市長などに提出しました

 昨日、京都市上京区中筋通石薬師に存ずる大久保利通邸跡の遺構、茶室「有待庵」建物の保存を求めて、京都市長など宛の要望書を提出しました。以下がその要望書です。現地での保存が困難なら、解体し移築下さることを願っております。同建物や敷地は文化財などの指定や登録は受けていません。しかしその歴史的価値は甚大と存じます。

2019年5月16日

京都市長           門川大作殿

京都市文化市民局長    別府正広殿

京都市文化財保護課長  中川慶太殿

 

特定非営利活動法人京都歴史地理同考会 理事長

京都女子大学・大谷大学等 非常勤講師

中村武生

 

大久保利通の石薬師屋敷「有待庵」建物保存の要望書

 

去る本年5月15日付京都新聞朝刊によって、幕末期における大久保利通の石薬師屋敷内の茶室「有待庵」建物が旧敷地内に現存していたことを知りました。

大久保利通の石薬師屋敷は、二本松薩摩島津屋敷(現同志社大学今出川キャンパス付近)に近く、そばの塔之段地区の西郷隆盛、寺町今出川下ルの黒田清隆など、多くの島津家家臣が居住していました。有待庵建物はその数少ない遺構です。

慶応2年(1866)春ごろ、大久保は当該屋敷のほか南側の建物も入手して、薩長同盟後に入京した長州毛利家の品川弥二郎などを潜伏させていました。大久保はこのとき西陣織の大和錦などを品川に託し、それが周防山口郊外に運ばれて戊辰戦争に使用される錦旗として調整されたことはよく知られています。有待庵建物はこのような政治的重要問題を密議する場所として使用されたと考えられています。

大久保の次男利武の調査によれば、洛北岩倉村に隠棲していた岩倉具視は、自身と縁のある農家の娘を大原女の姿に変えさせ、頭に乗せた薪のなかに密書を隠して送り出した。娘は石薬師屋敷の裏から「茶室」に入って直接大久保に手渡し、返事も同様に受け取ったという。この「茶室」が有待庵であることはいうまでもありません。

なお有待庵建物は、大久保の石薬師邸独自のものではありません。もとは鞍馬口通室町の近衛家別邸、通称「御花畑」屋敷にあったものを移築したものです。御花畑屋敷は在京の島津家の重要人物の住宅として使用されましたが、とりわけ家老小松帯刀の使用が著名です。この場所で薩長同盟が実現されたことも近年注目されています。すなわち有待庵建物は、薩長同盟の密議にも使用されたはずです。維新史の種々の重要現場を「みた」建造物といえます。

その建物がほとんど知られることなく現地に保存されていたことはきわめて意義深いことでありましょう。

 

しかしながら同新聞報道によれば、現在地権者によって有待庵建物は解体予定とあります。これはきわめて残念なことです。昨年は明治維新150年にあたり、多くの観光客が京都市をおとずれ、日本史の節目を体感されました。有待庵建物は当時公開されることはありませんでしたが、つぎなる200年、いえ永遠に、観光客はもとより、地域住民や子どもたちに、日本史の主要舞台地が京都であることを伝える重要な施設として維持されるべきものと存じます。

 

私が理事長をつとめます、特定非営利活動法人京都歴史地理同考会は、2008年に発足した団体で、京都市内の史蹟に建碑を行ってまいりました。そのなかには前述の御花畑屋敷跡(2017年)のほか、西郷隆盛の塔之段邸跡(2018年)、山本覚馬・八重邸跡(2013年)などがあります。現在総数は15基です。その活動に対して、京都市から《平成28年(2016)度京都景観賞》景観づくり活動部門の「審査委員奨励賞」をいただきました。京都の史蹟を顕彰する立場にある者として、維新史の主要現場を「みた」建物の壊滅を深く惜しみます。

 

以上の立場から、大久保利通石薬師屋敷「有待庵」建物の保護を強く求めます。現地保存が困難であれば、建物を解体し別の場所への移築を望みます。敷地内建物の解体が進むなか、緊急を要します。なにとぞ速やかに地権者と話し合い下さり、保存措置の取られることを強く要望いたします。

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