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2019.05.05

四条・三条通間の洛中惣構土居(所謂御土居)をあるいた

 本日の土居堀巡検(主催、御土居堀研究会)は、鴨川沿いの四条通から三条通まで進んだ。現在の関心に従い、主に出入り口の開通、土居の削平過程を追った。四条口が慶長6年(1601)に開通したであろうことは周知である。ついで寛永14年(1637)洛中絵図により、四条通に接した北側の土居がわずかに削られ宅地が建設されたことが分かる。この段階で当該地の地権が公儀のままであるかは不明だが、その後、享保7年(1722)に中村屋吉兵衛が買得し、少なくともこのときには民有化した(御土居麁絵図)。

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 蛸薬師通はいつ開口したか不明であるが、寛永14年(1637)洛中絵図には描写されており、それ以前である。そののち少なくとも元禄15年(1702)以前に、四条通同様、道路に面した部分が南北ともに削られ町家が建設された。こうして土居は四周を建物に囲まれ、外部から見えなくなり密かに改変を受け始める。 六角通の土居口はおそらく開くことはなかったのではないかと思われる。少なくとも享保17年(1732)以前は開いていない。同年、鍼灸師御薗意斎が霊元法皇をながく看病した功により二条通・松原通間の土居のうちすでに売却された地をのぞいて一括買得を許される。その際作られた絵図によって分かる。

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 二条・松原通間の土居はすべて御薗家の所有となったため、破壊しようが維持しようが自由となった。それでも六角通の土居は開口されなかったはず。なぜなら寺町通六角東入ルは広大な誓願寺の境内であったため、土居を開口しても寺町通・河原町通間を東西に行き来することは不可能だったからである。

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 厳密な時期は不明だが、三条・蛸薬師通間の土居は六角通を開口することなく破壊されたはず。たとえば天明期の京都図には寺町・河原町通間の六角通は開通していないが、土居は描かれていない。これは天保図や文久・元治・慶応期の図も同様である。六角通開通は誓願寺境内が上知された、維新後である。

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 三条通あたりは次回あるくので、ここで擱筆します。
 ここで記した内容は、近刊の拙稿におおよそまとめております。

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