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2019.05.30

大久保利通京都邸跡茶室「有待庵」の保存問題の件

 

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大久保利通京都邸(石薬師邸)跡茶室「有待庵」の保存問題について、本年去る5月26日付『週刊京都民報』に報じられた記事です。

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2019.05.28

天誅組兵糧方、林豹吉郎は蘭学者だった

去る5月26日(日)、奈良県五條市の市立五條文化博物館の企画展「林豹吉郎」を参観しました。恥ずかしながら、林豹吉郎がこんな教養人とは知らなかった。天誅組の兵糧方で大砲製作にも関わったとしか認識していなかった。江川太郎左衛門英龍や緒方洪庵に学んでいたとは。蘭学者やったんや。ちなみに参加者伊吹周吉(石田英吉)も緒方洪庵門下の蘭医出身である。浪士の評価に関わる。天誅組は無頼漢の集合体ではない。参加時の年齢(享年)は数え47歳である。分別はある立場のはず。なぜ天誅組に参加したのか、興味深い。
 滞在は2時間半ていどであったが、その間来室者はたった5組弱。もったいなあと思った。たまたま出会った横浜の皆川真理子さん1人をのぞいてすべて一瞬で出て行きはった。五條市の天誅組の啓発はまだまだ足りません。もったいないなあ思いました。久しぶりに自身に「あんた幸せな人生送ってんな」思いました。実に小さい展示室に2時間以上いて、写真撮影ペケだったので展示内容を立ちながらPCにひたすら打ち込んでたのね。文書を読んだりして。「あんた何してんのん」と自分に思ったのね。めんどくさと思わずにしてることに対して。
 参観後は過去の図録買ったり、前日の学芸員さんによる講演レジュメをいただいたりする(皆川さんのおかげ)。
 行きはタクシーを使いました。1760円でした。帰りはコミュニティバスを使わせてもらいました。無料でした。ありがとうございます。
 その後、五条駅で皆川さんと別れて1時間だけ大和五条の天誅組旧蹟を歩きました。まずは犠牲者鈴木源内ら6人の犠牲者の掃苔を24年ぶりにいたしました。まあたらしい墓地案内板ができていて助かりました。そのあと五条代官所跡である市役所に行きました。昨年建った碑に気づきました。初めて来たのは1982年でした。37年前。変化甚だしいです。そのあと1937年に乾十郎遺族乾材三による碑を訪ねたあと五条駅に戻る。たいへんな暑さでしたが、忘れがたい一日でした。

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2019.05.16

有待庵の建物図面(平面図)を提示します

有待庵の建物図面(平面図)を提示します。この建物の移築先として名乗りを上げて下さる個人・組織を希望します。京都地方法務局蔵、1976年7月21日に測量された図を中村がトレースしたものです。

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大久保利通邸の茶室「有待庵」保存の要望書を京都市長などに提出しました

 昨日、京都市上京区中筋通石薬師に存ずる大久保利通邸跡の遺構、茶室「有待庵」建物の保存を求めて、京都市長など宛の要望書を提出しました。以下がその要望書です。現地での保存が困難なら、解体し移築下さることを願っております。同建物や敷地は文化財などの指定や登録は受けていません。しかしその歴史的価値は甚大と存じます。

2019年5月16日

京都市長           門川大作殿

京都市文化市民局長    別府正広殿

京都市文化財保護課長  中川慶太殿

 

特定非営利活動法人京都歴史地理同考会 理事長

京都女子大学・大谷大学等 非常勤講師

中村武生

 

大久保利通の石薬師屋敷「有待庵」建物保存の要望書

 

去る本年5月15日付京都新聞朝刊によって、幕末期における大久保利通の石薬師屋敷内の茶室「有待庵」建物が旧敷地内に現存していたことを知りました。

大久保利通の石薬師屋敷は、二本松薩摩島津屋敷(現同志社大学今出川キャンパス付近)に近く、そばの塔之段地区の西郷隆盛、寺町今出川下ルの黒田清隆など、多くの島津家家臣が居住していました。有待庵建物はその数少ない遺構です。

慶応2年(1866)春ごろ、大久保は当該屋敷のほか南側の建物も入手して、薩長同盟後に入京した長州毛利家の品川弥二郎などを潜伏させていました。大久保はこのとき西陣織の大和錦などを品川に託し、それが周防山口郊外に運ばれて戊辰戦争に使用される錦旗として調整されたことはよく知られています。有待庵建物はこのような政治的重要問題を密議する場所として使用されたと考えられています。

大久保の次男利武の調査によれば、洛北岩倉村に隠棲していた岩倉具視は、自身と縁のある農家の娘を大原女の姿に変えさせ、頭に乗せた薪のなかに密書を隠して送り出した。娘は石薬師屋敷の裏から「茶室」に入って直接大久保に手渡し、返事も同様に受け取ったという。この「茶室」が有待庵であることはいうまでもありません。

なお有待庵建物は、大久保の石薬師邸独自のものではありません。もとは鞍馬口通室町の近衛家別邸、通称「御花畑」屋敷にあったものを移築したものです。御花畑屋敷は在京の島津家の重要人物の住宅として使用されましたが、とりわけ家老小松帯刀の使用が著名です。この場所で薩長同盟が実現されたことも近年注目されています。すなわち有待庵建物は、薩長同盟の密議にも使用されたはずです。維新史の種々の重要現場を「みた」建造物といえます。

その建物がほとんど知られることなく現地に保存されていたことはきわめて意義深いことでありましょう。

 

しかしながら同新聞報道によれば、現在地権者によって有待庵建物は解体予定とあります。これはきわめて残念なことです。昨年は明治維新150年にあたり、多くの観光客が京都市をおとずれ、日本史の節目を体感されました。有待庵建物は当時公開されることはありませんでしたが、つぎなる200年、いえ永遠に、観光客はもとより、地域住民や子どもたちに、日本史の主要舞台地が京都であることを伝える重要な施設として維持されるべきものと存じます。

 

私が理事長をつとめます、特定非営利活動法人京都歴史地理同考会は、2008年に発足した団体で、京都市内の史蹟に建碑を行ってまいりました。そのなかには前述の御花畑屋敷跡(2017年)のほか、西郷隆盛の塔之段邸跡(2018年)、山本覚馬・八重邸跡(2013年)などがあります。現在総数は15基です。その活動に対して、京都市から《平成28年(2016)度京都景観賞》景観づくり活動部門の「審査委員奨励賞」をいただきました。京都の史蹟を顕彰する立場にある者として、維新史の主要現場を「みた」建物の壊滅を深く惜しみます。

 

以上の立場から、大久保利通石薬師屋敷「有待庵」建物の保護を強く求めます。現地保存が困難であれば、建物を解体し別の場所への移築を望みます。敷地内建物の解体が進むなか、緊急を要します。なにとぞ速やかに地権者と話し合い下さり、保存措置の取られることを強く要望いたします。

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2019.05.07

「御土居際」と「御土居」は別ものと『史料京都の歴史』上京区編解説者は気づかれなかった

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『史料京都の歴史』上京区編(平凡社)の解説者は、「御土居際」(「御土居筋」)とは惣構土居(御土居)ではないことに気づかれなかった模様。

こういうとき「後出しジャンケンは勝つに決まっている、あなたは先学への敬意をが足りない」という故某先生の名言を思い出す。

申し訳ありません。敬意が足りませんでした。

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中世の五条大路は現松原通

先日、五条大橋の牛若丸と弁慶像の横で、ここで両者が戦ったとなんのひねりも無く連れの若い方に解説する男性がありましたが、ただすれ違っただけの浅い関係なので、見過ごしました。 

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2019.05.06

知足院はいなかった

 並河靖之知足院がいるか、訪ねてみた。全く姿がなかった。夫妻に縁のある人なんやけどね。七宝と建築、庭園以外にはご関心がないらしい。

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研究者間の情報集めの怠りが招いた某件

 研究者の自己主張って大事やなと思った。自分の書いたものを関心持ってくれそうな方に送り、機会を見つけて懇親する。その過程で知らない史料や研究を知らされる。今回の某氏のミスはそれを怠ったからだろう。自戒を込めて。

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2019.05.05

四条・三条通間の洛中惣構土居(所謂御土居)をあるいた

 本日の土居堀巡検(主催、御土居堀研究会)は、鴨川沿いの四条通から三条通まで進んだ。現在の関心に従い、主に出入り口の開通、土居の削平過程を追った。四条口が慶長6年(1601)に開通したであろうことは周知である。ついで寛永14年(1637)洛中絵図により、四条通に接した北側の土居がわずかに削られ宅地が建設されたことが分かる。この段階で当該地の地権が公儀のままであるかは不明だが、その後、享保7年(1722)に中村屋吉兵衛が買得し、少なくともこのときには民有化した(御土居麁絵図)。

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 蛸薬師通はいつ開口したか不明であるが、寛永14年(1637)洛中絵図には描写されており、それ以前である。そののち少なくとも元禄15年(1702)以前に、四条通同様、道路に面した部分が南北ともに削られ町家が建設された。こうして土居は四周を建物に囲まれ、外部から見えなくなり密かに改変を受け始める。 六角通の土居口はおそらく開くことはなかったのではないかと思われる。少なくとも享保17年(1732)以前は開いていない。同年、鍼灸師御薗意斎が霊元法皇をながく看病した功により二条通・松原通間の土居のうちすでに売却された地をのぞいて一括買得を許される。その際作られた絵図によって分かる。

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 二条・松原通間の土居はすべて御薗家の所有となったため、破壊しようが維持しようが自由となった。それでも六角通の土居は開口されなかったはず。なぜなら寺町通六角東入ルは広大な誓願寺の境内であったため、土居を開口しても寺町通・河原町通間を東西に行き来することは不可能だったからである。

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 厳密な時期は不明だが、三条・蛸薬師通間の土居は六角通を開口することなく破壊されたはず。たとえば天明期の京都図には寺町・河原町通間の六角通は開通していないが、土居は描かれていない。これは天保図や文久・元治・慶応期の図も同様である。六角通開通は誓願寺境内が上知された、維新後である。

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 三条通あたりは次回あるくので、ここで擱筆します。
 ここで記した内容は、近刊の拙稿におおよそまとめております。

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三条実美ら七卿を貴種流離譚で解く切り口

 三条実美ら七卿(五卿)の存在は、貴種流離譚のひとつなのだとは伊東宗裕さんの御説である(『京都石碑探偵』、光村推古書院、2004年、102-113頁)。すなわち維新後の七卿西竄」史蹟顕彰も貴種流離譚で解けるのではないかと感銘を受けたのだが、それ以後発展させられていない。

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2019.05.04

明治の神道問題、洛東霊明舎(霊明神社)と島津家

 そうそう、神祇官をめぐる白川・吉田家、津和野神道、平田派国学、ついで洛東霊明舎(霊明神社) 村上家を先週の土曜日(4月27日)、毎日文化センター大阪教室でした。あの理解は正しかったのかな。

 霊明舎と長州毛利家の関係は『軍事史学』(187号)に以前軽く書いたが、島津家との関係がまだ論じられていない。文久2年末の殉難者慰霊に島津家の者も参加しているし、なにより岩下佐次右衛門(方平)が関与しているからね。

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2019.05.03

「北条早雲伝」と政治史

 伊勢宗瑞(北条早雲)が駿河に下向し、今川龍王丸(氏親)の蜂起を主導して駿河今川氏の家督を奪取せしめたのは、将軍足利義尚みずから近江坂本に出陣し守護六角高頼の討伐を開始したのとほぼおなじとき。長享元年(1487)下半期。両者が連動している可能性も。

 足利茶々丸の自刃により伊豆堀越公方家が滅亡したのは、蓮如が洛東山科本願寺の南殿で死去する7か月前。明応7年(1498)8月。

 伊勢宗瑞が茶々丸に侵攻したのは、明応2年(1493)。同年4月22日、将軍義材不在中に細川政元が挙兵。義材を排し、天龍寺の清晃(足利義澄)を新将軍に擁立した。茶々丸は義澄の母と弟を殺害している。宗瑞は義澄の命で伊豆下向したとすればこれも政治史のなかで理解できて興味深い。

 近年の伊勢宗瑞研究の進展は、「北条早雲伝」が当然のことながら戦国期室町幕府史のなかに存在したのだということを教えてくださり感じ入っている。

 なぜ茶々丸は元服名ではないのだろうと不思議に思っていたが、継母と異母弟殺害が延徳3年(1491)で、義澄は文明12年(1480)生まれだからその異母兄茶々丸が仮に1年上誕生とすればまだ数え13歳となり、元服前の可能性もある。マンガやドラマ(志垣太郎)の視覚イメージの影響は大きい。こわい。

 あ、非専門のひとりごとですので。

黒田基樹氏『今川氏親と伊勢宗瑞』(平凡社、2019年)などにまなびました。

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『吉田松陰全集』所収書翰に付記なく欠落がある件

 安政5年8月19日(1858年9月25日)付松浦松洞(亀太郎)・吉田栄太郎(稔麿)宛吉田松陰書翰。

『吉田松陰全集』引用分に「論スル積也」と「今日ㇵ」の間に約90字の欠落部分がある件。欠落は以下。

玄瑞身上之事、此地下も直二郎・瑞益其外往々議論アリ、当分在京被差免カ諸国修行被差免カノ二ツニ致度候、併未タ政府之論不承候、貴邸俗論沸騰之由、直八ゟ(より)承候、加之工藤上洛如塗塗(ママ)附何卒一策ニテ御除被成度候

 このようなものを突き付けられては戦前の刊本は安易に使えない。原典に当たらなければならないことは分かるが、正直勘弁してほしい。どのような意識で仕事をされているのだ。  これ、原典所有者(熊沢喜章氏)が山口県立山口博物館に寄贈され、それを同館研究報告(42号、2016年。山田稔・荒巻直大「新収『吉田松陰文書』について」)に載せてくれたから知れる(ネットにPDFで公開されている)。原典が死蔵され、寄贈先も公開しなかったら欠落部分のあるを知りようもない。 

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