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2016.10.13

【講演】山科本願寺・寺内町の創立と終焉

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大谷大学博物館  2016年度特別展「戦国乱世と山科本願寺」
記念講演会 /フィールドワーク         

         

標記の記念講演会とフィールドワークにつきまして、以下の通り開催いたします。
多数ご参加くださいますようご案内申しあげます。  

10月15日(土) 13:30~

 記念講演会 (聴講無料・一般来聴歓迎・事前申込不要)  

   講 題   山科本願寺・寺内町の創立と終焉
講 師草野 顕之 氏(大谷大学教授)
会 場大谷大学響流館3Fメディアホール

11月13日(日) 13:30~

フィールドワーク「山科本願寺跡を歩く」 (事前申込制・先着20名様)

内    容山科本願寺跡の遺構を、絵図にもとづきながら訪ねます。
案 内 人草野 顕之 氏(大谷大学教授)
場     所山科本願寺跡周辺
参 加 費500円(資料代+保険料)
応募方法往復はがきにお名前・ご住所・当日連絡の取れるお電話番号をご記入の上、
大谷大学博物館までご郵送ください。(はがき1枚につき1名)

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2016.10.11

信州、上州の真田旧蹟をあるいた

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 2016年10月11日(火)はれ
 今月8日(土)~10日(月・祝)の三連休は、僕主催の日本史ツアーで信州・上州の真田へ行っておりました。
 初めてのところばっかりだった。まずはベタな川中島古戦場跡八幡原史蹟公園の信玄・謙信像。建立年は1969年でNHK大河ドラマ「天と地と」の年。実に分かりやすい。
  
 有意義な出会いの筆頭は、松代城本丸に再現された土塁埋門(うずみもん)かな。こんな土塁出入り口が実在したんやと感激。

 以下がそれ。松代城本丸土塁の埋門の描写。現地解説板から。

それから名胡桃城二郭の排水口が土塁を切っていたっぽいこと。それを示した解説板。また土塁か。

実際の名胡桃城二郭北虎口(東から)。土塁は再現されたもの。土塁の左手(南側)が排水口推定地。ここは土塁を再現せず、緑地で跡を示すにとどめてある。西の崖下に悪水を落としたと推定されている。

 
 うれしかったのは、1923年もしくは1924年建立の徳富蘇峰揮毫の名胡桃城跡碑をガイドさんが特筆し、これが1949年だったかな、群馬県史跡指定につながり、旧蹟保存の端緒になったように位置付けられていたこと。
 

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2016.10.04

平安京・京都の研究会に参加

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 2016年10月3日(月)雨、夕方やむ
 「都名所図会をあるく」をつごうで休んだら、雨が降った。
 日中、原稿を打つ。
 夜、山田邦和博士方で研究会(正確にはシンポ準備会)。洪水の起る原因は周辺の木の伐採といってよいかといった花粉分析の研究など、ふだん接することの少ない成果にふれた。洛東山科の大寺院はどこから建設資材を運びこんだのだろうなど思ったりして、いろいろ刺激をいただきました。

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2016.10.03

寛永後万治前洛中絵図の描写に絶句

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 2016年10月2日(日)はれ
 内勤。
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 洛中惣構土居堀の解体過程を追っている。それに関して、「寛永14年洛中絵図」に記載のない重要情報が「寛永後万治前洛中絵図」に書き込まれていることにいまさらながら気づく。いったい何年(実に20年)研究している、なにをしてきたのだと自身にあきれる。
でも、いま気づけてよかった。こんなことだらけなんやろな、明日は何がまた見つかるのやら。

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2016.10.02

池田屋直前の近藤勇書翰を読んだ

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 2016年10月1日(土)、はれ
 名古屋市中区の栄中日文化センターに出講。新選組講座。まだ新しい方が来て下さる。ありがたし。
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 池田屋事件前夜、すなわち元治元年5月(1864年)までの長州の動きを中心に論じた。
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 同年3月24日付の小島鹿之助・橋本道助宛と、同年5月20日、同じく小島鹿之助・橋本道助、および同日付中島次郎兵衛宛の近藤勇書翰計3通が存在する。これを読んだ。
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近藤の追いつめられているのが分かる。帰郷を求める病に臥せったという養父ら。それを言葉を尽くして制する。それでも在京しつづけているのは国防のため(「尽忠報告」)。が、京都にいることはもちろん、そもそも自分たちの存在意義に悩む。国防のためにいろいろ献策するのに全く取り上げられないことへの不満。で、老中酒井雅楽頭忠績(ただしげ)に新選組解散を視野に入れて訴えたことを伝える文書たち。
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 この翌月、古高俊太郎が逮捕され、池田屋襲撃へ及ぶ。全くよいときに起きたものだ。
 さて次回は古高俊太郎とは何者か、だ。 

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2016.10.01

嘉永7年大地震、三吉慎蔵日記、忠光暗殺

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 2016年9月30日(金)はれ
 午前、くずし字研究会に出講。本日読んだ、年不明6月19日付父宛板倉筑前介(淡海槐堂)書翰は嘉永7年6月15日(1854年)の大地震にふれていたので、年次の特定ができた。これにより武田修理之介を名乗った期間を従前理解より2ヶ月狭めることができた。
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 午後、T理大学に出講。場所の偽由緒について論じる。
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 帰宅後、入手したばかりの三吉治敬監修、古城春樹・中曽根孝一編『三吉慎蔵日記』をさっそくざっと拝見し、いろいろ知らないことを学ぶ。
 初歩的なところでは三吉は坂本龍馬より年下ではない(4つ年上である)とか、明治以後は楢崎龍(龍馬の妻)より菅野覚兵衛の妻として妹楢崎君江との接触の方が多いとか(というてもわずかであるが)、池田屋事件の報を伝えた長府毛利家臣熊野清右衛門の記載とか。人物索引を付して下さっているので、とても便利である。
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 1888年(明治21)8月2日条に、中山忠光「病死」の次第について杉孫七郎(徳輔)から尋ねられたので、長府毛利家の「家記」の控えを渡したとある。忠光の死の真相追及の始まっていることがわかる。
 その4年後の1892年7月、忠光の妾であった恩地とみ(忠光女仲子の生母)が東上し、中山孝麿邸で、忠光が消息を絶った夜のできごとを語っている。とみも現場を見たわけではないが、翌日自身が駕籠で避難する際、舁夫から前夜「白木長持ヲ舁キ払暁通行セシ者アルヲ見タ」と聞き、「若クバ忠光朝臣ヲ殺害シ遺骸ヲ入レ持行タルナラム」と推定している。
 ただし中山招魂社(現中山神社)神官吉村清享による本格的な真相調査は、1906年(明治39)のこと。

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