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2016.10.01

嘉永7年大地震、三吉慎蔵日記、忠光暗殺

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 2016年9月30日(金)はれ
 午前、くずし字研究会に出講。本日読んだ、年不明6月19日付父宛板倉筑前介(淡海槐堂)書翰は嘉永7年6月15日(1854年)の大地震にふれていたので、年次の特定ができた。これにより武田修理之介を名乗った期間を従前理解より2ヶ月狭めることができた。
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 午後、T理大学に出講。場所の偽由緒について論じる。
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 帰宅後、入手したばかりの三吉治敬監修、古城春樹・中曽根孝一編『三吉慎蔵日記』をさっそくざっと拝見し、いろいろ知らないことを学ぶ。
 初歩的なところでは三吉は坂本龍馬より年下ではない(4つ年上である)とか、明治以後は楢崎龍(龍馬の妻)より菅野覚兵衛の妻として妹楢崎君江との接触の方が多いとか(というてもわずかであるが)、池田屋事件の報を伝えた長府毛利家臣熊野清右衛門の記載とか。人物索引を付して下さっているので、とても便利である。
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 1888年(明治21)8月2日条に、中山忠光「病死」の次第について杉孫七郎(徳輔)から尋ねられたので、長府毛利家の「家記」の控えを渡したとある。忠光の死の真相追及の始まっていることがわかる。
 その4年後の1892年7月、忠光の妾であった恩地とみ(忠光女仲子の生母)が東上し、中山孝麿邸で、忠光が消息を絶った夜のできごとを語っている。とみも現場を見たわけではないが、翌日自身が駕籠で避難する際、舁夫から前夜「白木長持ヲ舁キ払暁通行セシ者アルヲ見タ」と聞き、「若クバ忠光朝臣ヲ殺害シ遺骸ヲ入レ持行タルナラム」と推定している。
 ただし中山招魂社(現中山神社)神官吉村清享による本格的な真相調査は、1906年(明治39)のこと。

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