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2016.07.23

現天穂日命神社はもと田中社と呼ばれた

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 2016年7月22日(金)はれ
 くずし字研究会に出講。尊円法親王の書などの美術工芸品の売買の史料が頻出するのだが、これがある1つの目的に関する文書群なのではと気づく。少なくとも10月のものの多くは万延元年(1860)ではないか。今後その意識で文書を見直すべきと述べる。
 夕方、B教大学に出講。本年最終回。次週、試験。
 夜、江州葛川明王院の門前比良山荘でD文字のT会。少し葛川明王院や参籠札、文書、絵図の話をする。帰洛ののちBライトンホテルで二次会。
2016年7月21日(木)はれ
 名古屋市の栄中日文化センターに出講。「日本の城と合戦」講座は、伏見指月城と真田信繁父子の話。日本史講座は豊臣期政治史。
 
2016年7月20日(水)はれ
 K都女子大学に出講。後白河天皇陵を含む法住寺殿跡巡検。次回につづく。昼から洛中研究室ゼミ。突然研究室の転居が決まる。メンバーと下見に行く。
 夜、くずし字初級会に出講。
 前回の「攘夷」と「征夷」は異なるのではないかという疑問は誤読であったことを伝える。「ら」と思った字は実は「与」だった。で、「と」と読むと意味が180度変わるという恐ろしい事例であった。
 すなわち「ならでは」と読んだ部分が、実は「などでは」だった。つなげると征夷ならでは巣穴は壊せないではなく、征夷などでは壊せないになった。つまり「征夷でないとダメだ」が、「征夷ではダメだ」に変化するのである。すでに活字になっていたふたつの釈文を比較していて気づいたもの。いろいろ感じ入った。
 
2016年7月19日(火)はれ
 午前中、NHK文化センターに出講。新撰組講座。芹沢鴨殺害をテーマに天誅組の乱と壬生浪士(のち新選組)の関係を論じてみた。
 午後から日本史講座に出講。明仁天皇が譲位の意志を示された件から転じて、前近代天皇の譲位、太上天皇について述べる。本編は崇徳天皇の「叔父子」問題。
 夕方、O谷大学に出講。蓮台野の陵墓巡検。後花園天皇火葬塚、大応寺、水火天神、紫式部・小野篁墓、雲林院遺跡解説板、現雲林院、絹(衣)懸塚などをめぐる。
 
2016年7月18日(月)はれ
 午前中、都名所図会をあるくに出講。洛東石田・日野。都名所図会とは関係ないが、前回醍醐寺に行ったので、『義演准后日記』に同寺金堂木材や瓦を陸揚げしたと記される「石田新舟入」跡かと想像する場所に行ってみる。
 
 ついで現在の天穂日命神社に参拝。ただしこの神社の由緒は錯綜しているので、情報整理をする。万葉集や枕草子などに出てくる「石田(いわた)森」も現在地だということにされ、歌碑など連立しているが、それを同一と判断する材料はないのではないか。
 現天穂日命神社は徳川時代には「田中社」であった。鎌倉時代の山科条里図に「田中森」とある地と同一であるというのは問題ないと思う。事実はここまで。
 すなわち「石田(いわた)森」、式内社の「天穂日命神社」、田中社はそれぞれ別個のものと考えるところから始めないといけないのではないか。
 昼食は洛中へ出て、Hさんと裏寺町蛸薬師下ルの「喜の屋」で。

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