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2016.06.11

薩長同盟締結の邸宅云々の京都新聞今朝の記事への感想

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 今朝の京都新聞の御花畑御屋敷の位置の発見を報じる記事をみた。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160610000143

 去る6月3日の産経新聞に載った原口泉氏の論説を焼き直しただけの記事。

 そのため、先行研究を無視し、視点がずれてしまった。あわせて致命的なミスをしている。御花畑御屋敷は森之木町だけではなく、小山町、中町にまたがる東西に広大なもの。正門が小山町にあるため、住居表示も森之木町ではなく、小山町。

 原田良子さんという方を評価するのは良いのです。総合資料館の麁絵図の発見者やから。けどなここまでの研究の過程を無視して、そこだけ切り取って表示したらそれは非事実になります。

 幕末期の政治的主要人物の京都居所の位置を明らかにしその意義を解明するという中村の問題設定を受けて、桐野作人さんが二本松邸周辺の薩摩人の居所を知る史料を積極的に提示して下さいました。2007年ごろの事です。当時、『週刊京都民報』(京都民報社)に「京都の江戸時代をあるく」という連載をしていました(2008年、文理閣から刊行)。そこでこのテーマを取り上げました。

 大久保利通の石薬師邸はすでに建碑されていたので承知していましたので、西郷隆盛の料亭中熊の寓居、塔之段邸、黒田清隆の寓居である紙商丹波屋西村安兵衛方でした。

 そのうえで小松帯刀に手を出しました。くどいですがこの段階では中村の関心です。それに合わせて桐野さんが探して下さるという状態でした。

 なので桐野さんも小松の寓居が御花畑などと呼ばれているのはご承知だったと存じますが、その位置を特定するというところには及んでおられませんでした。

 そんななかで桐野さんは、調所広郷の「御改革御功績之概略」に、「大客屋近衛様御衷(裏カ)並堀川御屋敷御花畠(略)御修繕」とあることに気づかれました。

 すなわち一条通堀川東入ル北側の近衛堀川邸が、小松帯刀寓居ではと可能性を見出しました。これを受けて、この年(2008年)から京都市内での建碑活動を開始していた中村は、この向かいの個人宅に当該石碑を建てました。

 ただし蓋然性に問題があったため「参考地」と付しました。桐野さんは除幕式にもお越しくださいましたので、その後も小松の御花畑邸の位置を知れる信用できる史料を意識的に気にしておられたと思います。

 近衛堀川屋敷を仮に小松寓居と設定するという問題提起は、建碑のほか、2008年刊行の中村武生『京都の江戸時代をあるく』(文理閣)にも記しました。

 ところがそれからわずか数か月後に、桐野さんは島津家臣葛城彦一の日記に「近衛家室町頭之御花畠御屋敷」などとあることに気づかれたのです。

 「室町頭」を室町頭町の略だと判断され、室町通上立売上ルを遺跡地として2010年1月刊行の『歴史読本』(同年3月号)に論文を発表されました。

 事前にうかがっていた中村は、同書刊行の直後にブログ「歴史と地理な日々」にこれを記し、誤りを受け入れつつも参考地碑は当面廃棄しないこととしました(現在は撤去している)。

 当初は中村も室町頭町説を受け入れていましたが、それ以後のある時期(おそらく2010年内)にそれを否定し、室町通と鞍馬口通の交点が「室町頭」だと判断しました(※この小文を最初にまとめた段階では、2012年秋、非常勤で出講していた大学での受講生のノートにもとづきその時期には室町頭町説を支持していたと記していましたが、特定非営利活動法人監事郡邦辰氏の記憶にもとづきそれ以前と判断しましたので訂正しました)。

 桐野さんにも複数回お伝えしましたし、それ以後講演会やネットなどで広くこの見解を発しました。

 学術の場としては、2014年秋の明治維新史学会関西例会(於キャンパスプラザ京都)で「幕末期政治的主要人物の京都居所考―土佐・長州・薩摩を中心に」と題してこれを報告しました。報告後、桐野さんもフロアーからこれを肯定する(自説を撤回する)コメントを下さいました。

 この報告は、2015年3月刊行の御厨貴・井上章一編『建築と権力のダイナミズム』(岩波書店)に収載されました。近衛御花畑邸の位置「室町頭」は、室町通と鞍馬口通の交差点付近という自説は世に出たのです。

 この自説が誤りないことを決定づける資料の初出現が、去る5月24日(火)から始まった鹿児島県歴史資料センター黎明館での企画展(担当町田剛士氏)で、玉里島津家資料の「御花畑絵図」だったのです。その意義を熟知していた中村は、その4日後に鹿児島に入り、翌29日(日)午前、絵図に対面し「室町通森之木町」「鞍馬口通小山町」の記載を目にして、桐野さんとの論争が終わったと認識したのです。

 原田良子さんが、どの段階でどのようにして「室町頭」を桐野さんの室町頭町(室町通上立売上ル)ではなく、室町通と鞍馬口通の交点付近だと認識されるにいたったかは存じません。

 どうあっても、その結果、府立総合資料館の麁絵図を見出された。その意義を認めることはやぶさかではありません。

 しかしその間、桐野さんと中村は論拠を提示して公共の場で論じあってきたのです。これが学問です。その議論と無関係に存在された方を、いくら良質の資料を発見されたからといって、この二者を無視して単独で新聞記事に紹介するのは学問の否定です。先行研究への侮辱といえます。

 

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