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2016.06.30

伏見城武家地、御花畑、甲子戦争

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2016年6月29日(水)くもりのちあめ

 朝イチ、京都女子大学に出講。慣例となった空中写真の実体視をして(本日は近江国府跡あたり)、そののち伏見城武家地のおさらい。

 お昼から洛中研究室ゼミ。本日も御花畑御屋敷・その後など。

 夕方からはくずし字初級会。

 甲子戦争(所謂禁門の変)前夜の元治元年6月24日(1864年7月27日)ごろ。京都竹田口の城州紀伊郡東九条村(現京都市南区東九条)に諸侯布陣。会津のほか、南端に近江水口侯加藤明軌勢300余、北端に伊勢桑名侯(京都所司代)松平定敬勢200余がというところまでがほぼ前回。

 今回は山崎から藤村幾之進が長州使者として城州淀へ派遣されたところから。老中である城主稲葉正邦への朝廷への奏書と徳川公儀・諸侯への建書を持参したもので、その建書を読み始めた。けっこうながい。

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2016.06.29

是より洛中標石と御花畑御屋敷跡をあるいた

2016年6月28日(火)はれ

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 お昼過ぎ、日本史講座に出講。

 最近の日本史ニュースとして、堺市立泉北すえむら資料館の閉館、京都府立総合資料館の休館、京都アスニーでの梶川敏夫さんのイラスト公開(「よみがえる古代京都の風景-遺跡復元鳥瞰図の世界」)、刑部芳則氏『三条実美-孤独の宰相とその一族』(吉川弘文館)の刊行などを話題にする(いずれも朝日新聞、京都新聞)。

 本題は白河院政。「源平盛衰記」の天下不如意の部分を読む。

 夕方は大谷大学に出講。巡検。鞍馬口通寺町から室町までの「是より洛中」標石建立地(近世洛中洛外の境界線)跡を歩いた。その地は近衛別邸御花畑御屋敷跡にあたるため、それもあわせて紹介。室町小学校に残る4本の是より洛中標石を参観して終了。

 夜は休肝。アルコール摂取せず。

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2016.06.28

F島Y宏さんとサシで飲んだ

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(つづき)2016年6月27日(月)

 夜、雨。

 夕方、京都府立図書館のF島Y宏さん(近代史)とサシで飲む。知り合って15年ぐらいになると思うが、サシでは初めて。いろいろ学ばせていただく。知らないことだらけ。

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2016.06.27

醍醐・朱雀両天皇陵を参拝して

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2016年6月27日(月)はれ

 午前中、「都名所図会をあるく」に出講。醍醐天皇陵と朱雀天皇陵を参拝し、醍醐寺仁王門で解散。途中、事故ありて醍醐寺北門外の一音寺に参拝。突然の訪問にもかかわらず歓迎して下さる。感激した。

 『国史大辞典』は朱雀天皇陵を所伝が絶えなかったと記すが、山田邦和博士は現治定陵は非事実だと述べられる。研究者がこんなに見解を異にしている現状を解説する。

2016年6月26日(日)くもり

 外勤のない日。たまった新聞のスクラップを取る。

 レコードプレイヤーが家に来た。CD化されていないレコードを録るため。うまいこと録れる。夜は真田丸を視聴。天正19年、予想通り、洛中惣構土居堀の構築はスルーされる。

 

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2016.06.26

仁明天皇朝から近藤勇の焦燥を論ずる

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2016年6月25日(土)くもり

 午後から毎日文化センター大阪に出講。高校日本史と幕末史の講座。前者は仁明天皇朝におきた承和の変。

 藤原順子と安祥寺、淳和上皇と後西院天皇の関係、文徳天皇と清和天皇が正統性を疑われたやろうなと両朝のいくつかの不思議な施策を紹介。まあ、国史編纂(仁明天皇紀だけの「続日本後紀」、文徳天皇紀だけの「日本文徳天皇実録」)、郊天祭祀、田邑陵への神代三陵構築などなんやけど。

 仁明天皇朝はいろいろおもしろい。清和の子陽成が失脚したあと、後継した光孝が仁明の子というのも示唆的。仁明朝の研究会発足指示して亡くなった角田文衛博士の慧眼にいまさらながら。

 後者は、鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵「御花畑絵図」その後、「維新階梯雑誌」31冊発見と島田魁肖像の複数写真を報じた京都新聞記事の紹介、最後に八月十八日政変直前の近藤勇の立場(焦燥)について、同時期の近藤の上書を使用して論じた。

 ほんまは八月十八日政変どころか、芹沢鴨殺害をせないかんのやけど(天誅組もしてへん)、遅れまくり。しょうがない、報道にも配慮すべきやし、あとから見つかるいろいろ史料もあるんや。10月からも継続が決定しております。

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2016.06.25

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板倉筑前介書翰を読み薩長盟約を論ずる

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2016年6月24日(金)雨

 午前中、くずし字研究会に出講。板倉筑前介(淡海槐堂)の書翰を読む。実家の下坂家の菩提寺の留守居玉苗尼死去の記載。年次特定に役立つ。が、分かるものだろうか。

 夕方から京都文教大学に出講。伏見論の一環で、寺田屋を取り上げる。その前提で薩長盟約研究のいまを論ず。やっとここで「御花畑御屋敷」を話題とする。

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2016.06.24

伏見指月城と向島城跡を歩いた

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2016年6月23日(木)くもりのちはれ

 午後から京都新聞文化センターの巡検。伏見指月城跡(指月の岡)と向島城跡をあるく。昨年石垣と堀の見つかった現場ではマンション建設継続中。マンション名に「伏見指月城」が付せられていて感心。遺構検出を示す大きな解説板と出土石が展示してあった。しかしその遺跡を破壊してのマンション建設とは当然書かれない。

 途中、観月橋でおそうじ中の北村正義さんにばったり。指月城跡踏査のあと北村さんの吉田地図販売所に寄り、第二類型伏見城下町絵図の調整図を受講者多く購入。

 向島城跡にはいまだに建碑がなされていないことをなげく。同地域選出のS市会議員に期待したい。

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2016.06.18

「維新階梯雑誌」31冊発見の報に接して

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 さきほど、池田屋事件に関する新情報を載せた、会津の記録が見つかったという報道に接した。

http://www.sankei.com/west/news/160618/wst1606180029-n1.html

 池田屋事件はともかく、「維新階梯雑誌」が31冊も残っていたのは意義深い(所蔵者は宮内庁宮内公文書館)。

 同史料は明治以後に会津松平家が編纂した記録で、大日本維新史料稿本(東京大学史料編纂所蔵)にも多く収録されているが、部分の引用でしかなかった。

 東京大学史料編纂所にもまとまったものは1冊しか所蔵していなかった(池田屋事件の部分は含まれていない)。

 会津の京都守護職時代の研究に役立つだろう。

 ただしすべての情報が信用に足るとは限らない。使用にあたっては内容の吟味が必要である。

 池田屋事件の部分をざっと見ての雑感を述べておく。

 興味深い内容もあった。たとえば記事が大きく報じた「御上意」発言や、それを部屋の入り口ではなく、浪士の間を割って通って奥に入ってから発言したこと、のちに近藤が「御上意」発言を聞いた浪士などが臆したため、「未た徳川ノ御威光不尽(つきず)」と発言したという伝聞(「由」が付してある)などである。

 しかし事件直後の文書の引用ではない以上、これまでの通説を否定するほどの力はない。価値のある「参考」ていどの情報に過ぎないと思う。事実かも知れないが、そうではないかも知れないという感じといえばご理解いただけようか。

 なお新聞が公開した写真によると、筆写された用紙には「臨時帝室編修局」とある。臨時帝室編修局は『明治天皇紀』を編纂したところで、明治天皇崩御のあと大正3年11月30日に組織された(この呼称は1916年〈大正5〉11月4日以後使用)。

 当該「維新階梯雑誌」31冊は、『明治天皇紀』編纂のため、1916年〈大正5〉11月4日以後、筆写・収集されたものと判断される。

 残念ながら『明治天皇紀』(第一)は、池田屋事件を立項しなかったので、どのていど参考にしたかは不明である。

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2016.06.14

先行研究への敬意

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 先行研究に敬意を表し批判する。批判なければ発展はない。

 最もいけないのは無視すること。それは無礼である。

 それでも無視することはある。ほんとうに取るに足らないから。反発をくらってもその覚悟をもって無視している。

 知らなかったは、恥。リサーチ力の低劣さを自ら認めているに等しい。

 忘れがたい経験がある。

 拙著『御土居堀ものがたり』で角倉与一の管理についてふれた。

 まとめたあと、たまたま林屋辰三郎『角倉素庵』を見なおしたら結論が全く同じだった。

 パクったと問われても言い訳できないと思い、結論部分に同書を参考文献として記した。いまでも当然の処置だったと思っている。

 もひとつ。

 拙著『池田屋事件の研究』を刊行したあと、奈良勝司さんの論文のなかに池田屋事件における一橋慶喜の立場を述べた部分があることに気づいた。

 魅力的な論点だったのに触れられなかったことを悔しく思う以上に奈良さんに対して失礼だと感じた。

 ゆえに奈良さんに拙著をお送りして、深くわびた。

 まもなく奈良さんから返事をいただいた。もちろん不快感をしめされたものではなかった。ほっとするとともに、改めて奈良さんの成果を批判する論文を書くべきだと思った。

 2012年秋の明治維新史学会大会報告ではそれを行ったが、いまだ活字にできていない。なさけない。

 先行研究への敬意についてふれた。

 これを無視する者を研究者とは認めないし、もちろんマスメディアも歴史事実を扱うおりはこのマナーを守っていただきたい。

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関東に下っていました

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 去る6月11日(土)から関東へ下っていました。

 東京都江東区の武蔵野大学有明キャンパスで明治維新史学会大会が行われていたため。12日(日)までの2日間。学ばせていただきました。いろいろありがとうございました。

 6月13日(月)も在関東で、雨天のなか、横浜へ行っていました。西村芳次郎(「今松花堂」)の提携先である茂木惣兵衛の商店跡などに立ってみた。現地に立ってイメージがわく。そのうえでまた論文に立ち向かう。頭の中の風景がすでに変わっている。すごい。

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2016.06.11

薩長同盟締結の邸宅云々の京都新聞今朝の記事への感想

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 今朝の京都新聞の御花畑御屋敷の位置の発見を報じる記事をみた。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160610000143

 去る6月3日の産経新聞に載った原口泉氏の論説を焼き直しただけの記事。

 そのため、先行研究を無視し、視点がずれてしまった。あわせて致命的なミスをしている。御花畑御屋敷は森之木町だけではなく、小山町、中町にまたがる東西に広大なもの。正門が小山町にあるため、住居表示も森之木町ではなく、小山町。

 原田良子さんという方を評価するのは良いのです。総合資料館の麁絵図の発見者やから。けどなここまでの研究の過程を無視して、そこだけ切り取って表示したらそれは非事実になります。

 幕末期の政治的主要人物の京都居所の位置を明らかにしその意義を解明するという中村の問題設定を受けて、桐野作人さんが二本松邸周辺の薩摩人の居所を知る史料を積極的に提示して下さいました。2007年ごろの事です。当時、『週刊京都民報』(京都民報社)に「京都の江戸時代をあるく」という連載をしていました(2008年、文理閣から刊行)。そこでこのテーマを取り上げました。

 大久保利通の石薬師邸はすでに建碑されていたので承知していましたので、西郷隆盛の料亭中熊の寓居、塔之段邸、黒田清隆の寓居である紙商丹波屋西村安兵衛方でした。

 そのうえで小松帯刀に手を出しました。くどいですがこの段階では中村の関心です。それに合わせて桐野さんが探して下さるという状態でした。

 なので桐野さんも小松の寓居が御花畑などと呼ばれているのはご承知だったと存じますが、その位置を特定するというところには及んでおられませんでした。

 そんななかで桐野さんは、調所広郷の「御改革御功績之概略」に、「大客屋近衛様御衷(裏カ)並堀川御屋敷御花畠(略)御修繕」とあることに気づかれました。

 すなわち一条通堀川東入ル北側の近衛堀川邸が、小松帯刀寓居ではと可能性を見出しました。これを受けて、この年(2008年)から京都市内での建碑活動を開始していた中村は、この向かいの個人宅に当該石碑を建てました。

 ただし蓋然性に問題があったため「参考地」と付しました。桐野さんは除幕式にもお越しくださいましたので、その後も小松の御花畑邸の位置を知れる信用できる史料を意識的に気にしておられたと思います。

 近衛堀川屋敷を仮に小松寓居と設定するという問題提起は、建碑のほか、2008年刊行の中村武生『京都の江戸時代をあるく』(文理閣)にも記しました。

 ところがそれからわずか数か月後に、桐野さんは島津家臣葛城彦一の日記に「近衛家室町頭之御花畠御屋敷」などとあることに気づかれたのです。

 「室町頭」を室町頭町の略だと判断され、室町通上立売上ルを遺跡地として2010年1月刊行の『歴史読本』(同年3月号)に論文を発表されました。

 事前にうかがっていた中村は、同書刊行の直後にブログ「歴史と地理な日々」にこれを記し、誤りを受け入れつつも参考地碑は当面廃棄しないこととしました(現在は撤去している)。

 当初は中村も室町頭町説を受け入れていましたが、それ以後のある時期(おそらく2010年内)にそれを否定し、室町通と鞍馬口通の交点が「室町頭」だと判断しました(※この小文を最初にまとめた段階では、2012年秋、非常勤で出講していた大学での受講生のノートにもとづきその時期には室町頭町説を支持していたと記していましたが、特定非営利活動法人監事郡邦辰氏の記憶にもとづきそれ以前と判断しましたので訂正しました)。

 桐野さんにも複数回お伝えしましたし、それ以後講演会やネットなどで広くこの見解を発しました。

 学術の場としては、2014年秋の明治維新史学会関西例会(於キャンパスプラザ京都)で「幕末期政治的主要人物の京都居所考―土佐・長州・薩摩を中心に」と題してこれを報告しました。報告後、桐野さんもフロアーからこれを肯定する(自説を撤回する)コメントを下さいました。

 この報告は、2015年3月刊行の御厨貴・井上章一編『建築と権力のダイナミズム』(岩波書店)に収載されました。近衛御花畑邸の位置「室町頭」は、室町通と鞍馬口通の交差点付近という自説は世に出たのです。

 この自説が誤りないことを決定づける資料の初出現が、去る5月24日(火)から始まった鹿児島県歴史資料センター黎明館での企画展(担当町田剛士氏)で、玉里島津家資料の「御花畑絵図」だったのです。その意義を熟知していた中村は、その4日後に鹿児島に入り、翌29日(日)午前、絵図に対面し「室町通森之木町」「鞍馬口通小山町」の記載を目にして、桐野さんとの論争が終わったと認識したのです。

 原田良子さんが、どの段階でどのようにして「室町頭」を桐野さんの室町頭町(室町通上立売上ル)ではなく、室町通と鞍馬口通の交点付近だと認識されるにいたったかは存じません。

 どうあっても、その結果、府立総合資料館の麁絵図を見出された。その意義を認めることはやぶさかではありません。

 しかしその間、桐野さんと中村は論拠を提示して公共の場で論じあってきたのです。これが学問です。その議論と無関係に存在された方を、いくら良質の資料を発見されたからといって、この二者を無視して単独で新聞記事に紹介するのは学問の否定です。先行研究への侮辱といえます。

 

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2016.06.04

御花畑御屋敷発見の衝撃1

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 去る5月24日(火)夜、同日始まった鹿児島県歴史資料センター黎明館の企画展で「御花畑絵図」が公開されているという情報を桐野作人さんから得た。

 これ以来、ずっと頭のなかはこればかり。当面の論文(「三宅安兵衛遺志碑と西村芳次郎」)をないがしろにしている。

「御花畑」は幕末期の薩摩島津家家老小松帯刀の京都屋敷の通称で、近衛家別邸である。この位置がどこなのか、2008年よりの懸案であった。

当初は近衛の堀川屋敷と判断し、一条堀川東入ル南側にそれを示す標石を建てた。

 が、その数か月後、桐野さんによって島津家臣葛城彦一の日記に「近衛家室町頭之御花畠御屋敷」などの記述のあることが確認され、堀川屋敷の可能性は皆無となった(石碑はその後撤去した)。

 桐野さんはこの「室町頭」を室町通上立売上ルに現存する「室町頭町」の略称と判断されたが(『さつま人国誌』幕末・明治編2、南日本新聞社、2013年)、

筆者はその500m北の室町通鞍馬口交差点付近こそが幕末期の「室町頭」と異論を述べた(拙稿「幕末期政治的主要人物の居所考」御厨貴・井上章一編『建築と権力のダイナミズム』所収、岩波書店、2015年)。

 葛城彦一の記す「室町頭」は、室町通上立売上ルか室町通鞍馬口交差点付近が論点となっていたのである。

 当該絵図がこれを解明するものと期待された。が、そもそも当該図が小松帯刀の京都屋敷と判断される根拠は何か気になった。

 担当学芸員町田剛士さんやその情報を得られた桐野さんにより、根拠は袋に「御花畑絵図」と記してあるということと知る。それだけなら必ずしも直結しない。

 いくつかの調整をへて、その週末28日(土)午後7時30分(正しくは遅れて40分)、急きょ鹿児島に飛び、翌29日午前10時半ごろ、絵図と対面した。

「室町通森之木町」、「鞍馬口通小山町」の記載があった。これにより本図が誤りなく探していた近衛家別邸「御花畑御屋敷」を描写したもので、その位置は拙論のとおり、室町通鞍馬口と明らかになった。

約4時間かけて絵図を粗描、担当学芸員町田剛士さんと面談したのち退館、午後7時10分(正確には遅れて40分)発のJALで鹿児島を発った。

(つづく)

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