幕末豪農出身の息子が六位の地下官人になったらうれしくないものか
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2016年3月4日(金)はれ
くずし字研究会に出講。幕末の湖北の豪農は、商家に養子に行った息子が六位(将来は五位(「大夫」)も見込まれていたらしい)の地下官人になることを嫌ったというのが意外だった。
安政3年5月(1856)に醍醐家に仕えたという『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)の項に記載された典拠は何だろうと思い、見込まれる典拠を京都女子大学の図書館に行き、閲覧。ここで「洛東大仏日吉山ニ演武場ヲ設ケ」なんて字句を見ると感慨深い。
期待の記載はなかった。ではいったい何だろう。でも未見の文書が複数入っていて、閲覧のかいはあった。
あとから嘉永7年(安政元、1854)と推定される4月7日付の実弟の実家宛書翰に、当人がもう醍醐家に仕えているような記載のあったことを思い出した。はて。
そのあと確定申告する。胸のつかえがとれた。
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