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2016.02.28

妙満寺跡、桓武朝、新選組の「攘夷」

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Ccmhakhumaadoz7


2016年2月27日(土)はれ

 午前中、京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査現地説明会に参加する。寺町二条の妙満寺跡の本堂の遺構が検出されたため。豊臣期京都研究者として、寺町の発掘成果はなるべく見ておきたいという思い。写真は本堂跡を南側から撮影したもの。

 それから妙満寺は塔頭が多く、幕末期毛利家が使用している。文久2年7月(1862年)に家老浦靱負が使用したほか(御厨貴・井上章一編『建築と権力のダイナミズム』〈岩波書店、2015年〉所収の拙稿を参照)、同年12月に上洛した世子毛利定広も宿舎にしている(~翌文久3年2月)。同寺は僕が生まれてまもなく、洛北幡枝に転じたので寺町時代の姿を知らない。

 ほかには三宅安兵衛遺志碑が2基建てられていた。中川の井碑と雪の庭碑である。いずれも幡枝の現境内庭園に移築されている(『花園史学』22号〈2001年〉所収の拙稿を参照)。

 山田邦和博士とばったりお目にかかる。先日お目にかかったのは先月最終土曜日の京都国立博物館での同じく京都市埋蔵文化財研究所による大仏殿(所謂方広寺)跡の発掘調査現地説明会参加のときだった。え、もう1カ月も経ったのか。

 来月初旬に刊行予定の八幡の歴史を探求する会の機関誌に掲載予定の三宅碑の講演録2に山田博士のことをふれている。そのことを謝したら、記憶にないが確かに言いそうだとおっしゃる。ええ、うそではありません。

 午後から梅田の毎日文化センターに出講。日本史講座と新選組講座。前者は桓武朝。桓武陵の位置に関する所説紹介でまたぞろ山田博士のお話をしようと思ったが、蝦夷征討と河内交野郡の関係あたりで時間切れ。

 新選組は文久3年3月から5月まで。近藤勇のふたつの書翰を読む。「攘夷」という言葉を安易に使わないようにすべきことを述べる。武力行使か、条約破棄の交渉、いずれも同時代史料は「攘夷」と記す。「攘夷」には複数の意味があるのだ。ところが現代人はこれをほとんど武力行使としか解釈していない。史料ごとに筆者が何を伝えようとしているのか丁寧に読み取る必要があると述べたわけ。

 ちなみに「討幕(倒幕)」という用語も同じで、慎重であるべきワード。近藤は同年5月ごろの佐藤彦五郎・小島鹿之助ら関東の支持者に宛てて、「西方諸侯」(おそらくあとに出てくる「薩長土」などを指す)が、表では「幕府」を尊んでいるが、裏では「倒消せん」としていると述べている。これをついつい倒幕を危惧していたと理解し、実際に出来上がった明治維新政府と一緒くたにしてしまうことをおそれるのである。

 その他、なぜ将軍家茂が関東に戻ったのに、近藤らは戻らなかったのか、それと会津容保らの意識などについて考えてみた。

 奥さんがめずらしく夜外出するので、娘を奥さんの実家に引き取りに行き、お風呂に入れて夜を過ごす。本日の絵本も幼稚園から以前にもらってきた、古典ではない新しい作品。 

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