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2015.12.28

天誅組再考をふたたび

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 昨夜も悩んだ天誅組再考を。

 

 1960年代以前の明治維新史研究の問題意識として、変革主体者が誰であるかがあった。そして革命段階論的に下からの革命(ブルジョア革命)であることが望まれたため、農民が多く参加している天誅組と生野の両乱は研究対象となりえた。

 

 ただし指導した下級武士層が農民を利用しただけだったので、それに気づいて逆襲され挙兵は失敗に終わった。愚かな奴らだという低い評価でしかなかった。とはいえこの文久3年の段階で「討幕の勢力配置の見取図がほぼできあがった」(堀江英一『明治維新の社会構造』)と位置づけられたので、討幕の先駆という評価は得た。

 

 以上の学史をふまえて、何を克服しなければならないかを意識し、ようやく天誅組・生野の両乱は研究対象となりえる。個別の事実を明らかにするだけでは学問的とはいえない。

 

卒業論文に立ち向かっているころ、なぜ天誅組・生野両乱を論じる研究者たちはその指導者たちを悪しざまに書くのかが理解できなかった。以上の学史をふまえてみて初めて理解ができる。そして当時思った、何かがおかしいという感覚も克服できて初めて正しかったといいえる。というのは2000年近くになってようやく分かってきたこと。青山忠正氏『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)を参照。

 

そもそも農民を動員し失敗したことを善悪で論じる必要はない。戦略上の問題として認識すればよいこと。そもそも幕末の挙兵に農民が参加しないといけない必然性もない。ある時期の西洋を模範にしたあるべき革命像が前提にあったから。それを排除し日本独自の幕末政治史を理解しようとすべきであった。

なお僕の卒論の対象は池田屋事件だった。天誅組や生野の乱ではなかった。が、高木俊輔氏『明治維新草莽運動史』に導かれ、同様の論点で池田屋事件をまとめようとしていたため、両事件に関する論文をわりと読んだ。結局は消化できずで、あらためて池田屋事件は別の切り口を考えないといけなかった。

 

1990年12月に提出した卒論をA先生にお見せしたところ、野呂栄太郎以来の日本資本主義論争から学びなおせとご指導いただいた。当時はその意味するところがいまひとつ理解できていなかったが、その後「明治維新の史学史」を発表され、当時先生自身がその件に立ち向かっておられたのだと知った。

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