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2015.11.15

「討幕」を死語にすべきこと

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 去る11月12日(木)、京都新聞文化センターの幕末長州講座に出講。タイトルは「楫取素彦と薩長同盟」なのだが、楫取素彦の動きとは別に、薩長同盟とは何であったかを論じた。

 そのうえで薩長同盟は戦争回避の盟約か、「討幕」のための軍事同盟かという業界の議論を紹介したうえで、そもそもは「討幕」とは何かを、柏村数馬日記の慶応3年8月14日条などを使って考えた。

 同条で西郷隆盛は京都・大坂・甲府で同時挙兵(「期を定三都一時ニ事を挙候積ニ御座候」)を主張しながら、当方は「討幕」はしないと述べたという(「於弊藩討幕ハ不仕」)。つまり京都・大坂・甲府での同時挙兵は、「討幕」にはあたらないということになる。

 ということは、宮地正人さんがみいだされた、慶応元年12月26日付、市岡長右衛門殷政ら(在美濃中津川宿本陣)宛、伊勢屋池村久兵衛(在京都)書翰にある、黒田清隆が述べたという、薩長同盟によって薩摩島津家が「それを機会として、防長二ヶ国より起り、其頃迄麦(バクと読み幕の意で幕府)滞在なれハ、是も乗取手筈」とか、「万一右策はつれ(外れ)候節は、日枝(比叡山)へ御座(天皇)を奉写(移)、其所ニて屯と申事」なども、「討幕」にはあたらない可能性がでてくる。

 さきの柏村日記の同条は、そのあと、「ことを挙げたのち、状況次第により、将軍を討て(「討将軍」)という新帝(天子睦仁)の命令(「綸旨」)は差し出されるべきか、これは仲間の公家よりおおよその内意を探っている」とあり、これが「討幕」を指すのか、そうでもないのかが議論となろう。

 もしこの「討将軍」が「討幕」にあたるのなら、実際に徳川慶喜(しかも当時はすでに前将軍)を「討」たなかった明治政府は、「討幕」は実現せずに明治維新をなしたことになりますね、と言った。

 ここで想起されるのが、天誅組で、これもながく「討幕」を目指したといわれてきた。

 が、主将中山忠光は、挙兵直後に「東夷打」という希望を述べているものの、その実態は将軍家茂・慶喜・春嶽らを殺すという、私的な(綸旨や勅命を得ない)要人殺害ていどのことなのである。上記を受け入れるなら、これを実現したからといって「討幕」にはならないことが気づかれてくる。

 すなわちかりに将軍家茂・慶喜・春嶽らを殺せたとして、そのあとに別の人物が将軍や幕僚部を後継したらどうなるか。トップの顔ぶれが変わったていどでも、「討幕」を目指したと認識してよいものか。

 学術用語として「討幕」は一旦死語にし、新たな表現(それが桐野作人さん、町田明広博士が主張される「廃幕」でよいかも含めて)と定義の構築をすべきときだとまとめた。

※「討幕」と「倒幕」の差異については、あえて論じませんでした。

※町田明広博士が玉著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復 (近代史研究叢書17) 』(岩田書院、2010年、12~13P)において、「討幕(倒幕)」「廃幕」について丁寧に論じておられる。今後はこれをたたき台にさせて頂いて、もっと深めていくべき。

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2015.11.07

祝辞

 お誕生日おめでとうございます。

 17歳ですね。

 健やかであることを祈念しております。

 

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2015.11.02

「城下町科研」大和研究集会に参加

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2015年10月31日(土)~11月1日(日)

 葛城市歴史博物館で行われた「城下町科研」大和研究集会(16・17世紀大和国における都市と権力-城下町・陣屋町の成立と変容。研究代表:仁木宏さん)に参加させていただいた。知らないことばかりで、学ばせていただきました。

 やっかいだったのは、都市史研究と幕末史研究の頭がいったり来たりでした。つまり中近世移行期の城と都市の成立のお話をうかがっているのに、高取城下町や五條町の報告では、ついつい天誅組の前提を探ろうとしたりで。

 本日は雨ですが、巡検です。参加させていただきます。金曜日に天理大に出講しているので、4日連続で大和に入る。

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