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2015.10.05

新選組の解散示唆の頃の政治史を論ずる

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 幕末政治史の中の新選組に出講。元治元年5月20日、近藤勇が老中酒井雅楽頭に対して新選組の解散を示唆した、小島鹿之助・橋本道助宛書翰を中心にお話をした。

 この直前、将軍家茂が大坂を発ち、江戸へ戻った。上方での将軍の攘夷戦争の先鋒として在京していた近藤らにとっては、自身の存在意味がないと追いつめられていた。

 長州などが京都で暗躍する不穏な状態のときに、将軍が上方を去るなんてという不信感も生まれていた。これは京都で市中見廻の任にあった故に肌で感じていたのであろう。どのていど近藤が事実をつかんでいたかは不明ながら、この時期、長州の幕末史の画期があった。

 前月の4月19日までに、久坂玄瑞が、世子毛利定広の進発賛成に転向していたのである。それを山口政府を説得するための使者、来島又兵衛・寺島忠三郎を送るにあたって、大坂でかなりの議論があった。ようやく意見がまとまり、両人が大坂を離れたのが5月4日からまもなくのことと思われる。5月15日までに両人は山口に入っている。

 これを追うように、一旦京都に戻った久坂も、5月15日再び離京し、大坂をへて山口へ向かう。本年8月に丸亀で発表された、年月不明21日付土肥七助宛久坂書翰はこのときに書かれたものと判断される。

 5月27日、久坂は品川弥二郎を連れて山口に入る。世子定広の進発が決定するのは、それからまもなくの6月4日である。

 この翌日、6月5日早朝、在京の新選組は有栖川宮家ゆかりの古高俊太郎を逮捕する。すでに宮部鼎蔵の家来も捕えていた。それまでに20カ所程度の浪士潜伏地を確認していたのである。この時期にこの大きな浪士追捕(池田屋事件)が行われたのも、将軍不在の危機感が近藤らに大きく作用したことなのであろう。

 というようなことを述べた。

 次回は古高俊太郎逮捕から池田屋襲撃と行くべきなのだが、特別編「龍馬暗殺-疑われた新選組」をします。なんせ11月15日なもんで。

 古高云々は12月に。

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