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2015.10.31

「京都と岡山藩」展に行く

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2015年10月29日(木)

 外勤がない日だったので、岡山シティミュージアム「京都と岡山藩」展観覧のために岡山市に行く。京都の大名屋敷全般に関心があるから。

 岡山池田家の京都(猪熊通中立売上ル)と伏見の屋敷図もだが、最も関心をひいたのは、一条家に嫁いだ池田光政女の輝子(一条政所)の紫竹屋敷図であった。立派な図録をいただいた(無料。参観も無料)が、写真は載っているものの文字は小さすぎて読めないので、ひたすら筆写した(それでも困難な部分があり、やはり単眼鏡が必要)。可能なら所蔵者にお願いして複写をいただきたいところ。

 そのあと県立図書館に行き、『贈正五位岡元太郎小伝』を複写。ついで幕末の池田家家老、土肥典膳(隆平、岡元太郎の主君)邸跡参考地(旧岡山城二ノ丸内)や、少し足をのばして藤本鉄石誕生地碑も訪ねた。

 半日だけの日帰り岡山行であったが、実に有意義であった。十分な小旅行。気が晴れる。

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2015.10.25

あらたな新選組論をめざして

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 2015年10月24日(土)

 午前中、対馬宗氏の京屋敷の意義について、やっとまとめた。監事Kさんに送る。

 午後、毎日文化センター大阪教室に出講。日本史講座は、長屋王から藤原四子にいたる奈良時代の政争。

 新選組講座は、第1回目。三野行徳さんを先駆とする文久の浪士取立論を行うつもりが、新選組全体の位置付けを論じる。いわば各論ではなく総論になり、第1回としては意外と良い感じとなった。

 たとえば芹沢鴨殺害は、永倉新八手記が述べるような、単なる素行不良が原因ではなく、八月十八日政変や天誅組の乱を背景にした政治的事情があったのかもしれないという持論を展開。

 あさくらゆうさんが発見し新聞コメントされた件に注目している。

 なぜ芹沢鴨が有栖川宮家に近づいたことが(中身がなくても)大事なのかを、古高俊太郎や池田屋事件を事例にあげて述べた。本当は元治甲子戦争(所謂禁門の変)での有栖川宮家の動きを事例として使うべきだったのだが、忘れていた。

 山南敬介(敬助)や河合耆三郎らの死が、内部対立や事務処理違反ではなく、政治的事情であったらどうします的な煽動もした。ようは「新選組史」とでもいうべき、時代史から切り離された扱いからの脱却(2003年の松浦玲さん以来の)を目指すことの宣言の様なことを改めて述べたということ。

 あらためて本日も平尾道雄の浪士論整理が不可避などと述べる。また以前も述べたが、高木俊輔さんの草莽運動論もしかりである。

 あと奈良本辰也から松浦玲さんの研究系譜も改めて位置づけなおすべきだろう(故人は敬称略)。

 終了後、結城詩さん(芸名)に気づかせていただいたことをひとつ。

 文久3年末に慶喜急死の報が当時のイギリスの新聞に載っている由。国内の風説留では見たことないが、十分あり得る。

 元治元年上半期に会津容保の暗殺が流れたのと同理由だろう。長州や親長州浪士が政敵を揺さぶる時の常套行為。海外史料はデマでも役に立つ。

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2015.10.21

天誅組講演終わる

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 去る10月18日(日)、良い機会を頂きました。驚くほど天誅組を磨けました。やはり発表の場をいただいてこそです。この1ヶ月、いえこの2日の研磨は甚大でした。ありがとうございました。とりあえず講演要旨で大きくまとめます。そのあとノートででも某学会誌に投稿します、って池田屋事件も甲子戦争もしてへんのにか?

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2015.10.18

中世史の玉著を二日連続恵贈頂く

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 昨日、中西裕樹さん(高槻市立しろあと歴史館)から、玉著『飯盛山城と三好長慶』(仁木宏・中井均・中西裕樹・NPO法人摂河泉地域文化研究所編、戎光祥出版、2015年10月、2,400円+税)を恵贈頂きました。

 本日、草野顕之・早島有毅両先生から、玉著、真宗史史料刊行会編『天文日記』Ⅰ(〈大系真宗史料、文書記録編8〉、法藏館、2015年10月、12,000円+税)を恵贈いただきました。

 誠に恐縮です。ありがとうございます。厚く御礼申し上げます。学ばせていただきます。

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2015.10.17

彦根井伊家、天誅組、寺田屋

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 彦根井伊家関係の幕末史料(個人蔵)を読む。「治部右」が窪田治部右衛門のことで良ければ、なぜ彦根井伊家が窪田に頼らなければならないのかである。窪田が西国郡代だったことと関係があるか。

 京都府立総合資料館に行き、懸案だった文献を複写。洛東大仏日吉山の、板倉筑前介の道場に天誅組が集合し大和に向かった件、だいぶん見えてきた。あ、そういえばこの件も彦根井伊家に関わるのだった。すごい偶然、というよりも、いま僕が彦根井伊家に注目中だから重なる率は自然高くなる。

 司書松田万智子さんから推薦された文献は、恥ずかしながら未知のものだった。寺田屋由緒研究に使えると思い、さっそく全複写を依頼。少し高くつく。島田雄介さん(鴨沂高校)にばったり。熱心な先生であられる。

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2015.10.15

本日の名古屋でのお話

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 名古屋市の栄中日文化センターからの帰途。

 今日は承和の変と戦国期都市史。前者で淳和と嵯峨の薄葬もやって、後者は斎藤道三、一乗谷、堺、京都、山科が主役だった。

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2015年10月14日の日記

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 昨日のこと。

 週末の天誅組講演、ある意味、学会報告並の努力をしている。聴講者も主催者も誰も望んでいないと思うが、自身の問題。レジュメがまにあうか。当日早めに行ってその場で印刷してくれではどやされるやろか。本日もわりと進みました。

 洛東大仏日吉山大学に出講のあと、急いで帰る。宮本さんにお願いして(車でお迎えに来てもらって)、洛中研究室に『国史大事典』(吉川弘文館)を全部移動させた。山科別業では使わんからね。

 本日の洛中研究室ゼミは、いま話題の南京事件を取り上げた。殺戮対象が無抵抗の捕虜および非戦闘員に及んだのか、それは実証できるのか、できたとしてその総数は中国政府が主張する30万人に達するのかどうかが論点であるというようなことを述べる。

 移動してくずし字初級会。本日は尾張慶勝が三家老の首実検をして、四参謀も斬首されたとかの文書を読んだ。時期は元治元年11月(1864年)。

 朝ドラ「あさがきた」。山本耕史さんが土方歳三役でではるというので、はじめてちゃんと見た。

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2015.10.12

長浜で史料調査継続中

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 昨日、長浜市立長浜城歴史博物館で下坂家文書の調査。今年の5月から継続中。

 本日は書翰20通を撮影した。

 そのなかに嘉永7年4月6日(1854年)の洛中火災を報じたものがあった。

 下坂家出身の板倉筑前介(当時の苗字は武田か?のちの淡海槐堂)と江馬俊吉(その実弟、のちの江馬天江)兄弟の動向がわかる。当時2人は、ともに洛中洛外の薬屋と医師に養子に入っている。

 板倉が薬商をしつつ仕えた公家邸(おそらく醍醐家)は全焼して、「若殿」は天子統仁(孝明天皇)にお伴し聖護院へ、「大殿」は単身西賀茂の別邸へ避難したなどとあった。

 ほかにも年月日不明のものに、「会桑」の動向を記し「追々長州人入京」とあり、元治甲子戦争(所謂禁門の変)直前の様子を伝えたものなどもあった。

 この成果の一部を、『みーな』125号(〈特集近江の幕末維新〉本年8月号、長浜みーな編集室)の「忘れられた幕末『志士』板倉筑前介」に載せた。ご覧願います。

http://www.n-miina.net/

史料調査はまだ続きます。

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2015.10.10

内山永久寺跡を学生と巡検

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 昨日のこと。中世史研究者、大村拓生さんとばったり。あいさつていどであわただしく講義部屋に向かう。

 人文地理学概論、巡検。

 約30人の学生さんと、和州山辺郡杣之内、内山永久寺跡(現奈良県天理市)へ、荒廃した西側の表参道から入った。事故が無くて良かった。

 今年はT理大学の1年生も熱心で、マナーも良くて、うれしい。

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2015.10.07

長州征伐に対する尾張慶勝の文書を読んだ

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 「くずし字初級会」に出講。幕末、元治元年下半期の2文書を読む。

 まず尾張慶勝が、征長総督を引き受けるにあたって、徳川政府に要求した文書のつづき。

 出兵を求められた大名の不満が徳川政府に及ぶことをおそれ、江戸に住む妻子の帰国を求めた条。尾張家自身はその儀に及ばずと申し出る。

 もいっこは、安芸広島侯浅野茂長家臣が、毛利家の益田右衛門介以下三家老の首級を受け取るところでのもめごと。これはつづき来週。

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2015.10.05

新選組の解散示唆の頃の政治史を論ずる

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 幕末政治史の中の新選組に出講。元治元年5月20日、近藤勇が老中酒井雅楽頭に対して新選組の解散を示唆した、小島鹿之助・橋本道助宛書翰を中心にお話をした。

 この直前、将軍家茂が大坂を発ち、江戸へ戻った。上方での将軍の攘夷戦争の先鋒として在京していた近藤らにとっては、自身の存在意味がないと追いつめられていた。

 長州などが京都で暗躍する不穏な状態のときに、将軍が上方を去るなんてという不信感も生まれていた。これは京都で市中見廻の任にあった故に肌で感じていたのであろう。どのていど近藤が事実をつかんでいたかは不明ながら、この時期、長州の幕末史の画期があった。

 前月の4月19日までに、久坂玄瑞が、世子毛利定広の進発賛成に転向していたのである。それを山口政府を説得するための使者、来島又兵衛・寺島忠三郎を送るにあたって、大坂でかなりの議論があった。ようやく意見がまとまり、両人が大坂を離れたのが5月4日からまもなくのことと思われる。5月15日までに両人は山口に入っている。

 これを追うように、一旦京都に戻った久坂も、5月15日再び離京し、大坂をへて山口へ向かう。本年8月に丸亀で発表された、年月不明21日付土肥七助宛久坂書翰はこのときに書かれたものと判断される。

 5月27日、久坂は品川弥二郎を連れて山口に入る。世子定広の進発が決定するのは、それからまもなくの6月4日である。

 この翌日、6月5日早朝、在京の新選組は有栖川宮家ゆかりの古高俊太郎を逮捕する。すでに宮部鼎蔵の家来も捕えていた。それまでに20カ所程度の浪士潜伏地を確認していたのである。この時期にこの大きな浪士追捕(池田屋事件)が行われたのも、将軍不在の危機感が近藤らに大きく作用したことなのであろう。

 というようなことを述べた。

 次回は古高俊太郎逮捕から池田屋襲撃と行くべきなのだが、特別編「龍馬暗殺-疑われた新選組」をします。なんせ11月15日なもんで。

 古高云々は12月に。

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2015.10.03

古墳を媒介にした文化財保護論など

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 昨日はある古墳を題材に、古墳を単体で捉えてはならない、本日まで残りこの古墳を避けて道路がつくられていることに注目せよ、この古墳を破壊することは地域形成の事情、および不便があってもこれを維持すべきとした先人の意識も失うことになる、というようなことを述べた。

 人文地理学概論という講義で。

 本日、名古屋市の栄中日文化センターに出講。幕末政治史を詳細に理解すれば、史料の少ない新選組でもわかることは多くある、と言った。

 たとえば天誅組を新選組はどう見ていたか、とか。

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2015.10.02

新旧の地図を見比べながら巡検

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 先週作業してもらった地図をもって、本日は旧丹波市村杣之内地区、勾田地区(現奈良県天理市)を巡検。

 受講者の意識差が激しい。熱心な子はすごい。関心の薄い者に火をつけるには受講者が多すぎて困難が大きい。個々に話しかけられないから。

 それにしてもほとんど1年生とは思えない。まじめな者が多い。新旧の地図を見比べながら歩いたことは過去になかったそうだ。よい体験をなさったと思います。来週もつづけます。

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2015.10.01

天誅組をまとめつつ時野谷勝に行きついて

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 本日、時野谷勝の大阪大学退官記念論集を入手(『日本史論集』、清文堂出版、1975年)。

 戦前の維新史料編纂官だったことは承知していたが、所収の履歴によれば、事務嘱託や編纂官補を含めてもわずか4年ていどしか勤めておられないようである。

 戦後、霊山歴史館顧問であられたり、天誅組論文を2本書いておられるが、あまり幕末史に関わっておられる印象がない。

 なのになぜ僕はこの方の名を強く記憶しているのだろうと思っていたら、維新史料編纂以前に、京都府史蹟勝地保存委員会にいておられた(臨時委員嘱託)。『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』第18冊(1938年)の執筆者である。

 それで気づいた。本書には「中合町御土居阯礎石」が所載されている。その執筆者として強く記憶されていたのであった。

 つまり時野谷勝は、とても稀少な「御土居」と幕末史と両方論文書いている人といえる。

 なお時野谷勝の大阪大学における同僚や教え子に、梅渓昇・竹下喜久男両先生がおられる。両先生は僕の学部・修士時代の師である。故人なので(学史上の人物として)敬称を略しているが、実は後者竹下先生を介せば、時野谷は僕の師の師にあたる。

 来たる10月18日(日)に天理大学主催の講演会で天誅組の話をする。研究史のなかで時野谷論文を位置付けていて感じたことを述べてみた。

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