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2015.08.07

新出の久坂玄瑞書翰に接して

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 昨日、『読売新聞』香川版や『四国新聞』に報じられた、丸亀市立資料館蔵の新出の久坂義助(玄瑞)書翰の件。丸亀出身の親長州浪士、土肥七助宛。年月日不明「念一(21日)」付。けっこう感動したので、まとめておく。

 2012年に土肥家から同資料館へ寄贈された226点のなかのものの由。単に「大三郎」としか差出人はないが、一坂太郎さんが書体などから久坂の書翰と判断した由。

 土肥七助について、『読売』が新選組の池田屋襲撃に遭遇したように記されたが、実証できてはいない。明らかなことは、古高俊太郎の逮捕を受けて、毛利家京都留守居役乃美織江に対し、その奪還を主張し、人数を出して欲しいと望んだことのみ(乃美織江手記)。拙著『池田屋事件の研究』(講談社)184~185頁を参照ください。

 さて、久坂の自筆を山ほど見ておられるであろう一坂さんの判断なので、久坂書翰で間違いないと信ずる。

 実は「大三郎」と聞いて飛び上がるほど驚いた。全くの初登場ではない。

 以前「正木太三郎」なる謎の在京長州の有力人物がおり、これが久坂ではないかと久坂和尚さん(ツイッターネーム)から指摘を受けていた。

 大三郎と太三郎は同一とみてよい。たとえば同じく幕末の有栖川宮家臣の前川茂行。彼の官途は「大宰大監」なのだが、「太宰大監」と書かれたものも少なくない。

 現在と異なり、当時は「大」と「太」は特に使い分けられず使用されていたと判断している。

 たまたま本日、某所で読んでいた某家蔵の文久3年9月のある感状にも、「大義」とあるべきところを「太義」とあった。同様のことといえる。

 なのでこれは「正木太三郎」が久坂であることの証左となりえる。

 ちなみにどこに「正木太三郎」が出ていたかというと、池田屋事件の約一カ月前の「甲子戦乱前ニ於ケル長州河原町屋敷内有志五組覚書五月十一日」なる史料。

 ここに三番隊隊長として登場する。一番隊隊長が児島百之助(寺島忠三郎)、二番隊隊長が河島小太郎(入江九一)である(拙著『池田屋事件の研究』186頁)。そのため正木が久坂ではと想像していたわけ。

 なお『殉難国士古高俊太郎伝』所収の古高俊太郎宛書翰45通のなかに、元治元年3月ごろと推定される、「正木」書翰が2通ある(拙稿「古高俊太郎考」『明治維新史研究』第1号、44頁、2004年)。ここまでの推定が正しければ、これも久坂玄瑞書翰だったということになる。

 あわせてこの書翰群のなかに「河野」「河埜」のものもある(3通)。これは久坂の周知の変名「河野三助」のことと推定されるので、同じ人物(すなわち古高俊太郎)宛に二つの久坂の変名があることとなる。

 この古高宛の「正木」書翰2通、及び同じく古高宛の河埜(久坂義助)書翰の内容を吟味してみると、いずれも有栖川宮家臣豊島家や二条家などの相続に毛利家のもの(河島小太郎こと入江九一など)を潜入させようとしており、ほとんど同一の話題である。

 これも正木と久坂が同一人物である傍証の一つである。

 そうすると久坂は、同時期に河埜(河野)三助と正木大(太)三郎の二つ(もしくはそれ以上)の変名を使用していることになる。機密に関わるものとして、新選組を含む会津京都守護職など、探索しようとするものへの対策と考えるべきで、実に生々しい。

 なおこの書翰はすでに活字化して公表されていた。『讃岐人物伝』(香川新報社、1914年)の土肥七助の項である。

 以下、参考までにそれを意訳したものを載せておく。

 

 

今朝は忙しくて意を尽くせず遺憾この事に存じ奉ります。今夕お越し下さるご都合でしたが、当地の用事もまず済みましたので、急に出発いたします。国許の事情もかれこれ懸合(懸念?)につき、あわただしく(国許へ)引き取ります。何分そのうち再び上洛の時、いろいろご談判申し上げます。別封の二通(の書翰)は山中嘉太郎(岡元太郎)へお返し下さい。何分あわただしいことゆえ残念に堪えません。当地の形勢も念を入れて同藩(岡山池田家?)より承知しているので、長期滞在していても国許のことはかえって気にかかります。このうえながら、当藩の処置についてご尽力祈り奉ります。(土肥)典膳君へしかるべくお伝え願います。あわただしく、すべては他日に。念一(二十一日)。

 少しはお待ちいたしましたが、お帰りがなかったので、わずかですが申し上げおきます。

                                          以上。大三郎

七助様

 

 

 一坂さんは、文久3年9月21日か、元治元年5月21日と判断しておられると『四国新聞』に掲載があったが、古高宛書翰の推定年代から、後者の方が可能性が高いと思われるが、いかがだろうか。

 
 本書翰は、同資料館で開催中の「土肥大作と勤皇の志士」展で、明日8月8日から追加展示される由(~9月6日、無料、月曜休館)。

http://www.yomiuri.co.jp/local/kagawa/news/20150805-OYTNT50166.html?from=tw

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