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2015.08.20

幕末長州毛利家関係者の変名について

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 久坂義助(玄瑞)は元治元年3月から亡くなる7月ごろまで(1864年)、河野(河埜)三介(三助)、松野三平、そして先日の正木太三郎(大三郎)を使用している。変名を同時期に複数使用しているのである。当時の関係者間でも混乱はなかったのか。

 寺島忠三郎に関しては、本名寺島は公式には名乗らず、毛利家河原町屋敷職員として児島百之助を名乗り、非合法活動のときは牛敷春三郎を名乗ったようである。

 末松謙澄『修訂防長回天史』もこの変名の多さに困惑していることがうかがえる(5巻、274頁)。

 寺島忠三郎(児島百之助)が河原町屋敷の公式の職員であったことがなぜ分かるかというと、『官武通紀』所収の元治元年3月ごろの職員録に記載があるからである。

 ところがこういった職員録はほかには知らない。類似の役に立つものとして、留守居役乃美織江が甲子戦争のあとの無事帰国したものを記した一覧があるぐらいである(「乃美織江在職筆記」あるいは乃美織江覚書とも所収)。

 この二点の史料から確実に漏れている正規職員が2人いる。桂小五郎と吉岡庄祐(庄助、小助とも)である。

 桂小五郎は元治元年5月から乃美織江とともに京都留守居役となっている(辞令は同月2日に河原町屋敷到着。同年5月3日付桂宛乃美書翰)。

 吉岡は池田屋襲撃の夜、宮川町一丁目の茶屋で浪士と誤認されて殺された者である。吉岡が正規の職員であったことは当夜について記した乃美の手記から分かる。

 すなわち現存の職員録やそれに準じた史料からでは分からない河原町屋敷職員がまだいると見込まれる。いったい誰が河原町屋敷の正規職員だったか、その特定は誰もなされていないと思う。

 たとえば杉山松介も正規職員のような感じを受けるのだが、上記史料には名が無く推測の域である。

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