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2015.08.19

久坂玄瑞や桂小五郎らの居所解明に没頭していた

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 お盆休み中、没頭したのが、元治元年4月から5月(1864年)の京都・大坂の毛利家関係者の動きの解明。桂小五郎、来島又兵衛、久坂義助(玄瑞)、寺島忠三郎、入江九一らが行ったり来たりしている。なんとせわしないこと。

 それぞれの動きの把握が実に困難である。ここに吉田稔麿まで上洛し、からむ。居所表の必要性とはこういうところにある。

 すでに妻木忠太『久坂玄瑞遺文集』〈上〉所載の年譜を使用して、とりあえず久坂の居所表をつくっていたが、たとえば同時期の可能な限り信用できる同時代史料を使用したらば、多くの不備に気づく。ふれられていない移動がわりとある。

 そういう作業をしていると次々と疑問もわく。たとえば同年4月20日、来島又兵衛が桂小五郎に手紙を書いた場所「烏森」というのが分からない。

 手紙の内容からこの至近に桂と久坂(「河野」)もいるようだ。このとき桂は大坂にいるはずなので、大坂の地名と思われるが不明。

 こんなふうに上記一人一人の行動を把握しようとしている。時間の無駄だなあと思いつつやめられない。意義は感じているから。書翰の内容をきちんと理解することにつながる。位置にこだわると発信・受信両者の地理的距離感がわかる。

 この時期、久坂玄瑞が世子毛利定広の進発論へ転向している。これに上記人物や大坂屋敷宍戸左馬介などが賛成・反対をめぐってもめている。来島や寺島を山口へ使者として送ろうとするものの、進まない。

 上方の進発論をめぐる最終決定の推移が細かくわかってくるし、もしかしたら未だ不明の久坂の転向のその日やその場所(京都か大坂か)などが確定できるかも知れない。

 そのうえでカギになるかも知れない史料のいくつかの所在が分からなかった(刊本掲載場所がありがたいが未翻刻かも知れない)。

 たとえば同年5月6日付久坂玄瑞宛勝部静男書翰、おなじく同年5月6日付久坂玄瑞宛宍戸左馬介書翰、同年5月13日付宍戸左馬介宛久坂玄瑞書翰などである。これらは前述の妻木忠太作成の年譜によって存在が知れる。

 同年4月23日付前田孫右衛門・中村九郎・渡辺内蔵太宛久坂玄瑞書翰も、三原清堯『来島又兵衛伝』(271頁など)に短く掲載されているが、これが全体なのか一部なのかが分からない。

 大坂と京都の移動を居所表に示すのはかなり難しい。ましてや伏見もくわえたならば。これを区分せず、一括「上方」とすると楽なのだが、それでは個々の細かな動きが見えにくくなる。ここは苦労を厭わず、伏見はともかく京都・大坂はきちんと示すべきだと思う。

 とりあえず本日までに同時期の久坂玄瑞の居所はまとまった(表はまだ)。かなり解説が長くなった。生涯全部に関わったらどれだけ大部になるのだろうと意識が遠くなる。

 とりあえず次は同時期の桂小五郎にむかうべし。

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