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2015.08.28

丸亀の久坂玄瑞書翰の年次について

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 丸亀市立資料館で公開中の年月不明21日付土肥七助宛久坂義助(大三郎)書翰について、文久3年9月(1863年)か元治元年5月(1864年)のものかと四国新聞は報じていた。

 が、前者はありえないと判断する。

 文久3年9月23日付の来島又兵衛・中村九郎・久坂義助・佐々木男也宛寺島忠三郎(児島豊二郎)書翰によれば、寺島は彼らと18日に(おそらく大坂で)別れてすぐ淀に上り、翌19日伏見に入って、子刻(午前0時ごろ、おそらく京都屋敷に)着いている。

 この書翰から4人は旅行中だと分かるので、18日からさほど遠くないときに大坂を出発したといえる。

 それが21日ならもちろん問題がないのだが、当時周防三田尻にいた、土方楠左衛門(久元)の日記『回天実記』同年9月22日条に、

「久坂玄瑞、中村九郎、佐々木男也、来島又兵衛等京都ヨリ帰着ノ由ニテ今夜於会議所諸士と面会ノ都合ニ候ヘ共不能往」

とあるのである。

「由」が着いているので確実な情報ではないようにもみえるが、土方は会議所の至近におり、日記のそのあとにも特に誤報と記さないため大きな狂いがあるとも思えない。

 妻木忠太『久坂玄瑞遺文集』上巻所載の年譜は、同年9月23日に帰国したと記すが、根拠は不明である。

 なお同年9月29日付の久坂の「願書」により、同日までに周防に入っていることは確実である。

 話をもどす。そうすると、仮に妻木の説を受け入れたとしても、1日や2日で大坂から周防にはとても入れないだろう。

 もちろん船であっても困難である。 たとえば大和破陣(天誅組敗戦)により大坂長州屋敷に逃れた中山忠光一行は、同年927日夜、船で周防三田尻に向かったが、典拠不明ながら「御堀耕助伝」(毛利家文庫のうち。山口県文書館蔵)は105日に着いたと記す。この情報が正しければ、大坂・三田尻片道で7日かかっている(文久3年9月は29日が晦日)。緊急性を要する逃避行でさえこういうペースである。

 もう一例あげる。翌元治元年1月19日に三条実美らの奏聞書をもって三田尻を発った三条の家臣丹羽正雄らは、1月27日京都に着いている(『回天実記』同年1月19日条。三条実美等奏聞書〈「忠能卿手録」所収〉)。8日の路程である。

 ちなみに武田勘治『久坂玄瑞』は、大坂を9月13日に出発したと記す(347頁)。典拠不明だが、22日到着でよければ10日かかったことになり、陸路であればさほど無理はない。

 ゆえに本書翰は、後者の可能性が高くなる。元治元年5月21日の書翰であろう。

 その検討については、また後日に。

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