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2015.08.30

室町頭の生谷家住宅を参観

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 小松帯刀の居所であった、幕末期の近衛家の御花畑屋敷跡(室町頭。室町通鞍馬口付近)に近いので、一昨日(8月28日)、後学のため、いま公開中の生谷家住宅を参観させていただいた。Kさんも同行。

 すると予想外に(僕にとって)意義深い陳列物に出会えた。近世・近代の当家の記録・文書数点だ。世の中不思議だ。ありがたいことだった。

 終了後、建碑予定地も参観。おいしいコーヒーをいただいた。

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2015.08.28

丸亀の久坂玄瑞書翰の年次について

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 丸亀市立資料館で公開中の年月不明21日付土肥七助宛久坂義助(大三郎)書翰について、文久3年9月(1863年)か元治元年5月(1864年)のものかと四国新聞は報じていた。

 が、前者はありえないと判断する。

 文久3年9月23日付の来島又兵衛・中村九郎・久坂義助・佐々木男也宛寺島忠三郎(児島豊二郎)書翰によれば、寺島は彼らと18日に(おそらく大坂で)別れてすぐ淀に上り、翌19日伏見に入って、子刻(午前0時ごろ、おそらく京都屋敷に)着いている。

 この書翰から4人は旅行中だと分かるので、18日からさほど遠くないときに大坂を出発したといえる。

 それが21日ならもちろん問題がないのだが、当時周防三田尻にいた、土方楠左衛門(久元)の日記『回天実記』同年9月22日条に、

「久坂玄瑞、中村九郎、佐々木男也、来島又兵衛等京都ヨリ帰着ノ由ニテ今夜於会議所諸士と面会ノ都合ニ候ヘ共不能往」

とあるのである。

「由」が着いているので確実な情報ではないようにもみえるが、土方は会議所の至近におり、日記のそのあとにも特に誤報と記さないため大きな狂いがあるとも思えない。

 妻木忠太『久坂玄瑞遺文集』上巻所載の年譜は、同年9月23日に帰国したと記すが、根拠は不明である。

 なお同年9月29日付の久坂の「願書」により、同日までに周防に入っていることは確実である。

 話をもどす。そうすると、仮に妻木の説を受け入れたとしても、1日や2日で大坂から周防にはとても入れないだろう。

 もちろん船であっても困難である。 たとえば大和破陣(天誅組敗戦)により大坂長州屋敷に逃れた中山忠光一行は、同年927日夜、船で周防三田尻に向かったが、典拠不明ながら「御堀耕助伝」(毛利家文庫のうち。山口県文書館蔵)は105日に着いたと記す。この情報が正しければ、大坂・三田尻片道で7日かかっている(文久3年9月は29日が晦日)。緊急性を要する逃避行でさえこういうペースである。

 もう一例あげる。翌元治元年1月19日に三条実美らの奏聞書をもって三田尻を発った三条の家臣丹羽正雄らは、1月27日京都に着いている(『回天実記』同年1月19日条。三条実美等奏聞書〈「忠能卿手録」所収〉)。8日の路程である。

 ちなみに武田勘治『久坂玄瑞』は、大坂を9月13日に出発したと記す(347頁)。典拠不明だが、22日到着でよければ10日かかったことになり、陸路であればさほど無理はない。

 ゆえに本書翰は、後者の可能性が高くなる。元治元年5月21日の書翰であろう。

 その検討については、また後日に。

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2015.08.25

京都新聞に紹介されました―京都歴史地理同考会

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今朝(2015年8月25日)の京都新聞の「一緒にやろうよ」欄(17版、23面〈情報ワイド〉)に、僕が理事長をつとめる、NPO法人京都歴史地理同考会の活動が紹介されました。

 掲載写真(モノクロ)は、先日法雲寺(京都市中京区河原町二条)の建碑された「久坂玄瑞・吉田稔麿寓居跡」除幕の瞬間です。

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2015.08.22

岡田有希子さんの誕生日です

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 本日8月22日は、岡田有希子(本名佐藤佳代)さんの誕生日です。存命でしたら48歳でした。記してお祝いし、あらためて悼みます。

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2015.08.20

幕末長州毛利家関係者の変名について

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 久坂義助(玄瑞)は元治元年3月から亡くなる7月ごろまで(1864年)、河野(河埜)三介(三助)、松野三平、そして先日の正木太三郎(大三郎)を使用している。変名を同時期に複数使用しているのである。当時の関係者間でも混乱はなかったのか。

 寺島忠三郎に関しては、本名寺島は公式には名乗らず、毛利家河原町屋敷職員として児島百之助を名乗り、非合法活動のときは牛敷春三郎を名乗ったようである。

 末松謙澄『修訂防長回天史』もこの変名の多さに困惑していることがうかがえる(5巻、274頁)。

 寺島忠三郎(児島百之助)が河原町屋敷の公式の職員であったことがなぜ分かるかというと、『官武通紀』所収の元治元年3月ごろの職員録に記載があるからである。

 ところがこういった職員録はほかには知らない。類似の役に立つものとして、留守居役乃美織江が甲子戦争のあとの無事帰国したものを記した一覧があるぐらいである(「乃美織江在職筆記」あるいは乃美織江覚書とも所収)。

 この二点の史料から確実に漏れている正規職員が2人いる。桂小五郎と吉岡庄祐(庄助、小助とも)である。

 桂小五郎は元治元年5月から乃美織江とともに京都留守居役となっている(辞令は同月2日に河原町屋敷到着。同年5月3日付桂宛乃美書翰)。

 吉岡は池田屋襲撃の夜、宮川町一丁目の茶屋で浪士と誤認されて殺された者である。吉岡が正規の職員であったことは当夜について記した乃美の手記から分かる。

 すなわち現存の職員録やそれに準じた史料からでは分からない河原町屋敷職員がまだいると見込まれる。いったい誰が河原町屋敷の正規職員だったか、その特定は誰もなされていないと思う。

 たとえば杉山松介も正規職員のような感じを受けるのだが、上記史料には名が無く推測の域である。

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2015.08.19

久坂玄瑞や桂小五郎らの居所解明に没頭していた

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 お盆休み中、没頭したのが、元治元年4月から5月(1864年)の京都・大坂の毛利家関係者の動きの解明。桂小五郎、来島又兵衛、久坂義助(玄瑞)、寺島忠三郎、入江九一らが行ったり来たりしている。なんとせわしないこと。

 それぞれの動きの把握が実に困難である。ここに吉田稔麿まで上洛し、からむ。居所表の必要性とはこういうところにある。

 すでに妻木忠太『久坂玄瑞遺文集』〈上〉所載の年譜を使用して、とりあえず久坂の居所表をつくっていたが、たとえば同時期の可能な限り信用できる同時代史料を使用したらば、多くの不備に気づく。ふれられていない移動がわりとある。

 そういう作業をしていると次々と疑問もわく。たとえば同年4月20日、来島又兵衛が桂小五郎に手紙を書いた場所「烏森」というのが分からない。

 手紙の内容からこの至近に桂と久坂(「河野」)もいるようだ。このとき桂は大坂にいるはずなので、大坂の地名と思われるが不明。

 こんなふうに上記一人一人の行動を把握しようとしている。時間の無駄だなあと思いつつやめられない。意義は感じているから。書翰の内容をきちんと理解することにつながる。位置にこだわると発信・受信両者の地理的距離感がわかる。

 この時期、久坂玄瑞が世子毛利定広の進発論へ転向している。これに上記人物や大坂屋敷宍戸左馬介などが賛成・反対をめぐってもめている。来島や寺島を山口へ使者として送ろうとするものの、進まない。

 上方の進発論をめぐる最終決定の推移が細かくわかってくるし、もしかしたら未だ不明の久坂の転向のその日やその場所(京都か大坂か)などが確定できるかも知れない。

 そのうえでカギになるかも知れない史料のいくつかの所在が分からなかった(刊本掲載場所がありがたいが未翻刻かも知れない)。

 たとえば同年5月6日付久坂玄瑞宛勝部静男書翰、おなじく同年5月6日付久坂玄瑞宛宍戸左馬介書翰、同年5月13日付宍戸左馬介宛久坂玄瑞書翰などである。これらは前述の妻木忠太作成の年譜によって存在が知れる。

 同年4月23日付前田孫右衛門・中村九郎・渡辺内蔵太宛久坂玄瑞書翰も、三原清堯『来島又兵衛伝』(271頁など)に短く掲載されているが、これが全体なのか一部なのかが分からない。

 大坂と京都の移動を居所表に示すのはかなり難しい。ましてや伏見もくわえたならば。これを区分せず、一括「上方」とすると楽なのだが、それでは個々の細かな動きが見えにくくなる。ここは苦労を厭わず、伏見はともかく京都・大坂はきちんと示すべきだと思う。

 とりあえず本日までに同時期の久坂玄瑞の居所はまとまった(表はまだ)。かなり解説が長くなった。生涯全部に関わったらどれだけ大部になるのだろうと意識が遠くなる。

 とりあえず次は同時期の桂小五郎にむかうべし。

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2015.08.15

2つの天誅組関係史料を読んで

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 昨日、いつものくずし字研究会で読んだ2点の天誅組関係史料について。

 1点は十津川郷士が天誅組に巻き込まれて一緒に朝敵にならないように配慮せよという、文久3年9月(1863)の中川宮朝彦親王の御沙汰書。

 これまで『十津川宝蔵文書』(1981年、十津川村教員委員会)所載の伊勢藤堂新七郎宛のものは知ってたのだけれど、今回我々が読んだのは、彦根侯井伊直憲宛のもの。ほとんど同文。ということは、他にもたとえば郡山侯柳沢家に宛てたものなどもあるんだろうなという感想。

 もう1点は彦根井伊のある家臣が天誅組追討のさなか「過酒」をしたため、主君直憲から扶持切米を没収され隠居を命じられたもの(同年11月26日付、複数の家老宛)。

 この人物に前科があったというのもあるのだが、戦場での深酒というのはどういう問題をおこした上でのことだろうと気になった。風説史料にでもこの顛末を書いたものはないかしらと思った次第。

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2015.08.14

町田明広博士と懇親した

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 昨日、上洛中の町田明広博士(神田外語大学)と懇親。

 久しぶりにきわめて濃密な幕末史論を展開。2人っきりだったので、誰に配慮なく、いろいろ語れた。天誅組もだけど、足利将軍木像事件もまとめるべきときだなと感じさせていただいた。

 天誅組は「討幕」志向はあったかが議論になった。あったでよいと理解したが、しかしそれがそのまま「討幕の先駆」だという評価になってはならないという結論。

「討幕の先駆」といってしまうと、文久3年(1863)から慶応3年(1867)まで「討幕」意識が継続していた、大政奉還、王政復古、翌年の戊辰戦争まで継続した意識のように感じられる。そうではないという思いが強いので、天誅組の「討幕」と、実現したそれを分けて考えたいというわけ。

 建碑したばかりの法雲寺(中京区河原町二条上ル)にも参拝された由。ここでも魅力的な提案があった。

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2015.08.13

幕末の北海道旅行、中止

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 近畿日本ツーリスト主催「学んでから旅をする歴史探訪シリーズ、幕末の志士ゆかりの地函館めぐる3日間」(中村武生同行)は、催行中止となりましたので、お伝えいたします。

 楽しみにしておられた方々、誠に申し訳ありません。

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2015.08.12

大阪市立科学館に行きました

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 本日は娘を連れて、妻と大阪市立科学館に行きました。思うこと山ほどありました。

 一般論として、子は可能性甚大、カギは親だと思った次第。

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2015.08.09

小学生に随心院(京都市山科区小野)の案内をする

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 昨日、「山科醍醐こどものひろば」の随心院(京都市山科区小野)巡検に参加した。

 なにより難しい、この会は。相手は小学生。

 短い時間で簡潔に重要なことを伝える。なかなかできない。

 随心院に行って、真言宗小野派の本拠として大事だなんて(国史蹟です)、小学生に対して何の意味もないに等しい。

 かといって小野小町の話を安易にするのも無責任。ほとんど非事実なんだから。

 そういうことに悩む会。今回も規定外なのに主催者朱まり子さんに甘えて、5歳の娘の同伴を許してもらった。

 はてさてうちの娘はこれにより何を想う。

 

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2015.08.08

板倉筑前介と西川耕蔵を寄稿しました。『長浜み~な』新刊

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 本日、『長浜み~な』第125号(近江の幕末維新)を拝受する。

「見落とされた幕末『志士』板倉筑前介(淡海槐堂)」、同「池田屋にいた確実な『志士』西川耕蔵」という小文を寄稿したのです。

 また、ちょっとあやしい取材班「幕末の京を歩く―京のまちなかに湖北出身兄弟志士の足跡」にも関わりました(監修)。

 長浜みーな編集室のサイトは以下。ご注文はこちらから。

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2015.08.07

新出の久坂玄瑞書翰に接して

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 昨日、『読売新聞』香川版や『四国新聞』に報じられた、丸亀市立資料館蔵の新出の久坂義助(玄瑞)書翰の件。丸亀出身の親長州浪士、土肥七助宛。年月日不明「念一(21日)」付。けっこう感動したので、まとめておく。

 2012年に土肥家から同資料館へ寄贈された226点のなかのものの由。単に「大三郎」としか差出人はないが、一坂太郎さんが書体などから久坂の書翰と判断した由。

 土肥七助について、『読売』が新選組の池田屋襲撃に遭遇したように記されたが、実証できてはいない。明らかなことは、古高俊太郎の逮捕を受けて、毛利家京都留守居役乃美織江に対し、その奪還を主張し、人数を出して欲しいと望んだことのみ(乃美織江手記)。拙著『池田屋事件の研究』(講談社)184~185頁を参照ください。

 さて、久坂の自筆を山ほど見ておられるであろう一坂さんの判断なので、久坂書翰で間違いないと信ずる。

 実は「大三郎」と聞いて飛び上がるほど驚いた。全くの初登場ではない。

 以前「正木太三郎」なる謎の在京長州の有力人物がおり、これが久坂ではないかと久坂和尚さん(ツイッターネーム)から指摘を受けていた。

 大三郎と太三郎は同一とみてよい。たとえば同じく幕末の有栖川宮家臣の前川茂行。彼の官途は「大宰大監」なのだが、「太宰大監」と書かれたものも少なくない。

 現在と異なり、当時は「大」と「太」は特に使い分けられず使用されていたと判断している。

 たまたま本日、某所で読んでいた某家蔵の文久3年9月のある感状にも、「大義」とあるべきところを「太義」とあった。同様のことといえる。

 なのでこれは「正木太三郎」が久坂であることの証左となりえる。

 ちなみにどこに「正木太三郎」が出ていたかというと、池田屋事件の約一カ月前の「甲子戦乱前ニ於ケル長州河原町屋敷内有志五組覚書五月十一日」なる史料。

 ここに三番隊隊長として登場する。一番隊隊長が児島百之助(寺島忠三郎)、二番隊隊長が河島小太郎(入江九一)である(拙著『池田屋事件の研究』186頁)。そのため正木が久坂ではと想像していたわけ。

 なお『殉難国士古高俊太郎伝』所収の古高俊太郎宛書翰45通のなかに、元治元年3月ごろと推定される、「正木」書翰が2通ある(拙稿「古高俊太郎考」『明治維新史研究』第1号、44頁、2004年)。ここまでの推定が正しければ、これも久坂玄瑞書翰だったということになる。

 あわせてこの書翰群のなかに「河野」「河埜」のものもある(3通)。これは久坂の周知の変名「河野三助」のことと推定されるので、同じ人物(すなわち古高俊太郎)宛に二つの久坂の変名があることとなる。

 この古高宛の「正木」書翰2通、及び同じく古高宛の河埜(久坂義助)書翰の内容を吟味してみると、いずれも有栖川宮家臣豊島家や二条家などの相続に毛利家のもの(河島小太郎こと入江九一など)を潜入させようとしており、ほとんど同一の話題である。

 これも正木と久坂が同一人物である傍証の一つである。

 そうすると久坂は、同時期に河埜(河野)三助と正木大(太)三郎の二つ(もしくはそれ以上)の変名を使用していることになる。機密に関わるものとして、新選組を含む会津京都守護職など、探索しようとするものへの対策と考えるべきで、実に生々しい。

 なおこの書翰はすでに活字化して公表されていた。『讃岐人物伝』(香川新報社、1914年)の土肥七助の項である。

 以下、参考までにそれを意訳したものを載せておく。

 

 

今朝は忙しくて意を尽くせず遺憾この事に存じ奉ります。今夕お越し下さるご都合でしたが、当地の用事もまず済みましたので、急に出発いたします。国許の事情もかれこれ懸合(懸念?)につき、あわただしく(国許へ)引き取ります。何分そのうち再び上洛の時、いろいろご談判申し上げます。別封の二通(の書翰)は山中嘉太郎(岡元太郎)へお返し下さい。何分あわただしいことゆえ残念に堪えません。当地の形勢も念を入れて同藩(岡山池田家?)より承知しているので、長期滞在していても国許のことはかえって気にかかります。このうえながら、当藩の処置についてご尽力祈り奉ります。(土肥)典膳君へしかるべくお伝え願います。あわただしく、すべては他日に。念一(二十一日)。

 少しはお待ちいたしましたが、お帰りがなかったので、わずかですが申し上げおきます。

                                          以上。大三郎

七助様

 

 

 一坂さんは、文久3年9月21日か、元治元年5月21日と判断しておられると『四国新聞』に掲載があったが、古高宛書翰の推定年代から、後者の方が可能性が高いと思われるが、いかがだろうか。

 
 本書翰は、同資料館で開催中の「土肥大作と勤皇の志士」展で、明日8月8日から追加展示される由(~9月6日、無料、月曜休館)。

http://www.yomiuri.co.jp/local/kagawa/news/20150805-OYTNT50166.html?from=tw

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2015.08.05

天誅組重要史料を読んでいる

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 天誅組の乱の重要な史料を読みつづけている。たとえば、鎮圧のために出陣した、伊勢の藤堂新七郎の陣所に出頭した天誅組の使者渋谷伊予作が持参した口上書。

「このたび当地に発向した趣意は、去月13日に御親征が仰せ出されたので、義兵を募り、鳳輦を御守護するつもりであったが、同月18日松平肥後守(容保)が逆意を企て、不法にも御所内に押し入り、恐れ多くも主上(統仁)を押し込み奉り、偽命によって四方に号令を発したことは痛嘆に堪えない。

 この上は同志・諸大名に申し合わせ、右逆賊を放逐いたし、宸襟を安んじ奉りたいという思いであったところ、名のある諸大名家よりも使者をもって、大挙して在京の逆徒を征討すべきことを申してきた。

 貴家がかねて勤王の志のあることは承知している。間違いなく逆徒追討の御策略もあることと思う。それにもかかわらず、このたび五條へ手向かいの様子をみると、官軍へ敵対するようにも見える。念のため談判し、何を思っているのかきちんと承知いたしたいと思う。追伸、五條代官支配地について、すでに村々は禁裏御料に改めたはずであるが、このたび(貴家の領地として)増加されたと承った。何者より拝領したものか。承りたい」。(文久3年9月5日〈1863年〉。意訳)。

 桜井寺は直前まで天誅組の陣所だった。そこへ伊勢藤堂氏が陣を張ったことに対する威嚇。このあと渋谷は捕縛される。渋谷伊予作の存在は意外と大きい。藤堂は捕えた渋谷の見解に動揺し、追討に来ながら京都の会津容保に対して天誅組への理解を示す。このあたりは浪士論の重要なデータ。

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2015.08.03

特別学習会、洛中惣構の土居堀(所謂御土居)の座学・巡検・史料参観

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 JR東海主催で、洛中惣構の土居堀(御土居堀、所謂御土居)の特別学習会を行います。

少人数ですし、普段見れない北野天満宮所蔵の土居堀関係史料もこのときだけ特別公開ですので、ぜひともお越しください。

 詳しくは以下↓

http://souda-kyoto.jp/card_member/event/453.html

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2015.08.02

小田村伊之助の遺言状に感嘆

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 昨日、名古屋市の栄中日文化センター「吉田松陰講座」に出講。

 今回は小田村伊之助(楫取素彦)を取り上げた。楫取素彦の種々の伝記のなかで、もっとも実証的で濃密といえるのが、広瀬豊『松陰先生の教育力』(マツノ書店復刻)所収の同人の伝記。これをベースに論を展開した。

 いろいろ取り上げるべき点があるのだが、とりわけ甲子の入獄の直前に認めた、妻杉寿(久)宛の遺言状が秀逸。亡義兄松陰を意識におきながら、2人の子どもの養育の具体的指示など、現代にも通ずる部分が多い。予定時間を大きくオーバーして、全文朗読したが、途中で嗚咽が出そうになった。

 たまたま先週の「花燃ゆ」で小田村は下獄したが、この遺言状は取り上げられなかった。本日は小田村が死刑執行目前というシーンで、妻杉寿(久)が大きく動くようなので取り上げられることと期待したい。

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2015.08.01

いつもと開始時間が異なります

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中村武生の日本の歴史、いま・あのころ

第59回「桓武天皇の死と陵墓」など

新聞に載った最近の日本史ニュースの解説と高校日本史レベルの講義を行います

※いつもと開始時間が違います。お気をつけ下さい。

 

日時:2015年8月4()午前11時00分~12時10分(1時間強)

会場:キャンパスプラザ京都(4階第4講義室) 

(京都市下京区西洞院塩小路下ル東側。JR京都駅中央改札から西へ徒歩4分)

予約不要 

受講料:1回500円(会場でお支払いください)

次回は本年8月11日(火)です(原則毎週火曜日)。午前11時00分~12時10分(同じくいつもと時間が異なります)。 8月18日(火)は12時50分~14時です。キャンパスプラザ京都4階第4講義室

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撤去しました。「小松帯刀寓居参考地」碑

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 2008年(平成20)、京都市上京区一条堀川東入ル南側(松之下町)に建立した「小松帯刀寓居参考地」などと刻んだ標石および副碑を、本日までに撤去した。

 幕末の薩摩島津家家老小松帯刀が住居した近衛家御花畑別邸は、当該碑建立ののち、桐野作人氏の研究などによって、室町通鞍馬口下ル付近(幕末期の「室町頭」)である可能性が高まり、 一条堀川東入ルの近衛邸跡は誤りであることが明らかになったからである。

 とはいえ、当該碑には、源頼光や藤原道綱母などの一条邸跡や、応仁の乱洛中合戦跡などの事項も刻んでおり、これらは誤りではない。

 将来にはこれらを改めて刻んだ石碑を新たに建立する予定である。

 取り急ぎ報告いたすものである。

                                          2015年8月1日

                 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会理事長、中村武生

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