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2015.07.28

幕末史、知らんことばっかり

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 昨日、某家文書の存在を知る。

 文書群のなかに天誅組関係があった。たとえば首級7つを得た感状(文久3年9月27日付〈1863年〉)。討ち取られた7人の中に土佐浪士那須信吾や大和宇陀の林豹吉郎らが含まれるのは疑いない。まさかこんな形で討ち取った側の史料に出会えるとは。予期せず。

 貫名筑後(ぬきな・ちくご)を全く認識していなかった。『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、1981年)に立項されているじゃないか(755頁)。町田明広博士ではないけれど、幕末史、まだまだほんまに知らんことばっかり。

 天誅組の先駆的な実証研究、久保田辰彦『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』の引く、田丸久野家臣の木村修平の見聞書には、「彦根侯隊長貫名筑後出張陣所鷲家口村と申す処へ、浪士共夜討に及び候」とある(399頁)。

 これは主将中山忠光を逃がすため、和州吉野郡鷲家口村(現奈良県吉野郡東吉野村小川)にあった追討軍彦根井伊勢の陣所に那須信吾・林豹吉郎ら決死隊が斬り込み、戦死した事件を指す。

 事実上、これで天誅組本隊は壊滅する。その襲撃を受けた彦根陣所の最高責任者が貫名筑後である。当時数え33歳。

 彦根側の犠牲者はふたり。大館孫左衛門と伊藤弥左衛門。ふたりの墓(東吉野村小川、宝泉寺)の写真が、舟久保藍さん『実録天誅組の変』(淡交社、2013年)に載っている(196頁)。恥ずかしながら宝泉寺は参拝しているのに、2人の掃苔はしていない。

 先の感状には、そのうち大館孫左衛門の死にふれた部分があった。一言「是非なき事ニ候」。伊藤の死にはなぜふれないのだろう。

 ほかにも数点あり。ひとつはやはり感状。吉野筋から進発し、丹生・長谷辺の敵を討ち攘ったことに対して(文久3年9月13日付)。彦根からみた天誅組の乱ってあまり語られてこなかったのではないか。ささやかな量ではあるが、良質な史料の登場を喜んでいる。

 あと京都守衛関係も。会津容保が京都守護職に決まったので、それまで京都守衛にあたっていた彦根井伊家は家臣を国元へ戻せというもの。

 天狗党のものもあった。

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