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2015.07.31

天誅組研究のあらたな切り口を求めて

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 昨日、京都新聞文化センター「吉田松陰と門下生のみた洛中洛外」に出講。 今回は「八月十八日政変から京都進発へ―久坂玄瑞の転向」というタイトル。

 そこである史料を読んでいて、久坂玄瑞が但馬生野挙兵に反対したという通説の典拠とは何であったか、疑問がわいた。

 通説では、生野挙兵に三条実美は参加希望だったが、久坂が反対したため実現しなかった。そのため別の七卿のひとり沢宣嘉や、2代目総督河上弥市、白石廉作ら奇兵隊士が脱走して挙兵に参加したと理解されてきたはず。

 が、その史料を読んでいて、実は久坂も挙兵そのものには反対していないのではないかという感じを受けた。

 その史料により、天誅組の乱は、結果として八月十八日政変後の久坂玄瑞の政局打開戦略に入っていると気づいた。天誅組は早くに破陣したからか、見落とされている。このあたりが天誅組再評価のカギでもある。

 天誅組挙兵について、「討幕の先駆」「早すぎた討幕軍」などという戦前以来の評価はすでに困難となっており、新たな切り口をずっと求めてきた。先日の某家史料もそうだが、ようやく見えてきた感がある。

 このあたりを今秋の天理大学講演で語る予定。もうすぐ受講募集が始まる(無料のはず)。

天理大学、大和学への招待「大和の歴史と人物」

中村武生「坂本龍馬があこがれた?戦争—天誅組の乱を見なおす」

日 時:2015年10月18日(日) 午後1時30分~3時
内 容:天誅組の乱は、古く討幕の先駆と評価され、「義挙」と呼ばれました。が、いま新たな視点が求められています。坂本龍馬にも影響を与えたといえる天誅組の可能性を探ります。
会 場奈良県経済倶楽部(ひがしむき商店街 経済会館5階大会議室)

http://www.tenri-u.ac.jp/lifelng/dv457k000000cobp.html

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2015.07.30

幕末国事殉難者の靖国合祀について

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 昨日、赤澤史朗氏の新刊『戦没者合祀と靖国神社』(吉川弘文館)を入手した。

「誰が祀られ、誰が祀られなかったのか」という惹起にひかれてのこと。興味深いご成果だが、期待した幕末の国事殉難者の合祀に関する記載がほとんどなく、残念。

 こちらの関心をひとつ。前身施設といえる洛東の霊山招魂社の祭神と靖国のそれの差異はなぜ起きるのかが気になる。

 たとえば西川耕蔵(元治2年2月11日〈1865年〉獄死)は、慶応4年5月(1868年)の創建から霊山招魂社の祭神だが、靖国合祀は35年以上経過したのちである。霊山に比してかなり遅れる。

 西川の合祀は、従五位の追贈(1903年〈明治36〉11月)がきっかけになったようだ。すると靖国合祀と維新功労者贈位は関係があることになる。この問題について先行研究はあるのだろうか。

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2015.07.28

幕末史、知らんことばっかり

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 昨日、某家文書の存在を知る。

 文書群のなかに天誅組関係があった。たとえば首級7つを得た感状(文久3年9月27日付〈1863年〉)。討ち取られた7人の中に土佐浪士那須信吾や大和宇陀の林豹吉郎らが含まれるのは疑いない。まさかこんな形で討ち取った側の史料に出会えるとは。予期せず。

 貫名筑後(ぬきな・ちくご)を全く認識していなかった。『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、1981年)に立項されているじゃないか(755頁)。町田明広博士ではないけれど、幕末史、まだまだほんまに知らんことばっかり。

 天誅組の先駆的な実証研究、久保田辰彦『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』の引く、田丸久野家臣の木村修平の見聞書には、「彦根侯隊長貫名筑後出張陣所鷲家口村と申す処へ、浪士共夜討に及び候」とある(399頁)。

 これは主将中山忠光を逃がすため、和州吉野郡鷲家口村(現奈良県吉野郡東吉野村小川)にあった追討軍彦根井伊勢の陣所に那須信吾・林豹吉郎ら決死隊が斬り込み、戦死した事件を指す。

 事実上、これで天誅組本隊は壊滅する。その襲撃を受けた彦根陣所の最高責任者が貫名筑後である。当時数え33歳。

 彦根側の犠牲者はふたり。大館孫左衛門と伊藤弥左衛門。ふたりの墓(東吉野村小川、宝泉寺)の写真が、舟久保藍さん『実録天誅組の変』(淡交社、2013年)に載っている(196頁)。恥ずかしながら宝泉寺は参拝しているのに、2人の掃苔はしていない。

 先の感状には、そのうち大館孫左衛門の死にふれた部分があった。一言「是非なき事ニ候」。伊藤の死にはなぜふれないのだろう。

 ほかにも数点あり。ひとつはやはり感状。吉野筋から進発し、丹生・長谷辺の敵を討ち攘ったことに対して(文久3年9月13日付)。彦根からみた天誅組の乱ってあまり語られてこなかったのではないか。ささやかな量ではあるが、良質な史料の登場を喜んでいる。

 あと京都守衛関係も。会津容保が京都守護職に決まったので、それまで京都守衛にあたっていた彦根井伊家は家臣を国元へ戻せというもの。

 天狗党のものもあった。

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2015.07.27

中西裕樹さんから『大阪府中世城館事典』を恵贈頂いた

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 本日、中西裕樹さん(高槻市立しろあと歴史館事務長兼歴史民俗資料館長)から、玉著『大阪府中世城館事典』(戎光祥出版、2015年8月、2700円+税)を恵贈いただいた。

 ありがとうございます。学ばせていただきます。

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2015.07.26

高橋昌明先生『洛中洛外、京は"花の都"か』を拝受

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 昨日、高橋昌明先生から、玉著『洛中洛外、京は"花の都"か』(文理閣、本年7月刊行、5,700円+税)を恵贈いただきました。
 心より御礼申し上げます。
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 六孫王神社の由緒をめぐるご論考では拙著『京都の江戸時代をあるく』(文理閣、2008年)を参考文献にあげてくださいました。

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2015.07.25

松陰の人権意識などを論じた

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 毎日文化センター(大阪)に出講。日本史講座は壬申の乱から大津皇子事件まで。次回は持統朝と白鳳文化。陵墓の話が多くなろうな。

 そのあとの「吉田松陰」講座は、松陰の人権意識論。高須久、登波、敏三郎、吉田稔麿が登場。あ、佐藤信寛(岸信介・佐藤栄作・安倍晋三先祖)も。その人権意識は松陰が共感したほど。次回は松陰の最期、安政の大獄。

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2015.07.24

井伊直弼の居所表と板倉筑前介

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一、彦根井伊家の文久・元治期が気になって、拙書庫の蔵書をパラパラ眺めていたら、母利美和さんのお仕事に目がいく。母利さんが井伊直弼・長野主膳らの居所表をおつくりになっておられることにいまごろ気づく。これは幕末期のそれの先駆だろう。近々龍馬の居所表を公開しようと思っていたので特記します。

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一、板倉筑前介は自前の写真器を持っていたんやね。それで父や兄弟の写真を撮りたいと思っていたとか、長崎や伊勢や博多の写真はあかん、俺のが日本一やと評判やとか、その写真が堂上から天覧までされたとか、すごすぎる。さて問題設定、問題設定。

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2015.07.23

幕末研究、いま思っていることを書き出してみた

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 幕末、文久・元治期の研究で生涯終えそうな。

 板倉筑前介の解明もその一環だし、知足院夢覚も結局は土佐山内家の洛東大仏居所をめぐる楢崎将作遺族の動向を知りたいという欲求につながっている。

 寺島忠三郎に関心を持ち出したのも、八月十八日政変後から甲子戦争(所謂禁門の変)に至る京都政局の中枢にいるわりに(古高俊太郎をスカウトし、有栖川宮家と毛利家の交流に関わっているほか、久坂義助の代わりに来島又兵衛とともに山口へ進発実現説得に向かったなど)、伝記のひとつもない人物で未だつかみきれていないところと気づいたから。

 政変以後の京都留守居役、乃美織江も気になっているのだけれど、いまだ放置状態。

 もちろん洛中惣構も。

 幕末期、京都は大きく土居堀に囲まれていた。そういった景観をほとんど意識されず幕末京都は語られている感が強い。長州が京都に攻め込んだとき、北・西・南は連続した竹藪に囲まれていた。兵はその出入口しか通れなかった。どこからでも攻め込めたわけではない。これも具体的な像を提示しておかないといけない。これなどは急務のひとつといえる。2012年の軍事史学会例会で報告ずみなのだが、まだ活字にできていない。

 在京浪士の組織化の問題も。結果として新選組のみで維持される京都守護職下の浪士であるが、もとは関東の浪士集団ではなく、上方でも組織される予定だった。その挫折とそのころ起きた某事件はつながりがあるのではないかという見込み。このあたりも語るばっかりで活字化できていない。

 いや、2012年秋の維新史学会大会での「池田屋事件再考」の成稿が最も急務。三宅碑論文と同様、ほぼできているのだから。まずい。

 政治的主要人物の居所と行動論もつづけなければ。木屋町通の長州人の居所特定(「路次」位置の復元)作業がまだ途上。昨年の「元治元年から150年」講演会で一部を公開した坂本龍馬の居所表はほぼ完成している。この成稿も急務。これを久坂玄瑞だの、寺島忠三郎だのと増やして行きたいところ。

 いちおういま何を考えて何をしているのか、一部を書き出してみた次第。

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2015.07.22

寺島忠三郎にはまりかける

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2015年7月21日(火)はれ

 NHK文化センターの吉田松陰講座に出講。先日の栄中日文化センター(名古屋市中区)と同様、寺島忠三郎を論じた。

 寺島書翰および関係文書を複数用意したが、あまり読めなかった。

 が、寺島忠三郎が深いことはやはり感じる。可能なら寺島忠三郎伝を書きたいものだとはやっぱり思った。

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2015.07.21

梅田でも新選組論から箱館戦争へ

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 一昨日の日曜日は、梅田で「土方歳三を中心とした新選組と箱館戦争」をお話した。前日よりスライド写真を増やして捕捉した。近年の新選組論を時間の半分も使った。前日より多くの受講者だった。ありがとうございました。

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2015.07.18

京都で土方歳三と箱館の話

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 本日は、「土方歳三と箱館」というようなお話を河原町三条(京都市中京区)でいたします。近畿日本ツーリスト主催のイベントです。午後1時からです。お越しになりませんか。

http://meito.knt.co.jp/3/tr/931716/

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2015.07.17

検出遺構は伏見指月城でよいか

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 昨日、名古屋市の栄中日文化センターに出講。

 日本の城と合戦講座では、先日の伏見指月城の石垣・堀跡検出を話題にした。

 去る7月10日(金)夕方のニュース(「キャスト」、ABCテレビ)を切り口に、このたびの石垣・堀は、指月そのものではないかもしれないという森島康雄さんの見解を紹介した。

 ただし「キャスト」では代案が出されなかったので、おそらく次の木幡伏見城時代の大名屋敷のそれだと考えておられるのではと述べた。具体的に申せば、地名(京都市伏見区桃山町泰長老)から西(兌長老)邸を挙げておいた。

 西笑承兌は相国寺のトップで秀吉や家康のブレーンとして知られる。

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2015.07.13

石碑・除幕式が京都新聞に報じられています

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 昨日の石碑・除幕式が京都新聞に報じられています。以下です。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150712000023

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2015.07.12

建碑!久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡など

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 昨日、京都市中京区河原町二条上ル東側の法雲寺に久坂玄瑞・吉田稔麿・寺島忠三郎・望月亀弥太等ゆかりの地碑を建立・除幕いたしました。

 今朝の京都新聞に写真入りで報じられています。

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以下は主碑及び副碑銘です。

〈主碑(石碑)銘〉

【西面】久坂玄瑞・吉田稔麿 等寓居跡

【北面】此南西 吉田稔麿所縁 塩屋兵助宅跡伝承地

【東面】此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地

【南面】二〇一五年七月 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会 建之

             滋賀県草津市 徳田智史寄贈

副碑(解説板)銘〉

久坂玄瑞・吉田稔麿・寺島忠三郎等ゆかりの地

 此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地

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法雲寺の所在地(現京都市中京区河原町通二条下ル清水町)は、もと鴨川の河原であった。「河原町」の地名はその名残である。

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地域一帯が埋め立てられ、都市域となったのは、豊臣秀吉時代以後、徳川時代初期の慶長・元和年間ごろ(おおよそ一六〇〇年~一六二四年ごろ)と思われる(「京都図屏風」)。貞享二年(一六八五)刊行の『京羽二重』巻二に、「役行者塚」の存在する場所として当寺が紹介されており、それまでの創建と分かる。

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元和五年(一六一九)以来、長州毛利屋敷が至近の河原町御池に存在していたため、幕末期には毛利家臣が多くこの周囲に居住することになる。

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たとえば久坂玄瑞(のち義助)が「京都御屋敷の後」(木屋町通御池付近)に、佐世八十郎(のち前原一誠)、楢崎兄弟(弥八郎、仲介か)、寺島忠三郎、中谷正亮、堀真五郎らと同居し(文久二年五月一日〈一八六二年〉付妻杉文宛久坂書翰)、桂小五郎(のち木戸孝允)が「木や町三条(二条の誤りカ)下る一番路」(文久三年八月七日付桂宛寺島忠三郎書翰)に住居していた。

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法雲寺もそのひとつとして使用された。文久二年七月、中老各長井雅楽殺害に失敗した久坂らは、家老浦靱負に自首し、同年八月四日、謹慎のため当寺に入った。ともに当寺に謹慎したのは、寺島忠三郎、野村和作(のち靖)、堀真五郎、福原乙之進である。浦の家臣である秋良敦之助やその子息雄太郎、赤祢幹之允(武人)、世良修蔵も慰問したほか、松島剛蔵(小田村伊之助の実兄)らも訪れている。

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同年七月一七日、万延元年(一八六〇)から亡命生活を送っていた吉田栄太郎(のち稔麿)が、伏見街道で世子毛利定広(元徳)に自首し、当寺に謹慎した。文久二年八月一三日付妻杉文宛の久坂玄瑞書翰によれば、「最近は栄太郎も拙者と一緒になり日夜話などをしていますので、(栄太郎の)母も安心いたすようお伝えなさるのがよろしい」(意訳)とある。

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当寺は元治元年(一八六四)の甲子戦争(禁門の変)の戦火を免れた。明治元年一一月当時の伽藍は、中心部に本堂、それに接続して東に書院・台所が南北に位置していた。その南には独立して観音堂があったが、その後消失した(京都府庁文書)。現存の本堂・書院・台所は全く幕末当時の建物であり、そのいずれかに久坂らが居住していたのである。

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稔麿は同年閏八月一三日に謹慎が解かれ、久坂らも同年九月一二日に同様となり、当寺から離れた。

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なお稔麿が懇意にしていた塩屋兵助方も至近の二条寺町東入ルにあった。塩屋は「正義之者」で、元治元年六月の池田屋事件で亡くなった稔麿の死の詳細を夫婦個別にその叔父里村文左衛門に伝えた。また稔麿から預かった「用心金」三〇両も送り返している。

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池田屋事件のおりは、河原町二条下ル東側にあった角倉与一邸の前で遺体が確認されており、それが土佐浪士望月亀弥太と理解されている

.                  二〇一五年七月 歴史地理史学者 中村武生

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2015.07.11

『角倉一族とその時代』が届く

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 昨日、森洋久氏編『角倉一族とその時代』(思文閣出版)の献本が拙宅に来る。待ちに待っていた。

 めっちゃ分厚い。この値段はやむをえない。この大著に拙稿「御土居藪と角倉与一」を掲載いただいたことを光栄に思う。

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2015.07.10

松陰だけではない安政大獄の毛利家

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 昨日の京都新聞文化センターの松陰講座は、「安政の大獄と長州毛利家―吉田松陰の周辺」をいたした。安政の大獄における毛利家といえば、吉田松陰のみに特化されるが、決してそうではない。松陰関係史料だけではなく、「井伊家史料」(大日本維新史料のうち)などによって実態解明を試みた。

 たとえば公家屋敷への投書問題では、従前松陰の筆跡だと梅田雲浜が指摘したので、松陰は江戸送りにされたといわれる。

 が、実は松陰だけではなく、文章の「中程より末文」までは赤祢武人の筆跡に「七八歩程似寄」ると頼三樹三郎(三樹八郎)と梅田が証言している。しかし赤祢は江戸送りにはならなかった。

 その他、大楽源太郎や久坂玄瑞、中村道太郎(のち九郎)、宍戸九郎兵衛(のち左馬介)、周布政之助など毛利家中の者が多数話題にされている。

 毛利家にとっての安政大獄の嫌疑は、松陰だけとは決していえない。

 それにしても文久・元治期長州毛利家を研究対象にしていると、故梅田雲浜のネットワークが活きていることをビンビン感じる。梅田の供述に登場する人物が、文久・元治期に活躍する者やその周辺の人物が多いのである。

 梅田研究は安政大獄で終えてはいけない。たとえば池田屋事件犠牲者は、古高俊太郎・大高又次郎・西川耕蔵及びその家族が、梅田門下かその至近にいる者である。

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2015.07.09

新聞に載りました。池田屋事件

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 昨日(7月8日)の京都新聞朝刊(地域プラス欄、17版なら22面)に、「池田屋事件の真相に迫る―『階段落ち』は創作―歴史地理史学者中村武生さんに聞く」が掲載されました。僕の池田屋事件論が簡潔に示されています。昨日は池田屋事件の日でした(1864年7月8日〈元治元年6月5日〉)。聞き手は仲屋聡さん。

http://kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150708000060

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2015.07.07

【石碑除幕式】久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡

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石碑除幕式のお知らせ

 本年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」に関連して、京都市内に「久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡」などを刻んだ石碑を建立します。以下、除幕式を執行しますので告知いたします。

日時:2015年(平成27)7月11日(土)午前11時から

場所:京都市中京区河原町通二条上ル(清水町)、法雲寺

行き方:京都市営地下鉄東西線「京都市役所前」駅下車、北へ徒歩5分弱

碑銘:(西)「久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡」

    (北)「吉田稔麿所縁、塩屋兵助方跡伝承地」

    (南)「池田屋事件、望月亀弥太終焉伝承地」

主催:特定非営利活動(NPO)法人京都歴史地理同考会(理事長:中村武生)

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2015.07.05

御土居に接する堀が消失している件

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 京都市下京区油小路八条の「洛中惣構(らくちゅう・そうがまえ)」の堀の遺構の検出地は、建物工事が継続され、地下を深々と掘っている。

 遺構が破壊されたことは明らかである。

 一度たりとも発掘調査で検出された遺構を保存し、国史跡に追加指定したことはない。こんなことでいいのか。

 東京都や小田原市(神奈川県)、金沢市(石川県)は、惣構の遺構を検出すると保存し追加指定をしている。

 ブラタモリで「御土居」に関心を持った方々、こんな現状を知ってください。

 話題の場所は、近鉄京都駅から乗車すると、駅を出てすぐの前方左手の下にみえる工事現場です。

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