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2015.05.24

「下田渡海考」再考

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 昨日の「「下田渡海考」を考える」。

 結局、安政元年12月5日(1855年1月)付森田葆庵宛森田節斎書翰、安政3年8月26日以後9月1日以前(1856年)の松陰宛黙霖書翰、中村敬太郎の建議(文久2年11月=1862年)をどう理解するかだと感じた。

 いずれも「下田踏海」をペリー刺殺目的だったと明言している。

 松陰「回顧録」の嘉永7年3月5日(1854年)条、来原良蔵の松陰密航同意発言は意外と重要だといえる。

 渡海を危険視する宮部鼎蔵に対して、来原は、海外情報を得ることはいま必要だと同意を得たうえで、ならば松陰の渡航は意味がある、かりに失敗して梟首されても松陰は悔いはないはずだと言った。

 これは事実としてありえないはずだ。

 来原はこの直前、毛利家に対してアメリカ渡航を求める願書を提出している(来原日記、2月晦日条)。つまり密航ではなく、正式に留学を求めているのだ。

 この願書は現存しないが、のち松陰も、この年の11月27日付(1854年、つまり「回顧録」執筆以前)兄杉梅太郎宛書翰で、「西洋遊学」について来原のほか、桂小五郎、赤川淡水(のち佐久間佐兵衛)も連署していることを記している。事実といえる。

 その来原が、梟首の危険を犯して松陰が密航しようというのを放置するはずがない(ちなみに「回顧録」によれば、この集会に赤川も参加している。発言はないが)。桂、赤川と同じく、松陰へも連署を勧めればよいことではないか。

 それをしなかったのはなぜか、梟首の危険を犯してでも松陰がしようとしていたことが海外渡航ではなかったから(ペリー刺殺だった)、それを隠蔽しているという川口雅昭さんの見解は傾聴に値する。

 この来原の発言は、松陰自身が事件1年後に書いたものである。密航計画が事実なら、記憶違いか、虚偽としか考えられない。

 松陰はある時期まではペリーを殺害しようと思っていたが、途中でやめたとはっきり述べている(安政3年7月25日付〈1856年〉久坂玄瑞宛書翰)。これを事実として、いつ計画をかえたかがカギだとも感じた。この実証が重要。

 同じく松陰「回顧録」の嘉永7年3月4日(1854年)条に、海外渡航(「航海の事」)は「去年来の決する所」と述べている。川口説に従うなら、松陰は嘉永6年9月から12月の長崎遊歴で、横井小楠・宮部鼎蔵ら肥後熊本グループと接触し、ペリー刺殺を決意した。

 それが正しいのなら、嘉永6年から海外渡航を考えていたという「回顧録」の発言も当然虚偽となる。

 ただこの説が正しいか不明なので、どの段階で松陰がペリー刺殺を考えていたかの確実な一次史料での事例検出が、この突破口になるかもしれない。

 ともあれ、改めて松陰は海外渡航を目指してペリー艦隊に近づいたのではなく、ペリー刺殺を目的としていたが失敗したという仮説は、とうてい黙殺してよいものではないと感じた。

川口雅昭氏「下田渡海考」(田中彰氏編『幕末維新の社会と思想』、吉川弘文館、1999年)

 

 

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