« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »

2015.05.26

洛中惣構の河原長右衛門を気にしだす

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 いま懐かしい河原長右衛門定勝にはまっている。 洛中惣構の土居に植えた「竹之奉行」。情報の少ない洛中惣構の土居堀の切り口として重要な存在として、1997年頃気にしていた人物である。その後さぼってしまった。宇野日出生さんの論考(『戦国史研究』25、1993年)を読み直す。

 昨日旧東九条村の長谷川家住宅での講演で、河原長右衛門宛の書翰を読んだ。「かわら」か「かわはら」か読みは不明と述べたが、「かわら」の可能性が高いとわかった。それはまたいつか。

|

2015.05.24

「下田渡海考」再考

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 昨日の「「下田渡海考」を考える」。

 結局、安政元年12月5日(1855年1月)付森田葆庵宛森田節斎書翰、安政3年8月26日以後9月1日以前(1856年)の松陰宛黙霖書翰、中村敬太郎の建議(文久2年11月=1862年)をどう理解するかだと感じた。

 いずれも「下田踏海」をペリー刺殺目的だったと明言している。

 松陰「回顧録」の嘉永7年3月5日(1854年)条、来原良蔵の松陰密航同意発言は意外と重要だといえる。

 渡海を危険視する宮部鼎蔵に対して、来原は、海外情報を得ることはいま必要だと同意を得たうえで、ならば松陰の渡航は意味がある、かりに失敗して梟首されても松陰は悔いはないはずだと言った。

 これは事実としてありえないはずだ。

 来原はこの直前、毛利家に対してアメリカ渡航を求める願書を提出している(来原日記、2月晦日条)。つまり密航ではなく、正式に留学を求めているのだ。

 この願書は現存しないが、のち松陰も、この年の11月27日付(1854年、つまり「回顧録」執筆以前)兄杉梅太郎宛書翰で、「西洋遊学」について来原のほか、桂小五郎、赤川淡水(のち佐久間佐兵衛)も連署していることを記している。事実といえる。

 その来原が、梟首の危険を犯して松陰が密航しようというのを放置するはずがない(ちなみに「回顧録」によれば、この集会に赤川も参加している。発言はないが)。桂、赤川と同じく、松陰へも連署を勧めればよいことではないか。

 それをしなかったのはなぜか、梟首の危険を犯してでも松陰がしようとしていたことが海外渡航ではなかったから(ペリー刺殺だった)、それを隠蔽しているという川口雅昭さんの見解は傾聴に値する。

 この来原の発言は、松陰自身が事件1年後に書いたものである。密航計画が事実なら、記憶違いか、虚偽としか考えられない。

 松陰はある時期まではペリーを殺害しようと思っていたが、途中でやめたとはっきり述べている(安政3年7月25日付〈1856年〉久坂玄瑞宛書翰)。これを事実として、いつ計画をかえたかがカギだとも感じた。この実証が重要。

 同じく松陰「回顧録」の嘉永7年3月4日(1854年)条に、海外渡航(「航海の事」)は「去年来の決する所」と述べている。川口説に従うなら、松陰は嘉永6年9月から12月の長崎遊歴で、横井小楠・宮部鼎蔵ら肥後熊本グループと接触し、ペリー刺殺を決意した。

 それが正しいのなら、嘉永6年から海外渡航を考えていたという「回顧録」の発言も当然虚偽となる。

 ただこの説が正しいか不明なので、どの段階で松陰がペリー刺殺を考えていたかの確実な一次史料での事例検出が、この突破口になるかもしれない。

 ともあれ、改めて松陰は海外渡航を目指してペリー艦隊に近づいたのではなく、ペリー刺殺を目的としていたが失敗したという仮説は、とうてい黙殺してよいものではないと感じた。

川口雅昭氏「下田渡海考」(田中彰氏編『幕末維新の社会と思想』、吉川弘文館、1999年)

 

 

|

2015.05.23

川口雅昭氏「下田渡海考」を考える

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。
 本日の毎日文化センター大阪教室「吉田松陰」講座は、「川口雅昭氏「下田渡海考」を考える」です。ようやくこの興味深い論説へ、愚見が持てるようになってきました。

|

2015.05.04

雨天のため中止。「都名所図会をあるく」

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 本日(2015年5月4日)の「都名所図会をあるく」は、雨天のため中止します。好天でしたら次週は実施します。集合場所・時間・行き先は同じです。

 どうぞよろしくお願いいたします。

|

2015.05.03

娘は初めて斑鳩に行きました

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

2015年5月2日(土)はれ

  本日は娘を初めて斑鳩に連れて行った。シカにいつ会えるのだとばかり言われた。法隆寺や中宮寺にはシカがいなかった。以前はいたはずだが。興福寺旧境内と東大寺に移ってようやく実現できた。こちらへの訪問はすでに3回目のはず。シカせんべい2人前をふるまった。

|

2015.05.02

京都における湖北の幕末史蹟をあるいた

※人気ブログランキングの順位の上昇にご協力ください。恐縮ですが、ご覧になられましたら右側の「人気ブログランキング」の部分をクリックしてください。

 

2015年4月30日(木)はれ  

 長浜城歴史博物館の太田浩司さんと、長浜み〜な編集室の小西光代さん、西島進一さんと一緒に京都における湖北の幕末史蹟を歩いた。主に板倉筑前介(淡海槐堂)、西川耕蔵ゆかりの地である。近年稀な楽しい時間だった。充電された気がした。お気遣いも多数いただいた。

 西川耕蔵は、滋賀県の旧東浅井郡びわ町南浜(現長浜市)出身である。近く『長浜み〜な』に湖北の幕末が特集される由。西川を取り上げることを強く求めて、承諾いただいた。西川の地元での名誉回復の始まりに関われた幸福に感謝している。巡検中龍馬が斬られた近江屋跡に行く途中、たまたま裏寺町六角下ルの西念寺跡(西川菩提寺、現在市内西京区大枝に移動)に出た時は震えんばかりだった。今日はきっと西川耕蔵も付いて来てはったと思った。

  西川耕蔵は池田屋にいたことが確実な人物の1人である(拙著『池田屋事件の研究』314〜315頁)。六角牢屋敷につながれ、元治2年2月11日(1865年3月8日)、病で獄死した。埋葬地は不明だが(遺族に遺体は渡されなかったらしい)、一族の近江新報社社長西川太治郎が母妻の菩提寺西念寺に気づいて建碑した。

『長浜み〜な』に志願して、板倉筑前介(淡海槐堂)と西川耕蔵を書かせていただくことになった。分量は少ないですが、新たな史料と視点で書ければと願っている。

|

« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »