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2014.11.28

松陰らのみた洛中洛外を語り、あるく

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2014年11月27日(木)はれ

 午前中、よみうり文化センター京都教室に出講。「吉田松陰と久坂玄瑞のみた洛中洛外」の2回目。幕末京都の景観とはいかなるものだったかをお話しする。

 京都中央郵便局でNHK歴史秘話ヒストリアから依頼されたアンケートを投函。

 午後、京都新聞文化センターの巡検に出講。こちらも吉田松陰がらみ。まず松陰と江戸の「西奥揚屋」で一時同獄だった小林良典(鷹司家諸大夫)の墓参をする。

 場所は、出町柳駅の至近にある長徳寺。松陰は「留魂録」のなかで、多材多芸で、「文学」には深くないが、処事の才のある人と記し、弟子たちに遠島先であっても交流せよと期待した人物である。

 松陰の死後まもなく獄死し、配流されなかった。高杉晋作はこれを記憶していて、松陰の遺体を世田谷村の大夫山に改葬するとき、そばにあった小林の墓もともなった。だからいまも世田谷区の松陰神社に墓がある。長徳寺のほうは、遺髪塚の由。 

 ついで松陰が初めて京都に入った嘉永6年10月1日(1853年)、その日のうちに訪ねた梁川星厳の居所跡をめぐる。梁川の書翰により、安政4年10月(1857)に転居したことのわかる東三本木地区に入り(ここが終焉地)、ついでそれ以前にいた川端丸太町上ルの居所跡に行く。

 ここが松陰の訪ねた家だったと思われる(東三本木転居まで8年住んでいた由)。京都市教育会による石碑が建つ。最近京都市銘の解説板も建った。残念ながら、梅田雲浜や西郷隆盛らが訪ねたとあるが、松陰のことにはふれない。来年には京都市にとって、とても大事な場所なのに。

 そのあとは岡崎公園に入って、松陰が同年10月2日に禁裏を拝んで詠んだ、「山河襟帯」の詩碑(野村靖撰文)を見て解散。

 その間、いろいろな種類の電話がかかっていて、かけなおす。三条大橋東詰某所で少し原稿を打ち、帰宅する。おみやげは八天堂の菓子。夜、寝かしつけする。娘お気に入りの「耳なし芳一」を読みきかせると、そのまま寝付いてくれる。    

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