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2014.08.18

芹沢鴨殺害の政治史上の意味を考えてみた

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2014年8月17日(日)はれ

 午前中、京都府立鴨沂高校での発掘調査現地説明会に行く。二日連続現説参加なんて、近年記憶にない。豊臣期の寺町寺院跡が検出されたのだ。行かないわけにはいかない。

 鴨河原を埋め立てて寺町がつくられたことは自明なのだが、その寺町整地層が予想外に薄くて驚いた。後世の整地の方(宝永の大火後の建物や鴨沂高校など)が圧倒的に分厚かった。

 午後から「幕末政治史のなかの新選組」に出講。今回は八月十八日政変後の壬生浪士。で、平野国臣を逮捕しようとした縄手三条の豊後屋襲撃などを取り上げる。

 政変の直後、会津容保が壬生浪士に京都市中見廻りを命じたことを周知させる町触が出された。これまでの市中警備は私的なものだったらしい。

 容保が反長州の立場を取るのは政変以後のこと。足利将軍木像梟首事件からというのは誤解。壬生浪士もそれに従っている。だから上洛後から会津や壬生浪士(のち新選組)が長州と睨み合っていたように描くものがあるが、非事実。

 このあと芹沢鴨が殺害される(文久3年9月16日か18日)。これを素行不良と理解してきたが、会津の政治的判断だったのではないかと最近考えている。あさくらゆうさんが見つけられた有栖川宮の日記に芹沢が仕官を求めたという話、けっこう注目している。

 政変から芹沢鴨殺害までの間の政治史で無視してはならないのは、大和で天誅組の乱が継続していること(同年8月17日から9月下旬まで)。これと芹沢鴨の殺害は関係しないか気になっているのだが、もちろん現段階では妄想です。そんな話をしました。

 

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