幕末政治のなかで新選組を考える
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2014年3月30日(日)
「幕末政治のなかの新選組」に出講。本日は、文久3年6月初旬(1863年)、大坂で「天下浪士」を名乗る浪士の鎮撫のため10名の壬生浪士が下坂する。
それに成功し、大坂町奉行所に引き渡したあと、力士にからまれて、相手に死傷者を出すケンカをおこした。
それ自体は大きな意義はみいだしてないが、そのころ日本全体はどんな動きがあったかかを重要視している。
同年3月4日以来、将軍が在京している。5月10日、攘夷期限となり、同日から長州下関で戦争が起きている。それに将軍以下徳川公儀はどう対応するか、江戸城に戻って総指揮をとるのか、在京しつづけるのかが課題となっている。
6月1日、越前福井では、京都政局に絶望した急進派(横井小楠グループ)による、攘夷主義を否定し、朝廷を核とした徳川・有力諸侯の連合政体(「共和一致」)樹立をねらった当主松平茂昭か父春嶽の率兵上京のクーデター計画が論じられた。
(これはその後薩摩島津家や肥後細川家と連携したため、在京の攘夷主義者たちに脅威を与え〈春嶽宿舎予定の高台寺が放火されるなど〉、攘夷親征祈願の大和行幸計画の強行につながる。すなわち八月十八日政変の導火線ともなる。)
江戸からは老中格小笠原長行が将軍帰東をあおるため、率兵上京を目指している。大坂をへて、6月2日、河内枚方まで来た。若年寄稲葉正巳が派遣され、上京を押しとどめる。しゃれにならない。
芹沢鴨・近藤勇らが浪士鎮撫のため大坂へ入るのがこの2日だから、まったくこの騒動のなか、同じ枚方を通過している。
なお6月1日、下関では、初めて長州軍がアメリカ軍艦に敗れた。庚申・壬戌の2艦が沈没し、癸亥も大破した。
3日が話題の浪士鎮撫および力士とのケンカ。江戸では大火があり、江戸城二の丸が延焼した。
小笠原長行は制止をふりきって、山城淀まで進む。4日、老中水野忠精が会津家臣小野権之丞らをともない淀に到着。やはり入京制止する。
この騒ぎのなか、壬生浪士は帰京する。淀を通過して。
5日、近藤勇は、武州多摩郡小野路村の小島鹿之助宛ての、ことの経過を記した書翰を書く。同じ日、下関では長州がフランス軍に敗れ、ついに下関砲台が占領された。
こんな感じ。次回は来月。ようやく将軍は江戸へ戻る。小笠原を罰しないといけないし、二の丸の焼失も気になる。
これを受けて近藤勇はどう動くか。当然ともに帰東すべきだろう。が、戻らない。将軍不在なのに在京する、あらたな論理の構築が必要。
また長州の敗北は、とうぜん攘夷を目指す壬生浪士にもショックのはずだ。
幕末政治のなかで新選組を考える。実に新鮮だ。
本日、受講者平鈴子さん(岡山新選組準備会会員)から、玉著『その後の手代木直右衛門~「坂本龍馬を斬った男」の兄が岡山で生きた明治~』(私家版、2014年3月)を恵贈された。ありがとうございます。勉強させていただきます。
そのあと、西上された渡邊大門博士と懇親。明日僕は人間ドックなので、飲めず。残念でならなかった。
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