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2014.03.15

足利将軍木像梟首の逮捕者寛典要求への会津の反論

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2014年3月14日(金)

 くずし字研究会に出講。あいかわらず幕末会津家臣日記を検討中。文久3年3月6日(1863年)条。足利将軍木像梟首事件のその後を克明に叙述してくれている。

 事件参加者を逮捕したのに、武家伝奏2人(坊城俊克・野宮定功)が、「正義之聞有之」者だからすみやかに釈放せよという朝旨を政事総裁職松平春嶽に伝え、実行を迫った。

 これに春嶽は反論したが、会津家臣も同調し、少なくとも日記の記主と「仲ヶ間」18人・公用方7人以上がこの日、学習院に押し掛けた(後述『京都守護職始末』は40余人とする)。

 これに国事参政姉小路公知、国事寄人三条西季知・正親町公董・壬生基修・中山忠光が応じたが、即答をさけて後日返答すると述べるにとどめた。

 ここでの会津家臣の反論は激烈である。実に興味深い。

 なおこのあたり、山川浩編『京都守護職始末』(郷土研究社、1930年)66~68頁に記載があります。

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