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2014.03.16

「三十三間堂之築地」とはなにか

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2014年3月15日(土)

 くずし字初級会に出講。徳川中期の「京都覚書」の異本を読んでいる。ある項目の蓮華王院(三十三間堂)の部分を読んでいておやっと思った。

 冒頭に「三十三間堂之築地御修復」とある。徳川時代の三十三間堂は広い大仏境内のなかの一堂舎にすぎないので、現在のような独立した四至を囲む壁はなかったはず(大仏境内と大仏殿=方広寺は別です。大仏殿=方広寺も大仏境内の一堂舎です)。

 ではこの「築地」ってなんだろう。

 すると考えられることはひとつ。現存する「太閤塀」、すなわち大仏境内の西・南を画する塀だろう。え、

 くどいが「太閤塀」は大仏境内を画する築地であって、三十三間堂単体のものではない。なのに「三十三間堂之築地」と呼ばれているわけだ。どういうことだ。

 いろいろ考え直さないといけないことだらけだ。何かを見落としている。

 現在の認識だけで古いものを見てはいけないし、古いことも画一的に見てはいけないということだ。いつもわかったような気になっていてはならん。戒め。

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