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2014年3月24日(月)はれ
「都名所図会」をあるくに出講。洛東長楽寺と知恩院。知恩院は途中で終わったので、次回につづく。
長楽寺では拝観料をひとり1割引きにしてくださった。お気持ちうれしいです。ありがとうございます。
現在の長楽寺は、明治に七条道場金光寺と合併したと解説されるが、「合併」のみではその実態が分かりにくい。
観光をするうえでのことなのだが、看板は長楽寺で、宝物は七条道場金光寺という感じが理解しやすい。
たとえば同寺宝物館で展示される一遍以下の時宗歴代の遊行上人木像には、時宗長楽寺の開基といってよい国阿がない。それはすなわち、ことごとく七条道場金光寺のものであることを示す。いやとりあえず、遊行上人木像に限らず、今回の展示品はすべて七条道場金光寺のもの。
ちなみに現本堂は、市指定文化財だが、やはり明治に洛北西加茂の正伝寺からの移築。
あと建礼門院に関するものは、伝安徳天皇御衣幡が存在するとはいえ、ほとんどが新しい。同御衣幡は平安から鎌倉時代のものとされるが、実態不明。
使用された二種類の織物(経絣と平絹)のうち、経絣の一部に縫い目があるため衣服からの転用の可能性はあるものの、通常天皇の御直衣は綾で製作されるため、経絣と平絹が使用されることはない。ただし平絹を裏地に使う可能性は否定されない(京都国立博物館特別展図録『長楽寺の名宝』、2000年、57ページ)。
収納箱は徳川前期に亡くなった織田長好(織田有楽斎の孫)寄進らしいが、実証できるのだろうか。
「都名所図会」に「安徳帝の御衣の幡は当寺の什宝也」とあるから、少なくとも安永9年(1780)までには存在している。金光寺から移されたものではない。
建礼門院塔もそれ自体には何らの記載はない(しかもこれも明治に外から移築されたもの。付属の標石銘による)。寺社の由緒と現実の乖離をどう見るかを考えてみた。
石造物でもいいから、少なくとも(頼山陽一族や水戸昭訓墓をのぞいて)近世にさかのぼれる何か長楽寺独自のものはないか探してみたら、入口近くに正徳2年(1712)銘のある手水鉢を見つけた。
同銘によると、江戸の岡本(か)忠左衛門なる人物が寄付したらしい。「延命水」と正面に刻んである(樫田弘一さんの教示)。「当住八世宣阿」とあるが、これが長楽寺の方なのか、金光寺の方なのかはわからないまま。
長楽寺は徳川時代にそうとう経済的に逼迫したらしい。浄土宗寺院の所属になり、幕末には七条道場金光寺の所属になった。維新後は金光寺の方が先に倒れたので、それを引き継いだわけだ(国史大辞典、京都市の地名など)。いま存在しているだけで奇跡かもしれない。
とにかく「平家物語」ゆかりの名刹長楽寺の衰退に心痛めた。
午後からは洛中研究室で日本史会。先日の旧城州紀伊郡堀内村で行った調査の動画をすべてお見せする。