荒神口から真木和泉の墓参へ
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6月27日(木)はれ
午前中、ひさしぶりの「京の七口と街道をあるく」に出講。
今回は荒神口。清荒神こと護浄院に参拝し(寺か神社かもめる。現在は寺院です)、ここを出発地とする。荒神口の名の由来だし。光格天皇の胞衣塚がある。禁裏の辰巳にあたるので。意外と知られていない。
徳川前期以後の荒神口が枡形構造であることを紹介し、その障壁である寛文新堤を論じる。鴨川を渡って、白川道(志賀越道)を進む。市登録文化財(史蹟)の近世の道標をふたつ見る。とりわけ東一条交差点の沢村道範建立のものには思い入れがある。保全に尽力された中村直勝博士への思いを熱弁。
終了後、乙訓郡大山崎町へ急ぐ。
午後は京都新聞文化センターの「覚馬と八重のみた洛中洛外」講座の巡検。
甲子戦争(禁門の変)における会津・新選組の真木和泉ら追討戦をあるく。この戦いに確実に山本覚馬はいた。
天王山登山し、真木らの墓参をする(写真)。一般に犠牲者は17人とされる。明治元年建立の墓碑にすでにその人数の記載があるが、根拠希薄である。
自刃前に真木の指示で天王山を退去したとされる大澤逸平(和田義亮)の話を聞いた河上彦斎の手記は犠牲者を24人と記している(改訂肥後藩国事史料巻5)。
ただその大澤逸平(和田義亮)がなぜか24人にこだわりをもたず、早々に17人説を支持するためこの問題は話題になることが皆無だった。
甲子戦争(禁門の変)はとにかくほとんど専論がない。原口清さんの「禁門の変の考察」は戦争にいたる政治過程の考察であって、戦闘分析はされなかった。それでよいわけがない。
解散後、京都駅でおそいひとり昼食をする。店にむかうなか京都駅では火災報知機がなり消防士が走っていた。避難せず回転ずしでのんびりしていたら誤作動と報じられる。ま、そんなところだろ。
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